第8話 境界の内側
出発の朝は、驚くほど普通の顔をして始まった。
寮の食堂にはいつも通り朝食が並び、味噌汁の湯気が上がり、白いご飯の匂いがしていた。
テレビではNV-40感染症の朝のニュースが流れている。
感染が確認された地域
死者数
専門家の短いコメント
ここ数か月、毎日のように見てきた画面だ。
だからこそ、誰も真正面から見ない。
彩佳はトレーを持って席につき、向かいの早苗を見た。
早苗は朝から無表情だった。
無表情というより、表情を作らないようにしているのだろう。
箸を持つ手は安定しているのに、目だけが妙に鋭い。
「寝た?」
彩佳が小さく訊くと、早苗はご飯を一口飲み込んでから答えた。
「寝てない」
「少しも?」
「二時間」
短い返答のあと、逆に問い返される。
「彩佳は」
「……それなりに」
「嘘」
即答だった。
彩佳は少しだけ笑ったが、否定はしなかった。
昨夜は眠ったというより、気を失うみたいに意識が途切れただけだ。
起きるたびに時計を見て、もう今日なんだと思った。
食堂の端では茉莉が落ち着かない顔でこちらを見ていた。
見送りたいのに、どこまで近づいていいのか分からない、という顔。
その少し向こうで、大沢と森下が朝食を取っている。
大沢は静かだった。
緊張していないわけではないが、今ある状況をいったん受け止めてから考える人の静けさだった。
森下は逆に、内側の揺れが表に出る。
箸の持ち方、座り直す回数、浅くなる呼吸。
理想や意味を信じたい気持ちと、自分がそこへ入っていく怖さが同時に出ていた。
同じ“被験者”でも、四人の空気は少しずつ違う。
食堂の入り口近くに立っていた佐山が、全員を順に見た。
ラクトのジャケットの上に薄手の上着を重ねている。今日は広報課の上司ではなく、同行する看護師の顔だった。
少し離れて、
上原と河合が短く言葉を交わしている。
上原はいつも通り静かだが、視線の動きが速い。
河合は穏やかなまま、必要な確認だけをしているように見えた。
佐山が時計を見て言った。
「そろそろ出ます」
それだけで、食堂の時間が終わった。
彩佳はトレーを片付け、自室へ戻って荷物を持つ。
持ち出す私物は驚くほど少ない。
着替え、
洗面道具、
充電器、
本を一冊。
滞在期間はまだはっきり決まっていないのに、最初から最低限しか持っていけないことが、もう少しだけこの出向の性質を言っていた。
部屋を出る前、彩佳は一度だけ振り返った。
ベッド、机、カーテン、壁。いつもの部屋。
けれど、次にここへ戻ってきた時、同じ意味で見られる気はしなかった。
隣室の扉が開き、早苗が出てくる。
肩にバッグをかけ、片手に荷物を持っている。
鍵を閉める手つきが少しだけ硬い。
「行こう」
その一言で歩き出そうとした時、廊下の向こうから小走りの足音がした。
「ま、待ってください!」
二人が振り向くと、茉莉がスマートフォンを片手に立っていた。
息が少し上がっていて、髪もわずかに乱れている。
ここまで急いで来たのがすぐ分かった。
「どうしたの、茉莉ちゃん」
彩佳が言うと、茉莉は口を開きかけて、すぐには言葉が出なかった。
「あの、その……」
沈黙が落ちる。
張り詰めた朝の空気の中で、その言い淀み方はひどく茉莉らしかった。
「……写真、撮りたくて」
「写真?」
早苗が少しだけ眉を上げる。
茉莉は慌てて頷いた。
「い、今じゃなくてもいいんですけど、でも、なんか……」
説明になっていないと自分でも分かったのだろう。耳まで赤くなっていく。
「三人で撮ったこと、まだなかったなって」
その言葉は、半分は本当で、半分は咄嗟の言い訳だったのだと思う。気まずい空気を少しでも普通の方へ戻したかったのだろう。
今日が特別すぎるからこそ、逆にどうでもいいことみたいな言葉を持ってきたのだ。
彩佳は思わず少し笑った。
「急に?」
「すみません」
「なんで謝るの」
「いや、なんか……変なタイミングかなって」
「変」
早苗が即答した。
茉莉の肩がびくっと揺れる。
「ですよね、ごめんなさ——」
「でも、撮る」
続いたその一言に、今度は彩佳の方が目を瞬いた。
早苗は相変わらず不機嫌そうな顔のまま、茉莉のスマホを見た。
「早くして。佐山さん待たせてるから」
「は、はい」
茉莉は慌てて画面を開き、廊下の壁際で立ち位置を探す。
彩佳と早苗が並び、その少し横に茉莉が入る。
三人ともこういう時に自然に肩を寄せられるタイプではなく、距離感が少しぎこちない。
「もっと寄ってください」
茉莉が小さく言う。
「これじゃ入らないです」
「十分入るでしょ」
「高橋さん、端です」
「じゃあ彩佳が寄って」
「え、私?」
そんなやり取りをしているうちに、少しだけ空気が和らいだ。
茉莉は腕を伸ばし、画面を確認する。
「……撮ります」
その瞬間、彩佳は画面の中の三人を見た。
自分。
早苗。
茉莉。
いつもの寮の廊下。
いつもの白い壁。
いつもの朝。
なのに、もう同じ朝ではない。
「はい」
小さな電子音が鳴る。
一枚。
それだけの写真だった。
茉莉はすぐには画面を下ろさなかった。
撮れた写真を見て、ほんの少し目を細める。
「……よかった」
その言い方があまりにも本音で、彩佳は胸の奥が少しだけ熱くなった。
「あとで送っといて」
早苗が言う。
「はい」
茉莉は頷いて、それから二人を見た。
「いってらっしゃい、って言うの、変ですかね」
その問いに、早苗は少しだけ口元を歪めた。
「変」
「やっぱり」
「でも、まあ……それでいいんじゃない」
茉莉は困ったように笑って、スマホを胸の前で握った。
「じゃあ……いってらっしゃい」
彩佳は、その言葉に少しだけ救われる気がした。
「行ってきます」
早苗は何も言わなかったが、ほんの少しだけ手を上げた。
廊下の向こうで、佐山の足音が近づいてくる。
「石井さん、高橋さん」
呼ばれて、二人は同時に振り向いた。
「そろそろ本当に出ます」
「はい」
彩佳は答える。
歩き出す前に、もう一度だけ茉莉を見る。
茉莉はその場に立ったまま、小さく会釈した。
たぶん自分でも、どうして写真を撮りたかったのか、うまく説明できないのだろう。
ただ、今日がただ怖いだけの記憶にならないようにしたかったのかもしれない。
寮の玄関を出ると、朝の空気は少し湿っていた。
ラクト・セラムの敷地内はいつも通り整然としていて、設備棟の排気塔からは白い蒸気が上がっている。
会社は今日も普通に動いている。
搾乳も、
検査も、
生産も止まらない。
その中から、自分たちだけが少し切り取られて運ばれていく。
正面玄関脇には、黒いワンボックスの社用車が停まっていた。
普通の送迎車より少し窓が暗い。
後部座席に被験者四人と佐山と清水、別車両に上原と河合という配置だった。
車内は、乗り込んだ直後から妙に静かだった。
最初の十分ほど、誰も何も言わない。
窓の外には見慣れた街の景色が流れていく。
コンビニ、
交差点、
学校の脇道、
配送トラック。
日常の景色なのに、自分たちだけがそこから少し浮いているように感じる。
森下が最初に口を開いたのは、街を抜けて幹線道路へ出た頃だった。
「……こんなにちゃんと連れて行かれると、ちょっと怖いですね」
半分冗談みたいな言い方だったが、誰も笑わなかった。代わりに大沢が小さく頷く。
「会社の研修とかじゃない感じしますよね」
「研修じゃないからね」
早苗が窓の外を見たまま言う。
その一言がいちばん現実的だった。
彩佳は膝の上に置いた手を見た。
まだ緊張しているのか、少しだけ指先が冷たい。
けれど頭の中は不思議と静かだった。
もう決まったのだと思うと、怖さより先に“引き返せない”が残る。
「大丈夫?」
隣の早苗が小さく訊く。
「うん」
「うそ」
「ほんと」
「顔色、あんまり良くない」
その指摘に、彩佳は苦笑した。
「早苗も」
「私はいいの」
即答だった。
少し間を置いてから、早苗はさらに小さな声で付け足した。
「……本当は行きたくないし」
その言葉は、前に会議室で言った時よりもずっと本音だった。
「全然行きたくない」
彩佳は返事に困った。
自分だって怖い。
けれど行きたくない、とはどうしても言えない。
必要なら、という言葉が先に立ってしまう。
代わりに出たのは、ひどく弱い言葉だった。
「……ごめん」
「なんで彩佳が謝るの」
早苗はため息をついた。
「そういうとこほんとに嫌」
その“嫌”の中に、怒りだけじゃないものが混ざっているのを彩佳は知っていた。
怖いのだ。
自分のことも、
彩佳のことも、
その先にあるものも。
車は高速道路へ入った。窓の外の景色が速く流れていく。
空は曇っていて、海に近づくにつれて光が平たくなる。
湾岸研究都市の一角に建つガイア製薬免疫研究センターは、遠くから見るとガラスと白い外壁でできた、いかにも先端施設らしい建物だった。
整いすぎていて感情がない。
正面に着くと、自動扉の前には既に倉持慶子が立っていた。
ネイビーのスーツに細いヒール、首から下げたIDカード。表情は柔らかくも冷たくもない。
ただ、きちんと受け入れ担当者の顔をしている。
「お待ちしておりました」
第一声から事務的だった。
「本日より、Project Lacta関連試験参加者および同行スタッフの受け入れを行います。順に案内しますので、こちらへ」
その言い方に、歓迎の温度はなかった。
歓迎ではなく、受け入れ。
客ではなく、対象。
自動扉の向こうは明るく、冷房がよく効いていた。
床は光沢のある淡いグレー。
壁は白。天井の照明は均一で、影が少ない。
病院というより、研究所か、企業の開発棟に近い。
受付横のセキュリティゲートが見えた瞬間に、ここが自由に出入りする場所ではないと分かる。
「ここから先は認証エリアです」
倉持はタブレットを見ながら言う。
「被験者の方は行動範囲に制限がありますので、後ほど改めて説明します」
その言葉で、早苗の口元がわずかに固くなるのが見えた。
手続きは無駄なく進んだ。
ID登録、持ち込み物の確認、最低限の説明。
すべてが整っている。
整いすぎているからこそ、ここでは人が少しずつ対象へ変換されていくのだと感じる。
名前はIDに変わり、荷物は管理対象になり、行動は予定表の中へ入れられていく。
二階に上がるエレベーターの中で、彩佳はガラス越しに見える吹き抜けを見下ろした。
白く明るい空間は一見開放的なのに、不思議と息が詰まる。ラクト・セラムの本社とは違う。
あっちには管理の中にも働く会社の匂いがあった。
ここには生活の濁りがない。
二階の一角で、短いオリエンテーションが行われた。
倉持が説明し、ガイア側医師の滝沢が立ち会い、必要なところだけ河合と上原が確認して補足する。
「被験者の方々は原則として三階被験者臨床フロアを中心に行動していただきます」
倉持の声は最後まで乱れなかった。
「通常業務はありません。試験スケジュールに従って、投与、観察、搾乳、面談、評価を行います。群情報は共有管理対象ですので、被験者間での詳細なやり取りは控えてください」
“控えてください”という柔らかい言い方の裏に、“認めない”があるのを早苗はすぐに感じ取ったらしく、顔を上げた。
「群って、本人にはどこまで説明されるんですか」
倉持はタブレットから目を離さずに答える。
「必要範囲は説明済みです」
「必要範囲って何ですか」
「運用上必要な範囲です」
きれいな押し返し方だった。
記録上は何も問題がない。
だが、対話にはなっていない。
早苗が何か言い返しかけた時、河合が静かに横から入った。
「高橋さん、不明点はあとでこちらで確認しましょう」
早苗は不満そうにしながらも、それ以上は言わなかった。
説明が終わると、倉持は三階へ案内した。
認証扉の先にある被験者臨床フロアは、想像していたより静かだった。
南側に認証前室とEVホール。
中央に一本通ったメイン廊下。
廊下の片側に洗面、トイレ、シャワー、リネン室。
少し奥に共有ラウンジ。
さらに東寄り奥に、面談室、観察室、処置室、急変初期対応室、スタッフステーション。
そして北側の窓面に、被験者個室が並ぶ。
生活空間の形をしているのに、全部が監督下にある配置だった。
佐山は入った瞬間から、目線の動きが変わった。
個室からラウンジまでの距離。
ラウンジから観察室への導線。
処置室と急変初期対応室の位置。
スタッフステーションからどこまで見えるか。
上原も同じように、最初に医療区画を見る。
滝沢の説明を聞くより先に、必要な設備が足りているか、何が足りないかを見ている。
「被験者個室はこちらです」
廊下を進む。
301、石井。
302、高橋。
303、森下。
304、大沢。
305と306は予備、あるいは隔離用だと説明された。
彩佳と早苗は隣室だった。
それだけで少しだけ救われる気がした。
完全に一人ではないというだけの、小さな救い。
個室の中は病室に似ていた。
ベッド、簡素な机、最低限の収納、壁掛けの端末。
清潔で整っているのに、生活の匂いがほとんどしない。
滞在のための部屋というより、観察のための箱だ。
「思ったより普通」
大沢がそう言った。
「もっとすごく実験室みたいなの想像してた」
「普通に見えるようにしてるだけかも」
早苗がすぐ返す。
森下は部屋の中を見回しながら小さく言った。
「病院みたい……」
「病院よりやだ」
早苗のその一言に、彩佳は少しだけ苦笑した。
だが本音では意味が分かる気もした。
病院なら人を治す場所だと分かる。
ここはそう単純ではない。
そのあと案内された研究用搾乳室で、その違いは一気にはっきりした。
入口でIDを読み込み、前室で体重と血圧を取る。
簡易更衣スペースを抜けると、リクライニング型のチェアが並び、壁際に記録端末、奥にはガラス越しの研究員ブース。
カーテンはあるが簡易で、ラクトの搾乳室より“見られている”感じが強い。
明るすぎる照明と低めの室温が、身体を落ち着かなくさせた。
そこにいた野上兼治が端末を操作しながら振り向いた。
「本日から搾乳セッションを担当します。手順はラクトと大きくは変わりませんが、一部記録項目が増えますので、説明します」
口調は機械的だった。
悪意はない。
だが配慮のために言葉を選ぶタイプでもない。
彩佳はその声を聞きながら、ここがラクトとは違うと改めて思った。
ラクトの搾乳室は無機質でも、そこに“働く社員の場所”という前提があった。
ここには最初から、その前提がない。
佐山が一歩前へ出た。
「更衣の導線は?」
野上が答える。
「奥に簡易スペースがあります」
「簡易?」
「試験用なので、必要最低限です」
その一言で、佐山の表情がほんのわずかに変わったのを彩佳は見た。だがここではまだ何も言わない。視線だけが冷える。
見学を終え、各自の個室へ戻る頃には夕方になっていた。
荷物を片付ける音が廊下の向こうから小さく聞こえる。
スタッフステーションでは佐山と清水が記録確認をしている。
上原は処置室と急変初期対応室をもう一度見て回り、河合は倉持とスケジュールを確認していた。
彩佳はベッドに腰掛け、壁に寄りかかった。
静かだった。
あまりにも静かで、空調の音だけが大きく感じる。
ラクトの寮なら、隣室の気配や廊下の足音や、食堂から上がってくるテレビの音があった。
ここにはそれがない。
あるのは管理された静けさだけだ。
ノックの音がして、早苗が顔を出した。
「……生きてる?」
「それどういう確認」
「なんとなく」
早苗は部屋の中へ半歩だけ入った。
隣室だから、こうして顔を出せる。それが少しだけ日常に近い。
「本当にさ」
早苗は低い声で言った。
「ここ、嫌」
「うん」
「病院より冷たい」
彩佳は答えずに頷いた。
早苗は少しだけ視線を揺らしたあと、最後に言った。
「でも、隣でよかった」
その一言に、彩佳は笑ってしまいそうになった。泣きたくなる時ほど、笑いそうになる。
「私も」
そう返すと、早苗はすぐに顔をしかめた。
「そういう時だけ素直」
「いつも素直だよ」
「違う」
それだけ言って、早苗は自室へ戻っていった。
扉が閉まる。
また静かになる。
彩佳はベッドの上で膝を抱えた。
必要だから来た。
人が助かるなら意味がある。
そう思う気持ちは、まだ消えていない。
けれど同時に、ここが“何かを差し出させるための場所”でもあることを、身体のどこかがもう知っていた。
同じ頃、二階の試験責任者室では、相原俊成が新たに届いた被験者ファイルを開いていた。
机上のモニターには群分け、既往、反応性、供給見込み、継続優先度。整然とした表に並ぶ四人の名前。
その上位にあるのは、石井彩佳。
相原はファイルをめくり、数秒だけ手を止めた。
証明写真の中の彩佳は、真っ直ぐカメラを見ていた。
顔立ちは違う。だが、似ていると意識する前の領域で、何かが引っかかる。
小柄な体格、静かな目元、意志の入り方。
十二年前の記憶の断片が、何の前触れもなく浮かびかける。
小出美紀。
相原はすぐに視線を落とし、ファイルを閉じた。
思い出す必要はない。
今必要なのは結果だけだ。
窓の外では、研究センターの外壁に夜の光が薄く映っている。
三階の一室で、四人の被験者はそれぞれの沈黙を抱えたまま、この施設の最初の夜を迎えようとしていた。
その静けさは穏やかではない。
まだ何も起きていないからこそ、かえって緊張している種類の静けさだった。
境界は、もう越えていた。
ラクト・セラムの社員としての生活は、扉の向こうに置いてきた。
ここから先は、生活の形をした監督時間の中で、管理され、観察され、評価される日々になる。
そのことを、まだ誰も十分には言葉にできないまま。




