019 監察官がやって来た件。
それから数日、特に何も問題も無い日々を過していた時だった。
――ピンポーン。
優雅に生放送の計画を練り直そうとしていたその時、静寂を破るインターホンの音が響いた。ドア向こうの監視モニターを確認するまでもない。この時間にアポなしで、しかも正面玄関から堂々とやってくる「例外的な人物」は一人しかいないからだ。
「あ、そうか。思い出した。まあ、来る頃合いといえばそうか……」
私は手元のペンを置き、小さく呟くと、立ち上がって玄関へと向かった。
外の様子を玄関扉の覗き穴から見て確認。
重厚な扉を開けると、そこには見慣れた女性が立っていた。
常に着用している黒いサングラス。
スラリとした体型に長身。
黒髪を靡かせ、どこか傭兵部隊の上官を思わせる凄まじい風格を纏った女性――。
私の担当の男性保護監察官『伊波なぎさ』にして、昔なじみの知り合いその人だ。
実は彼女、海外の外人部隊に本当に所属していたらしくそのせいで、左目が失明しており、見えていない。それもあって、見た目的にサングラスを欠かせないらしい。実際にサングラスを外して見せてもらったことがあるが、伊達政宗っぽくて好きだったりする。
「よお、彰くん。相変わらず元気にしてたかな?」
なぎさは開口一番、気さくでありながらもどこか凛とした声でそう言って笑った。
顔馴染みの気安さと、なにかしらの独特の距離感で、私を見据える。
「お疲れ様です、なぎささん。相変わらずですね。どうぞ、上がってください」
「――っんんん!?」
家に迎え入れようと一歩引いた私の姿を真正面から捉えた瞬間、なぎさはピタリと動きを止めた。
いつもなら「お邪魔するよ」と自然に靴を脱いで入っていくはずの足が、まるで金縛りにあったかのように硬直している。
サングラスの奥にあるはずの視線が、驚愕の色を帯びて私の全身を上から下へと舐め回すように捉えていた。
「彰くん……?」
「はい?」
「……彰くんだよな……?」
「そうですけど」
「ちょっと待て。なんだその、その……見違えたぞ!」
なぎさは驚きに目を見張りながら、一歩、また一歩と私に詰め寄ってきた。その距離わずか数十センチ。常に冷静で百戦錬磨の元傭兵であり、政府機関の上位監察官である彼女が、ここまで露骨に動揺するのは極めて珍しい。
「ええと、どこか変ですか?」
「変じゃない、変じゃないが……お前、前はもっとこう……こう、ひょろひょろのインドアって感じの頼りない背中をしてただろ!
なんだその、引き締まった体つきは!
顔立ちだって元々整ってはいたが……なんだかこう。
一人の男性として見ても妙に色気と言うかなんというか!」
なぎさは感嘆と驚愕が入り混じった声を上げながら、ガシリと容赦なく私の肩を掴み、その筋肉の付き具合を確かめるように軽く揉みしだいた。服の上からでも分かる無駄のない引き締まった肉体に、なぎさは「えぇ……どうなってるのこれぇ……」と信じられないものを見るような目をしている。
「いや、ちょっと体を鍛えようと思いまして。適度に運動していたら、自然とこうなったというか……」
「適度な運動でこんなに背筋が変わるか普通!
いや、元が良い上に、なんだか性格もすっかり変わってしまった様な……。
まあ良い! 良い意味でお姉ちゃん、ちょっと感動しちゃったぞ」
なぎさは大げさにふぅと息をつくと、満足げにニコッと笑ってみせた。その表情には、普段のクールな監察官の面影はなく、可愛い弟の成長を心から喜ぶ肉親の様なお姉ちゃんの様な温かさが満ちていた。
両親を事故で亡くした私にとって、半年に一度こうして顔を見せに来るなぎさは、文字通り「気の良いお姉ちゃん」だ。
政府機関の重責を担う彼女が、なぜか私にだけは異常なまでの執着と庇護欲を見せる理由について、私はまだその事故の本当の真相を知らない。
だが、向けられる好意が嘘偽りのないものであることくらい、長年の付き合いで痛いほど分かっていた。
「まあ、とりあえず中に入ってください。雫がお茶でも淹れますから」
「――彰様。お客様の応対をするのは、私の仕事ですので下がって下さい」
そこへひんやりとしたトーンの声とともに、メイド服を纏った長身の影が姿を現した。メイドの雫だ。
「ふふっ……。いらっしゃいませ、監察官様。我が尊き彰様に何の御用でしょうか」
雫は私となぎさの間にスッと割り込むように立ち、絶妙な位置でなぎさの体を押し返すようにして距離を取らせた。
内心では『お下がり下さい不敬ですよ』などと血みどろの妄想を繰り広げているのだろうと、私はこれまでの経験則からひそかに察し、冷や汗をかいた。
「おっ、雫。相変わらず冷たい顔をしてるな」
しかし、なぎさは雫の放つ物騒な空気感に怯むどころか、どこか面白がるように片眉を上げて笑い返した。二人は同い年であり、お互いの実力を隠し持つ者同士、水面下で妙な因縁があるらしい。
「……ま、ちょうどいい。雫、お前もこいつのこの変化、近くで見てたんだろ? 一体どんな手品を使ったんだ?」
「ふっ……。彰様が日々の鍛錬を怠らない高潔な御方であるからこその結果にございます。愚問ですね、伊波さん」
雫は冷ややかな目を向けつつも、私の方へと振り返り、恭しく一礼しながら自然な動作で私の背後にぴたりと密着した。服の皺を整えるふりをして、警戒しているのが分かる。
私は彼女のその暴走をこれ以上長引かせないため、わざと何食わぬ顔で話を切り上げることにした。
「……まあ、二人とも玄関先で立ち話もなんですから。
リビングに行きましょう。雫がお茶を淹れますから」
私がそう言って促すと、なぎさは「そうだな」と肩をすくめ、雫は「主様のおおせのままに」と妖しくも美しい笑みを浮かべた。
こうして、政府の最強監察官と狂気メイドという、絶対に同じ空間に置いてはいけない二人に挟まれながら、私はそっと自分の寿命が縮む音を聞く思いでリビングへと歩き出す。
リビングのソファに向かい合って腰掛けた私を挟むように、なぎさと雫がそれぞれのポジションに陣取った。テーブルの上には、雫が用意した湯気の立つ上品なアールグレイのカップが置かれている。
「で、どうなんだ最近は。政府の特殊な部署にいると、変な噂ばっか耳に入るんだが……最近変なことに巻き込まれてないだろうな?」
カップを手に取りながら、「お姉ちゃんは心配だぞ」と、なぎさは鋭い視線を私に向けつつ、どこか探るような口調でそう切り出した。
その背後、私のすぐ隣に控えている雫は、優雅に紅茶を注ぎながらも、その目にはひんやりとした冷気を宿している。
なんだろうか、言い方が悪いけど、二人の後ろに発情期の猫の幽霊がキャットファイト寸前で見えるのは気のせいだろうか。
言葉には出さないものの、雫から発せられる強烈なプレッシャーが背中越しにじわじわと室内の温度を下げていくのがわかる。私は冷や汗を拭いたい衝動をぐっとこらえ、いつもの冷静なトーンを保ったまま答えた。
「いえ、特に何も。平穏なものですよ。最近はSNSのアカウントを開設して、ちょっと登録者が増えて驚いているくらいです」
「SNS……? 彰くんが?」
「ええ。執事のキャラクターで、Vチューバーとして優雅に生配信をやろうと思いまして。お陰様でフォロワーも3000人を突破して、皆さんに温かく応援していただいています」
嘘はいっていないから、きっと大丈夫。
もちろん、胃の痛くなるような真実を口にする気は毛頭ない。特に雫の件で。
私にとって、これは「触ったら負けの自爆スイッチ」であり、知らないふりを通すのが一番の生存戦略なのだから。目の前のなぎさに迷惑はかけられない。
「ふーん……。お前がなぁ、Vチューバーねえ」
なぎさは腕を組み、嬉しそうにじっと私を見つめた。
だが、目の前の私があまりにも落ち着き払っており、かつての頼りなさが嘘のように堂々とした雰囲気をまとっているためだったのか「まあ、雫が近くに張り付いてるなら変な虫は寄りつかないか」と、別の方向で勝手に納得してしまったらしい。
「まあいいさ。お前が元気で、こうして男を上げて立派に暮らしてるなら、お姉ちゃんとしてはそれだけで十分だ。何か面倒な奴が絡んできたらいつでも言いなさい。『お姉ちゃんがどうにかするから』な?」
頼もしいセリフとともに、なぎさは豪快に笑った。
その言葉を聞いた瞬間、私の背後に立っていた雫から何かしらのイラッとした気配を感じた。
多分、なぎさの「お姉ちゃん」発言に敵意を抱いたな、雫……。
頼むからここでバチバチの争いを起こすのだけはやめてくれよ……?
背後からひしひしと伝わってくる呪詛の混じった殺気に、私は生きた心地がしなかった。下手にここでなぎさを持ち上げすぎると、雫の精神的自爆スイッチが押されてしまうかもしれない。私は慌てて話を別の方向に逸らすことにした。
「ありがとうございます、なぎささん。そういえば、次の配信は今度予定しているんですが……もしよければ、なぎささんも見てくださいよ」
配信部屋に入れればなという部分は除くけどね。
「おっ、いいな! お姉ちゃんが正座して監視してやるからな!」
「……ふっ。監察官様はお忙しい身の上。そんな中で暇があって、視聴できれば良いのですが」
なぎさの威勢のいい返答に、雫がすかさず冷ややかなトーンでトゲのある言葉を投げ返す。
二人の間に走るバチバチとした火花を幻視しながら、私は心の中で深く長い溜息を吐き出した。
国家の治安を揺るがすかもしれない黒幕。
それを許さない監察官。
そしてその両者に挟まれながら、今日も私はただひたすらに、平穏なティータイムという名の難所を生き延びるのだった。う~ん。生きた心地がしない。




