015 なんかあったらしい事件
朝の光が薄カーテンをすり抜け、私は軽く伸びをしながら、ふかふかのベッドから這い出した。
喉が渇いたなと思いながら身支度を整え、階段を下りてリビングへと向かう。
この家特有の、どこかピリッとした緊張感と、微かに漂う紅茶の香りが鼻腔をくすぐった。
リビングの扉を開けると、そこにはすでに完璧な身なりを整えた一二雫の姿があった。彼女は私を見るなり、美しい動作で一礼する。
「おはようございます、彰様。本日のご機嫌はいかがでしょうか」
「おはよう雫。……今日も一段と早いね」
「彰様を万全の体制でお迎えするため、朝のルーティンに抜かりはございません。お席へどうぞ。すでに温かいスープと朝食の準備が調っております」
促されるままにテーブルへと腰を下ろす。
目の前には湯気を立てるスープと、絶妙な焼き加減のトースト、そして綺麗にスクランブルエッグが盛られたプレートが置かれた。相変わらず、メイドとしてのスキルが高い。
「いただきます」
私はフォークを手に取り、まずはスクランブルエッグを口に運ぶ。
ふわっとした食感と優しいバターの風味が広がる。うん、あいもかわらず美味しい。
雫は私の斜め後ろに直立したまま、スマホを片手に静かに控えている。その姿はまさに主の影に寄り添うメイドそのものなのだが、こちらに向けた彼女のスマホの画面が時折もの凄い勢いで点滅しているのを見ると、中身のヤバさが思い出されてちょっと複雑な気分になる。パシャパシャいってるよ雫。写真とってもいいけどさ。
私は朝食をもぐもぐと咀嚼しながら、壁掛けの大型テレビに目を向けた。リビングのニュース番組が、ちょうど朝のワイドショーから報道番組へと切り替わるところだった。
『――続いてのニュースです。今朝早く、国内の一部政府機関および行政ネットワークにおいて、前代未聞の大規模な不正アクセスおよびシステム障害が発生しました。該当する機関では、外部からの不審なデータ通信を検知したものの、端末の画面全体に突如として謎の文学的テキストがポップアップし、システムの制御が一時的に奪われる事態となっています……』
キャスターの真面目な顔が画面に大写しになる。
私はトーストをかじりつつ、ふと画面の端に映し出されたエラー画面のプレビューに目を留めた。そこには、赤字でびっしりと書き殴られたような、見覚えのあるような、いや、どこかで見覚えしかないようなエグい文言の数々が並んでいた。
『……なお、政府はこの事態を重く見て、セキュリティ管理体制に重大な過失があったとして、該当部門の責任者を本日付で懲戒免職処分とすることを発表しました。現在、全国のITエンジニア総出で該当するポップアップ型ウイルスの強制排除に当たっているものの、暗号化の構造が複雑怪奇を極めており、現場は復旧作業に難航を極めている模様です……』
「……んぐっ」
私は思わずトーストを喉に詰まらせかけ、慌ててグラスの水を飲んだ。
画面に映っているエラーメッセージ、やっぱりどう見ても妄想先生のヤバいポエムじゃないか。国家中枢のネットワークにまでそんなものをばら撒いた奴がいるのか?
「ねえ、雫」
私は冷や汗を拭いつつ、背後に控えるメイドに声をかけた。
「今のニュース見た? なんか政府の機関でえらいことになってるみたいだけど……。これ、もしかしてサイバーテロってやつなのかな?」
私の問いかけに、雫は一歩前へ進み、いつもの澄ました顔でおかわりの水をスッと差し出しながら答えた。
「――さあ。世の中には、魔王の城に突撃するような物好きや、身の程を知らない愚か者が絶えませんから。どこにでもある、自業自得の縮図なのでしょう」
「いや、どこにでもあるって、政府機関がダウンするのは結構大事件だと思うけど……」
「彰様のお耳を汚すほどの下等な者たちの諍いに、心を煩わせる必要はございません。それよりも、今日の朝食の味加減はいかがでしたでしょうか? 塩分濃度に不足はございませんか?」
「あ、うん。味は最高に美味しいよ。……美味しいけどさ」
雫のあまりの涼しい顔に、私は苦笑するしかなかった。
まあ、世間でどれだけ大騒ぎになっていようとも、この家の中は平和そのものだ。いや、平和なのだろうか? 少なくとも私の周りはいつも通りマイペースに回っている。
私はフォークを置き、ふと昨日の配信の盛り上がりを思い出して話題を変えることにした。そういえば、と私はテーブルの端に視線を向けながら口を開く。
「そういえばさ、雫。昨日の配信も結構な数の人が来てくれてさ。サーバーのほうも、君の知り合いの……ええと、あずささん?が色々手伝ってくれたおかげで、何とか最後までやりきれたわけだけど」
「はっ。平賀あずさのことですね。彼女が裏方でシステムを死守していたからこそ、主様の高貴なお姿が滞りなく電脳世界に顕現できたのです。彼女の働きだけは、誉めてやぶさかではありません」
なぜかあずささんに対して上から目線で評価を下す雫を横目に、私は頷く。
「うん、本当に助かったよ。一人じゃ絶対にあんな大規模な配信なんて無理だったしね。……でさ、今度会う機会や連絡する時で良いから、あずささんにちゃんとお礼を言っておいてくれる? 手伝ってくれてありがとうって」
私のその言葉を聞いた瞬間、雫の背中がびくりと跳ねた。
彼女は持っていたスマホを落としそうになり、慌てて両手で抱え直すと、顔を真っ青に……いや、なぜか感動に満ちた表情に歪め、両手をギュッと握りしめた。
「彰様が、あの平賀ごときに直接お礼を……!? しかも、私を通じて労いの言葉をかけられると……っ!」
なんかのスイッチがはいっちゃったかな?大丈夫かな?
「え、そんなに驚くこと? お世話になったんだからお礼を言うのは普通でしょ」
「あんな無愛想で、部屋に引きこもって画面ばかり見ているネトゲ廃人風情の女に、彰様がそこまでお心を砕かれるとは……! きっと今頃パソコンの前で自分の不手際を恥じ入りながら歓喜の涙を流しているに違いありません! 私から必ず、か・な・ら・ず・や・彰様の慈悲深いお言葉を一言一句漏らさず伝達いたします!」
「いや、そこまで大げさじゃなくていいから……普通に『ありがとうって言ってたよ』で伝わるでしょ」
「いいえ! 彰様の尊いお言葉をただの伝言で済ませるなど、メイドの誇りが許すものですか! 脳髄に焼き付くような絶賛の言葉として叩き込んでやります!」
ものすごい熱量で瞳を輝かせる雫を見て、私は思わず遠い目をしながら頭をかいた。あずささんがどんな反応をするかは想像したくないが、まあ、二人が裏でちゃんとやってくれているなら安心……なのだろうか。
テレビのニュースでは相変わらず「未確認の文学的ウイルスへの対策に苦慮する政府関係者の会見」が流れている。
私は冷めかけた紅茶を一口飲み干すと、今週の配信はどうするかと考えるために、席を立つのだった。




