第39話 3人の母
「心配しておりましたが、ずいぶんと小公爵のお心を掴まれていたのですね」
ドリスは洗い立てのイザベルの髪に櫛を通していた。
言葉に反してドリスの顔は、全く嬉しそうではない。
「旦那様も、奥様も、お嬢様の公爵邸への転居はお喜びになるかと存じます」
(地図を手に入れやすくなるものね。もはや、私には関係ないけど……)
「報告するの?」
「ええ、もちろん、私からも」
「アビーの様子は、何か言って来ているの?」
“アビー”の名を出した瞬間、ドリスの手が一瞬止まった。
「私の母の調子が、お嬢様に何か関係が?」
「アビーは私の乳母だもの。気にしたっていいでしょう?」
「……特に、変わりはございません」
ドリスは、鏡越しにイザベルを睨むように目を眇めた。
「――そう。もういいわ。寝るから下がって」
イザベルはドリスから目を逸らすとそう告げた。《たすく》はドリスの背を見送りながら、《アビーの話、辛そうだった》とイザベルに告げた。イザベルは分かっているというように頷いた。《たすく》はイザベルの言いつけ通り、ドリスがイザベルにキツイ態度を取っても見守るようにしていた。見守り続けた結果、《たすく》もドリスの内心が複雑なものだということに気が付いたようだ。
「ドリスと私は乳きょうだいなのよ」
《乳きょうだい?》
「子どもの頃は、本当の姉妹のように育ったの。ドリスは優しいお姉ちゃんだったの」
《え!? あんなに、いじわるなのに?》
《たすく》の素直な反応に、イザベルは思わず笑った。
「そう。あんなに意地悪なのに」
《どうして意地悪になったの?》
イザベルはどこから話すべきかを考え、重い口を開いた。
「私にはね、お母さんが3人いるの」
《3人?》
「私を産んでくれた人。この人は私が6歳の頃に死んじゃったの。死ぬって分かる?」
《うん。もうこの世界にいないってことでしょ?》
「そう。そのあと、お父さんが結婚をして新しいお義母さんができた。もう一人はドリスのお母さんのアビー。アビーはお母さんが死んだあとも私を守ってくれた人なの」
《新しいお義母さんは、イザベルを守ってくれなかったの?》
「新しいお義母さんには子どもの頃から相手にされなかったわ。でも、その代わりアビーがいたから、寂しくはなかったの」
イザベルは《たすく》に話しながら、自分の過去を思い出していた。
前世の記憶が甦ってからは、自分の過去の記憶は客観的に思えるようになっていたし、日常的に思い出すこともなくなっていた。
(思い出したって、楽しいものではないしね……)
戦闘狂の父・バーレントの後妻には、夫を戦死で失ったイーデンが収まった。イーデンにはイザベルと3歳違いのオフェリアという娘がいた。
オフェリアは、“ヴァルハルド帝国の聖女”といわれるほど、清廉な女性に育った。実際に清廉かはともかくとして、そのように見えるように、義母のイーデンは徹底して彼女を育てた。
「イザベル様は本当にお優しいし、優秀でいらっしゃる」
イザベルが7歳頃のこと。今思えば、家庭教師が、そうイザベルを褒めたのが始まりだった。それまで透明人間のような扱いだったイザベルを、義母イーデンが憎み始めたのは。
「あの女の子どもが、私のオフェリアよりも優秀だとでも言うの?」
イーデンはそういうと、イザベルを褒めた家庭教師をその日のうちに解雇した。
戦闘狂の父は滅多に家にいることはない。侯爵家の実権はイーデンが握っていた。
「奥さま、イザベル様は侯爵家のお嬢様です。家庭教師もつけず、社交もさせず、屋敷に閉じ込めておくのは……――」
「お前、私の教育方針に問題があると言いたいの?」
家族との食事も一緒に取ることすら許されなくなったイザベルの唯一の味方は、アビーだった。見て見ぬ振りの使用人の中で、アビーだけが、イーデンに意見を言ってくれた。もちろん、そんなアビーの意見が聞き入れられることはなかった。しかも、イーデンの機嫌を損ねたアビーは、度々折檻を受けていた。イーデンに鞭打たれたアビーの目が腫れあがることもあった。
「アビー、アビー、ごめんなさい。私のことをお義母さまに言ってくれた所為で……」
「お嬢様の所為ではありませんよ。アビーは、お嬢様のお母様に、イザベル様のことを任されたんです。侯爵家のお嬢様として、一人前にするのがアビーの役割なんですよ」
アビーは、イーデンの折檻に負けなかった。それが、イーデンには余計に癇に障っていた。
「あの女――、旦那様に目をかけられているから解雇できないと思って厚かましい!」
アビーはフォートレル家に仕える古参の使用人で、イーデンと言えども簡単に解雇することは難しかった。
「お義母さま、アビーに折檻をするのはやめてください!」
「――……」
イザベルは二階廊下を歩くイーデンを呼び止めた。
それは、アビーの頬が2倍に腫れあがった日のことだった。
アビーはイザベルの食事量が半分になったことについて、イーデンに意見を述べたのだ。
「成長期のお嬢様ですので、お食事の量を減らすことはお考え直して」
言い終わらないうちに、アビーの頬にイーデンの扇子が飛んだ。
その後、見せしめように鞭で打たれたと、涙が止まらないドリスに教えてもらった。
(――……許せない)
我慢することはできた。
家庭教師がつかないことも、友人と会えないことも、一人きりで食事を取らされることも、食事の量を減らされることも――。
しかし、自分を守ってくれようとするアビーが、こうして虐待されることがイザベルは耐えることができなかった。
そして――その日、意を決してイーデンに意見を表明した。
イーデンに何か意見を言うことは、このときが初めてだった。
イーデンは8歳のイザベルが自分に歯向かって来たとき、じっとイザベルを見た。
「分かったわ」
しかし、イーデンはイザベルを殴ることはなかった。
穏やかな声音のまま、アビーを呼び寄せただけだった。
「アビーをここへ」
自分も殴られる覚悟だった。
しかし、イーデンはイザベルを殴ることはなかった。
イザベルが言ったことに対して、イーデンは穏やかな声音でそう言った。
(話せば分かってもわらえたんだわ。私が怖がって何も言わなかったから……)
階下で仕事をしていたアビーが階段を上がり、イーデンの前に現れた。
アビーを前にしたイーデンの目は、獲物を前にした肉食獣のような獰猛さを感じさせた。
「お前が私に頬を打たれたのは、私が悪いのかしら?」
イーデンは、アビーにそう訊ねた。
「――……い、いえ。私が自分の身の程もわきまえず……」
「でも、アレが私に、お前への折檻をやめろというのよ。私は、お前に折檻をしているのかしら?」
「それは……――誤解です」
「アビー、何を言っているの? そんなに頬が腫れあがっているのに」
「お嬢様、これは……奥様が教育してくださっているのです」
「教育!? そんなわけ……――」
そう言った瞬間――アビーの頬が再び強く打たれた。
「お……お義母さま! やめてください」
イザベルはイーデンの足下に倒れたアビーに縋った。
しかし、イーデンは表情一つ変えず、倒れるアビーを足蹴にした。
イーデンのヒールがアビーの頬にめり込んだ。
アビーの嗚咽が漏れたが、その場にいる使用人の誰一人動くことはなかった。
「ア、アビー。お義母さま! やめてください! 私が余計なことを申しました! 申し訳ございません!」
イザベルが泣きながらそう懇願しても、イーデンがアビーを鞭打つ手は止まらなかった。
アビーのうめき声と、イザベルの泣き声だけが響いていた。
そんな地獄絵図のような廊下に、当時5歳のオフェリアが現れた。
「お母さま」
天使のような笑顔のオフェリアが入ってきた瞬間、イザベルはこれで助かると思った。しかし、オフェリアは、アビーが虐待されているのを見て、愉快そうにコロコロと義母と一緒に笑うだけだった。
(――狂ってる……)
地獄のような部屋の中で、アビーを助けることをできない地獄に、イザベルは絶望した。
イーデンが鞭を振るうたび、アビーは後ずさり、うっかり足を踏み外した。
「アビー!」
その身体は中央階段を転がり落ちた。
体勢が悪く落下したアビーは、それ以来半身不随になった。理由はアビーの不注意による落下とされたが、その場にいる誰もがイーデンによる折檻が原因であることは分かっていた。
アビーに変わるようにドリスが侍女になったのはイザベルが9歳の頃だった。イザベルの侍女になったドリスは、すっかり表情を失っていた。
《イザベル、アビーはどうしているの?》
「アビーは……――」
半身不随になったアビーは、フォートレル侯爵家が管理する施設で暮らすことになった。
義母の折檻を知った父が、事件をもみ消すためにアビーの面倒を見ることを決めたようだった。そして、アビーはいまや、ドリスを意のままに動かすための“人質”でもある。
(アビーはどうしているのだろう……。施設から連れ出す方法を見つけられれば、ドリスと一緒にセレフィード王国で暮らしていけるのに――。父の意のままに動くスパイにはなりたくないけど……。ドリスと、アビーのことは、どうにかしないと――)
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