第7章 出向メンバー決定
通知は、
午後二時四十三分に届いた。
件名は簡潔で、感情の入り込む余地がなかった。
Project Lacta関連出向候補者への面談実施について
彩佳はその文面を開き、最初の一行を読み終えたところで、指先の感覚が少しだけ遠のくのを感じた。
石井彩佳 様
本日十五時より、人事課会議室にて個別説明を実施します。
関係資料の説明および意思確認を行いますので、上司または監督員と共に指定時刻にお越しください。
その下に、形式的な注意事項が並んでいる。
秘密保持。
関係者以外への共有禁止。
時間厳守。
どれも当たり前の文言だ。
けれど、そのすべてが、この面談がただの人事上の確認ではないことを逆に示していた。
彩佳はゆっくりと息を吸った。
文面は社内端末の人事通知として届いていた。
オンライン専用端末の速報画面では、そのすぐ横で別の世界が動いている。
NV-40感染症、国内死者数三十三人。
変異株流行、都市部で再拡大。
彩佳は反射的にその見出しを見てしまい、すぐに視線を戻した。
見てはいけないわけではない。
だが、今この通知と並べて見るべきではないと、頭のどこかが分かっていた。
その時、内線が鳴った。
ほとんど反射で受話器を取る。
「はい、広報課です」
『人事課です。佐山さんいらっしゃいますか』
少し離れた席で資料を見ていた佐山が、彩佳の声だけで察したように顔を上げた。彩佳は受話器を手で覆い、小さく言う。
「人事です」
佐山は立ち上がり、受話器を受け取った。
「はい、佐山です」
短いやり取りだった。内容はほとんど声の調子だけで分かる。
確認、了解、今から向かうという返答。
電話を切ったあと、佐山は受話器を置き、彩佳を見た。
「石井さん」
声はいつもより少し低い。
「人事課から。今から来てほしいそうです」
彩佳は静かに頷いた。
「はい」
それ以上の会話はなかった。
必要がなかったとも言える。
もう二人とも、この呼び出しが何のためか分かっていた。
デスクの上の資料を揃え、彩佳は椅子を押し戻した。
立ち上がると、広報課の空気が妙に遠く感じる。
コピー機の音、キーボードの打鍵音、誰かの短い電話対応。どれもつい数秒前まで自分の一部だったはずなのに、今は別の部屋の音みたいだった。
ふと視線を感じて顔を上げると、早苗がこちらを見ていた。彩佳が目を合わせると、早苗はすぐに逸らさなかった。
知っている目だった。
彩佳はそのことに気づきながらも、何も言わずに歩き出した。
エレベーターで三階へ上がる。
密閉された小さな箱の中で、佐山は壁際に立ったまま何も言わなかった。
彩佳も沈黙した。
無言でいることが苦しいわけではない。
今は言葉の方が軽くなる気がした。
三階に着くと、人事課の前には人の気配が少なかった。
いつもなら電話の声やコピー機の音が聞こえる場所なのに、今日は妙に静かだ。
案内された会議室は、課の奥にある小さな部屋だった。
白いテーブルと椅子、壁際の収納棚、それから細長い窓がひとつ。
窓の外には、敷地の奥にある設備棟の一部が見えた。低いコンクリートの建物と、その上に伸びる排気塔。地下のB2生産ラインにつながる設備だと、前に佐山から聞いたことがある。地下で処理された母乳が、あの下を通って製品になる。
今日の空は薄曇りだった。白っぽい光の中で、排気塔だけが妙にくっきり見えた。
人事課長がテーブルの向こうに座っていた。
いつもの穏やかな表情だが、さすがに今日の場では笑みは薄い。
「石井さん、佐山さん。お忙しいところありがとうございます」
机上に置かれた薄い資料ファイルが二人分。
表紙にはProject Lacta関連出向候補者説明資料とある。
彩佳は席についた。
課長は事務的な口調で説明を始めた。
「ご存じの通り、現在、NV-40感染症への対応として国家主導の供給体制強化が進められています。その一環として、ガイア製薬における関連試験へ、当社からも協力者を出すことが決定しました」
その言葉は、想定していた内容だった。
だが、実際に口にされると、現実は急に硬さを持つ。
「石井さんは、その被験者候補として選定されています」
候補、という言葉はやわらかい。だが他に逃げ道を与えるためのやわらかさではなく、手続き上そう言うしかないから使っているだけの言葉だと分かる。
「もちろん、本人意思の確認を行います」
課長は続けた。
「出向を断ることもできます」
その一文だけが、やけに整って聞こえた。
彩佳は窓の外に目を向けた。
設備棟。
排気塔。
地下で処理される雫。
何度も見てきた景色だ。
だが今日は、その下に自分が流れていくような感覚があった。
もし必要なら。
その考えは、もう何度も繰り返してきた。
彩佳は顔を上げた。
「……行かせてください」
会議室の空気が一瞬だけ止まる。
課長が少しだけ眉を動かした。
「石井さん、まだ説明の途中です」
「はい」
「正式な意思確認は明日の朝に行います。今日は資料を持ち帰らず、この場で確認していただくだけです」
それでも彩佳の表情は変わらなかった。
「わかりました」
課長は数秒黙ったあと、穏やかな声を戻した。
「この部屋はしばらく使って構いません。必要なら関係者も呼びます」
そう言って立ち上がり、会議室を出ていった。
扉が閉まる。
会議室に残ったのは、彩佳と佐山だけだった。
佐山はしばらく何も言わなかった。人事課長が完全に離れたのを確認してから、ようやく彩佳へ向き直る。
「……本当に行くの?」
その問いは、上司の確認ではなく、ほとんど個人的な願いに近かった。
彩佳は少しだけ視線を落とし、それから正面を見た。
「必要なら」
「それ、答えになってない」
「でも、必要だから呼ばれたんですよね?」
言いながら、自分の声がやけに落ち着いているのを彩佳は不思議に思った。
緊張していないわけではない。怖くないわけでもない。
けれど、怖さより先に“行くべき理由”の方が立ってしまう。
「人が助かるなら、行きたいです」
その言葉が出た瞬間、扉がノックされた。
「失礼します」
入ってきたのは上原だった。白衣ではなく、医務課からそのまま来たのかスクラブの上に薄いカーディガンだけを羽織っている。手にはタブレット。
「呼ばれたので」
状況は一目で察したらしい。会議室の空気を見て、短く息をついてから席につく。
「もう説明は?」
「一通りは」
佐山が答える。
「石井さんは行くつもりらしいです」
上原の視線が彩佳に向く。その目には責める色はなかった。ただ、医師としての静かな困惑と警戒がある。
「石井さん」
「はい」
「率直に言います」
上原はタブレットを机に置いた。
「私は、この試験の安全性が十分に担保されているとは思っていません」
はっきりした言い方だった。
「担当医としてではなく、私個人の意見としても、お勧めできません」
彩佳は黙って聞いていた。
佐山も何も言わない。
会議室の中に、三人分の沈黙が一度だけ落ちる。
その時、また扉がノックされた。
少し強めの音だった。
佐山が眉を寄せる。彩佳の胸の奥が小さくざわつく。
扉が開き、そこに立っていたのは早苗だった。
経理課のままの服装。表情は硬い。
だが、その目だけが妙に決まっていた。
「……いた」
部屋の空気が一瞬にして変わる。
「早苗?」
彩佳が思わず立ち上がりかけると、早苗はそのまま扉を閉めた。
「私も呼ばれた」
短く、それだけ言う。
佐山と上原が視線を交わす。上原の目がわずかに細くなった。
「高橋さんも?」
早苗は頷いた。
「さっき別で説明された。被験者候補だって」
彩佳は声を失った。
自分のことばかり考えていたわけではない。
だが、どこかで彩佳は、自分が中心だと思っていたのかもしれない。
必要なら、自分が行けばいい。そう考えることで、話を単純にしていた。
けれど実際には違う。
他にも、選ばれる人がいる。
他にも、巻き込まれる身体がある。
「本当は」
早苗は机の端に手をついたまま言った。
「行きたくない」
それは、たぶんこの部屋で最も正直な言葉だった。
「全然行きたくないし、できれば断りたいし、こんなの意味分かんないって思ってる」
彩佳は早苗を見つめた。早苗は視線を逸らさない。
「でも」
そこで初めて、その声が少し揺れた。
「彩佳を一人で行かせるのも嫌」
その一言に、彩佳の胸の奥で何かが小さく崩れた気がした。
早苗は合理的だ。現実的だ。損得で考える。怖いものは怖いと言う。無駄だと思うことは嫌う。
だからこそ、その早苗が今ここで言った言葉は、彩佳が今まで自分に向けていた“必要”という言葉より、ずっと強い重さを持っていた。
「断ったら」
彩佳はゆっくり言った。
「他の誰かが行くんだよね」
その問いに、上原も佐山も、すぐには答えられなかった。
答えないということが答えだった。
会議室の中に静かな沈黙が流れる。
彩佳はその沈黙を見つめるようにしてから、小さく息を吐いた。
「なら、私が行きます」
上原が何か言いかける。だが彩佳はそれより先に続けた。
「必要なら行きます」
その声は、自分でも不思議なくらい落ち着いていた。たぶんもう、怖さと覚悟の境目がよく分からなくなっているのだ。
早苗は苦い顔をした。
「そういう言い方すると思った」
「ごめん」
「謝るなら最初から言わないで」
それでも、早苗の声には呆れだけではない感情が混ざっている。怒り、不安、そして諦めきれない何か。
佐山は三人を順に見て、それから低い声で言った。
「……わかった」
その一言に、会議室の空気がまた少し変わる。
「でも、この出向には医師と看護師が付きます」
彩佳が顔を上げる。
佐山はまっすぐに言った。
「だから、彩佳さん」
もう、最初からその呼び方だった。
「私も行く」
その言葉は静かだったが、決定だった。
上原は一度目を閉じ、短く息を吐いてから続けた。
「担当医も必要です」
表情は苦い。だがそこに迷いはなかった。
「私も行きます」
早苗は目を伏せたまま、ぽつりと言った。
「……最悪」
誰に向けた言葉でもないようでいて、この状況すべてに向けた言葉だった。
それなのに、少しだけ救われる響きもあった。
怖くて、行きたくなくて、それでも一人ではないと分かる種類の言葉。
窓の外では、設備棟の排気塔から今日も白い蒸気が上っていた。
地下で処理される雫。
数字にされる雫。
必要だと呼ばれる雫。
その流れの中に、いま四人の名前が静かに組み込まれようとしている。
石井彩佳。
高橋早苗。
そのほか、まだこの場にいない二人。
そして医師二名、看護師二名。
誰も大声は出さなかった。
誰もドラマのように決意を叫んだりしなかった。
ただ、静かに決まっていった。
こういう時、物事は案外あっけなく動く。
人生が大きく曲がる瞬間ほど、音はしない。
会議室の扉の向こうでは、人事課の通常業務が続いている。
電話の声、コピー機の音、誰かが書類を運ぶ足音。
会社は何事もない顔で回り続ける。
その中で、彩佳は初めて、自分の選択が自分一人のものではなくなったことを知った。
必要だから行く。
その言葉は、もう自分だけに向けていればいいものではない。
早苗がいて、佐山がいて、上原がいる。
それでも止められないなら、これは本当に必要なのか。
あるいは、必要だと言われれば何でも通ってしまうのか。
その答えはまだ出ない。
ただ一つ確かなのは、もう戻れないということだけだった。
影は、もう名前を持っていた。
そして今、その影の中へ、自分たちの方から足を踏み入れようとしていた。




