110 雇用主はめんどくさい件
深夜。しんと静まり返った家の廊下。
細く開けたドアの隙間から覗いたベッドの中では、『主様』こと彰様が実に心地よさそうな寝息を立てていた。
(……よし、完全に眠りについたな)
私は音もなく寝室のドアを閉め、静かにノブから手を離した。
念のため、先ほどお出しした紅茶には薄い睡眠薬を混ぜておいた。
予期せぬ接触という不測の事態ではあったが、プロとしてこれくらいの事後処理は基本中の基本だ。
私の名前は御影。裏の世界で変装と潜入を生業としている。
私がこうして雫様の完璧な偽者――『偽雫』として振る舞っているのは、単に雇われているからに過ぎない。
先日、あずさ様の元へ出向く雫様から「私が不在の間、彰様の護衛と雑用を」と依頼を受けたのが始まりだ。
破格の報酬と引き換えに影武者を引き受けたわけだが、対象の人物に近い形に同化させるのが私の技術である。勿論出来る範囲でだが。
ただ、あそこまで主様に狂気的な情熱を燃やせる神経だけは、私には到底理解できない。私自身、男性という存在に対してあまり感情を抱かない特異体質だからこそ、この仕事を無感情かつ冷静にこなせているのだと思う。
「――御影。状況はいかがですか」
背後から、私と全く同じ声が聞こえた。
振り返ると、そこには私と寸分違わぬ姿をした本物の雫様が、闇の中からぬっと立っていた。二人揃って同じメイド服、同じ銀縁メガネ。鏡を見ているようで奇妙な光景だ。
私は無表情のまま、声のトーンを落として短く告げた。
「お帰りなさいませ、雫様。……ここで立ち話をしては彰様を起こしてしまいかねません。雫様のお部屋へ移動いたしましょう」
「……ええ、そうですね。参りましょう」
……………
……………
……………
……………
音もなく廊下を移動し、雫様の自室へと入ってドアを閉める。
鍵がかかったのを確認すると、雫様は探るような視線を向けてきた。
「……まずは説明を聞きましょうか、御影。いくらお休みの時間とはいえ、彰様のあの『泥のように眠っておられる』異様なご様子……一体何をしたのですか?」
「不測の遭遇時における標準的なリスク管理です。雫様のご帰宅に伴い、二人の存在によって影武者だと見破られるリスクを排除し、確実に朝までお休みいただくため、先ほどお出しした紅茶に極薄の睡眠薬を混入させました」
「り、リスク管理で主様に薬を混入!?なんという恐れ多い暴挙を……!いえ、それより『紅茶をお出しした』……?貴女、彰様に紅茶を淹れて差し上げたのですか!?」
雫様はガバッと身を乗り出し、両手で自分の胸元をぎゅっと握りしめた。信じられないものを見るかのように目を大きく見開き、ワタワタと数歩後退りながら、ブルブルと激しく指先を震わせている。
「はい。ベルガモットの紅茶です。温度も淹れ方も完璧だと、美味しく召し上がっていただけました」
「くっ……!主様に薬をお出しした暴挙は万死に値しますが、完璧なメイドとしての仕事をこなしている……!?」
雫様は悔しそうに歯噛みしながら、部屋の中をワタワタと数歩往復した。そしてハッと我に返ると、乱れた息を整えながら、背筋をスッと伸ばして両手を前で組み直した。
「……ふぅ。いいでしょう。事後処理の手際に関しては、一旦目を瞑ります。……では、私が不在だった間の詳しい報告をお願いいたします」
「承知いたしました。先ほど、自室で配信企画にお悩み中だった彰様が廊下に出ていらっしゃいましたので、接触いたしました」
「接触……!?廊下で遭遇されたのですか!?」
「はい。主様が次の配信企画について迷われていたため、リビングへご案内し、雑談を交えつつアドバイスを差し上げました。ゲームばかりではなくネットラジオ形式の配信が良いのではないか、過激な企画は控えた方が良いのではないか、と」
雫様はガバッと両手で頭を抱え、まるで世界の崩壊でも目撃したかのようにガタガタと震え出した。銀縁メガネの奥の瞳が、信じられないといった様子で大きく見開かれている。
「ま、まともなアドバイス……!? 私でさえ主様の前では語彙力が崩壊して、脳内で『息をしておられるだけで最高です!』と叫ぶのが限界だというのに、そんな論理的で建設的な会話を……!?」
「『的確で頼りになる』と、大変お褒めいただきました。さらに日頃のサポートへの感謝として『欲しいものや困ったことがあれば何でも言ってほしい』とお言葉を賜りましたので――頭を撫でていただきました」
「あ……?」
「ソファの横に膝をつき、お願いいたしましたところ、『よしよし』と優しく数回ほど。……存外、悪くない心地でした」
私が感情の起伏なく淡々と報告を終えた瞬間。
目の前の雫様の顔から、すーっと血の気が引いていった。
「み、御影ぇぇぇぇぇぇっ!?貴女は何て事をしているのですかあああ――」
「落ち着いてください、雫様。防音壁越しとはいえ、大きな声を出すと彰様が目覚めてしまいます」
大声を張り上げかけた雫様に対し、私はピシッと無表情のまま人差し指を口元に当てた。
「ッ……!ぐ、ぬぬぬ……っ!」
雫様は口元を押さえた手の隙間から血走った目を覗かせ、呻き声を漏らしながら身悶え始めた。
自分の髪をかきむしりそうになった手を必死に抑え込み、ゆさゆさと肩を激しく揺らしながら、まるで未確認生命体のような奇妙な動きで部屋の中をのたうち回っている。
「な、なんという……なんという恐ろしいことを!彰様と二人きりで紅茶を嗜み、まともな会話を交わし、過激な配信を嗜め、あろうことか彰様に頭を撫でていただくなどと……!それは!それは私が何年も夢に見て叶わなかった『完璧なメイドとしての至高のイベント』ではありませんか……!」
「……すべては偽者である私が滞りなく場を納めるための演技です。雫様が普段からしっかりとなさっていれば、万事片付く話だったかと」
「無理ですーーーっ!無理っ!」
ひそひそ声の叫びで、雫様がメイドの矜持をかなぐり捨ててバグり始めた。
「私が!彰様に!頭を撫でられて!取り乱しもせずに!『はい、ありがとうございます』などと返せるわけがないでしょう!?爆発します!確実に脳の容量がオーバーヒートして爆発炎上します!それを貴女は!冷静に!普通の顔で受けて立ったというのですか!なんて恐ろしい子……!」
雫様は涙目になりながらワタワタと両手を振り、今にも泣き出しそうな顔で私に詰め寄ってきた。
「一体どうやって耐えたのですか!?どんな精神鍛錬を行えば彰様の『よしよし』をノーダメージでやり過ごせるというのですか!?伝授しなさい!私にその秘伝を伝授しなさい御影っ!」
「……仕事ですので」
「仕事で済まされたら私の立場がありませんっ!ああ……どうしましょう、どうしましょう……っ!」
頭を抱えて部屋の中を右に左にウロウロと往復し始める雫様。
その瞳は明後日の方向を見つめ、脳内で私の報告を映像化して自爆しているようだった。
「報告は以上となります。私はこれで下がらせていただいても宜しいでしょうか」
「待って!待ちなさい!待ってください御影!」
スッと立ち去ろうとした私の腕を、雫様が必死の形相で掴んでくる。
「明日の朝!私は一体どんな顔をして彰様にお会いすれば良いのですか!?彰様の中では『昨夜の完璧なメイドの雫』が記憶に残っているのですよ!?そんな、そんな尊い記憶の上書きをされてしまって、私は明日からどんな顔で『ああっ主様ぁ!』と拝めば良いのですか!?」
「……本当に面倒な方ですね、このメイド様は」
私は思わず、ボソッと本音を漏らしてしまった。
「今めんどくさいって言いました!?言いましたよね!?」
「いえ、そのような事は申しておりません」
「どうしましょうどうしましょう……彰様の聖なる手が私の髪に……いや御影の髪だけど私の姿で……ああっ、彰様の『よしよし』……!尊い……尊すぎて……息が……っ」
ぐるぐると限界まで妄想を暴走させた結果、雫様の顔が真っ赤に染まり、ついに瞳の焦点が完全に合わなくなった。
――プツン。
まるで電源が切れたかのように、雫様は白目を剥いてその場にバタリと倒れ伏した。
「…………」
静寂が戻った部屋で、私は倒れた雇い主を見下ろす。
膝をついてそっと首筋に指を当て、脈拍を確認した。呼吸、脈拍、ともに正常。
生命に別状はなく、過剰な興奮による一時的なショック状態――要するに、ただの気絶だ。
「……これは、残業手当がつくのだろうか。まあ、良いけれど」
私は小さく溜息をつくと、感情の失われた無表情のまま雫様を軽々と抱え上げ、ベッドへと運んで寝かせた。
主様に仕え、身の回りを世話するメイドたる者、いかなる事態においても冷静に給仕をこなし、主の一歩後ろで完璧な佇まいを保つべきだろう。感情の暴走ごときで脳を焼き切り、床に倒れて気絶するなど、メイドとしての矜持はどこへ行ったのか。
……という、私自身は本物のメイドでも何でもないわけだが。
不憫といえば不憫だが、自業自得という気もする。
……………
……………
……………
……………
翌朝。
まぶしい朝の光がキッチンの窓から差し込む頃、私はエプロンを締め、トーストを焼く準備を整えていた。
別室では、本物の雫様が昨夜の限界化のショックから立ち直れず、布団の中で「彰様……うう……」と唸りながら寝込んでいる。果たして回復するのは何時になるのだろうか。
カチャリと寝室のドアが開き、あくびをしながら彰様が廊下に姿を現した。
「ふぁ……おはよう、雫。なんだか昨日はすごくぐっすり眠れたよ」
「おはようございます、彰様」
私は昨夜とまったく変わらない、完璧で静謐なメイドの微笑みを浮かべて立ち尽くす。
「本日の朝食ですが、昨夜お悩みでしたパンにつきまして……イチゴジャムとマーマレード、両方を塗った贅沢なトーストをご用意いたしましたが、いかがでしょうか?」
「えっ、両方!?すごい、察しが良すぎるよ雫!ありがとう!」
無邪気に喜ぶ主様の笑顔を見つめながら、私は心の中で静かに思った。
(……やれやれ。今日もしばらくは、この『完璧なメイド』を演じ続けることになりそうだな)




