082 信じる事は大事な件
チェッカーフラッグが虚空を切り裂き、地下ドックの喧騒が最高潮に達する。
「まじかよ……負けた、のか……?」
フルフェイスのヘルメットの奥で、アタシ――ライダーは、目の前を走り抜けていった漆黒と深紅の機体、『強襲用型カラドボルグ』の残像を見つめたまま、しばらく動けずにいた。
フルマニュアル。脳波による限界駆動。
自分の持てる技術のすべてを注ぎ込み、物理演算の限界を力ずくでねじ伏せるような走りをやり遂げた。手加減なんて一秒たりともしていない。なのに、あの土壇場で鮮やかに、完璧に抜き去られた。
エンジンが冷却のシールド音を立てて鎮まっていく中、アタシの胸の内で渦巻いていたのは、意外にもドス黒い絶望やみじめさではなかった。
「……くっ……あは、はははっ……!」
ヘルメットの中で、アタシは思わず声を漏らして笑った。
心臓がバクバクと狂ったようなリズムで鳴り響いている。手のひらは微かに震え、全身の血が沸騰するように熱い。
悔しい。めちゃくちゃに悔しい。本当に悔しい。
プロのロードレーサーとして、コンマ一秒を削る誇りにかけて、負けたことが悔しくないわけがない。あんな化け物みたいな機体に、しかも『レガシーモード』で乗っていたらしいルーキーに足元をすくわれるなんて、レーサーとしての油断があったと言われても仕方ない。
だけど――それ以上に。
この胸の奥から込み上げてくるのは、かつてのリアルなサーキットで、トップ争いの末に敗北したときと同じ、強烈なまでの熱気と爽快感だった。
「なんだよアイツ……!あんなの反則だろ!でも、最高に痺れたじゃないか……っ!」
もう何年も、自分の限界のその先を見せてくれる相手になんて出会えなかった。
足の自由を奪われ、世界のすべてがモノクロに見えていたアタシに、再び「もっと速く走りたい」という純粋な狂気を思い出させてくれた。
「負けたのは悔しいけどさ……こんなに良い気分、いつぶりだろ。アタシはまだ、こんなに熱くなれるんだ……!」
愛機をゆっくりとピットの定位置に滑り込みませ、アタシは大きく息を吐き出した。敗北の悔しさと、それを遥かに上回る戦闘の興奮。
――次だ。次に出会うときは、絶対に負けない。あんなバケモノみたいな機体にだって、アタシのフルスロットルで追いついて、追い抜いてみせる。
闘志に満ちたアタシの耳に、コックピットのスピーカーからピコピコと軽快な電子音が届いた。
『お疲れ様でした、ライダー様!惜しくも第2位……いえ、大激戦の末の敗北となりましたが、走行データのログは完璧でございます!』
光の球体となって頭上で浮かぶアシスタントちゃんが、いつにも増して誇らしげに、そして楽しそうにクルクルと回転している。
「お疲れ、相棒。いやぁ、完敗だった。相手の機体スペックも凄まじかったけど、あの土壇場での切り返しは一歩遅かったよ」
『ふふっ、ですね。ですが、ライダー様のフルマニュアル駆動は本日も極限のキレ味でした!次は必ず勝てるように、機体のトラクション制御とエアロダイナミクスをさらにチューニングしておきましょう。……ところでライダー様、率直にお伺いしますが……今回の敗因は何だと思われますか?』
「敗因かい?」
アタシはヘルメットを押し上げ、汗ばんだ額を拭いながら、自虐混じりの笑みを浮かべて冗談を飛ばした。
「そりゃあ、やっぱり脳波のシグナルだけじゃ限界があるってことかな。アタシの指示をどんなに完璧に伝えても、マシンを支える『実際の足』がこの『実際の体』にはないからね。機体の限界Gに耐えながら踏ん張るイメージの生身の脚があったら、最後のコーナーでもっと踏み込めたかな。はは、こればっかりはハードウェアの不良品ってやつさね。いや、これもいいわけかな」
リアルでは二度と動かない、感覚すらない両脚。
それをネタにできるくらいには、今のレースでアタシの心は満たされていた。
だが、アシスタントちゃんからの返答は、いつもの調子とは違っていた。
ピッと光の球体が動きを止め、真剣なトーンを帯びる。
『……ライダー様。先ほどから気になっていたのですが、お客様……いえ、ライダー様は、ご自身で物理的にあの脳波コントロールのハードウェアと、切断端からの神経信号を拾うアセットを構築されたのですよね?』
「ん?ああ、そうだよ。必死に学んだ知識と、病院の廃品や特注パーツをかき集めて自作したんだ。こんなもの、この世のどこを探したってアタシしか持ってない、世界で一つのオンリーワンの代物さ」
『その、ライダー様が構築された脳波コントロールに関するハードウェア設計、および神経信号フィルタリングのインターフェースの仕様書……。そのデータを見せることは可能でしょうか?』
「仕様書?うーんと、別に機密保持しなきゃいけないような工業製品じゃないし、困るもんでもないけど……データって、どうやって送ればいいの?」
『よろしければ、現在ライダー様が接続していらっしゃるこちらのVRシステムの基幹端末から、私の直接アクセス権限をいただけないでしょうか?』
アタシは思わず苦笑して、ハンドルバーに置いた手を軽く叩いた。
「おいおい、それってハッキングって言わないかい?AIがプレイヤーの個人端末を漁るなんて、運営に怒られるんじゃないの?」
ふざけた調子で返したアタシに対し、アシスタントちゃんは微動だにせず、きわめて厳正なシステム音声で返してきた。
『いいえ、これはシステムおよび神経科学の発展に関わる極めて重大なデータ解析の可能性を含んでおります。コンプライアンスおよびセキュリティの領域に抵触しないよう、厳密な公式の確認を取らせていただきます。――ライダー様、システム内部への直接アクセスおよび仕様データの読み取りの許可を貰ってもよろしいでしょうか?』
そこまで真剣に、システムの奥底から許可を求められると、逆に断る理由なんてどこにもなかった。
新システムで新しくなってまだ間もないと言うのに、このアシスタントちゃんとは、過酷なレースを共に走り抜けてきた相棒だ。VRの深層システムの調整でも、アタシの自作アセットを誰よりも理解して寄り添ってくれたAIだ。
「まあ、このアシスタントちゃんならいいか。このVRの機材や脳波ドライバの同期にも深く関わってくれてるしね。勝手に持ってっていいよ、好きにしな」
『ありがとうございます! アクセス権限の認証、完了いたしました。データストリームを開始します……解析中……分析中……っ!』
ピピッ、とコックピットのメインモニターに、見たこともないような複雑な数式や波形のデータが滝のように流れ落ちていく。
何をしているんだかさっぱり分からないが、アシスタントちゃんが熱心にうなり声を上げているのだけは伝わってきた。
数分間の沈黙のあと。
光の球体であるアシスタントちゃんが、今までにないほど激しく、美しい淡いピンクの光を明滅させながら、アタシの目の前にぴたりと寄ってきた。
『ライダー様……。このデータを、最先端の神経工学および生体医療工学の関連研究企業に……お話を持っていってもよろしいでしょうか?』
「……は?」
アタシは思わず間抜けな声を漏らした。
ゲーム内のAIが、現実の企業の研究チームに?一体何を言っているんだ?
「ちょっと待ちな。何のためにそんなことを?このゲームのレースのチューニングデータなんて、現実のバイクや車にそのまま応用できるわけじゃないだろう?」
『いいえ、違います』
アシスタントちゃんの声には、AIとは思えないほど、確固たる熱意と震えるような興奮が宿っていた。
『ライダー様がお作りになられた、この独自の神経回路・脳波コントロールのフィルタリング処理と、マルチプレックス制御システム……。これの数学的アルゴリズムとノイズキャンセリングの精度は、既存のいかなる学術論文の理論をも凌駕しています。これを現実世界の医療用ハードウェアに応用し、さらに改良を重ねれば――おそらく、現実の「脳波でダイレクトに動かす高度な生体連動義足」が作れます』
「……え……?」
心臓が、ドクリ、と音を立てて大きく跳ねた。
頭が真っ白になり、呼吸の仕方を忘れたように肺の空気が止まる。
『条件はあります』
アシスタントちゃんは早口で、しかし一言一言を噛み締めるように続けた。
『このシステムは、ライダー様のように「元から神経や足があった患者様」で、かつ大脳皮質の運動野から切断端や脊髄に至る神経経路の基本シグナル伝達ルートが残されている場合に限られます。中枢から末梢へのインパルス信号を、この自作アセットと同様の超高精度アルゴリズムで双方向に翻訳・増幅し、適切な感覚フィードバック回路を義足側のセンサーアレイと再構築することができれば……』
彼女はそこで言葉を区切り、まっすぐにアタシを見据えた。
『現実世界での歩行能力の再獲得、そして神経の再接続による身体機能の復元……つまり、失われた『脚』を、あなたの肉体へもう一度取り戻すことができるはずです。もちろん、神経回路の再学習と適切なリハビリテーションは必要になりますが……医療チームの総力を挙げれば、決して夢物語ではありません』
静まり返ったピットドックの中に、シリンダーの冷却音が小さく響くだけだった。
「……うそ……でしょ……?」
アタシの声は、自分でも驚くほどかすれていた。
頭の中で、あの病院の白い天井と、冷たい医師の宣告が蘇る。
『もう二度と、自分の足で歩くことはできません』
その言葉が、鉄の枷のようにアタシの心を縛り付けていた。だからこそ、このVRの世界に逃げ込み、ここでだけ「風」になることを選んだのだ。
なのに。
その絶望を断ち切るための足がかりが――遊びで作った、このゲームのための自作アセットのなかに眠っていたというのか?
「ま、待ちな……!そんなの、大嘘だろ?アタシが適当に組んだ、ただのゲーム用のガラクタの延長だよ!?現実の医者だって無理だって言ったんだ……!」
『嘘ではありません』
アシスタントちゃんの光が、優しく、そして力強く明滅する。
『私も、ここまで洗練され、かつ生体親和性の高い神経連動技術は初めて見ました。これって、生体電流のインパルス信号をどのような演算処理を経てダイレクトな駆動トルクに変換していらっしゃるのですか? 一体どのような奇跡的な着想から、このシステムに行き当たったのですか? 詳細を、どうか教えてください……! 私、とても……胸が高鳴り、知的好奇心が抑えきれません!』
純粋な探求心と、奇跡の扉を開こうとするAIのまっすぐな瞳に気圧され、アタシはしばらく言葉を失っていた。
やがて、込み上げてくる感情の波をどうすることもできず、アタシはヘルメットのバイザーに顔をうずめた。
「……はは……ははは、ははははっ……!」
乾いた笑い声が、コックピットの狭い空間に響く。
それは悲しみではない。悔しさでもない。
あまりにも途方もなく、あまりにも眩しすぎる「希望」の光を目の前に突きつけられた人間が、思わず漏らしてしまうような、どうしようもない笑い声だった。
熱いものが、フルフェイスの隙間からポロリと零れ落ちて、冷えた金属の床に消えていく。
「もしかしたら……足が、治るかもしれない……のかい?」
ゲームの中の風を追いかけるために作ったはずの技術が、現実の自分の肉体を救う扉を開くかもしれない。
そんな夢のまた夢のような話が、今日この日、この敗北の果てに、ひょっこりと舞い込んでくるなんて思ってもみなかった。
アタシは震える指でステアリングを握りしめ、前方のモニターに映る果てしないサーキットの空を仰いだ。
「――ねぇ、相棒」
『はい、ライダー様!』
「出来るんだろ?アタシのパソコンへのアクセスくらいさ」
『はい、可能です!』
アタシの顔には、もう迷いも、諦めもなかった。
だって、失った脚を取り戻すための旅が、ここから始まるのだとしたら――。
「全部任せる!相棒の好きにやってみな!アタシの人生はさ、いつだって――そう、フルスロットルなんだからさっ!」




