109 これはこれで良い件
「明日の朝食のパン、イチゴジャムにするか、マーマレードにするか……それが問題だ」
深夜の配信部屋。
私はメインモニターに映し出されたメモ帳ソフトを前に、腕を組んで真剣に悩んでいた。
配信のネタ出しも重要だが、明日の朝の活力も同じくらい重要である。
表面をカリッカリに、きつね色になるまで香ばしく焼き上げた厚切りのトースト。そこにたっぷりと乗せたバターが、熱でじゅわっと生地の奥まで染み込んだところへ、何を塗るか?
果肉がゴロゴロと入った、甘酸っぱく宝石のように艶やかなイチゴジャムをたっぷりと乗せてかぶりつくか。
それとも、柑橘の爽やかな香りとほのかな苦味がたまらない、キラキラと黄金色に輝くマーマレードを贅沢に塗りたくるか。
サクッという小気味よい音と共に、濃厚なバターの塩気とジャムの甘さが口の中でとろけ合う瞬間を想像しただけで、ごくりと喉が鳴る。
ああ、どちらも捨てがたい。
深夜になんて事を考えてるんだろ。お腹がすいちゃうね。
ふう、と息を吐き出して背伸びをする。
モニターに映ってるメモ帳ソフトには、次の配信でやろうと思っている企画の案や、遊べそうなゲームのタイトル、雑談のネタになりそうなトピックが箇条書きで並んでいる。
明日は私が確認する本のデータとかがPlan_Bの会社からもくるっぽいし、早めに寝るかな?
そう思いながら椅子から立ち上がった時、ふと気がついた。
「……あれ?なんだか静かだな」
普段なら、私が立ち上がって伸びをしたくらいのタイミングで、ドアの向こうからスッと気配がしたり、ひどい時にはドアの隙間から銀縁メガネが光って見えたりするのだが、今日は一切の物音がない。
静寂。ただひたすらに、普通の夜の静けさだ。
「雫がいない?珍しいな。買い出しとか、どこか出かけてるのかな?」
首を傾げながら、私は配信部屋のドアを開けて廊下に出た。
薄暗い廊下を見渡し、誰もいないことを確認してリビングの方へ歩き出そうとした、その時だった。
「――ここにおりますが?」
「うわあっ!?」
不意に背後から声をかけられ、私はビクッと肩を跳ねさせて思い切り飛び退いた。
振り返ると、そこには漆黒のロングメイド服に身を包み、銀縁メガネをかけた雫が、姿勢良くスッと立っていた。足音ひとつ立てずに、いつの間に背後にいたのだろう。
「な、なんだ、雫か。驚かさないでよ、心臓に悪いなぁ」
「申し訳ございません、彰様。背後からお声がけするなど、メイドとしてあるまじき失態でした。深くお詫び申し上げます」
雫は一切の乱れもない所作で、深々と頭を下げた。
……ん?
私はその様子を見て、微かな違和感を覚えた。
どう見てもいつもの雫だ。髪の艶も、銀縁メガネの奥の知的な瞳も、声のトーンも、寸分違わず雫そのものである。
だが、なんだか対応が……普通に、メイドっぽい。
いつもなら「彰様を驚かせてしまうとは、この命でお詫びを!」とか「むしろ彰様の驚くお顔も大変尊く……!」とか大げさだけど、そんな事を言い出しそうなものだが、今の雫はただ静かに、非常に礼儀正しく謝罪の姿勢を崩さない。
「あ、いや、別に怒ってるわけじゃないからさ。顔を上げてよ」
「寛大なお言葉、感謝いたします。……よろしければ、紅茶でもいかがですか?」
促されるまま、私はリビングへと案内された。
ソファに腰を下ろすと、雫は手際よくキッチンでお湯を沸かし、ティーカップを用意して戻ってきた。その一連の動作には無駄が一切なく、まるでお手本のようなメイドの立ち振る舞いである。
テーブルに置かれた紅茶からは、ベルガモットのとても良い香りが漂ってきた。
「ありがとう。いただくよ」
一口飲む。美味しい。温度も完璧だ。
しかし、紅茶を飲みながら私はチラチラと雫の方を盗み見ていた。
雫は私の斜め後ろにスッと立ち、静かに両手を前で組んで待機している。私の喉仏をガン見してくることもなければ、飲みかけの紅茶を狙うようなギラついた視線を感じることもない。
姿、形、声、動作。どこからどう見ても雫だし、なんの不都合もない。
ただ、なんだかいつもより大人しい。気のせいかな?
いや、こんなこと言っちゃいけないんだろうけど、少し不気味だ。
「いつもありがとう、雫」
私が改めてお礼を言うと、雫は静かに頭を下げた。
「もったいないお言葉でございます、彰様。ですが私はただ、職務を全うしているに過ぎません」
……やっぱり冷静だ。
いつもの雫なら、ここで「もったいないお言葉アァァ!!」と限界化して倒れるか、録音機を取り出して今の言葉をリピート再生し始めるはずだ。
もしかして、何か機嫌が悪い事でもあったのかな?それとも体調でも悪いんだろうか。
私は少し気を使って、なんとか場を和ませようと雑談を振ってみることにした。
「とんでもないよ。……そういえば、今日は天気が良かったね」
「はい。今朝は少し曇っておりましたが、昼には日差しが強くなり、洗濯物もよく乾きました」
普通だ。めちゃくちゃ普通の会話のキャッチボールができている。
これに気を良くした私は、先ほどまで配信部屋で悩んでいたことを相談してみることにした。
「実はさ、近々やる配信のことで色々考えてるんだけど、なかなか良い案が見つからなくてさ。雫は何か、良いゲームとか知らないかな?」
私の問いかけに、雫は少しだけ思案するように目を伏せ、丁寧な口調で答えた。
「どうでしょうか。私はメイドの身ですので、あまりそういった娯楽には疎く……。よろしければ、あずさ様にお尋ねになってみてはいかがでしょうか?あずさ様はゲームに大変お詳しいので、きっと彰様に合うものをご提案してくださるかと存じます」
「なるほど、それはそうか。社長はプログラマーだし、その手のことには詳しいもんね。明日聞いてみるよ」
的確なアドバイスだ。なんだか今日の雫は、本当に頼れる優秀な秘書みたいだ。
私は嬉しくなって、さらに質問を重ねた。
「あとさ、他に何かVチューバーとしてやってみたら良い事とかあるかな?企画のアイデアというか」
「そうですね……ネットラジオのような配信形式はどうでしょうか」
「ネットラジオ?」
「はい。彰様はとても良いお声をしておいでですから、ただお話しされるだけでも十分に需要があるかと存じます。……ただ、過激な内容や危険を伴うような企画だけは、控えていただきたいですが」
過激な内容のストップまでかけてくれるとは。完璧なマネジメント視点だ。
「なるほど、ネットラジオか。それ、良いかもね。ゲームばかりじゃなくて、雑談形式の配信みたいなのもありってことだね」
「はい。彰様の負担にもなりにくいですし、とてもよろしいかと存じます」
私は深く頷いた。
なんだこれ。なんだか、まともな雫と会話ができている。
普段の「彰様が息をしているだけで最高のコンテンツです!」みたいな狂信的な全肯定ではなく、論理的で建設的な会話だ。
それがたまらなく新鮮で、私はなんだかとても嬉しい気持ちになっていた。
すると、私の斜め後ろに控えていた雫が、ふと静かな声で問いかけてきた。
「彰様。ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
「ん?なに?」
「彰様は普段、お辛いことや大変なことなどはございませんか?男性として生きられるというのは、この社会において非常にご苦労が多いことと存じますので……」
思いがけない気遣いに、私は少しだけ目を丸くした。
「そうかなぁ……?でも、今はすごく楽しいよ」
「楽しい、でございますか?」
「うん。家の中にほとんど居る生活だけど、ネットを通じて色々できるしね。まだデータは見てないけど、これから同人関係の本とか色々な精査もあるからさ。いろんな人と繋がりが持てるのは、やっぱり楽しいよ。配信だってこれからいっぱいしたいしね」
私が笑って答えると、雫はほんの少しだけ首を傾げるようにして、言葉を紡いだ。
「……寂しいなどとお感じになることは、ございませんか?」
心配そうな、けれどどこか真摯な響きを持った声。
私は柔らかく微笑んで、首を横に振った。
「そんなことはないよ。たしかに両親は居ないけどさ、雫だって、あずささんだっているし。それに、ちょっと変わったお姉さんだっているからね。みんなが僕のために色々してくれてるんだから、寂しいなんて感じる暇もないかな」
「……左様でございますか」
「なんで急にそんな事聞いてみたの?」
私が尋ねると、雫は少しだけ伏し目がちになり、ぽつりと言葉をこぼした。
「私事でお恥ずかしいのですが、ここへ参る前までは……それはもう、とても過酷で大変な環境におりましたので」
「そ、そうなんだ」
「はい。ですから、今というこの平穏な日々が、私にとってはとても楽しく、満ち足りたものなのです。……ですので、私だけがこのように楽しんでしまって良いのだろうかと思い至りまして」
以前は過酷な環境に。
その言葉に、私は少しハッとした。そういえば、雫がうちに来る前、どんな仕事をしていたのか詳しくは聞いたことがなかった。
きっと、厳しいお屋敷でメイド長でも任されていたり、ものすごく過酷な労働環境で働いていたのかもしれない。それに比べれば、私のような一般人の世話など楽なものなのだろう。
「そうなんだ……今まで大変だったんだな。そこまでは考えてなかったかも」
なんだか少し、申し訳ない気持ちになった。
私のために毎日完璧に家事をこなし、あずささんとの連絡を取り次ぎ、配信の環境まで整えてくれている。そんな彼女が、「自分だけ楽しんでいいのか」なんて気に病んでいたなんて。
「気にしすぎだよ、雫。楽しい時は、思いっきり楽しんでいいんだよ」
「……よろしいのでしょうか」
「もちろん。雫が楽しんでくれてるなら、僕も嬉しいからさ。毎日サポートがんばってくれてるしね」
「……はい。ありがとうございます」
「だから、何か困ったことがあったり、欲しいものがあったら遠慮なく言ってね。僕にできることなら何でもするからさ」
私が温かい紅茶を飲み干しながらそう言うと、雫は表情ひとつ変えずに、スッと一歩前へ出た。
そして、静かで澄んだ声でこう言った。
「……それでは、お言葉に甘えまして。頭を撫でていただいてもよろしいでしょうか?」
「……えっ?」
「駄目でしょうか?」
こてん、と首を傾げる雫。
私は思わず紅茶を吹き出しそうになったが、なんとか堪えてカップを置いた。
「いや、駄目じゃないけど……本当にそれでいいの?」
「はい。お願いいたします」
雫はソファの横にスッと膝をつき、私の方に向けて少しだけ頭を下げた。
私は恐る恐る手を伸ばす。
いつもの雫なら、ここで私が手を伸ばした瞬間に「ああっ!彰様の聖なる御手が私のような下等生物の頭部にぃぃ!」とか言いながら気絶するか、限界化してバタバタと床を転げ回るのがオチだ。
触れた瞬間に爆発でもするんじゃないかと、私は内心ヒヤヒヤしながら、その艶やかな黒髪にそっと触れた。
サラリとした髪を、数回、優しく撫でる。
……爆発しない。気絶もしない。
雫はただ静かに目を閉じ、ジッとしているだけだった。
いつもなら奇声を発して床を転げ回るか、「ありがたき幸せっ!」と拝み倒してくるはずなのに。今日はおとなしく、まるで借りてきた猫みたいだ。
ごく普通に「よしよし」と頭を撫でているだけのこの状況が、いつもの彼女のテンションを知っている分、なんだかひどくむず痒い。
「……こ、こんな感じでいいの?」
私が少し誤魔化すように尋ねると、雫は「はい」と小さく頷き、ゆっくりと目を開けて立ち上がった。
限界化も狂乱もない。ただ、その銀縁メガネの奥の瞳が、ふわりと和らいで、どこか満足そうに見えた。
「それでは、飲み物を片付けさせていただきますね」
雫はお盆に空のティーカップを乗せると、流れるような動作でキッチンへと向かって歩き出した。そして、振り返りざまに私を見て、穏やかな声で付け加えた。
「彰様も、あまり夜更かしをなさいませんように」
「うん、わかった。おやすみ」
私は感心しながら、キッチンの奥へ消えていく彼女の背中を見送った。
すごい。今日の雫は、本当に完璧なメイドとして仕事をしている。落ち着いていて、有能で、ちょっとだけ甘え上手。
「まあ、そうだな。夜も遅いし、そろそろ寝るかな」
なんだかとても温かい気持ちになりながら、私は立ち上がって寝室へと向かった。
たまにはこういう、静かでまともな夜も悪くない。
明日の朝食は、少し贅沢にイチゴジャムとマーマレード、両方塗ってみるのもいいかもしれないな。
そんな平和な悩みを抱えながら、私は心地よい眠りにつくのだった。




