8.『個人の自意識、自主性』を決めるものとは何かについての考察
和泉様からの情報によると、後年インタビューを受けた被験者の男性の言葉(囚人役と推定してですが)は、
「自分は別に集団心理に振り回されたわけではない。受けを狙ったただの演技だったし、他の奴らもそうに違いない」
と言っていますね。
此処で注目したいのは最後が“推論”になっている事です。
この言葉から、彼らは結局、囚人同士で建設的な声かけもしていなかった事が分かります。
つまり、流される奴隷、と化していたのです。
死の恐怖すら感じていた事は想像できます。 其処から思考停止していたのかも知れません。
ですから、これは仕方のない事でしょう。
またこの男性が看守役だとしてもやはり“彼等に自主性は有りません。”
これは謎の言葉だと思いますが、先の『集団心理』を考えて頂きたいのです。
ただ、すぐさま結論を出すのでは無く、その前の実験に於ける問題点も上げてから説明に入りたいと思います。
まず、看守役は協力して行動しており、2日目に出所を求めた囚人役を「詐病」と決めつけたのは看守達だと言いますから、その意味では充分に連携が取れていた事になります。
一番の問題は彼等が『看守とは何か』を知らないままに行動している事だと思うのです。
(つまり実験主導者ジンバルドー教授はこの段階からミスをしている、ド素人という訳です。
少なくとも実験時に於いて自分を客観視できないなど、社会学者と名乗るには資質・経験、或いは観察の訓練が不足していた人物である、と言わざるを得ないでしょう。
実験に呑まれ、事実を知りながらも釈放を認めなかったのは最終的に彼だと知られているのです)
看守の仕事は法に準じて管理・監督を行う事であり、釈放が正当なら釈放すれば良かっただけです。
処が教授を筆頭とした看守役達は“相手を閉じ込める”事が看守の仕事だと思い込みました。
此処が彼等の運の尽きです。
彼等の行動の粗雑さを見るに、『看守』の仕事ぐらいは自分達エリートには軽くこなせると云う奢りがあったのでは無いか、それに失敗するのは彼等のプライドが許さなかったのではないか、と疑ってしまうのです。
(これが偏見に当たる可能性は有りますので、場合によっては修正、指導をお願いします)
また仮に互いが冷静な話し合い無理な状況だったと仮定しましょう。
彼等はサングラスを掛けているので互いに瞳を見る事も叶わなかった事は確かですから、視線や表情から意志を読み取る事も難しいのは確かと言って良いかと思います。
そうなると逆に彼等が視線ですら話し合っていない以上は、インタビューを受けた“彼”は仲間の気持ちを判断する要素を何一つとして持てる筈がないのです。
上記の推察が正しいとするなら、そこから判断出来る事は、彼が『単に自分の願望を述べている』という事実だけなのです。
当時の記憶も改竄されている事はまず間違い無いでしょう。
勿論、心理的保護の観点から其れは正当な行為だと思います。
誰が彼を責められましょうか。
(10年もカウンセリングを受けたとの事ですので記憶操作、或いは理論操作されたと考えた方が良いと思います)
そして、更に此処から分かる事は(こう書くと驚かれるかも知れませんが)彼らは結局『自分からは何一つ動かなかった』と云う事なのです。
先程書いた「自主性は無かった」という言葉の事です。
つまり、こう言えるのではないでしょうか?
彼等は役を演じきる事が出来ず、『集団心理』から役に“呑み込まれて”自分を見失い、流されるままに進んで、その状況(場)における自分の行動(役割)に疑問を抱かなかった。
或いは抱いたにしても、それを再確認して『自分の理論』として再消化出来なかったのではないのでしょうか。
結局彼等は、当時“何かを演じるには幼すぎた”といえると思います。
また、Drジンバルドーも容易く人を操れると考えた時点で子供だったと言えます。
ついでに教授の現在を調べたら、ベクトルが違うだけで同じ事をやっていますね。
しかも「割れ窓理論」より酷い、単なる「ピグマリオン効果」の再確認を元気よく発表していました。(VTR見ると金掛かってますなぁ)
そこで、最後にまたもやアーレントに話を戻します。
アーレントがあれだけ堂々とアイヒマンを指して『凡庸な罪』と言い切れたのは、友人達を信用していたからではないでしょうか?
自分の立つ処は、普遍的な正義(裏切られる事のない友情)だと信じていたと思います。
まあ、笑えるほど見事に裏切られますが。
しかし、それでも彼女が姿勢を変えた様子は見られませんし、以前と比べて攻撃的になった訳でもありません。
彼女ほど『場』(友人の不在)と役割(ユダヤ人の敵となる)に振り回されても、表面的にだけでも、自分を保った事は立派だと思います。
しかも哲学理論は更に研ぎ澄まされていきます。
人間に絶望していなかったのでしょう。
彼女は、もう一度同じ事が起こるのが怖くなかったのでしょうか?
私は『当然怖かった』と思います。
しかし、それ以上に彼女が恐れるものが有ったのでしょう。
それが彼女を支えていたと思うのです。
唯、“それ”が何だったのかを断言するのは苦しい事です。
しかしひとつだけ言うならば、我々は恐れる事そのものを、恐れなくてならないと思うのです。
自身の内部に於いて、何が重要か常に考えて居なくては思考の筋力が衰えます。
精神を鍛え、状況に呑まれる事を避けなくてはならないと思うのです。
自意識や自主性は『此処にこうある』と私には規定できませんでした。
しかし自分の中に『これだけは失えない、譲れない何か』として息づいているはずです。
傲慢にも言い切るならば、アーレントが恐れたのは“それ”を失う事だったのでは無いのでしょうか。
とは云え、大事な筈の“それ”は意外と怠け者であり、常に惰眠を貪ります。
ケツを蹴り飛ばして叩き起こし、常に鼻輪を付けて引きずり回す事が必要です。
そうすれば、その内には呼吸と同じくらいとはいかなくとも、深呼吸ぐらいには楽にその有り様を確認する事が出来るのでないかと思うのです。
「いざとなったら、その時はやるさ」などと言っている人間は多分一生何も出来ないと思います。
(例:明日から本気出す! by矢口)←間違い無く駄目人間です。
練習した以上の力など絶対に存在しないのです。
恐怖に打ち勝つ訓練、自分を律する訓練、それこそが自分を、自意識を維持する力ではないでしょうか。
そしてその為に、我々は自身の中に『神』を探し、育てるべきではないのでしょうか?
当然ですが宗教的信仰を持て、と言っている訳ではありません。
自分の主人は自分だけです。
その御主人様がみすぼらしく背中を丸めて歩いているとして、誰がその後に付いていこうと思うのか、と云う事なのです。
その様な歩みを続けて居れば、その人物は虚勢でも胸を張って歩く他の人物に引き寄せられるでしょう。
もしもその人物がDrジンバルドーだったとしたなら、Drヨーゼフ・メンゲレだったなら?
その時は、再度の『実験』に駆り出される事になるだけなのでは?
その様な未来を受け入れないために、我々はこの実験から学ぶ事は、
『場が危険なら去る事を選ぶべきである。
去る事が不可能なら、自分をしっかりと見張る事が必要である』
という教訓を得ても良いのではないか、と考えるのです。
以上、『スタンフォード監獄実験に付いての一考察』を終了します。
読んで頂いて分かると思いますが、この考察は非常に不確定な『推論』の上に『推論』を積み重ねたに過ぎないもので、“理論”にすら届いておらず、また社会的な結論が明確に出ないまま最終的な論を書き上げる事となりましたが“所詮は素人の戯言”と容赦下さい。
今回は非常に有意義な考察の機会を与えて下さった事を和泉様に感謝します。
矢口 拝