第5話 増えていく雫
高村がいなくなってから、会社は静かになった。
正確には、
静かに見えるようになった。
四階の会議は減らなかったし、ガイアからの来訪もむしろ増えていた。
人事の書類は相変わらず機密指定が多く、医務課の会議も長いままだった。
けれど、それについて誰かが口にすることは減った。減ったというより、口にしない方がいいと全員が学習したのだ。
沈黙はすぐに会社に馴染む。
高村の名が会話の中から消えたのも早かった。
専務室の前を通る時に目を逸らすことすら、数日でなくなった。
存在を消す側より、消えた後の空白に慣れる側の方がずっと早いのだと、彩佳はぼんやり思った。
七月の半ば、朝の地下搾乳室は、いつもより少し冷えていた。
更衣室でジャケットを脱ぎ、検査・消毒室を抜け、いつもの席へ座る。
モニターに名前が出る。
操作を始める。
身体はもう勝手に手順を覚えていて、意識しなくても動く。
装置の音が始まると、頭の中の余分な思考だけが浮き上がってくる。
シュッ、シュッ。
一定の音。
淡々とした工程。
彩佳は正面の表示を見つめたまま、今日の予定を頭の中でなぞった。
午前中は広報課の資料整理、昼に説明会用の文面差し替え、午後は来客対応補助。
業務だけ見れば普通の日だ。
普通の日のはずだ。
だが、普通ではないものが一つだけある。
自分の中のざわつきが、まだ消えない。
出向という言葉を知ってから、彩佳は前よりも少しだけ、自分の搾乳量を気にするようになっていた。
もちろん誰かに言われたわけではない。
数字が伸びれば安心する、という感覚が、以前より強くなっただけだ。
必要な時に、足りないよりはいい。
自分にできることは、減らさない方がいい。
そんな考えが、気づけば自然に身体を動かしている。
今日の累積量は、まだ朝の時点で悪くない。
むしろ少し良い。
彩佳は画面の数値を見て、ごくわずかに息をついた。安堵なのか、達成感なのか、自分でもはっきりしない。
ただ、数字が伸びると落ち着く。
席を立った時、隣で後処理をしていた社員が軽く笑った。
「石井さん、最近調子いいね」
「そうですか?」
「前より安定してる」
そう言われると、少しだけ胸が温かくなる。
彩佳は曖昧に笑い返した。
「たまたまですよ」
たまたま、ではないことを自分では知っている。夜中に一度目が覚めた時、そのまま水を飲んで寝直せばいいのに、気になって時間を見てしまう。
前回から何時間経っているかを数えてしまう。
三時間半。
四時間弱。
なら次はいつ、
という具合に。
誰に強制されているわけでもない。
命令でもない。
それでも、身体のどこかが、少しでも多く出した方がいいと覚えてしまったみたいだった。
一階へ戻ると、朝の広報課はいつも通り動き始めていた。だが彩佳が席に着いてほどなく、早苗が無言で紙コップを置いた。
自販機のカフェラテ。
まだ温かい。
「え、何?」
「飲んで」
「どうしたの急に」
「顔が眠そう」
早苗は自分のデスクへ戻りながら言う。
「昨日も遅かったでしょ」
「普通だよ」
「普通の人の“普通”と、彩佳の“普通”ずれてるから」
きっぱりした言い方に、彩佳は苦笑した。
カフェラテの蓋を開けると、甘い匂いが少し立つ。
「ありがとう」
「別に」
早苗はすぐ画面に向き直る。
だがそのあと、小さく付け足した。
「最近、夜中も起きてるよね」
彩佳の手がほんの一瞬だけ止まった。
「なんで分かるの」
「壁薄いから」
さらりと言われ、彩佳は思わず笑いそうになる。
「起こしてた?」
「そこまでじゃないけど、物音で分かる」
早苗はキーボードを打つ手を止めずに続けた。
「地下行ってるでしょ」
否定しようとして、彩佳はやめた。完全に隠せているつもりはなかったし、早苗にだけは嘘が雑になる。
「……ちょっとだけ」
「ちょっとじゃないから言ってるの」
「でも、無理してるわけじゃないよ」
「そういう言い方する時、だいたい無理してる」
早苗はそこでようやく顔を上げた。
「彩佳」
「うん」
「出向があるかもしれないからって、先に一人で頑張るのやめて」
その言葉は予想していたより真っ直ぐで、彩佳は返事に詰まった。
「別に、そういうつもりじゃ……」
「あるんだって」
早苗は静かに言った。
「自分じゃ気づいてないだけで」
その言い方が少しだけ上原に似ていて、彩佳は目を逸らした。
自分ではまだ認めたくない場所を、他人に先に見つけられるのは居心地が悪い。
「わたしは大丈夫だよ」
「そういう問題じゃない」
早苗の声は低い。怒っているわけではない。心配しているのだ。
それが分かるから、余計に苦しい。
彩佳は紙コップを握ったまま、小さく笑ってごまかした。
「ありがとう。気をつける」
「本当に?」
「本当に」
早苗は納得していない顔をしたが、それ以上は言わなかった。
午前の広報課では、外部専用端末の右側モニターに報道監視画面が常時開かれていた。
通信社速報、
厚労省発表、
オンライン会見要旨。
見出しだけが縦に積み上がり、数分ごとに更新されていく。
NV-40感染症、国内死者数二十六人。
既存ワクチン、防御率低下。
厚労省、供給体制再構築を要請。
彩佳はその見出しを何秒か見つめた。
六月の終わりには二十人台前半だった死者数が、七月に入って目に見えて増えている。
それがニュース画面の数字であると同時に、四階の会議室で交わされた言葉の根拠でもあると、もう分かってしまっていた。
同じ頃、社内端末のポータルには新しい通知が上がっていた。
【感染症情勢共有】
NV-40感染症 国内日次死者数二十六人
変異株流行継続
各部署は供給体制強化対応に備えること
同じ数字。
だが、外で見る二十六人と、社内で整理された二十六人は少し意味が違って見えた。
外では死者数。
内側では供給を急ぐ理由。
彩佳はその二つを並べて見てしまう自分が、少し嫌だった。
昼休み、五階の食堂ではテレビの音がいつもより大きく感じた。
『NV-40感染症について、国内の死者は本日二十九人。うち二人は基礎疾患のない二十代で——』
彩佳がトレーを持って座ると、早苗はすぐにテレビから視線を外した。
「見なくていいの?」
「見ても増えるだけだから」
「冷たい」
「冷たいんじゃなくて、会社があれ見て何考えてるか分かるから嫌」
早苗は味噌汁の蓋を開けた。
「“ほら、急がないと”ってなるでしょ」
その言い方に、彩佳は返事をしなかった。
否定できないと思ったからだ。
「でも」
彩佳は小さく言う。
「本当に必要なんだと思う」
早苗は箸を止めた。
「何が」
「対策とか、供給とか」
「それを、なんで彩佳が自分の身体で埋めようとするの」
きつい言い方だった。
でも怒鳴ってはいない。
怒鳴っていない分だけ、本気だった。
「埋めようとしてないよ」
「してる」
「してない」
「してるって」
そこで早苗は少しだけ息をついた。
「……もういい」
彩佳はその言葉に胸の奥が少し冷えた。
話したくなくなったのではない。
今は言っても届かないと判断されたのだと分かる。
午後、彩佳は資料を持って二階の医務課へ向かった。
受付の前を通ると、上原が社内端末で社員ログを確認していた。
画面には
搾乳回数、
体重、
自己申告が表示されている
外部ニュースと違って、そこにあるのは会社の中の身体の数字だった。
「上原先生」
「これ、広報からです」
「ありがとうございます」
書類を受け取りながら、上原はさりげなく言った。
「寝ていますか」
またそれだ、と彩佳は思った。
「それなりに」
「“それなり”の中身を聞いてるんです」
言葉は柔らかいが、逃がさない。
彩佳は少しだけ笑う。
「怒らないでください」
「怒ってはいません」
上原は即座に返した。
「ただ、今の段階で負荷を上げる理由はありません」
その言い方に、彩佳は一瞬だけ息を止めた。
理由。
やはり上原は、もう気づいている。
「夜間、増えてますよね」
問いではなく確認だった。
彩佳は視線を落とした。
「……少しだけ」
「少し、が積み上がると身体に残ります」
上原はそう言ってから、少し声を落とした。
「NV-40の死者数が増えていることと、石井さんの身体は別です」
彩佳は顔を上げた。
その言葉が思っていたより真ん中に刺さる。
「今はまだ、別にしておいてください」
上原の声は静かだった。
「一緒にした瞬間、止まれなくなるので」
彩佳は何も言えなかった。
もう半分、一緒にしているのかもしれないと、自分でも分かったからだ。
医務課を出たあとも、その言葉は頭の中に残った。
NV-40の死者数。
自分の搾乳量。
供給。
不足。
必要。
本来、直結してはいけないものを、自分はどこかで一直線につないでしまっている。
その日の夕方、佐山は地下の搾乳室前で彩佳を見つけると、少しだけ立ち止まった。
「石井さん」
「はい」
「今日、夜は行かないで」
いきなりだった。
彩佳は目を瞬いた。
「え」
「寮の地下」
佐山は視線を逸らさない。
「行くつもりだったでしょ」
彩佳は反射的に否定しようとして、やめた。
その沈黙だけで十分だった。
「顔見れば分かる」
佐山は言う。
「今日はやめて」
「でも」
「でも、じゃない」
その言葉は強くはなかった。
それでも、彩佳の足を一歩だけ止めるには十分だった。
「石井さん、いま無理して増やしても、いいデータにはならない」
看護師としての言い方だった。
感情ではなく管理の言葉に寄せている。
その方が、今の彩佳には届くと思ったのかもしれない。
「身体が崩れたら、その方が全部だめになる」
彩佳はしばらく黙ったあと、小さく答えた。
「……はい」
その返事が完全に本心ではないことを、佐山はたぶん分かっていた。
それでも、いまはそこで留めるしかない。
夜、寮に戻った彩佳は、珍しく部屋の机で外部接続端末の会議要旨を思い出していた。
二十六人。
二十九人。
三十三人。
数字は冷たい。
なのに、それを見ていると胸の奥だけ熱くなる。
もし足りなかったら。
もし遅かったら。
もし自分に出来たことをしていなかったら。
その考えは、父の記憶とよく似た場所へ繋がっている。
名前をつける前に、身体の方が先に反応してしまう。
彩佳は机に肘をつき、しばらく目を閉じた。
行くなと、上原に言われた。
やめてと、佐山に言われた。
早苗には、もうほとんど見抜かれている。
それでもなお、夜が深くなるにつれて、身体のどこかが落ち着かなくなる。
前回から何時間空いたかを、意識しないようにしても数えてしまう。
時計を見る。
ベッドに入る。
目を閉じる。
けれど眠りきれない。
やがて、隣室の物音が止んだのを確かめるようにして、彩佳はゆっくり起き上がった。
カードキーを持つ。
足音を殺して廊下へ出る。
エレベーターで地下へ下りる。
B1の小さな搾乳室は、今夜も静かだった。
誰もいない。
機械だけが待機している。
モニターに名前が出る。
石井 彩佳
Session Ready
彩佳はその表示をしばらく見つめた。
今日だけ。
今日だけだから。
明日はちゃんとやめる。
そう思いながら、指は迷いなく開始ボタンに触れる。
シュッ、シュッ。
機械音が始まり、狭い地下の空気を満たす。
その音を聞いた瞬間、彩佳はようやく少し落ち着いた。
止められたはずなのに、止まれない。
それがもう、自分の問題なのだと薄々分かりながら。
地上では誰も知らないまま、また一つ雫が増える。
誰かのためだと思い込むことでしか、まだ自分を正当化できないまま。
翌朝、早苗は何も言わなかった。
だが食堂で向かい合った時、彩佳の顔を見て、ほんの少しだけ目を細めた。
「……また行ったでしょ」
「え」
「分かるから」
それだけ言って、早苗はスプーンを持ち直した。
彩佳は笑ってごまかそうとしたが、早苗は笑わなかった。
その視線の奥にあるのが苛立ちではなく、不安だと分かるから、彩佳はそれ以上言葉を続けられなかった。
外では、夏の朝の光が少しずつ強くなっていた。
会社の一日は、またいつも通り始まる。
だがその「いつも通り」は、もう少しずつ中身を変えている。
NV-40の死者数は増えていた。
四階の会議は続いていた。
そして地下では、彩佳の雫もまた、少しずつ増えていた。
まだ誰にも止められない形で。
本人にさえはっきりしない理由のまま。




