016 盗み聞きは流石に駄目な件
彰が自室にこもり、次の配信に向けて没頭している頃。
リビングの片隅で、一二雫は背筋をピンと伸ばしたまま、片手にスマートフォンを持っていた。
通話の相手は、遠く離れた自室の作業場で血眼になりながらキーボードを叩いている平賀あずさである。
『――で、何? 雫から直接かけてくるなんて。こっちは昨夜の残骸処理と、またいつ湧くか分からない野良ハッカーどもの迎撃で手一杯なんだけど。用件がないなら切るよ?』
受話器の向こうから、いかにも睡眠不足とイライラがピークに達していそうな『平賀あずさ』の棘のある声が響く。しかし、今日の雫は一味違った。普段の冷徹なメイドの顔はどこへやら、スマホを両手でしっかりと持ち、頬をわずかに紅潮させながら、どこか神妙な、しかし隠しきれない歓喜に満ちた声を漏らした。
「ふふっ……ふふふっ。平賀、少し落ち着きなさい」
『あんたもその不気味な笑いを落ち着け』
「ふふっ……。あなたに、最も尊く、この私……もとい、メイドの魂をも震わせる『御言葉』を授けに電話をかけてあげたのよ」
『は? なに気味の悪いこと言ってるの。キモいから語尾直して。つーか、雫のその声を聞くだけで昨夜のサーバー負荷が思い出されて胃が痛くなるんだけど』
「失礼ね。主様――我が尊き彰様が、昨日の配信の労をねぎらい、あなたに直接お礼の言葉を伝えろと仰せつかったのよ!」
『……ほう?』
あずさのほうで、カチャリとキーボードを叩く手が完全に止まったのが、電波越しにも伝わってきた。
『…………はあ!? 彰様……いや、フィン様が私に? お礼を……? え、嘘でしょ、本当に?』
「本当よ! 彰様はこう仰った。『あずささんにちゃんとお礼を言っておいてくれる? 手伝ってくれてありがとうって』……ああ、なんてお優しいの! 私の脳髄には、その一言一言がまるで聖典の如く刻み込まれましたとも!」
『……へえ』
あずさの声からトゲがスッと抜け、代わりにどこか気恥ずかしそうに、しかし悪くないといった響きが混じる。
『ま、まあね。私が裏であの化け物みたいなアクセス数と変な奴らを単騎で押し返してなかったら、フィン様の優雅なお茶会配信なんて一瞬でオシャカになってたわけだし? 主役の次に功績があるのは私だし? 当然といえば当然の褒美よねー。ふん、少しは見直してあげてもいいかなー』
鼻を高くしているあずさの姿がありありと目に浮かび、雫はわずかに眉をひそめたが、今日ばかりはそれを咎めるまいと心の中でフンと鼻を鳴らした。
しかし、その直後。あずさの声のトーンが急に現実的な、そして冷ややかなものへと切り替わった。
『――って、ちょっと待て。そういえばさ、気になってたんだけどさ』
「なにかしら?」
『アンタ、私がお願いして彰様の配信部屋の配信端末に「何かあったときの緊急用」って言ってマイクを繋いでおいたこと……ちゃんと本人に説明してあるわけ?』
その言葉を聞いた瞬間、リビングの空気がピタリと凍りついた。
「…………え?」
『いや、「え?」じゃないよ。「え?」じゃねえだろ!』
あずさの叫び声が、スマホのスピーカーからびりびりと響く。
『私、あれ言ったよね!? 「いきなり勝手にマイク繋いどいたってバレたら絶対気味悪がられるから、ちゃんと主様に許可取っとけよ!」って念を押したよね!?』
「あーーーー………………」
雫の背筋に、冷たいものがツーと流れ落ちた。
思い返せば、ごちゃごちゃと技術的な設定をしている傍らで、雫の頭の中は「彰様のお声を一日中自室のスピーカーで独占できる特等席が完成した……!」という狂喜乱舞の妄想で完全にキャパオーバーを起こしていた。
当然、そんな倫理的にギリギリな説明の義務など、脳のメモリの片隅から綺麗さっぱり消え去っていたのである。駄目なメイドである。
「す、すっかり失念しておりました……」
『失念じゃねえよ! それって要するに、ただの盗聴じゃねえか!! おい、どうするんだよそれ! もし今、彰様が一人で配信部屋にいるときに、私がこっそり繋いでもらったマイクから配信部屋での生活音がダダ漏れてることに気づいたら……「なあにこれー……!?」ってドン引きされて、私の信用が地に落ちるどころか、変質者扱いされて、下手をすりゃ警察沙汰だろ!!』
あずさの正論すぎる指摘に、雫の顔面からサーッと血の気が引いていく。
メイドとしての誇り、主様への忠誠心、そして何より「変質者として通報される未来」という想像を絶する屈辱。それらが頭の中で一気にスパークし、雫はスマホを持つ手をガタガタと震わせた。
でも、ちょっとそこで怒られる自分と彰様は見てみたい気もする。
牢屋にいれられて、面会をする彰様との図はけっこうクルものがあるのでは?
雫の中でちょっとした次に描こうとする絵が決まった瞬間でもあった。
末期である。
「そ、そんな……! 私が、彰様に不敬だと思われるなど……そんな世界線、地獄の業火よりも耐え難い……っ! どうしましょう平賀! あなたが私にそんな危ういものを設置させたから!」
『人のせいにするな! 自分で自分の首を絞めてるだけだろ! いいから、今すぐ行って説明して! 今すぐに!』
「そ、そんな急に言われても、なんて切り出せばいいのか……。『彰様、実は平賀が趣味でお部屋に盗聴マイクを私が仕掛けました』などと言えば、私の首が物理的に飛んでしまいます!」
『知るか! このままだと私もITエンジニアとしての尊厳もまとめて社会的にゴミ箱行きだよ! 早く行って、うまいこと誤魔化して許可取ってこい! スマホはつなぎっぱなしにしとくから、私も音声聞いてるから!』
「ひ、卑怯な! あなたも当事者でしょう!」
『いいから行け!!』
ガチャン、と通話が切れるわけではなく、音声だけが繋がったまま、あずさの荒い息遣いだけがスマホから聞こえてくる。
雫は生きた心地がしない顔で、自分の足元を見下ろした。
目の前には、彰様がこもっている自室へと続く廊下と、その扉がある。
「……行くしかない、か」
雫はプルプルと震える膝を持ち上げ、重い足取りで廊下を進んだ。
トントン、と控えめにノックをする。中から「どうぞー、って、あれ? 雫?」という彰の声が聞こえた。
ガチャリと扉を開けると、そこでは彰が机に向かい、ペンを走らせていたところだった。彼は振り返り、怪訝そうに首を傾げる。
「どうしたの、雫? そんな青い顔して。お茶のおかわりならまだいらないけど……?」
彰の鋭い指摘に、雫の心臓が跳ね上がった。
しかし、ここで引けばメイドの看板が泣く。雫は意を決し、スマホを握りしめたまま、彰の机の前に歩み寄り、ガクガクと震えながら深々と頭を下げた。
「あ、彰様……! じ、実は、メイドの存亡に関わる……いいえ、私の魂の存亡に関わる重大なご報告がございまして……!」
「存亡? また大げさな……。いったい何があったの?」
彰がペンを置き、真面目な顔で向き直る。そのプレッシャーに耐えきれず、雫は冷や汗を拭いながら、決死の覚悟で真相を告げた。
「じ、実は、あの、ですね、平賀あずさがですね……配信のシステムを構築する際、万が一の緊急トラブルや、彰様の身に何かあったときの安全確保という名目で……あの、その……彰様の配信部屋の環境音を常時キャッチできるように、特殊な音声回線……要するに、その、マイクを勝手に接続していたのです……!設置したのは私ですが!」
部屋の中に、しばしの沈黙が流れた。
彰はまばたきを一つ、二つとし、それから天井の隅あたりに目をやった。
「……マイク? 配信部屋に?」
「はっ……! 申し訳ございません! 平賀の独断と偏見によるものですが、私めもその存在を知りながら、あまりの快適さと……げふん、ご報告を失念しておりました! どうか、この愚かなメイドを処罰してくださいませ……!」
雫は床に崩れ落ちそうな勢いで頭を下げ続ける。
しかし、しばらくして返ってきたのは、怒声でも冷笑でもなく、ふっと息を抜くような彰の笑い声だった。
「なんだ、そんなこと?」
「え……?」
顔を上げると、彰は苦笑いを浮かべながら、やれやれといったふうに肩をすくめていた。
「いや、この前のあの尋常じゃないアクセスの嵐とか、サーバーの負荷とかを考えたらさ、何かトラブルがあったときにリアルタイムで私の状況を把握できるバックアップ回線があるのは、むしろエンジニアとしては当然の判断なんじゃないかな? 別に配信部屋だけなら盗聴だなんて大げさなものじゃないし、そんなに怯えなくてもいいのに」
――彰様が、怒っていらっしゃるどころか、肯定してくださった……?
雫の瞳に、感動のあまりじわりと涙が浮かぶ。
あぁ、なんと慈悲深いお方か。濁った世界に差し込む一筋の光明、これぞまさに我が主様……!
『――ほら見たことか! 怒られなかっただろ! よかったぁ、これで私の社会的生命も助かった……!』
スマホの向こう側で、あずさが盛大に胸をなで下ろしている安堵のため息が聞こえてきたが、このときの雫にはそれを咎める余裕すらなかった。
だが、その感動に浸っていたのもつかの間。彰はふと表情を引き締め、じっと雫の顔を見据えた。
「――たださ、雫さん」
あからさまに声のトーンが違う彰。
「は、はいっ!」
それに思わずちょっとドッキリする雫
「今回は緊急時のバックアップってことで納得するけどさ。こういう機材の設置とか、僕のプライベートに関わるかもしれないときは、たとえどんな理由があっても、今度からはちゃんと言ってよね。勝手に進められるのは、さすがにちょっと困るからさ」
少しだけ声色を強められたその言葉に、雫はビクリと背筋を伸ばし、慌てて深く頭を下げた。
「はっ……! 仰せの通りにございます! 私の浅はかな判断が招いた失態、今後は決してこのようなことがないよう、肝に銘じます……!」
「うん、分かってくれればいいよ。それじゃ、引き続きよろしくね♪」
「はっ! 有難き幸せにございます……!」
部屋を出たあと、雫は廊下の壁に背中を預け、ふぅーっと長く息を吐き出した。冷や汗で背中がびっしりと濡れている。
しかし、彼女の顔にはなぜか隠しきれない笑みが浮かんでいた。
「ふふっ……。彰様に叱られる私……なんと尊い響きでしょうか……」
スマホの向こうで、あずさが「こいつ、もうダメだ……」と盛大に頭を抱えているのにも気づかず、雫は極上の幸福感に浸りながら、再びリビングへと戻っていくのだった。




