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第6話 面談

 二階の医務課は、朝の九時を過ぎると独特の静けさを持ち始める。

受付の呼び出し音、

キーボードの小さな打鍵音、

紙をめくる音、

遠くで聞こえるワゴンの車輪。

どれも日常の音なのに、ここに集まると少しだけ張り詰める。

人の身体を扱う場所には、生活の音とは違う緊張がある。

 上原春菜は、社内端末の前で社員健康ログを開いていた。

 朝一番に確認する画面はほぼ決まっている。

バイタル、

採血データ、

搾乳ログ、

自己申告症状、

睡眠時間。

全員分を一度に見ても異常は拾えない。

だから上原は、普段から“少し気になる”名前を優先して見る。

 石井彩佳。

 画面の中の数値は、今日も劇的ではなかった。

問題なのはむしろ、劇的ではないのに積み上がっていることだった。

 夜間搾乳回数の増加。

 睡眠時間の短縮。

 自己申告の疲労感の波。

 日中の搾乳量はむしろ安定している。

 身体の負担だけが増えているのに、成果の数字がそれを覆い隠してしまう。

こういう時が一番厄介だと、上原は知っていた。

 しかも今は、その背景にNV-40がある。

 外では死者数が増えている。

 社内では供給強化の文言が増えている。

 その二つを、石井彩佳のような人間は無意識につないでしまう。


「先生」


 受付側から呼ばれ、上原は顔を上げた。看護師の一人が書類を手にしている。


「九時半の問診票、机に置いておきます」


「ありがとう」


 上原はそう返してから、もう一度画面を見る。

 石井彩佳。

 搾乳頻度、増加。

 睡眠時間、減少傾向。


「……石井さん」


 小さく呟いた時、医務課の内線表示が切り替わった。

 受付経由の短いメッセージ。

 高橋早苗さん、相談希望。佐山さん同席。

 上原はわずかに眉を上げた。

 数分後、診察室に入ってきたのは早苗と佐山だった。

早苗は表情を崩さないようにしているのが分かる顔で、佐山はいつもよりさらに言葉を削っている時の空気をまとっている。


「どうしました」


 上原が促すと、最初に口を開いたのは早苗だった。


「彩佳のことです」


 その一言だけで、余計な前置きは要らなくなった。


「最近、夜中も搾乳行ってます」

 早苗は言った。

「回数が増えてる。本人は大丈夫って言うんですけど、全然大丈夫じゃないです」


 佐山は隣で黙って聞いている。その沈黙自体が、早苗の言葉を補強していた。


「他には?」

 上原が静かに尋ねる。


「寝不足。朝の顔色が悪い。昼間ぼんやりしてる時がある。あと——」

 早苗は少しだけ言葉を探した。

「必要ならやる、っていう感じが強くなってます」


 それは数値では拾えない情報だった。

 だが上原には、一番厄介に聞こえた。


 佐山がそこでようやく口を開いた。

「石井さんのログ、さっき先生も見てたでしょう」


 問いというより確認に近い口調だった。


「見てました」


 上原が社内端末の画面を少し回す。石井彩佳の直近ログが表示される。搾乳回数、睡眠時間、夜間覚醒。佐山は一目見て、深く息を吐いた。


「無理してる」


「ええ」

 上原は短く答えた。

「まだ数値としては大きく崩れていません。でも、ここで止めないと一気にいく可能性はある」


「本人、自覚薄いです」

 早苗が言う。

「無理してること自体を、必要なことみたいに言うから」


 その言い方が、前日の食堂での会話とぴたりと重なった。

 彩佳自身はまだ、自分が何に駆られているのかを正確には分かっていない。

 ただ“足りない方が怖い”という感覚だけが先に立つ。

 その危うさを、周りの方が先に見ている状態だった。


 上原は端末を閉じた。

「面談しましょう」


 佐山がすぐ頷く。

「今日中に」


「はい」


 早苗は少しだけ肩の力を抜いた。

 けれど安心したわけではないことが、その表情から分かる。止めれば終わる種類の話ではないと、三人とももう分かっていた。

 昼過ぎ、彩佳は広報課で資料の差し替え作業をしていた。

 オンライン専用端末の右側モニターには、報道監視用の速報一覧が常時開かれている。見出しが一行ずつ更新され、NV-40の死者数が冷たい数字として積み上がっていく。

 NV-40感染症、国内死者数二十九人。

 変異株流行継続。

 供給体制強化の必要性を厚労省が再度強調。

 一方、社内端末の社内ポータルには、別の言葉で同じ現実が載っていた。

 【感染症情勢共有】

 各部署は供給体制強化対応に備えること

 その二つの画面を同時に見ていると、自分の仕事と外の死者数が同じ線上に並んでしまう。

 それが良くないのだと、昨日上原に言われたばかりだった。

 その時、医務課から内線が入った。


「石井さん、少しお時間いいですか。面談をお願いしたいんですが」


「……今ですか?」


「はい。できれば今日のうちに」


 彩佳は一瞬だけ周囲を見た。

 早苗は経理から回ってきた書類を確認していて、目が合うとすぐに逸らした。

 その動きだけで、何となく察してしまう。


「分かりました」


 受話器を置くと、彩佳は必要以上に整った動きで席を立った。


「二階?」

 佐山が訊く。


「はい」


「一緒に行く」

 断る余地のない言い方だった。

 彩佳は小さく頷く。

 医務課の診察室は、何度も来ているはずなのに、面談となると少しだけ狭く感じる。

椅子に座ると、上原が正面、佐山は少し横。

医療と私的な距離のちょうど中間みたいな配置だった。

 上原が先に口を開いた。

「石井さん、最近寝ていますか」


 彩佳はほとんど反射で答えた。

「寝てます」


「時間は」


「……まあ、それなりに」


「石井さん」


 上原の声は穏やかだったが、逃がさない。

「ログを見る限り、夜間搾乳が増えています」


 彩佳は目を伏せた。

「少しだけです」


「少しだけ、が続いています」


 上原は淡々と続ける。

「搾乳回数が増えている。睡眠時間が減っている。疲労の自己申告も揺れている。自分で負荷を上げていますよね」


 否定できなかった。


 彩佳は黙る。

 その沈黙のまま終わらせずに、佐山が低く言った。

「石井さん」


 そこで一拍置いてから、呼び方が変わる。

「……彩佳さん」


 彩佳は顔を上げた。


「本当に、無理してないの?」


 その問いは、上司の確認ではなく、人としてのものだった。

 彩佳は答えを探した。


 無理している、のだと思う。


 でも、それを認めたら止められる。

 止められたら、足りなくなるかもしれない。

 その感覚を、自分でもうまく説明できない。


「人が助かるなら」


 気づけば、そう口にしていた。

 上原と佐山、二人の表情がわずかに止まる。


「薬が出来たら、助かる人がいるんですよね」


 彩佳は自分の声が思ったより静かであることに驚いた。


「NV-40で死ぬ人が減るなら、少しくらいなら」


 その“少しくらい”が、どこまでを指しているのか、自分でも分からない。

睡眠を削ることか、身体の不調を見ないふりすることか、その先か。


 上原はゆっくり息をついた。


「石井さん」

 声が少し低くなる。

「あなたは統計の埋め合わせではありません」


 彩佳は瞬いた。


「社内端末に出ている数字も、オンライン専用端末に出ている速報も、あなたの身体に直結させていいものではない」


 その言い方は、かなり踏み込んでいた。


 だが今の彩佳には、そこまで言わないと届かないと上原は判断したのだろう。


「今の状態で、自己判断で負荷を上げることは認められません」

 上原は机上のメモに目を落としながら続けた。

「当面、搾乳は一日四回まで。夜間は原則禁止。必要なら医務課で状態確認を入れます」


 彩佳は反射的に顔を上げた。

「でも」


「でも、ではありません」

 上原の声は静かだが、そこで初めて明確な命令になった。


「いま問題にしているのは量ではなく、あなたの身体です」


 診察室の空気が少しだけ重くなる。

 彩佳は唇を結んだ。

 上原が正しいことは分かる。けれど、その正しさに従うことでこぼれるものがある気がしてしまう。


 その時、佐山が横から言った。

「彩佳さん」


 今度は最初からその呼び方だった。

「あなたが倒れたら、誰も助からない」


 その言葉は、上原の言葉よりずっと深く入ってきた。


 倒れたら、誰も助からない。

 それは理屈としても正しい。

 けれど、それだけではない。

 どこか別の場所に刺さる。小さい頃、父が家を出る前に言ったことと似ていた。無茶はするな、とか、おまえが無事でいることが一番だ、とか、そういう種類の言葉。


 彩佳はそれを振り払うように笑った。

「大丈夫ですよ」


 自分でも軽すぎる声だと思った。


 佐山の表情は動かなかった。

「そう言う時が一番大丈夫じゃない」


 その返しに、彩佳は何も言えなくなった。

 面談はそこで終わった。

 形式としては、医療的指導と生活管理上の注意。

 記録にもそう残るだろう。

 だが診察室を出たあとも、彩佳の胸の中には収まりの悪いものが残っていた。

 廊下で佐山が足を止める。


「……彩佳さん」


「はい」


「本当に、少し休んで」


 その声は命令ではなかった。懇願に近い。彩佳は正面からその目を見ることができず、少しだけ笑った。


「分かってます」


「分かってないから言ってる」


 佐山はそう言って、それ以上は続けなかった。

 夕方、広報課へ戻っても、仕事は普通に流れていった。来客記録、資料整理、メール返信。日常は人を待たない。だからこそ、面談の後でも仕事をしていると、自分がまだ普通の範囲にいるような錯覚が生まれる。

 オンライン専用端末には、また新しい速報が流れていた。

 NV-40感染症、国内死者数三十一人。

 彩佳はその数字を見たあと、すぐに視線を逸らした。

 見てはいけないわけではない。

 でも、自分の中でそれと何かがつながる前に目を離した方がいいと、今は分かっていた。

 夜、寮へ戻る。

 食堂では早苗が待っていたわけでもないのに、彩佳の顔を見るなり言った。


「呼ばれたでしょ」


「うん」


「何て」


「搾乳回数、減らせって」

 早苗は「当然」という顔をした。

「で?」


「守るよ」

 彩佳がそう言うと、早苗は数秒じっと見た。


「ほんとに?」


「ほんとに」


 嘘ではない、と思いたかった。


 少なくとも今この瞬間は、そのつもりだった。

 夜更け、部屋の明かりを消し、ベッドに入る。

時計の秒針の音は聞こえない。

寮の壁越しの気配だけが、夜の静けさを形作っている。今日は眠れるだろう、と彩佳は思った。

 だが、一度目を覚ますと、もう駄目だった。

 時計を見る。

 前回からの時間を数える。

 大丈夫。

 まだ眠れる。

 でも、もしこのまま朝まで空いたら。

 上原の言葉が浮かぶ。

 佐山の声が重なる。

 倒れたら誰も助からない。

 それでも、別の声が消えない。

 足りなかったらどうするの。

 必要になった時に、間に合わなかったら。

 彩佳は目を閉じたまま、しばらく動かなかった。

 起きるな、と自分に言う。

 今日はやめておけ、と言い聞かせる。

 だが身体の方が、もう少し先に決めてしまっている。

 気づけば上半身を起こしていた。

 カードキーを持ち、そっと部屋を出る。

 隣室の早苗を起こさないように、足音を殺す。

 エレベーターで地下へ下りる。

 B1の小さな搾乳室は、今夜も静かだった。

 モニターの青白い光の前に座る。


 石井 彩佳

 Session Ready


 彩佳はその表示を見つめた。


 今日だけ。


 今日だけだから。


 明日からはちゃんと減らす。


 そう思いながら、指は迷いなく開始ボタンに触れる。

 シュッ、シュッ。

 機械音が始まり、狭い地下の空気が少しだけ震える。

 その音を聞いた瞬間、彩佳はようやく少し落ち着いた。


 止められたはずなのに、止まれない。


 それがもう、自分の問題なのだと薄々分かりながら。

 誰も知らないまま、また一つ雫が増える。

 誰かのためだと思い込むことでしか、まだ自分を正当化できないまま。

 朝になれば、また普通の顔をして会社へ行ける。

 そう思っているうちは、まだ壊れていない。

 彩佳はそう信じようとした。

 けれど実際には、止まらないことそのものが、もう静かな異常だった。

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