029 推し事ってすごい件
私は平賀あずさ。
職業はしがないゲームクリエイター、現代社会の荒波に揉まれながら、会社から与えられた自室という名の要塞で日夜カタカタとキーボードを叩き続ける、しがないクリエイター。
物心ついた頃から、私にとって現実はどこか遠い、退屈なシミュレーションゲームのようだった。学校の人間関係も、世間の流行も、すべてが薄っぺらくて興味が持てない。口も悪いし、テンパってくると言葉がさらに乱暴にもなる。
だから私は、自分の手でコードを書き、プログラムを組み、自分だけの世界を構築することだけに没頭した。
ゲーム開発。それが私のすべてであり、創作世界の真実だった。
転機が訪れたのは、あれはいつだったか。
ネットの海を彷徨っていたとき、奇妙なメールを受信するように、私は「!shizuku!」と名乗る人物と知り合った。
最初は、ただの変わった変人だと思っていた。
けれど、テキストチャットを交わすうちに、私は彼女のさらなる異常性に気づかされた。
いや、異常性というよりは、あまりにも純度が高すぎる「妄想」と「狂気」の共鳴だった。
書いている内容もおかしいし、描いている内容もおかしいし。
文においても、イラストにおいても技術がずばぬけておかしかった。
また、創作の話題でここまで殴りあえる人物なんて、現実世界には一人もいなかった。どんなことでなぐりあっていたのかは置いといて。
私たちは夜を徹して、自分たちの頭の中にある理想の妄想や、あり得ない設定について語り合った。
――そして時がたち、私は知ってしまった。
彼女が語る「妄想話」のすべてが、一部フィクションなんかじゃなく、彼女の生きる現実の「真実」なのだということに。
彼女には、絶対的な「主様」がいて、そのお方は男で、信じられないような奇跡や理不尽を日常として纏っているのだと知ったとき、私の人生の中で盛大にバグを起こした。
頭がおかしくなりそうだった。
でも、同時に猛烈な興味が湧いたのも事実だ。
現実のバグのような存在。それが彼女の主、彰様だった。
何度でも言う。雫という人間はとにかくタチが悪い。
リアルで男と話したこともない、いわゆる引きこもり気味な私を相手に、彼女は会うたびに巧みに、そして容赦なく煽ってきた。
『我が主の為に手を貸してみる気はないか?』と。
実際にはそうは言ってない。けどそういう風に聞こえたんだ。
悪魔のささやきだった。修羅場をくぐってきた私でもかなり怖かった。
それでも、それでもだ。
なんだか知らないけれど!
すごい頭に来た私は、プロとしてのプライドにかけて、その挑戦状を叩きつけるように受け取ることにした。
あまりにも雫が楽しそうだったから!
雫だけ楽しそうなのが許せなかった!
――それが、すべての地獄の始まりだった。
軽い気持ちで引き受けたはずが、蓋を開けてみれば途方もないデータ量。
狂ったようなセキュリティ要件。
人智を超えたサーバー構築。
気がつけば私は、血反吐を吐きながらモニターに向かう徹夜の修羅場に叩き込まれていた。その傍らで雫も死に掛けてたのはいうまでもないけど。
私も死ぬかと思った。いや、何度も実際に三途の川の向こう側で自分の名前を見た気がする。どこのブラック企業でもお目にかかれないほどのストレスを味わった気がする。
でも、そんな限界寸前の私に、雫はふっと奇妙な慈悲――あるいは新たな試練を与えた。
なぜだか知らないけれど、雫の主様の「直通の電話番号」を私に寄越した。
『話したかったら、いつでもかけても良いのですよ』と微笑んだのだ。
正気か? と思った。
あんなバグみたいな男に、私が直接連絡を入れる?
失敗したらどうなる。文字通り嫌われるかもしれない。
けれど、そもそもの話。
これからサーバーを維持していくためには、実務的な仕様やシステム上の重大な決定事項を、あの「主様」自身に確認しなければならない場面がどうしても出てくる。
それからだった。頭では分かっているのに、いざ発信ボタンを押そうとすると、心臓が爆発しそうになってスマホを放り投げた。死ぬほど迷った。本気で逃げ出そうとも思った。
何度も何度もスマホを投げて、それでも。
プロとして。
このプロジェクトを完遂させるためには避けて通れない。
震える指で通話ボタンを押した。
耳に当てたその瞬間――。
「もしもし?」
聞こえてきたのは、脳の芯を直接とろけさせるような、あまりにも良すぎる声だった。一瞬にして思考がつぶれて、私の頭の中のありとあらゆる部分がショートした。
なんだこれ。声だけで人間を狂わせる兵器か何か?
意識がフワッと宇宙の彼方へトリップしかけて、私は必死で自分の頬を叩いた。
その時、私は雷に打たれたようにハッと気付いた。
――あ、そっか。こんな男がこの世に実在していいわけがない。
私の脳が、あまりの非現実感に拒絶反応を起こした。
その瞬間、不思議と私のなかで妙な納得感が生まれ、電話の向こうにいるその男は、生物学的な人ではなく、いわば「観測できない創作物」のようなものなのだと理解した。
現実世界のルールが適用されない、バグの塊のような存在。
だから、恐れる必要なんかない。
へんに取り繕う必要もない。
『存在しているけれど、私の世界にとっては存在していないも同じ』
そう自分の中で定義した瞬間、嘘のようにスッと気が楽になった。
人間相手だと思えば緊張する。
けれど、画面の向こうのエラーログを解析するようなものだと思えばいい。
別に見ず知らずの男と個人的に仲良くなりたいわけじゃない。
ただ仕事として、プロとして、目の前のタスクと淡々に向き合えばいいのだ。
雫という狂気のメイドが心酔しているのなら、その主様という存在も、私にとっては「少し手強い仕様書」の延長線上にすぎない。
そう割り切ってからは、不思議と話すことも仕事もスイスイと進むようになった。
……はずだったんだ。
あのASMRができてしまうまでは……。
あんなもの、プロとして世に出す前にチェックするだけの、いわば「デバッグ作業」のつもりだった。
ボイチェンが入っていようが、素人の録音だろうが、エンジニアとしての冷徹な耳で聞き流して、さっさとマスタリングを終わらせてやるつもりで再生ボタンを押した。
なのに――。
私は、完全にしてやられた。
あの時、私の脳に直接流れ込んできたのは、ただの声なんかじゃない。
安寧と、底知れぬ包容力と、有無を言わせぬ絶対的な「フィン様成分」の暴力だった。
ダメだダメだダメだと。私の中で、何かが音を立てて崩れ去った。
気づいたときには、私の口から「フィン様、しゅきぃ……」みたいな、正気を疑うような思考がこぼれ落ちていた。
私は、フィン様に沼った。
あんなに「創作物だ」とか「ただの仕様書だ」とか冷静ぶっていたというのに、いざ本気の一撃を食らえば、他のファンたちと何一つ変わらない。
ただの「脳を焼かれた限界オタク」に成り果ててしまった。
たぶん、これからもずっとそうだ。
この呪いは、もう一生解けない。
まさか、この私に、「推し」という名の人物ができるなんて。
人生、何が起きるかなんて本当にわかったもんじゃない。
相変わらず雫からは無茶な要求が飛んでくるし。
サーバーの維持には頭を悩ませるし。
世間では私の編集した「ASMR」のせいで謎の無気力症候群が蔓延しているらしいけれど――。
まあ、いいか。
私は今日も、布団の中でASMRを聞きながら、幸せな時間を過しつつ。
意識の向こうで次の『推し事』のために、次の行動を考えるのだった。
私はお嬢様になりたい。




