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第4話 防波堤

 高村千草が社内から消えたのは、あまりにも唐突だった。

 それは大きな騒ぎとしてではなく、むしろ逆に、妙に静かな形で起こった。

朝、出社した時にはまだ専務室の灯りがついていたはずなのに、昼前には四階のスケジュール表示から名前が消え、午後には社内ポータルの幹部一覧からも見当たらなくなっていた。

 最初に回ってきたのは、総務からの短い通知だった。


 専務 高村千草は、コンプライアンス上の確認事項により、当面の間、職務を停止します。


 それだけ。

 理由も説明もない。


 “確認事項”が何なのかも書かれていない。


 問い合わせ先だけが、異様に整った文面で末尾に記されていた。

 その短さが、かえって不気味だった。

 一階の広報課でも、誰も通知を口にしなかった。

だが、誰もが見ていた。

メールを開いた時の一瞬の沈黙、隣の席との目配せ、すぐに視線を画面へ戻す動作。

言葉にしてしまうと何かが確定してしまうから、誰も先に言わない。

そんな空気が部屋の中に張っていた。

 彩佳は通知を二度読み返したあと、静かにウィンドウを閉じた。

胸の奥が嫌な形にざわつく。


 高村が、いない。


 つい昨日まで四階で会議に出ていて、ガイアの人間が来るたびに応接室へ入っていた人が、今日はいない。

いや、いないだけならまだ分かる。

けれど“いなかったことにされ始めている”気配があった。


「……早すぎる」


 小さく呟いた声は、自分でも聞き取れるかどうかの大きさだった。

 すぐ向かいで、早苗がキーボードを打つ手を止めないまま言った。


「消し方がきれいすぎる」


 彩佳は顔を上げた。

「やっぱり変だよね」


「変っていうか、露骨」


 早苗は画面から視線を外さず続ける。

「四階の来客対応ログ、昨日までの分しか見えない。今朝の時点でもう非公開に変わってた」


「そんなことできるの?」


「できるようにしてるんでしょ」


 その言い方は冷たく聞こえるが、早苗が動揺している時ほど声音は平坦になる。彩佳はそれを知っていた。

 午後、資料の差し替えで四階へ上がった時、その異様さはさらに明確だった。

幹部フロアはいつも静かだが、今日は静かすぎた。

専務室の前にあった名札は外され、扉には何も掲示されていない。

中に人の気配はない。

応接室前を通った時、清掃担当が段ボールを抱えて出てきたのが見えた。

 箱の口から、見慣れたネイビーのファイルが少しだけ覗いている。

 高村のものだ、と分かった。

 彩佳は立ち尽くしかけたが、後ろから来た総務の主任に軽く会釈されて、慌てて足を動かした。

立ち止まってはいけない。

見てはいけない。

そういう圧力だけが、何も言われないまま廊下の空気に混ざっている。

 会議室へ資料を届けると、中には一ノ瀬社長と数名の幹部、それにガイアの橋本ちえ子がいた。

高村はいない。

椅子の位置だけが一つ欠けているような違和感があった。

 一ノ瀬は彩佳から資料を受け取る時、一瞬だけ目を上げた。

その顔は疲れて見えた。

そして、疲れ以上に何かを削られたような表情だった。


「ありがとう」

 いつも通りの口調。


 それがかえって苦しかった。

 部屋を出る直前、橋本が低い声で何かを言った。


「本件は、対外的に慎重な扱いが必要です」


 その慎重さが誰を守るものなのか、彩佳にはもう分かりかけていた。

 夕方になる頃には、社内の噂は静かに広がり始めていた。


横領、

情報漏洩、

ガイアとの対立、

内部資料の扱い、

監査対応。

誰も確かなことは知らない。

だからこそ、噂だけが増える。

曖昧な不安は、人から人へ移るたびに輪郭を持っていく。

 茉莉は人事の研修席で、明らかに顔色が悪かった。何度か声をかけても、返ってくる返事が半拍遅れる。夕方、広報課へ戻ってきた彩佳が自販機の前で声をかけると、茉莉は紙コップを両手で持ったまま、小さく言った。


「ほんとに消されるんですね」


 その言葉の意味は訊き返さなくても分かった。


「……見たの?」


「人事の共有フォルダ、朝のうちにアクセス権が変わってて、会議記録も全部別階層に移されてました」


 茉莉は唇を噛む。


「専務の名前で検索しても、過去の予定まで出なくなってて」


 彩佳は言葉を失った。

そこまでするものなのか、と驚くより先に、恐ろしいと思った。

存在そのものを消すようなやり方。

人がいた痕跡を薄くしていく手際の良さ。


「わたし」


 茉莉は視線を落としたまま続けた。

「会社って、もっと……積み重ねるものだと思ってました」


 彩佳は何も言えなかった。

 積み重ねるもの。

 それはきっと正しい。

けれど会社は時々、積み重ねるより先に切り離す。

守るために、あるいは見えなくするために。

必要なら、そういうこともするのかもしれない。

 その“必要”が、いったい誰のものなのかは別として。


 その数日前、


四階の会議室では最後の押し合いが続いていた。

 大会議室ではなく、応接室に近い中規模の会議室。窓の外には設備棟の排気塔が見え、薄い曇り空の下で白い蒸気が途切れなく上がっている。

部屋の中は冷房が効きすぎていて、机上の資料だけが妙に生々しく見えた。

 高村千草は、正面の資料から目を上げた。

 向かいには相原俊成。

 その斜めに真壁俊。

 少し離れて橋本ちえ子。

 ラクト側は一ノ瀬と人事、法務。

 人数は多くないのに、部屋は狭く感じられた。


「もう一度確認します」

 高村の声は抑えられていたが、硬かった。

「ラクト・セラムは、母乳供給を前提にした会社です。社員は研究資源ではありません」


 真壁が先に口を開いた。

「ですが、現状の供給速度では遅い」

 声は柔らかいが、言葉の置き方に余白がない。

「経営側としては、予防薬の実装時期をこれ以上後ろへずらせません。経鼻予防薬が現実になれば、ガイアにとっては当然大きい。ですが、ラクトにとっても同じです」


 高村は視線を動かさない。


 真壁は続ける。

「供給量の増加は、ラクト・セラムの立場そのものを変えます。今の補助的な供給元ではなく、計画の中核に入る。契約条件も、収益構造も、社会的な扱いも変わる可能性がある」


 一ノ瀬が何か言いかけて止まる。


 真壁はその一瞬を待たずに続けた。

「これはガイアだけの利益ではありません。両社に利益がある話です」


「利益の話ではありません」

 高村は即座に返した。

「少なくとも、最初にする話ではない」


 相原がそこで資料を閉じた。

「では、研究の話をします」


 声は穏やかで、感情的な圧はなかった。

 むしろ冷静すぎて、そこにある前提が余計に動かしがたく見える。


「現行の誘導プロトコルでは、準備期間が長い。反応性にもばらつきが大きい。予防薬に接続するだけの安定したsIgA供給には届いていません」


 高村は黙って聞く。


「短縮高出力群の検証は、研究上避けられない段階に入っています」

 相原は言った。

「これは感情の問題ではなく、成立するモデルを作れるかどうかの問題です」


「成立するモデルのために、誰の身体を使うんですか」

 高村の問いは短かった。


 相原は一拍置いてから答える。

「反応性の高い対象です」


 その言葉に、高村の指先が机の上でわずかに動いた。

「対象」


 高村は低く復唱する。

「あなたはそう呼ぶんですね」


「臨床開発の場です」

 相原は穏やかなままだった。

「私は研究者として、必要な条件を言っています」


「私は、ここにいるのが社員だと言っています」

 高村は返す。

「ラクトで働いている若い人たちです。供給効率の良い“対象”じゃない」


 会議室に数秒の沈黙が落ちた。

 橋本が視線を下げる。

 真壁は表情を変えない。

  一ノ瀬は腕を組んだまま、窓の方を一度見る。


 真壁がそこで改めて口を開いた。

「高村さん、現実的に言えば、予防薬開発が前進すればラクトの利益も守れます」


「守れる?」

 高村は真壁を見た。

「誰の何を」


 真壁は少しも崩さず答える。

「会社です。供給体制です。事業基盤です。今後の交渉力も含めて」


「会社だけ守って、社員の身体が壊れたら意味がないでしょう」

 高村の声がそこで初めて強くなった。

「それは最終的にラクトの利益にならない」


 真壁はわずかに黙った。

 反論しないのではなく、その言葉を正面から受ける必要がないと判断したような間だった。


 相原が代わりに言う。

「では、医療管理をつけるというのは」


 高村が目を向ける。


「ラクト側の医師と看護師を同行させる」

 相原は続けた。

「それなら研究上必要な検証は進められる。現場の管理も担保できる。少なくとも、研究としては成立します」


 高村はその言葉を聞きながら、ぎりぎりの譲歩なのだと理解した。

 被験者だけを出す形は避けられる。

 だが、出向そのものは止まらない。


「人選については」

 相原は言った。

「研究上、反応性と供給効率を優先します。そこは変えられません」


 高村は数秒黙ったあと、ようやく口を開いた。


「……同行は必須です」


 一ノ瀬がそこで初めてはっきり頷いた。

「それは条件にしましょう」


 高村はその一言を聞きながら、勝ったとは思わなかった。

 これは防げたのではない。

 崩れる前に、せめて厚みを足しただけだ。

 それでも、何もないよりはましだった。


 十二年前と同じ形にだけはしたくなかった。


 窓の外では、排気塔の蒸気が少し風に流されていた。

 地下のラインは止まらない。

 そして今度は、その雫を作る身体の方も、研究と利益の論理の中へ静かに組み込まれようとしていた。

 夜、業務を終えて寮へ戻る前、佐山が彩佳に声をかけた。


「石井さん」

 振り返ると、佐山はジャケットのポケットに手を入れたまま、少し考えるような顔をしていた。

「今日、遅くなる?」


「いえ、搾乳終わったら戻るつもりですけど」


「……そう」

 それだけ言って、佐山は少し視線を逸らした。それから何かを決めたように言う。

「私、このあと少し残るから」


「何かあるんですか?」


「たぶん」


 珍しく曖昧な答えだった。


「彩佳さんは先に戻ってて」


 名前の呼び方が変わっていることに、彩佳は気づいた。だがその意味を考える前に、佐山はもう背を向けていた。

 その夜、四階の大会議室は消灯されたあとも使われた。

 広い窓の向こうに夜の敷地が見える。設備棟の塔は黒く立ち、遠くで地下の稼働を思わせるような低い機械音がある。会議室の照明は半分だけ点けられていて、長机の上には水差しも資料もない。ただ向かい合って座る二人だけがいた。

 佐山と、高村千草。

 昼間には消されたはずの人が、そこにいた。

 高村はジャケットを着ていなかった。白いブラウスに、濃い色のスカート。いつもより少しだけ年を取って見えた。髪も表情もきちんとしているのに、疲労が隠せていない。


「呼び出してごめんなさい」

 最初に口を開いたのは高村だった。


「いえ」

 佐山は座ったまま答える。声は静かだったが、固い。


「こういう形でしか話せなくて」


「……何の話ですか」


 高村は数秒だけ黙った。

 その沈黙だけで、佐山にはもう分かっていた。

昼から胸の奥に引っかかっていたものの正体が、たぶんこれで名前を持つ。


「佐山さん」

 高村はゆっくりと言った。

「あなたが小出美紀さんの友人だということを、私は最初から知っていました」


 空気が止まった。


 夜の四階は静かすぎて、その一言だけが会議室の中に異様にはっきり残った。


 佐山は、すぐには何も言えなかった。


 高村は視線を逸らさないまま続ける。

「小出さんから、何度かあなたの話を聞いていました。看護学校時代の同期で、救命センターで働いている人がいる、と」


 佐山の指先が、机の下でわずかに動いた。


 小出美紀。


 ずっと口にしてこなかった名前だった。

 心の中では何度も呼んだのに、現実の会話の中では封じてきた名前。


「……どうして今なんですか」

 ようやく出た声は、自分でも驚くほど低かった。

「もっと早く言えたはずです」


「言えなかったの」

 高村は即答した。言い訳ではなく、諦めに近い響きだった。

「言えば、全部を話さなきゃいけなくなるから」


 佐山は目を閉じたかった。けれど閉じなかった。

閉じれば、十二年前の光景が内側から浮かび上がってきそうだった。


「小出さんは」

 高村は言葉を選ぶように、一つずつ置いていく。

「自分で試験に参加すると決めました」


 そのことは、佐山にも少しだけ想像がついた。小出はそういう人だった。

誰かがやらなければならないなら、自分が行くと決める。

迷うより先に、役に立てるかどうかを考える。

明るく笑って、でも変なところで頑固で、正しいと思ったことは引かなかった。


「止められたはずだったのに」

 高村の声が初めて揺れた。

「私は止められなかった」


 佐山の喉が詰まる。


「試験は、ガイアの施設で行われました。未承認薬が使われた。安全性の確認は十分じゃなかった。それでも、国家的に必要だと言われた」

 そして、高村ははっきりとその名を告げた。



「責任者は、相原俊成です」



 会議室の空気が急に冷たくなった気がした。

佐山はその名前を心の中で何度か繰り返した。


相原。


昼間、ガイアから来る幹部の名簿で見たことのある名前。今のProject Lactaの中核にいる男。


「小出さんは、亡くなった」


 高村は言った。

「ガイア側からは、偶発的的なショックが原因、とだけ聞いています。」


 佐山は目を閉じた。

 やっと、言葉になった。

 やっと、誰かの口から出た。

 十二年前、自分は何も知らなかった。

病院で感染症対応に追われ、連絡が減って、気づいた時には時間が過ぎていた。

久しぶりに連絡した時にはもう繋がらなくて、実家へ電話して、初めて亡くなったと知った。

その時も死因は曖昧だった。

急変したとしか言われなかった。

 その曖昧さが、ようやく今、鋭い形を持って胸に刺さってくる。


「どうして隠したんですか」

 かすれた声で佐山は言った。

「国家と企業が必要だったから?」


 高村は答えなかった。答えられないのだろう。


「……私はまた、同じことを止められなかった」


 その一言だけが、会議室に落ちた。

 また。

 その言葉が、現在と過去を繋いだ。

 佐山はそこで初めて、高村が昼間に消された理由を理解した。

高村は、ただの失脚ではない。

壁だったのだ。

社員を外へ出さないための、防波堤。

十二年前の繰り返しを止めるための、最後の壁。

その壁が今、崩された。


「出向が決まるんですね」

 佐山が言うと、高村はゆっくり頷いた。


「明日には動き出すと思う」


「誰が行くんですか」


 高村はほんの一瞬だけ目を伏せた。それだけで十分だった。

 佐山の胸の奥で、嫌な確信が形を持つ。


「……石井さんですか」


 高村は答えなかった。否定もしなかった。

 沈黙こそが答えだった。

 佐山は椅子の背にもたれたまま、深く息を吐いた。怒りとも、後悔ともつかない熱が胸の内側をゆっくり広がる。

十二年前、自分は間に合わなかった。何も知らなかった。

何もできなかった。

でも今度は違う。

そう思った瞬間、自分の中にあまりにも強い決意が立ち上がるのを感じた。

 高村はその顔を見て、静かに言った。


「佐山さん」


「……はい」


「あなたなら、あの子を見ていてくれると思った」


 その言葉に、佐山は返事ができなかった。

 高村が何を重ねているのかも分かる。

小出の面影。

守れなかった若い命。

止められなかった選択。

自分だって、彩佳の中に別の誰かを見ていないとは言えない。

 夜の窓の向こうで、設備棟の排気塔が黒く立っていた。

地下では今日もラインが動いている。

雫は集められ、数えられ、必要な場所へ送られる。


誰かを守るために。

社会のために。

国家のために。


 だがその言葉は、時々あまりにも多くのものを飲み込む。

 会議室を出る時、高村は最後に一度だけ言った。


「ごめんなさい」


 佐山は振り返らなかった。

 謝罪で済むことではないと思ったし、謝罪以外の言葉を高村が持っていないことも分かっていたからだ。エレベーターの前まで来た時、佐山はようやく自分の手がわずかに震えていることに気づいた。


 その震えは恐怖ではない。


 怒りと、決意だった。


 翌朝、社内には新たな通知が出た。



 Project Lacta関連試験への出向に関する説明を開始します。



 その文面は簡潔で、必要以上に整っていた。人事課を通じて個別通知を行う、とだけ書いてある。

 彩佳はそのメールを開き、数秒だけ画面を見つめた。

 まだ自分の名前は出ていない。

 だが、もう影ではなかった。

 高村という防波堤が崩れたあと、水は止まらない。

 押し寄せるものは、いつも静かな顔をしてやってくる。

 窓の向こう、設備棟の塔からは今日も白い蒸気が上っていた。

 雫は、止まらない。

 そして、今度は雫そのものではなく、その雫を落とす身体ごと、流れの中へ引き込まれようとしていた。

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