第3話 出向の影
七月に入る頃には、その変化はもう会社全体の空気だけの話ではなくなっていた。
四階の会議が増える。
人事の機密書類が増える。
経理コードが変わる。
医務課の会議が長くなる。
それぞれは別々の動きに見えるのに、全部が一つの流れの中で繋がっている気配があった。
そして、その流れは少しずつ“個人の名前”へ近づいてきていた。
朝、一階ロビーに黒い車が二台入ってくるのを見た時、彩佳はまた足を止めた。
総務の女性がすぐに姿勢を正す。受付前の空気が一段だけ張る。
車から最初に降りたのは橋本ちえ子。ガイア製薬の担当営業。細いヒールで迷いなく歩き、受付へ軽く会釈する。その後ろから、スーツ姿の男が二人降りてきた。さらに最後に、表情は穏やかなのに、その人が歩くだけで周囲の空気が整うような男がいた。
前にも見た顔だった。
だが今日は、来訪ログに名前が並んでいる。
厚生労働省感染対策課 国分 悠司
ガイア製薬 真壁 俊
ガイア製薬 相原 俊成
彩佳はその並びを見た時、胸の奥が少しだけざわついた。
国家。
企業。
研究。
それがもう一つの場所でまとまって話をしている。
「石井さん」
背後から佐山に呼ばれ、彩佳は振り向いた。
「今日、来客対応増えるから受付気にしてて」
「はい」
佐山はロビーを見て、それ以上は何も言わなかった。
だがその視線は一瞬だけ硬かった。
午前中の広報課は、表面だけ見ればいつも通りだった。
だが実際には、誰もが別の階の気配を少しずつ意識していた。
四階。
閉じた応接室の向こう。
そこで何かが決まりつつあることを、誰もが感じている。
それでも、仕事は止まらない。
10時過ぎ、彩佳は追加資料を四階へ届けるよう頼まれた。
幹部フロアへ上がると、空気は一階よりさらに張っていた。
窓の外には敷地の奥の設備棟が見える。青い空の下、排気塔から細い蒸気がゆっくり上がっている。地下の生産ラインの気配だけが、あの塔として地上に出ている。
応接室の扉は閉じられていた。
中は見えない。
それでも、ただの来客対応ではない話がされていることは分かる。
彩佳は資料を秘書席へ渡し、そのまま廊下の端で待機した。差し替えがあるかもしれないから、すぐ戻らずにいてほしいと言われたのだ。
扉の向こうから、低い声がかすかに漏れてくる。
全部は聞き取れない。
けれど単語だけは時々浮いて聞こえた。
「……供給の立ち上がりを待っていたら、次の波に間に合いません」
男の声だった。
冷たいというより、熱のない話し方だった。
「現行プロトコルでは準備期間が長すぎる。個体差も大きい」
彩佳は無意識に扉の方を見る。
「短縮高出力群を組まない限り、実用域のモデルには届きません」
別の声が重なる。
こっちは少し低く、数字を扱う人間の声だった。
「しかも、予防薬開発が前倒しできれば、ガイアだけの話では済みません」
短い沈黙。
そのあと、またその男が続ける。
「経営側としては、ラクト・セラムにとっても利点は大きい。供給量が上がれば、生産計画も契約条件も見直せる。事業としても利益が出ます」
“利益”という言葉だけが、やけにはっきり聞こえた。
高村の声が低く返す。
「利益の話をする前に、現場の身体の話をしてください」
扉の向こうで空気が少し張る。
最初の男の声が、穏やかなまま続けた。
「私は臨床開発の立場で話しています」
相手を押し返すためではなく、自分の立場を明確にするような言い方だった。
「Project Lactaに必要なのは、成立する供給モデルです。研究として、短縮化と高出力化の両方を検証しなければ、予防薬へ接続できない」
高村が間を置かずに返す。
「社員の身体を前提にした検証です」
「反応性の高い対象でなければデータの質が落ちます」
その言葉に、彩佳の指先が少し冷たくなった。
対象。
反応性。
データの質。
誰かの身体の話をしているはずなのに、人の輪郭がない。
真壁と思われる声が続ける。
「予防薬が実装されれば、ガイアはもちろん、ラクトの位置づけも変わります。今の供給協力会社ではなく、中核供給元として扱われる可能性が高い」
高村の声が少し鋭くなる。
「そのために、若い社員の身体を前倒しで使うんですか」
「使う、ではなく」
相原の声が入る。
「臨床的に必要な検証です」
その言い方は静かだった。
だからこそ、彩佳には余計に怖かった。
応接室の扉が内側から少し動き、彩佳はとっさに視線を外した。
次の瞬間には、秘書席の担当が顔を出していた。
「石井さん、追加はありません。下へ戻って大丈夫です」
「はい」
返事をして歩き出す。
だがエレベーターへ向かう間も、耳にはまだ会議室の向こうの単語が残っていた。
Project Lacta。
短縮高出力群。
予防薬。
利益。
意味が分からないまま、それでも嫌な形で記憶に残る言葉だけが増えていく。
昼前、彩佳は印刷し直した資料を持って三階の人事課へ向かった。
三階はやっぱり人の出入りが多い。採用、教育、勤怠、出向調整、福利厚生。人に関わる仕事が集まっているせいか、階全体にどこかせわしない疲労がある。最近はそこへ、別の種類の緊張が混じっている。
人事課の前で、また茉莉が資料を抱えて立っていた。
「横田さん」
声をかけると、茉莉は少し肩を跳ねさせてから会釈した。
「お、おつかれさまです」
「今回も、重そう」
「今回は、大丈夫です」
そう言いながら資料が少し傾く。彩佳は一番上のファイルだけ抜き取ってやった。
「今回も、これだけ持つ」
「わわ、すみません」
そう言うと、茉莉は少しだけ苦笑いして
「…今回も、大丈夫じゃなかったです」
「だね」
少し笑いながら茉莉に返した。
「今日も人事?」
「はい。午後から会議で使う資料、持ってくるように言われてて」
二人で並んで歩き出す。
廊下は電話の音と足音が多いのに、会議室前だけは妙に静かだった。
茉莉はしばらく黙ったまま歩いていたが、会議室の前へ来たところで小さく言った。
「……前にも少し言いましたけど」
彩佳が顔を向ける。
「うん」
「やっぱり、人事、変です」
前より声が低い。
怖がっているというより、見てしまったものをどう扱えばいいか分からない時の声だった。
「六月の終わり頃から嫌な感じはしてたんですけど、今日はそれよりもっと……決まりかけてる感じがします」
「何かあったの?」
「はっきり見たわけじゃないです」
茉莉はすぐにそう前置きした。
「でも、共有フォルダの権限がまた変わってて……機密指定の資料も増えてて。みんな普通にしてるのに、普通にしすぎてて」
最後のところだけ、少し早口になる。
「なんか、もう人が動く前提で書類が回ってる感じがして」
彩佳はすぐには返事をしなかった。
前の漠然とした不安より、半歩だけ現実に近づいた言葉だった。
「……怖いね」
そう言うと、茉莉は少しだけ口元を強ばらせた。
「はい」
今度は否定も言い訳もしなかった。
会議室の前まで来た時、扉が半端に開いていた。
中には人事課長と総務の主任がいて、机の上に何枚かの資料が広げられている。
全部を見る前に扉は閉じられた。けれど、その一瞬で表題だけが視界に残った。
出向候補者一覧
彩佳はその場で息を止めるほどではなかった。
ただ、喉の奥が一度だけ乾いた。
出向。
ラクト・セラムでは珍しい話ではない。工場、関連施設、医療機関、親会社。人が動くこと自体はある。けれど今、このタイミングで、その文字がProject Lacta関連の動きと同じ場所にある意味は、さすがに分かった。
自分に無関係だと言い切れる感じではなかった。
「石井さん?」
気づくと、会議室に入る直前の茉莉が振り返っていた。彩佳は慌てて表情を戻す。
「ううん、なんでもない。じゃあ、戻るね」
「はい」
人事課を出たあとも、胸の奥のざらつきは消えなかった。
広報課へ戻る途中、二階の医務課の前を通る。
受付の向こうで上原が誰かと話しているのが見えた。白衣の袖を少しまくり、静かだが早口で何かを確認している。聞き取れたのは短い単語だけだった。
「……観察強化」
「……選定基準」
「……継続可能性」
聞いてはいけない気がして、彩佳は足を速めた。
昼休み、五階の食堂で早苗と向かい合う頃には、朝から見聞きした断片が頭の中で絡まり始めていた。
「今日、人事行った?」
彩佳がトレーを置く前に、早苗が言った。
「行った」
「なんか見た?」
彩佳は少しだけ迷ってから答えた。
「……出向候補者一覧って文字だけ」
早苗の手が一瞬だけ止まった。
「やっぱり」
「やっぱりって、知ってたの?」
「確定まではしてなかった。でも、六月の終わり頃から嫌な動きだったから」
味噌汁の蓋を開けながら、早苗は続ける。
「経理コードの切り方、完全に短期の研究案件だったし、人事と医務課が同時に動いてる時点で、ただの社内調整じゃないと思ってた」
彩佳はスプーンを持ったまま黙る。
「……そこまで分かるんだ」
「分かるっていうか、見えてくるの」
早苗は平坦に言った。
「前はまだ“何か変”って感じだったけど、今日はもう違う。人が動く前提の流れ方してる」
その言い方に、彩佳は少しだけ視線を落とした。
「出向、かな」
「たぶんね」
短い沈黙が落ちる。
食堂のテレビではまたNV-40のニュースが流れていた。
死者数。
変異株。
供給逼迫。
最近は毎日どこかで聞く単語ばかりだ。
早苗はテレビを見ないまま、低い声で言った。
「こういう時、会社って“必要”って言葉使うでしょ」
彩佳が顔を上げる。
「うん」
「で、その必要って、だいたい誰かの身体とか時間に寄せてくる」
その言葉は、前の会話の続きとして自然だった。
「前はまだ空気だけだったけど、今日はもう違う」
早苗は彩佳を見た。
「書類の段階に入ってる」
彩佳は返事をしなかった。
返せなかった、の方が近い。
必要、という言葉は嫌いではなかった。
むしろ、必要なら自分にもできることがあると思いたい方だった。
けれど今、早苗の言う“必要”は、自分が思っているのとは少し違う形をしている気がした。
「……まだ決まったわけじゃないよ」
ようやく出たのは、その程度の言葉だった。
早苗は小さく息をつく。
「そういう話じゃないの」
「え?」
「決まってから考える空気になってるのが嫌だって言ってる」
その返しは強くなかった。
でも、前よりずっと現実に近い怒りが混ざっていた。
「彩佳」
「うん」
「何も言われてないうちから、“必要なら”の顔しないで」
その一言に、彩佳は少しだけ息を止めた。
図星だったのかもしれない。
まだ名前を呼ばれていないのに、どこかでもう、自分をその側へ寄せかけていた。
夕方、地下搾乳室へ降りる頃には、空はもう夏の色に近かった。
以前よりも日差しは強くなり、設備棟の塔が青い空の下ではっきり見える。
いつもの景色なのに、その景色の向こうで何かが急いでいる気配だけがある。
席につき、モニターに表示された自分の名前を見る。
石井 彩佳
Session Ready
その表示を見つめた時、不思議な感覚がした。
今まではただの自分の名前だったものが、少しだけ別の意味を持ち始めているような気がした。
紙の上に載る名前。
選ばれる名前。
管理される名前。
装置が動き出す。
シュッ、シュッ。
相変わらず変わらない音。
けれど彩佳には、その音が昨日までと少し違って聞こえた。
影は、まだ名前を呼ばれていない。
けれどもう足元まで来ている。
それは黒く濃いものではなく、最初はただ光の向きが変わっただけのようにしか見えない。
だから人は気づくのが遅れる。
自分の輪郭のどこまでが光で、どこからが影なのか、分からないまま進んでしまう。
彩佳もまた、その一人だった。




