第2話 静かな変化
変化は、たいてい音を立てない。
ある朝急に、会社の看板が掛け替わるわけじゃない。「今日から全部変わります」誰かがと宣言するわけでもない。空気はもっと静かに変わる。人の視線の止まり方とか、会議室の埋まり方とか、メールの件名の硬さとか、そういう小さなものから先に変わっていく。
六月の終わり頃、ラクト・セラムの中には、そういう静かな変化が少しずつ積もり始めていた。
朝の地下搾乳室は、相変わらず無機質だった。
更衣室で制服の上着を脱ぎ、検査・消毒室を抜け、並んだ席の一つに座る。モニターに名前が表示され、吸引が始まる。シュッ、シュッ、という一定の機械音が、部屋全体に薄く重なる。毎日聞いているはずなのに、ふとした瞬間にそれが自分の生活の音なのだと思って、彩佳は少し変な気分になることがあった。
ここで一日が始まる。
搾乳して、記録して、上へ行って仕事をする。
それがもう普通になっている。
モニターの数字は今日も大きくは外れていない。回数、時間、量。端末に残るのはそういう数字だけだ。だが身体の方は、数字だけでは割り切れない。眠い日もあるし、胸の奥が妙にざわつく日もある。朝のうちにそれを意識すると、その日一日ずっと意識してしまうから、彩佳はあまり考えないようにしていた。
隣の席では早苗が淡々と後処理をしている。動きに無駄がない。搾乳そのものに慣れているというより、慣れたという事実を感情から切り離しているような動き方だった。
「今日、四階また来るって」
後処理をしながら早苗が言った。
「また?」
「また」
彩佳は顔を上げる。
「ガイア?」
「たぶん。あと役所」
役所、という言い方をする時の早苗は、大体もう少し具体的な情報を持っている。
「なんで知ってるの」
「経理コードが増えてるから」
「それで分かるの?」
「分かるっていうか、分かるようになる」
早苗は平然と言った。
「最近、会議関係の処理が変。短期集中の予算が急に切られてるし、四階の固定会議が増えてる」
彩佳は小さく息をついた。
「すごいね」
「すごくない。嫌なだけ」
その返しが、早苗らしかった。
六月に入ってから、四階の応接室は埋まる日が増えていた。
ラクト・セラム本社の四階は、管理職と幹部のフロアだ。
大会議室、応接室、小会議室。
普段から静かな階ではあるが、最近はその静けさの質が違っていた。
誰かが言葉をひそめている時の静けさになっている。
彩佳は搾乳を終え、ラベルを確認し、後処理をしてから一階へ戻った。
広報課の朝は、社内端末を立ち上げるところから始まる。
勤怠、当日の来客予定、内部通知、社内ポータル。必要な情報はすべてその中にある。
外の世界と切り離された、会社の中だけの端末。
最初の頃は少し閉じた感じがしたが、今はむしろ、仕事の世界はこういうものだと思うようになっていた。
ただ、広報課にはもう一つ端末がある。
オンライン専用端末。外部メール、オンライン会議、官公庁との連絡、報道確認用の端末だ。
一般の社員より、広報の方が外の情報に触れやすい。そのせいで、見なくていいものまで見てしまうこともある。
その朝、オンライン専用端末の右側モニターには、報道監視用の速報一覧が開かれていた。
NV-40感染症、国内死者数二十人。
変異株流行継続。
既存ワクチン防御率の低下に懸念。
彩佳はその見出しを何秒か見つめた。
二十人。
春先には、海外で広がっているというだけの遠い話に見えていた。三月は国内死者が一人、二人というニュースだった。それが四月には少し増え、五月には十人前後になり、六月の終わりには二十人台に届きかけている。
数字だけ追えば、緩やかに上がっているだけにも見える。だが日々それを見る側には、その“緩やかさ”の方がじわじわと効く。
減らない。
止まらない。
次もたぶん増える。
そんな感じが、数字の並びからじわじわ染みてくる。
その時、社内端末の方に新しい通知が上がった。
【感染症情勢共有】
NV-40感染症 国内日次死者数二十人
変異株流行継続
各部署は供給体制強化対応に備えること
同じ数字が、少し違う意味で並んでいた。
外では死者数。
内側では供給を急ぐ理由。
彩佳はその二つを並べて見てしまい、少しだけ嫌な気持ちになった。数字は同じなのに、受け取る意味が違う。社内端末の文面には、人の顔がない。代わりに「対応」とか「備える」とか、そういう言葉だけがきれいに並んでいる。
「また出てる?」
隣の席の先輩がオンライン専用端末を覗き込みながら言った。
「はい」
「最近多いねえ、情勢共有」
「ですね」
「四階がうるさい時はだいたい増えるのよね、こういうの」
その先輩はそれ以上は言わなかった。
今のラクト・セラムでは、誰もが少しずつ余計なことを言わなくなっていた。
十時前、彩佳は資料が入ったファイルを持って三階の人事課へ向かった。
三階は採用、教育、勤怠、出向調整、福利厚生が集まる階だ。
人の出入りが多く、電話の音も多い。それでも最近は、そのにぎやかさの奥に別の緊張が混ざっていた。会議室前で足を止める人。
急いで画面を閉じる人。
機密指定のファイルを抱えて歩く人。
受付のカウンターの横で、茉莉が資料を抱えて立っていた。
「おはよう」
声をかけると、茉莉は少しびくっとしてから頭を下げた。
「お、おはようございます」
「重そう」
「大丈夫です」
そう言いながら、資料の束が少し傾く。彩佳は思わず笑って、一番上の資料だけ受け取った。
「じゃあ、これだけ持つ」
「すみません」
「いいよ。研修?」
「はい、今日は人事です」
茉莉はまだ入社したばかりで、三か月のローテーション研修中だった。経理、広報、人事と回っていて、どこへ行っても少し居場所を探している感じがある。
「慣れた?」
彩佳が何気なく訊くと、茉莉は少し考えてから答えた。
「……まだあんまり」
「でも前より話すようになったじゃない」
「石井さんたちが話しかけてくれるからです」
「早苗は?」
「高橋さんは、話しかけるというか……なんか、急に核心だけ言います」
彩佳は吹き出しかけた。
「わかる」
「昨日も“横田さんは考えすぎ”って言われました」
「合ってるかも」
「石井さんまで」
茉莉は少しだけ頬をふくらませた。けれど本気で怒っているわけではない。
その反応を見ていると、まだこの会社には新人らしい時間が残っているのだと思える。
人事課の前まで来た時、奥の会議室から低い声が漏れてきた。
内容までは聞き取れない。
ただ、人事課長と、それに応じる男の声が重なっている。最近こういうことが増えた。
茉莉がそっと声を潜めた。
「最近、人事も変ですよね」
「変?」
「なんか……機密指定の書類が増えてて。共有フォルダも前より細かく権限分けされてるし」
その言い方に、彩佳は少しだけ目を上げた。
新人は時々、全体像は分からないまま空気だけ正確に拾う。
「怖い?」
何となく訊くと、茉莉は少しだけ黙った。
「怖い、です」
それは思っていたより、はっきりした答えだった。
「会社が嫌とかじゃなくて……なんていうか、何か大きいことが決まっていく感じがして」
彩佳は返事に少し迷った。
自分もそう感じている。
でも、その正体までは見えていない。
見えないまま、何かが上の方で進んでいる感じだけがある。
「人が助かることなら」
結局、彩佳はそう言った。
「意味はあるんじゃないかな」
茉莉はすぐには頷かなかった。
数秒してから、小さく言う。
「……そうですよね」
午後、広報課へ戻ると、オンライン専用端末にはまた新しい会議招待が来ていた。
厚労省。
ガイア製薬。
供給体制。
予防薬関連。
最近の会議名は、必要なことしか書かない代わりに、それだけで十分に重い。
彩佳はそれを見ながら、何が決まるのかは分からないまま、決まったことだけが下へ降りてくるのだろうと思った。
夕方、四階へ差し替え資料を届けに行った時、応接室の前を通った。
扉は閉じられていて、中は見えない。
だが扉の向こうに低い声が重なっているのが分かる。内容までは聞こえない。
ただ、
「供給」
「対応」
「前倒し」
といった単語だけが時々浮いて聞こえた。
窓の外には、設備棟の塔が白い空の下ではっきり見える。
いつもの景色なのに、その景色の向こうで何かが急いでいる気配だけがある。
その夜、地下搾乳室で彩佳はいつもより少し長くモニターの自分の名前を見つめていた。
石井 彩佳
Session Ready
名前はただの名前のはずだった。
けれど最近、ときどきそれが何か別の意味を持ち始めているような気がする。
まだはっきりした不安ではない。
ただ、光の向きが少し変わっただけみたいな違和感だった。
変化は、たいてい音を立てない。
だから気づくのが遅れる。
気づいた時には、もう空気そのものが別のものへ入れ替わっている。
ラクト・セラムの中では、たぶんもうそれが始まっていた。




