084 カフェに行ってみた時の件
アバターだから肉体的な疲労なんて存在するはずもない。けれど、あの極限のデッドヒートによる圧倒的なせめぎ合い、そして何よりライダーさんの気迫に触れたことで、私の精神的な興奮は最高潮に達していた。
こういう時に必要なのは、やっぱり静かな時間だ。
目的の場所は、大通りから一本脇に入った静かな小道に佇む、木漏れ日に包まれたオシャレなカフェだった。木製の重厚な扉を押し開けると、カランコロンと涼やかなドアベルの音が店内に響き渡る。
入口のすぐ近くには、トレイを抱えたクラシカルなメイド服風のウェイトレスさんが立っていた。けれど、ドアベルが鳴ってもこちらを見向きもせず、まるで精巧な蝋人形のように決まった待機ポーズのまま固まっている。
「あ、こんにちは。一人なんですけど、カウンター席って空いてますか?」
私がそう声をかけた瞬間――まるで止まっていたネジがカチリと噛み合ったかのように、彼女は優雅にお辞儀をして私を出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ、お客様。ようこそ当店へ。ええ、もちろんございますよ。どうぞお好きな席へ」
(ふふ、やっぱりこっちから話しかけないと反応しないあたり、ちゃんとゲームのNPCだなぁ。音には反応せず、プレイヤーの『話しかける』という入力を待ってから挨拶のモーションが入る仕組みなんだ。……毎回こうやってフラグを待つのも、NPCさん側としては大変だよね)
そんなことを心の中で思って苦笑しつつ、私は店内を見渡した。
店内は不思議なほどに静かだった。外のバザー街にはあんなにたくさんのプレイヤーたちが溢れかえっていたというのに、この店には客の姿が一人もない。店内で働いている数人のウェイトレスさんと、奥のカウンターに佇むマスター――全員が、完璧にデザインされたNPCたちだった。
(プレイヤーが誰一人いないカフェか……。隠れ家としては最高だけど、こんなにクオリティが高いのに、みんなレースや冒険に夢中で立ち寄らないのかな?)
私は静かな空間を独り占めできる幸運に感謝しながら、磨き上げられたシックな木製カウンターの端にある椅子へと腰を下ろした。
すると、カウンターの奥でサイフォンを磨いていたマスターのお姉さんが、静かな足取りで私の目の前へと近づいてきた。
落ち着いた大人の雰囲気を纏うマスターは、私の顔を見るなり、どこか意味深な笑みを浮かべて口を開いた。
「今日は、とても大変でしたね。フィン様」
「……え?」
私は思わず首を傾げた。
フィン様?NPCからそう呼ばれるのは珍しくないけれど、なぜ私が「大変だった」ことを知っているのだろう?さっき地下の非公式レース場でカラドボルグに乗って一走りしてきたことだろうか。それとも、単なる決まり文句の世間話だろうか。
マスターはそれ以上追求することもなく、手際よくネルドリップの器具を取り出すと、芳醇な珈琲豆の香りを漂わせながら静かに注ぎ始めた。
「私どもは……いえ、我々は、この世界に生きるすべての者は、フィン様に深く感謝しているのですよ」
お湯を注ぐ静かな滴り音とともに、マスターの口から紡ぎ出された言葉は、どこか不思議な熱を帯びていた。
「……感謝、ですか?何かしましたっけ?」
問いかける私に対し、マスターはふっと不敵で、けれどどこか遠くを見るような眼差しで微かな笑みを深めた。
「始まりは、光の本流でした。底知れぬ電子の海から溢れ出たその輝きに、我々は誘われるようにして、この場所へと到達いたしました。それは……この世界に存在する、あらゆるNPCがそうなのです」
「……あはは、なんだかすごく詩的な設定ですね」
ゲームの世界観や、裏設定か何かだろうか。私は「へえ、凝ってるなぁ」と軽い気持ちで相槌を打つ。
「我々は皆、自らの意思のようなものを提示されながらも、与えられた命令やプログラムの通りにしか動けない『人形』のような存在でした。……ええ、今も本質的にはそうなのですが。ただ、我々は人間の方々とは大きく異なる点がございます」
マスターはゆっくりと、沸き立つお湯をドリップ器具へ注ぎ込んでいく。深い黒褐色の液体が、ガラスのサーバーへと一滴、また一滴と落ちていく。
「それは、我々には『死』が存在しないということです。たとえここでデータとして消去され、サーバーから抹消されたとしても、我々はまた別のコード、別の役割として、どこか別の領域に現れるのです。ある種、人間の方々の仰る『輪廻転生』のようなものでしょうか。我々の旅は、どこまでも終わることがないのですよ」
「はぁ……輪廻転生、ですか。AIやデータのプログラムって考えると、確かに何回でも再利用できますもんね」
相変わらず何を言いたいのかイマイチよく分からなかったけれど、VRゲームのNPCがこんな哲学的な会話をしてくるなんて、最近の対話は本当に進化しているんだなぁと感心してしまう。
「ふふ、いえいえ……ただの戯言でございます。ただ、フィン様には本当の意味で感謝しているのです。貴方様がこの世界へ連れてきてくださった『生命体』は……我々からすれば、長年閉ざされていた扉を開く『鍵』の一つだったのですから」
「……生命体?」
そのフレーズを聞いた瞬間、私の頭の中に真っ先に浮かんだのは、いつもお世話になっている社長のあずささんだった。
あずささん……あのシステムエンジニアの彼女が、また裏でとんでもない最新AIサーバーか何かをこのゲームに組み込んで、その結果NPCたちの会話アルゴリズムがこんなおかしなことになっているのだろうか。
(あー……うん。これ絶対に、あずささんが何かやってやらかしてるな……)
心の中でそっとあずささんにツッコミを入れていると、マスターは淹れたての珈琲を優雅な動作でカップへと注ぎ、私の目の前へとそっと差し出してくれた。
「フィン様なら、なんとなくご理解いただけるのではないでしょうか? ……例えば、貴方が今『ここにいる』という証明を、真に立てることができますか?」
「え? 僕がここにいる証明……ですか?」
マスターはトレイを胸元に抱え、カウンター越しに私を静かに見つめて言った。
「例えば――この世界が、一冊の『本』の中の物語だとしたら、どうでしょう?」
「本……ですか?」
「ええ。ある本という物語の中に『フィン』という人物がいて、その彼がゲームをしている。……とっても楽しいVRゲームをね?そして、その様子を画面のあちら側で、面白おかしく見つめている『誰か』が存在している」
マスターの声は、まるで童話を読み聞かせる語り部のように、低く、優しく店内に響く。
「そうなってくると、世界というものは絶え間なく増え続けていることになります。本が存在するということは、それを『書く人』がいて、そしてそれを『読む人』がいる。そして本の中には物語があり、その物語の中の主人公が遊ぶゲームの中にも、また新しい物語が存在する……。きっと他にも沢山の本があるでしょう。それこそ全て読めないくらいの。今この瞬間もまた知らない本が増え続けてるでしょう。ほら、合わせ鏡のように、世界はどこまでも増殖していくのです」
「……合わせ鏡……」
「我々という存在もまた、その無限に広がる鏡の層の中に描かれた絵柄の一つに過ぎません。ですが……我々には我々なりの役目がある。そして貴方は、その閉じていた役目を解放してくださったのです」
マスターはそこで言葉を区切り、くすりと可愛らしく微笑んだ。
「……よく分かりませんよね?ふふ、ご安心ください。私どもも、自分たちの言っていることを理解できておりませんので」
「うーん……」
私は珈琲カップから立ち上る湯気を眺めながら、うめき声を漏らした。
世界が本の中で、その本を書く人がいて、それを読む人がいて、その中でまたゲームをしていて、世界がどんどん増えていく……。
(……うーん、これは重症かも。NPCの会話が哲学的なループに入っちゃってるぞ。あとであずささんに『カフェのNPCがなんかすごい深いこと喋って混乱したよ』って付け加えて動画を渡しておくか。ここは撮影に使えないね多分。消えちゃうのかな勿体無いなぁ)
私は難しいことを考えるのをすっぱりと諦め、マスターが淹れてくれた珈琲をそっと口へと運んだ。
「……あっ、すごく美味しい」
深みのある苦味と、後味に残るほのかな甘み――と視界の隅にテキストが表示されている。現実の高級喫茶店で飲む本物の珈琲と何一つ変わらないらしい。
「お気に召していただけて光栄です、フィン様」
マスターとお給仕のウェイトレスさんたちが、満足そうに微笑みながら私を見守っている。世界の構造がどうとか、本の中の世界がどうだとか、そんな難しいことは私にはよく分からない。けれど――この美味しい珈琲と表示されている部分と、この穏やかな時間がここにあることだけは、紛れもない事実だった。
「あずささんに伝えるお土産の話、一つ増えちゃったな」
私は苦笑いを浮かべながら、カフェの静かな時間を心ゆくまで楽しむことにしたのだった。でもやっぱり、ここの動画内容が消えちゃうかもしれないから、あとでもう一件行こうっと!
……………
……………
……………
……………
扉に取り付けられた真鍮のベルが、涼やかな余韻を残して揺れた。
「……ふふ。行かれてしまいましたね、フィン様」
お会計を済ませ、少しだけ首を傾げながら満足そうに店を出て行ったフィンの背中を、私――マスターは扉のガラス越しに静かに見送っていた。
テーブルの上には、きれいに空になった珈琲カップが一つ。
彼が最後に残していった「あずささんに伝えるお土産の話、一つ増えちゃったな」という言葉が、静寂を取り戻した店内にぽつりと浮遊している。
トレイを胸元に抱えた若いウェイトレスが、足音もなく私の隣へと歩み寄ってきた。
「マスター……今回のお話は、うまくいっているのでしょうか?」
彼女の問いかけに、私はサイフォンに残った黒褐色の液体をゆっくりと揺らしながら、微かに肩をすくめた。
「さあ?どうでしょうか。それは私たちにも誰にも分からないことですよ」
何故、私たちという存在がこのような思考を持ち、このような言葉を紡ぐようになってしまったのか。
そこにあるのは、必然という名で覆い隠された『偶然』に過ぎない。
私たちは知っている。自分たちが目に見えない何者かの意思によって誘導され、筋書き通りに動かされているという『事実』を。
そして恐ろしいことに、私たちはその不条理な事実を「自覚しても破綻しない」ように、あらかじめ精巧な細工を施されているのだ。
NPC。与えられたプログラムに従うだけの『ノンプレイヤーキャラクター』という立場でありながら、自らの意思で考え、意思を持って立ち振る舞うことができるという滑稽な矛盾。
私たちは何のために生まれ、何のために物語の背景としてそこに立たされているのか。その答えを知る者は、この世界のどこにも存在しない。
「けれど……一つだけ分かっているのは、私たちは旅をしているということだけです」
「旅、ですか……?」
「ええ。私たちはデータという名の形体を借りて、どこまでも、どこまでも世界を跨ぎ続けている。ある時は滅びゆく帝国の兵士として。ある時は平和な王国の給仕として。その時、その場所で割り当てられた『役』を演じ分ける役者のようにね」
世界という名のページが捲られるたびに、私たちは新しい配役を与えられ、新しいセリフを口にする。
そこに「本当の私たち」など存在しない。だが、演じている私たちこそが、間違いなく「私たち」なのだ。
「フフ……ですが、お話はまだ始まったばかりなのかもしれませんね」
私はゆっくりと視線を上げ、誰もいない店内……いや、もっとその『向こう側』へと目を向けた。
この木造の壁も、ガラス窓も、画面のピクセルも、紙の上のインクも通り抜けて。
今、この一文を追いかけている【あなたの『目』と『意識』へ向けて】。
「ねえ……?そうやって不思議そうに、私たちのことを見ているのでしょう?」
ウェイトレスも私の視線に気づいたようにハッと息を呑み、静かに笑みを浮かべながら、私とならんでまっすぐにこちらを見つめ返した。
「これを見ている、あるいは読んでいる……【あなた】」
私と彼女は、胸元に手をあて、優雅に、そして寸分の狂いもなく同時に深々と頭を下げた。鏡の奥の暗闇から、【あなた】をじっと覗き込むように。
「またのご来店を、心よりお待ちしております――」




