003 雫視点での件
私の名は一二 雫。比良彰様にお仕えする専属家政婦にして、この家のすべてを取り仕切るメイド。
私の人生の目的はただ一つ。一目会ったときから、国宝にしてこの世の奇跡、彰様のお側に控え、その尊いご尊顔と健やかな日常を誰よりも近くで守り抜き、あわよくばそのお姿を心ゆくまで拝ませていただくこと。それ以上でも以下でもない。
今日も私は、完璧なアイロンがけによって仕上がった漆黒のロングメイド服に身を包み、知的かつ冷徹な光を放つ銀縁メガネをしっかりと装着して廊下を巡回していた。
彰様がお休みになられている周辺は、埃一つあってはならない聖域である。私は日々、ワックスの磨き上げ具合から空気の湿度に至るまで、一切の妥協を許さずに管理を徹底している。
だが、その平穏は唐突に破られた。
「――いったっ!?」
奥の部屋で鈍い衝撃音と、彰様の情けないような小さな悲鳴が聞こえたのだ。
私の心臓が、文字通り音を立てて跳ね上がった。頭の中の警報機が狂ったように鳴り響く。
(ああっ、大変です! 今の音はきっと彰様が頭を打っていらっしゃる……! 私が廊下のワックスがけをもっと完璧に行っていれば、こんな惨事は防げたはず……! ああ、なんてことだ、頭を押さえているその姿すら庇護欲をそそる尊さに満ちている……! どうしましょう、今すぐこの胸に抱きしめてよしよししたい、けれど不審者だと思われて嫌われたら私の人生は終わりだ、耐えろ私、プロの家政婦としての誇りを思い出せ……っ!)
ダメな私をお許しください彰様。
内心では血を吐くような絶叫と狂気の愛憎入り混じった思念が暴れ狂っていたが、そこは一流のメイドである。外見の鉄仮面は一ミリたりとも揺るがさない。私は銀縁メガネの奥の瞳を鋭く光らせ、氷のように澄んだ声音で扉を蹴破る勢いで飛び込んだ。
「……お怪我はありませんか、彰様。ただちに救急車を呼びますが、頭部の打撲はのちのち脳裏に響きます。その場で一歩も動かないでください」
目の前には、頭を押さえて床からゆっくりと上体を起こされる彰様のお姿があった。
ああっ、なんと痛々しく、そして筆舌に尽くしがたいほど美しいのだろうか。華奢で守るべき御御足、少し乱れた髪、そのすべてが私を狂わせる。ダメな私を以下略。
しかし、お怪我をされているというのに、彰様はどこか落ち着いた様子で私を見上げ、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。
「あ、雫さん。うん、大丈夫だよ。ちょっと足がもつれて転んだだけだからさ、そんなに慌てないでって」
……んっ!
なんという慈悲深いお言葉でしょうか。私が取り乱しているのを気遣って、優しく微笑みかけてくださる。私の心臓はもう限界だ。このままその場に崩れ落ちて平伏したい衝動を、私は全身の筋肉を使って必死にねじ伏せた。
「本当に、大丈夫ですか……? 意識の混濁はありませんか?」
声がわずかに震えたのは、私の演技力の限界だったかもしれない。
「うん、平気平気。ほら、見てごらん」
彰様はそうおっしゃると、その場で軽い動作を見せてくださった。
運動をされてこなかった細い手足はひどく頼りなく、見ているだけで「私が毎日栄養管理を完璧に行わなければこの御方は風邪を召してしまう」という母性がふつふつと湧き上がってくる。
そして、ここからが問題だった。
彰様はわずかに思案顔をされたあと、私にこう告げたのだ。
「雫さん、心配かけてごめんね。それでさ、僕、ちょっと本格的に体を鍛え直そうと思うんだ。この部屋の一角、ダンベルとかトレーニング器具が置けるスペース、作ってもいいかな?」
――瞬間。
私の脳内で、大規模の大輪の花火が打ち上がった。
(……っ! 彰様が、ご自身の意志で運動を……!? あの華奢で守るべき御御足で、自ら体を鍛え上げられると……? そんな無防備で健康的な少年の肉体が、これから日を追うごとに美しく仕上がっていく過程を、毎日一番近くで、特等席で拝めるというのですか……? 神様、仏様、一二雫にこのような極上の慈悲を与えてくださりありがとうございます……私、今日を命日にしても一片の悔いもございません……っ!)
内心で狂喜乱舞のトランス状態に突入しながらも、私は外見の鉄仮面を死守し、冷徹かつ完璧なメイドとしての声を絞り出した。
「かしこまりました、彰様。明日中に、世界中から厳選した最高級のトレーニング器具一式を、この部屋の隅から隅まで完璧に手配いたします。あなたの健やかな健康管理のためでしたら、この一二雫、全人生を懸けてご用意致しましょう」
「いや、そこまで大げさなものじゃなくていいんだけど……まあ、頼むよ」
少し引き気味の苦笑いを浮かべる彰様をよそに、私の脳内ではすでに『どのようなダンベルがこの少年のきゃしゃな腕の筋肉を最も美しく引き立てるか』という重厚なシミュレーションが全開で稼働していた。
リビングの大型モニターに目をやると、世間のニュースが流れていた。
『――本日の主要都市における男性保護区画の治安維持について……』
画面には、男が一人で街を歩いた際に、あまりの希少性と保護対象としての過剰な人気から女性たちが我先にと群がり、大パニックを引き起こしている防犯カメラの映像が映し出されている。
我が主である彰様がもし一歩でも外に出ようものなら、周囲の女性たちが正気を失ってこの家ごと押しつぶされるのは明白だ。だからこそ、外の世界には出られない。この家こそが、彰様の安全と尊厳を守るための唯一にして絶対の城なのだ。
私は再び気持ちを引き締め、手際よく作業を終わらせると、彰様の部屋へと向かった。
コン、コン、と控えめなノックをして、静かにドアを開ける。
「彰様失礼いたします。トレーニング器具の業者への手配、すべて完了いたしました。明日の午前中には、こちらの部屋の一角に完璧に設置される手はずとなっております」
銀縁メガネをクイッと押し上げながら、私は涼やかな顔でそう告げた。
外の世界には出られなくても、この屋敷の中には、私という忠実な盾があり、有り余る時間があり、そしてこれから鍛え上げられる彰様の素晴らしい未来がある。
この静かで狂おしいまでに幸せな日常が、永遠に続くように――私は今日も、完璧なメイド長として、彰様の背中を見守り続けるのだった。




