094 監察局という名だけの闇な件
監査局の最奥には、この現代社会において極めて異質な空間が存在していた。
壁という壁には電磁波を完全にシャットアウトする多層構造の特殊シールドが埋め込まれ、この室内に持ち込めるのは一切の通信機能を持たないアナログの紙媒体と、昔ながらの万年筆のみ。スマートフォンの持ち込みどころか、電子時計の針すらも磁場で狂うほどの徹底がされていた。
光回線も、無線LANも、果ては微弱な電波すら許さない完全なるオフラインの密室。
そんな静寂と殺風景が支配する密室の中で、一人の若い監察官は、冷たい木の椅子に深々と腰掛けながら、額にじっとりと嫌な汗を浮かべていた。
彼女の目の前に置かれた重厚な鉄板のデスク。
そこにドカリと足を投げ出し、深々と椅子に背を預けているのは、国家最高幹部すらも恐れ抜く監察部門の最高権力者にして、裏社会で「猟犬」と囁かれる凄腕の男性保護監察官――伊波なぎさその人だった。
常に着用している漆黒のサングラス。スラリとした長身に、どこか傭兵部隊の上官を思わせる凄まじい威圧感と風格。左目の傷痕を隠すサングラスの奥から、鋭い隻眼の光が注がれている。
なぎさは無言で、デスクの上に広げられた分厚い紙のファイルをパラパラとめくっていた。カサリ、カサリと紙が擦れる乾いた音だけが、静まり返った部屋に響き渡る。
「……で、だ」
ふと、なぎさが手を止め、隻眼の視線をゆっくりと部下に向けた。その低い声だけで、後輩の監察官の背筋には氷水が流れ落ちたような悪寒が走る。
「は、はいっ!なぎささん!」
「お前が先週からちまちまとまとめていた『VRゲーム【DHIB】周辺における異常動向』のレポートだが……フン、なかなかいいところに目を付けているじゃないか。よくここまで調べ上げた」
なぎさが放り投げたのは、後輩が睡眠時間を削ってかき集めた極秘の調査レポートだった。そこには、仮想世界から現実のメーカーへと流れ込んでいる謎の超技術――脳波コントロールを起点とした、国家規模の変革の足跡が生々しく綴られている。もちろん自分の国も関与していることは明白で、さらに不気味さを帯びていた。
「お、恐れ入ります……!ですがなぎささん、このデータ、詳しく追えば追うほど底が知れないのです。『Plan_B』という一企業の名前がすべての裏で糸を引いており、ゲーム内のAIシステムすらもその演算エンジンが根幹を構築していると噂されています。これ、一歩間違えば国家の主権がハッキングされるような、とんでもない企業なのでは……!?」
必死の形相で訴える部下に対し、なぎさはふっと片側の口角を吊り上げて笑った。
「私の後輩をやってるだけはあるな」
「では、なぎささんもこの危険性をすでにご存知で……!?」
「知っているとも。現地に確認にも行ったが、現状はこのままでも問題なしと判断した」
「へ……?」
「もう一度言おうか?現状はこのままでも問題なし、というわけでな。お上への公式レポートには『該当の動向において国家に対する脅威は一切認められず。完全なる適法かつ有益な技術還元である』と、そう通達しておいてくれ」
後輩は、自分の耳を疑った。
「ま、待ってください、なぎささん!いくら何でも、調査を打ち切るには証拠が足りなすぎますし、何より上がこの事実を知れば、即座にその『Plan_B』や関連する関係者を調べるはずです!というか、なぎささんは知ってるんですよね?なんでご自身で報告をあげないのですか!?」
「ん?ああ、私が報告にあげる場合は、ちょっとややこしいことになるんでな」
「ややこしいこと、とは……?」
後輩が恐る恐る尋ねると、なぎさは面倒くさそうに片耳を指で軽く掻き、ふっと悪戯っぽく笑ってデスクの上に身を乗り出した。
「あー。んー。お前だから話すが……『Plan_B』は私の弟の会社なんだ」
――シーン。
部屋の空気が、完全に凍りついた。
なぎさの爆弾発言に後輩は開いた口が塞がらず、目を見開いたまま固まった。頭の中で、これまでの膨大な国家機密と、上司の不穏な人間関係がガチャンと音を立てて結びついていく。
「……は?弟さん?」
「そうだが?」
「い、いま……なんて……?」
「だから、私の弟の会社なんだ。しかも弟が責任者に指名してるのが『あの』平賀あずさで、それを裏で操っているのが私の友人でな。私がこれを上に上げると、後々めんどくさいことになるかもしれんのさ。……まあ、めんどくさいことになっても、問題はないのだがな」
そう言って不敵に笑うなぎさに、後輩の顔面からスッと血の気が引いていく。
「平賀あずさって……『あの』が付く平賀あずさですか!? てか、弟さんって、なぎささんに弟がいたんですか!?」
「ほらな?やっぱり前者よりも後者のほうで驚くよな。弟は良いぞ、後輩」
自信満々に胸を張る上司の頭のイカれた発言に対し、後輩はその場にへなへたと座り込み、天井を仰ぎ見て深い、長いため息を吐き出した。平賀あずさの事を忘れていたのは最大のミスではあったが、まさか弟さんがいたとは……。
「……『Plan_B』といえば、男性Vチューバーのフィン様がいるところですよね?」
「そうだな」
「そこに弟さんがいるんですよね?」
「そうだな」
「弟さんってフィン様なんですか!?」
「だから、この案件はめんどくさいのさ。まあ、何があってもお姉ちゃんが物理的にどうにかするが」
後輩は大声を上げたかった。だが、自分でも知っているレベルのお方である。
それの姉が先輩だと言われたら、納得せざるを得なかった。
しかも、知りたくなかった情報でもあった。
どこの組織もフィン様については知りたがっていたのだから。
しかし、それで納得できることも多かった。
(……だからあんなに破天荒な事ができるのね……)
「ちなみに物理的って、何か問題があったら上に直接殴り込みに行くってことですよね?」
「それが、お姉ちゃんの仕事だからな?」
「……どおりでおとなしいと思いました。分かりました、上には上手く報告しておきます。ですが、問題があった場合はそちらで対処してくださいね?」
「それは勿論だ。お姉ちゃんだからな?」
快諾するなぎさに呆れ果てながら、後輩は書類をまとめつつ、前から気になっていた疑問を口にした。
「……ところで、なんでここでの電子機器を全部使えなくしてるんですか?ここまで徹底的なアナログ環境にする必要、ありました?」
その問いに、なぎさは少しだけ真面目な顔つきになり、小さく肩をすくめた。
「ああ、それか?全部つつぬけになってるからな。もう、この国は『平賀あずさ』の監視下みたいなものさ。……といっても、弟が生きてる間は何も問題は起きないだろうがな?あれもVチューバーのフィンに魅了されてしまった一人らしいぞ」
「えぇぇ……」
「現状の平賀あずさは良い方向に向いている。ただしそれは我々が敵対しなければの話だ。本人には自覚がないかもしれないが、あれはもう抑えられるレベルはとっくに越えてしまったよ。まあ、それも私の友人が仕出かしているのだがな」
後輩は完全にドン引きした。この国はすでに実質、裏を支配されていて、それが上司の『弟』の存在によってギリギリ保たれているという恐怖の事実。フィン様という存在がもう、この国の生命線を握っているという恐怖。
そんな事実も、知りたくなかった。
なぎさはそんな部下の慄きをどこ吹く風と受け流しながら、ふっと遠い目をし、楽しげに語り始めた。
「そういえば、この前も半年に一度の視察で、弟の家に顔を出してきたんだが……いやあ、驚いたぞ!」
「はあ……。何かありました?」
「玄関が開いて一目見て驚いた!前はもっとこう……ひょろひょろのインドアって感じの頼りない背中をしていたんだけどな?引き締まった体つきはもう凄かったな。それについて尋ねたら『適度に運動をしていたらこうなった』と言うんだ。適度な運動でそんなに背筋が変わるか普通!って感じで、いやあ、良い意味でお姉ちゃんはちょっと感動したもんだ」
なぎさはどこか誇らしげに胸を張る。
それを聞いた後輩はとりあえず、フィン様は運動して体調が良いという事だけはわかった。
「おまけに、家には厄介なメイドが張り付いていてね。相変わらず冷たい顔をして私を警戒していたが……まあ、弟の周りに変な虫が寄りつかないように守っていると思えば、お姉ちゃんとしてはそれだけで十分だ。何か面倒な奴が絡んできたらいつでも言いなさい、『お姉ちゃんがどうにかするから』な!……と、豪快に言ってきたさ!」
後輩はフィン様を守ってるのがメイドということは、それが噂の妄想先生なんだな、と衝撃の事実を自覚した。
この妄想先生も、国から警戒されている要注意人物の一人だ。
「なぎささんがそこまで目に入れても痛くない扱いをするなんて……。で、そのあとはどうなったんです?」
「あぁ。リビングでお茶をご馳走になりながら近況を聞いたらな、最近はSNSやネットで執事のキャラクターをやっていて、Vチューバーとして生配信を始めたと言うじゃないか!フォロワーも沢山いてな。お姉ちゃん、頼もしくて正座して監視してやると約束したんだが……」
そこまで嬉しそうに語っていたなぎさの表情が、次の瞬間、凄まじい怨念の籠もった般若のそれに豹変した。
「――だがな!!」
「ひっ!?」
「いざ配信の時間になって正座して待っていたら、始まった瞬間に一瞬で枠が埋まりやがって!私が入ろうとした時には、すでに満員御礼で見られなかったのだ!!『お前らそこを退け!私がお姉ちゃんなんだぞ!』と画面に向かって何度も叫んだがダメだった……!あれは絶対にあのメイドが裏で工作している!! あまりの悔しさに、その日は不貞寝したぞ!!」
(……この人、国家最高の監察官なのに、フィン様の配信枠に入れなくて『私がお姉ちゃんなんだぞ!』って画面に叫んで不貞寝したのか……)
後輩は、目の前の上司のあまりの残念な落差と子供っぽさに、言葉を失って引きつった笑いを浮かべるしかなかった。
「……コホン。まあ、そんなわけでだ。弟が元気で男を上げて立派に暮らしているのが見られて、お姉ちゃんとしては大満足だったわけだ!よし、話は以上だ!」
「……とりあえず、なぎささんが弟を大事にしてることだけは理解しておきます」
なぎさは何事もなかったかのように強引に話を打ち切り、「弟は良いものだ」と満足そうに頷いている。その時、後輩はハッと何かを思い出し、おずおずと手を挙げた。
「あ、あの……なぎささん。それなら、ついでにお願いしたいことがありまして……」
「ん?なんだ?」
「実は……病気に臥せっている妹がいるのですが、その子があの……噂のフィン様の大ファンなんですよ。もしよろしければ、サインとかもらえたりしませんでしょうか……?」
部下からの思わぬおねだりに、なぎさはサングラスの奥で目を丸くした。そして次の瞬間――パンッ!と盛大に手を叩いた!
「サイン!それだ!!」
「えっ!?」
「私も弟のサインは欲しい!それとなく一緒に頼んでみよう!」
「え、なぎささんも欲しかったんですか!?」
さっきまで「国家の猟犬」として凄んでいた上司が、急に目を輝かせてノリノリになり始めた。
「そうか!それならサインをもらう口実として、うちの仕事をあいつに斡旋するのも良いな!何か考えておくか!Vチューバーか……うーん、どうやって弟を新しい舞台に引っ張り出そうか……あのメイドが納得する仕事……か?いや、ここはPlan_Bに直接出向いたほうが良いのか?」
腕を組み、顎に手を当てて「可愛い弟をどうやって丸め込もうか」を真剣に悩み始めるなぎさ。
(……この人、いろんな意味で本当に大丈夫かな?弟がいると、みんな姉は狂うっていうけど、この人でも狂っちゃうんだ……。私も妹の為に言ってるから人の事言えないけど……)
国家の危機を「弟のお守り」で片付け、挙げ句の果てに理由を付けて弟のサインをもらおうと企む最強の上司を見つめながら、後輩は今日一番の深い胃痛に耐えるのだった。
だが、忘れてはいけない。フィンこと比良彰は、伊波なぎさの「実の弟」ではない。伊波なぎさは、ただの『自認お姉さん』なだけなのだ。




