107 万病に効いた件
真っ白な天井と、規則正しく響く電子音。
私がこの無機質な病室から一歩も出られない体になって、もう何年が経つだろうか。
私の体を蝕んでいるのは、症例数が極めて少ない原因不明の難病だった。特定の遺伝子欠陥により、体内の細胞が自己修復力を失い、ゆっくりと崩壊していく病。激しい痛みはない。ただ、少しずつ全身の機能が落ちていき、静かに衰えて安らかに終わりを迎える。そう宣告されていた。
「悔しいですが……今の医学では、進行を遅らせる以上の手立てがないのが現実です。有効な治療法を示せない自分が本当に歯痒い……。無理な投薬で苦しめるより、残された時間を少しでも穏やかに過ごす選択肢も、主治医として考えなければならない段階なんです」
担当の先生は優しくそう言ってくれたけれど、二十代も半ばに差し掛かったばかりの私に、そんな達観ができるはずもなかった。
受け入れられるわけがない。もっと外の世界を歩きたい。もっと生きたい。
けれど、徐々に重くなっていく体は残酷なまでに現実を突きつけてくる。
ベッドの上でただ天井を見つめながら、私の心は少しずつ冷たく、薄暗い絶望へと沈み込んでいた。
それは、いつものようにベッドの上でSNSをあてもなくスクロールしていた時のことだった。
流れていく無数の投稿の中で、ふと見慣れないサムネイルに指が止まった。そこに映っていたのは、漆黒の燕尾服を凛々しく着こなす、気品あふれる執事の姿。
誰のポストから飛んできたのか、どんなリンクの経路を辿ってそのページに行き着いたのかは、今でもまったく思い出せない。まるで広大なネットの海で偶然見つけた隠し扉のように、私はただ不思議な引力に導かれるまま、軽い気持ちでその画面をタップしていた。
『こんにちは、フィンです。今回で3回目の配信になります。みんな元気ですか?僕は元気です』
低く、甘く、そしてどこまでも優しく響くその声が鼓膜を揺らした途端、ずっと氷のように冷え切っていた手足の先から、じんわりと温かい血が巡り始めたのだ。
ぽかぽかとした陽だまりのような熱が胸の奥に広がり、ずっと鉛のように重かった体が、嘘のように軽く感じられた。それはただの錯覚かもしれない。でも、その時の私には、干からびた土に恵みの雨が染み込んでいくような、明確な「生命力」の躍動があった。
私は震える指でタブレットをタップし、無我夢中でコメント欄に書き込んでいた。
『フィン様の声は万病に効く』
それは、痛切なまでの本心だった。
翌日の回診の時、私はその不思議な体験を担当医の先生に話してみた。
「先生、昨日たまたまフィン様っていう配信者の方の声を聞いたら、なんだかすごく体が温かくなって、やる気が出てきたんです。久しぶりに、ご飯も美味しく食べられました」
「ははは、そういうこともあるかもしれないね。好きなものを見つけて心が動くのは、免疫にとってもすごく良いことだから」
先生はカルテに目を落としたまま、微笑ましいものを見るような目で聞き流していた。
けれど、それから数日後のこと。
血圧を測りに来た先生の顔色が、以前よりもずっと血色が良く、心なしか肌ツヤまで良くなっていることに気がついた。
「先生、なんだか最近お元気そうですね?」
私が尋ねると、先生は少し気まずそうに周囲を見回し、声を潜めてこう言ったのだ。
「……実はね、君が言っていた『フィン様』の配信、私もこっそり見てみたんだ。そしたら驚くことに、長年の悩みだった慢性疲労が、嘘みたいに消えてね。なんだか最近、朝起きるのがすごく楽しみなんだよ」
先生と私は顔を見合わせ、思わずふふっと笑い合った。気のせいじゃない。あの声には、絶対に何かがある。
そして、運命の日が訪れる。
フィン様が、ファン待望の『ASMR』をたったのワンコインで発売したのだ。
私はなんとかデータを購入し、ノイズキャンセリングのヘッドホンをしっかりと耳に装着して、目を閉じた。
『……おはようございます、お嬢様。……まだお布団の中ですか?』
『もう、今日は大切なご予定がある日なんですから、いつまでもそうして甘えていてはダメですよ』
耳元で直接囁かれた、その極上の低音。
直後、目の前が真っ白に弾け飛んだ。
心臓がけたたましく鳴り響き、ナースステーションと繋がっている生体モニターが警告音を鳴らし始めた。息ができない。体が熱い。細胞の一つ一つが沸騰するような強烈な感覚に襲われ、私はそのまま意識を深い闇へと手放してしまった。
「――っ!気づいたかい!?大丈夫か!?」
目を覚ますと、血相を変えた先生が私を覗き込んでいた。酸素マスクをつけられ、周囲には見慣れない点滴がいくつもぶら下がっている。
「私……どうなったんですか……?」
「ショック状態に陥ったんだ。だが……信じられないことが起きている」
先生は震える手で、私の最新の検査データが映ったモニターを指差した。
「君の細胞が、異常なまでの活性化を起こしている。失われていた細胞の自己修復力が、強烈な刺激を受けて強制的に引き出されているんだ。危ない状態になったんじゃない。細胞が爆発的に再生しようとして、体が一時的にパニックを起こしただけだったんだ……!」
「修復……?私の体が、良くなってるってことですか……?」
「こんなこと、現代の医学ではあり得ない。なんでこんなことが起きるんだ……!?」
先生は頭を抱えて病室を歩き回った。本来なら世界的な医学の快挙としてすぐにでも学会に発表すべき事態だ。しかし、原因が「男性VチューバーのASMR音声」などと発表できるわけがない。そもそも男性が関わる事案はこの女性ばかりの社会においてデリケートすぎるし、医療として確立するにはあまりにも時期尚早で、荒唐無稽すぎた。
「……君の話を聞いて、君の体はこの奇跡を起こした」
先生は立ち止まり、真剣な眼差しで私を見た。
「そこで提案なんだが。もし君が了承してくれるなら……このまま、あのASMR音声をひたすら聴き続けてみるというのはどうだろうか。もちろん、全力で君の体調は管理する」
「ASMRを……ずっと、ですか?」
「ああ。こんな変な治療法、他の医者が聞いたら私を精神科に送るだろうがね」
「寝ながら聴けるし、いいですよ。それに……フィン様の声なら、ずっと聴いていたいので」
私は少しだけ笑って頷いた。
かくして、前代未聞の『ASMR連続聴取療法』がスタートした。
毎日毎日、起きている時も眠る時も、私はフィン様の声を細胞の隅々まで染み込ませた。
『お顔を洗って、すっきりと目を覚ましてください。私は下のキッチンで、温かいスープと朝食の準備をしてお待ちしておりますから』
無機質な病室のベッドの上で、私はヘッドホンに手を添えてうっとりと目を細めた。その声を聞くたびに、体調はみるみるうちに良くなっていった。
しかし、数日経った頃から奇妙な副作用が現れ始めたのだ。
「ごきげんよう、先生。まあ、なんて素晴らしい朝ですの。今日もフィン様が淹れてくださった紅茶の香りがいたしますわ」
「……おはよう。ええと、紅茶は出ていないが……」
「あら、先生には見えませんの?あちらの窓辺で、フィン様が私に向かって優しく微笑みかけてくださっていますわ」
自分でも何が起きているのか分からなかった。
口を開けば、なぜか勝手に完璧なお嬢様言葉が飛び出してくる。おまけに、部屋の隅に燕尾服姿のフィン様の幻覚まで見えるようになってきたのだ。
(どうしよう、私が私じゃなくなっていく……!)
自分が完全にイカれた狂信者のお嬢様に書き換えられていくような感覚に、私はパニックになりかけた。
しかし、血液検査の結果を持ってきた先生は、興奮気味にこう言ったのだ。
「大丈夫だ、恐れることはない!このお嬢様化現象は、おそらく一時的なものだ! むしろ『良い兆候』も含まれている!」
「ほんとですの!?あ、いえ、本当ですか!?私の頭がおかしくなったわけじゃないんですか!?」
「ああ!我々の遺伝子には元々、解明されていない未知の欠陥があるという仮説があってね。急速に細胞が修復される過程で、あの音声を聴き続けたせいで脳が強烈な錯覚を起こしているんだと思う。言わば過剰反応のようなものだね。血液検査の数値は、信じられないくらい良好だ。体調は、確実に良くなっていっているぞ!」
そう言って熱弁を振るっていた先生だったが、ふと我に返ったように肩の力を抜くと、苦笑いを浮かべた。
「……でもね、ここだけの話なんだけど。いやあ、参ったよ」
先生は疲れた手つきでメガネを押し上げ、私の最新の検査データを提示してきた。
「君の数値があまりにも回復しているものだから、他の科の先生たちに『隠れて未承認の特効薬を使っただろう!』って吊るし上げられそうになってね。さすがに『VチューバーのASMRです』とは言えなかったよ……」
頭を抱える先生の姿に、私は思わずクスッと笑ってしまった。
でも、同時に胸の奥が熱くなる。他の医者たちが秘密の特効薬だと疑うほどの劇的な変化。……それなら、もう疑う余地なんてどこにもない。
病気が良くなる。
その希望の光は、私から一切の迷いを消し去った。
幻覚が見えようが、言葉遣いがお嬢様になろうが構わない。私は生きるんだ。
それから数週間。
奇跡は、ついに完全に形となった。
再検査の結果、私の遺伝子から崩壊の兆候は完全に消え去っていた。健康な同年代の女性と比べても、まったく遜色のない……いや、むしろそれ以上に活力に満ちた完璧な数値が並んでいた。
「……消えたよ。君の病気は、完全に消滅した」
カルテを持つ先生の手は、微かに震えていた。
私はベッドの上で顔を覆い、何年ぶりか分からない、嬉し涙をボロボロとこぼした。
「勘違いしないでほしいのは、これは決して魔法じゃないということだ」
先生は優しく私の肩に手を置いた。
「今まで君が耐え抜いてきた投薬の土台があった。そして何より、君自身が『生きたい』という希望を絶対に捨てなかった。そのギリギリのバランスのところに、彼の声という規格外の触媒が飛び込んできて、君の免疫システムが限界を超えたんだ。君の心が、体を治したんだよ」
「先生……っ、ありがとうございます……!」
「私じゃない。彼と……君自身の力だ」
窓の外には、抜けるような青空が広がっていた。もうすぐ、あの外の世界を歩くことができる。自分の足で。
しかし、先生の表情はどこか思い詰めたように引き締まっていた。
「君の体調がここまで良くなったことは本当に喜ばしい。だが……これはまだ、君というたった一人のケースに過ぎない。データとして、あまりにも症例が足りなすぎるんだ」
先生は白衣のポケットに手を突っ込み、窓ガラスの向こうを見つめた。
「もし、彼の声が本当に遺伝子レベルの病に干渉できるのだとすれば……これをこのまま埋もれさせるわけにはいかない。まだ時期尚早かもしれないが、やるしかないだろうな」
「先生……?」
「ああ。この件について、彼の配信を管理しているという企業……『Plan_B』に、直接コンタクトを取ってみることにするよ」
新たな波乱の幕開けを予感させる先生の横顔を見つめながら、私はそっとタブレットを手にとった。
自分の体に起きた奇跡。その理由のすべてに、私は心から深く納得していた。
迷うことなく、SNSの画面にたった一言だけ言葉を打ち込む。
『フィン様の声は、万病に効くよ』
送信ボタンを押すと同時に、ふっと耳元で温かい気配が揺れた。
視線を向けると、陽光が差し込む窓辺で、漆黒の燕尾服を纏ったフィン様が優しく目を細め、静かに胸に手を当てて一礼していた。
『それは何よりでございます、お嬢様』
脳裏に直接響いてくるのは、私に命と明日をくれた、世界で一番優しくて尊い執事の声だった。




