028 謎の流行病な件
ダイニングに差し込む朝の光は、相変わらず穏やかで、現実離れした静けさに満ちていた。
広いテーブルの端に座り、私は目の前に並べられた焼き立てのトーストを軽く一口かじり、じっくりと煮込まれた温かい野菜スープに口をつけていた。スプーンが皿と触れ合う上品な音だけが響く。
それと、昨夜からずっと私のスマホに届いていた大量の通知の波が、ただ事ではない変化を物語っていたがあまりきにはしない。
トーストをもう一口かじり、スープで喉を潤したその時、静寂を切り裂くように電子音が鳴り響いた。
スマホの画面には、『平賀あずさ』の名前が表示されている。私は小さく息をつき、通話ボタンを押した。
「もしもし、あずささん?
サーバーの移転、ASMRの件は本当にお疲れ様。そっちは――」
『――もう無理。絶対に無理。人間が短期間でする仕事の量を軽く突破した。二度とこんなスケジュールで構築なんかするものですか、私の寿命が3年は縮まったからな、コンチクショウ……っ!』
電話の向こうから聞こえてきたのは、盛大な溜息と、文字通り魂の抜けたようなあずさの掠れ声。相当な修羅場をくぐってきたのだろう。キーボードを叩き続けるような喧騒はすでに消え、ただひたすらに疲弊しきった息遣いだけが伝わってくる。
サーバーの復旧、サーバーのお引越しについては、そこまで急がなくても良いといっておいたはずなんだけれど。雫とあずささん的には挑戦と受け取られてたらしい。
うーーーん。男の言う事をどこまでが本気と、とらえてくれるか難しいね。
この世界どうにも、男からの要望ってあまりないっぽいんだよね。
色々と発言には気をつけないと。
「ご、ご苦労様……本当にありがとう、あずささん。君の技術力のおかげで助かったよ」
『ふんっ。感謝するなら、あの狂ったメイドにも言ってあげてちょうだい。……はあ疲れる。……でもね。今回は私も本気で投げ出しそうになった。雫があのタイミングで用意してくれた『こんなこともあろうかと!』みたいにポイポイだしてきた高精度のグラフィックデータと、新サイトのメインビジュアルがあったからこそ、どうにか間に合ったのよ。あの女、願望機か何かで出来てるのか……意味不明だったわ』
あずささんは電話の向こうでぐったりと頭を抱えているような気配をさせながら、どこか呆れたような、しかし認めざるを得ないといった調子で続けた。
『……やっぱりふつふつと怒りがこみあげてくるわ。あのメイド、いったいどういう頭の構造をしてるわけ?メイドのくせに、最先端の電子世界やサーバーアーキテクチャの仕様まで完璧に理解してデータ用意してくるし、どう考えてもバグってるわよ。私というプロのエンジニアの存在意義が揺らぐんだけど』
「あはは……雫は、何というか、色々と器用だからね」
『器用で片付くレベルじゃない!……まあいいか、移行自体は完璧に完了したわ。Ouroborosの強固な壁の向こうなら、もうあんな雑魚なDDoS攻撃なんて無意味だから安心して。あとの細かい調整とか、今後の運用に関する実務的な話は――。私もう一言もしゃべりたくないから、直接雫に聞きなさい。じゃ、おやすみなさい、私は今から3日間一歩もベッドから出ないから……っ!ASMRの時間だーーー!!』
プツッ、と途中発狂した様な声とともに切断音が耳を打った。
私は苦笑いを浮かべながらスマホをポケットに戻し、向かい側の席に視線を向けた。
そこには、いつもと変わらぬ完璧な立ち居振る舞いで控えている――はずの、漆黒のメイド服を纏った雫が立っていた。
いや、立ってはいるのだが。
「……雫?」
「はっ。なんでございましょうか、彰様」
返事をする雫の声はいつものように澄んでいたが、その顔を見て私は思わず言葉を失った。すまし顔を装っているものの、その両目の下には隠しきれないほどの深い隈が刻まれていた。顔色もどこか青白く、全身から「限界突破した人間のオーラ」が漂っている。あずささんと共にどれほど過酷なデータ修復とサーバー移転の裏方仕事をこなしてきたのか、想像するだけで胸が痛むほどの壮絶さを感じた。
「……雫、すごく疲れてるみたいだけど、大丈夫?あまり無理をしないでね。今日はゆっくり休んでくれてもいいから」
「とんでもございません。メイドとして、主様に快適な環境を提供するのは当然の務めでございます。それに……」
雫はふっと微かに微笑んだ。その表情には、奇妙なまでの達成感と、底知れぬ狂気が入り交じっていた。
「私の仕事は、まだ始まったばかりですので」
「始まったばかり、というと……?」
「メイドの戯言でございます。彰様はお気にせず……」
軽く一礼するメイドを見て若干ひく。
気にしたらいけないんだ。
きっと問い詰めてもこの状態だと何も答えてくれない。
そこで私は首を傾げながら尋ねた。
「そういえば、配信の最後に告知したワンコインのASMR音声データだけど。あずささんのところで綺麗に音質調整してもらったやつが、さっそくサイトに並んでるよね?あれだけの反響があったんだから、これからの活動資金としての収益も、それなりに見込めるんじゃないかなって思って。早速どのくらいダウンロードされたかな?」
私のその言葉を聞いた瞬間、雫の動きがぴたりと止まった。
彼女は静かに一歩進み出ると、懐から自身のスマホを取り出し、画面を私に向けて差し出した。
「申し訳ありません、彰様」
「ん? 申し訳ないって、売れ行きが悪かったわけじゃないよね?」
何かトラブルでも起きたのだろうか。販売数が伸び悩んだのか、あるいはシステムエラーでも起きたのかと身構えながら、私は雫のスマホ画面を覗き込んだ。
特殊な管理画面のそこに表示されていたのは、Ouroborosサーバーの現在の状況と、公式ダウンロードコンテンツの特設売上データだった。
「――うひっ!?」
思わず、変な声がでて、私は息を呑んだ。
そこに記されていた数字は、私の予想を遥かに、文字通り何桁も超越していた。
『現在の総ダウンロード数:56731件』
「……ご、ごまん……?」
声がさらに裏返った。
公開されてからまだそんなに経っていないというのに、すでに5万を超える人間が、あの「ささやかなASMR」のワンコインの音声データを購入し、自分の端末へとダウンロードしている。しかも価格は500円。単純計算して、生み出された売上の総額は――。
「ごまんってことはー……あれ?」
頭の中で計算しようとしたが、あまりの金額の大きさに脳一時停止した。
個人で活動している、いわゆる底辺に近い位置にいたはずのVチューバーが、一晩で叩き出していい数字ではない。とんでもない額面が、個人の口座にダイレクトに流れ込んでくる未来が確約されている。
「すでに初期の目標値を遥かに突破し、決済システムが一時悲鳴を上げたほどでございます。この段階で、個人の活動としては大金が確実に我々の手に入ることになっております。まだ配信してからそんなにも経過しておりませんので」
雫は静かに、しかしどこか誇らしげに頭を下げた。
その淡々とした口調とは裏腹に、提示された数字の暴力は、私の背筋に冷ややかな戦慄を走らせた。
――売れすぎている。
「こ、こんなに買って大丈夫なのかな……?」
「ふふ。あの方々は、主様の声によって魂を洗浄されたのです。むしろ感謝こそされれど、怨まれる筋合いはございませんよ」
そうなのかなと思いながら、私は冷や汗を拭いながら、目の前のトーストを口に運ぼうとした。
その時だった。
液晶テレビから、ニュース番組のアナウンサーの緊張感を含んだ声が飛び込んできた。
『――続いてのニュースです。本日未明から国内各地において、原因不明の体調不良を訴える人々が増加しています。特に都内の主要なオフィスなどでは、朝から出社を見合わせる人が増えており、一部の企業活動に軽微な影響が出ています』
私は思い、手を止めた。
画面には、街頭インタビューに答える医療関係者の姿が映し出されている。
『専門家の話によりますと、今回の症状は急速な脱力感や、一種の極度のリラックス状態、あるいは無気力症候群に近いものではないかと分析されています。現時点で感染症やウイルスといった明確な原因は確認されておらず、突然全身の緊張の糸が切れたような状態になるケースが目立っているとのことです』
アナウンサーは真面目な顔つきで原稿を読み上げる。
『なお、専門家は「数日間の十分な休息を取れば自然と体調も回復するかと思われますので、過度に恐れず、自宅で静養するようにしてください」と呼びかけています。続いてのニュースは――』
テレビ画面はそのまま次の経済ニュースへと切り替わった。
私はテレビと、目の前にある雫のスマホの『ダウンロード数:56731件』という数字を、交互に見つめた。
「…………」
「…………」
ダイニングルームに、静寂が戻った。
原因不明の無気力症候群。
全身の緊張の糸が切れたような状態。
数日で体調が戻る。
昨日、あのワンコインASMRを聞いたであろう全国の視聴者達。
慌ててみたスマホを取り出してSNSの方を見てみる。
「ふにゃふにゃをありがとうございます」というよく分からない感想が来てた。
これって……。
一斉に「ふにゃふにゃ」になって社会機能を一時的に停止してたとか?
ニュースで報じられている「原因不明の流行病」の正体が、我が家のダウンロードコンテンツのせいで社会全体に蔓延した結果なのだとしたら、私はとんでもない社会問題の引き金を引いてしまったのではないか。
いや、考え過ぎかな?
そんな事はありえないね。
私は首を振った。
「そんなことはありえないか。だってASMRだしね」
そんな私を見て雫は涼しい顔でティーポットを持ち上げ、いつのまにか無くなっていた私のカップに静かに紅茶を注いだ。
「主様。温かい紅茶でございます。そしてどうぞ、ご安心くださいませ。どれほど世間が混乱しようとも、ここは主様だけの楽園でございますから」
微笑む雫の背後に、微かに見えない悪魔の翼のようなものが透けて見えた気がした私は、ただ無言で紅茶のカップを手に取るのだった。
ありえないよね?
大丈夫だよね?
私は少し、冷ややかな気分が頭の中を過ぎった。




