第1話 日常
機械の音は、朝でも夜でも変わらなかった。
シュッ、シュッ、と短く息を吐くような規則的な音が、地下の空気を満たしている。金属でもなく、完全な人工音でもなく、けれど生き物の気配とは決して混ざらない。その曖昧なリズムが、ラクト・セラム本社地下の搾乳室にはいつも流れていた。
石井彩佳は、モニターの青白い光に照らされた自分の名前を見つめていた。
石井 彩佳
Session Ready
画面の下に表示された操作ボタンへ指を伸ばす。軽く触れると、装置が待機音を変えた。背もたれに身体を預け、ゆっくり息を吐く。天井は白く、照明は均一で、どの席に座っても同じ風景しか見えない。隣との仕切りはあるが、個室ほど閉じてはいない。その曖昧さが、この場所を仕事場らしくしていた。
彩佳は視線を少し上げた。
搾乳室A。
地下一区画のうちの一つ。ずらりと並ぶ機械は十台。今の時間、埋まっているのは半分ほどだった。誰も大きな声では話さない。たまに小さな挨拶が交わされる程度で、あとはみな、自分の身体から一定量の雫を切り出す作業に没頭している。
ここでは、それが日常だった。
更衣室で上着を脱ぎ、不織布キャップを被り、マスクをつけ、検査・消毒室で短い工程を終え、席に着く。名前の表示を確認して、始める。終われば記録が残り、母乳は密閉された容器に回収され、品質管理へ運ばれていく。誰の分がどこへ行くのかを、彩佳たちは知らない。知らなくても、問題はないことになっている。
それでも彩佳は、この仕事が嫌いではなかった。
正確には、嫌いになる理由が見つからなかった。
自分の身体から出たものが、未熟児のために使われる。免疫の弱い子供のための資源になる。会社の説明会でも、食堂の壁に掲げられたパネルでも、繰り返しそう教えられてきた。
一滴の母乳が、命を守る。
その言葉を、彩佳はまだ信じていた。
装置が本格的に動き出す。一定の圧がかかり、軽い違和感が身体に伝わる。慣れてしまえば、もう気にもならないはずの感覚だった。彩佳は目を閉じた。今日も朝から少し眠い。夜中に一度目が覚めたせいかもしれない。けれど、それを口にするほどのことではなかった。
左隣で、誰かが小さく息をついた。
「今日、ちょっと混んでるね」
視線だけ向けると、同じ広報課の先輩が肩をすくめていた。
彩佳はマスク越しに少し笑う。
「朝はやっぱり集中しますよね」
「会社来てから回した方が早いんだけどね。寮の地下、待つ時あるし」
「わかります」
短いやり取りはそれだけで終わった。会話はいつも長くならない。この場所ではみんな、必要以上に気持ちを持ち込まない。恥ずかしいとか、妙だとか、そういう感覚は入社から数か月で薄れていく。代わりに残るのは、効率と段取りと、身体をうまく管理しなければならないという意識だった。
彩佳は正面の壁を見た。
白い壁面に、小さな会社ロゴが貼られている。青い雫。ラクト・セラムの社章と同じ形だ。丸みのある一滴の中に、細い線がすっと流れている。初めて見た時、彩佳は素直にきれいだと思った。水滴にも見えるし、涙にも見えるし、母乳にも見えた。
けれど、ここで毎日そのロゴを見ていると、別のものにも見えてくる。
数えるための印。
集めるための印。
彩佳はかすかに眉を寄せ、それからすぐに自分でその考えを追い払った。
変なことを考えると、疲れる。
モニターの数字がじわじわと増えていく。左右別に表示された量、前回比、今日の累積量。数値になっていくのを見るのは、嫌いではなかった。頑張った分が見えるから、というのもある。目に見えない努力より、目に見える結果の方が安心できた。
父も、そういう人だった。
不意に思い浮かんだその顔を、彩佳は意識して振り払う。まだ朝だ。こんな時間に昔のことを思い出すと、一日中引きずる。だから考えない。考えないまま、装置のリズムに意識を合わせる。
シュッ、シュッ。
一定の呼吸みたいな音。
それが止まると、室内は一瞬だけ奇妙な静けさに包まれる。自分が機械の中で作業していたことを思い出すような、短い間だった。
彩佳は器具を外し、手早く後処理に入った。動きはもう習慣になっている。無駄がない、と前に佐山に言われたことがあった。
佐山あかり。
広報課にいる、年上の上司。けれど看護師資格を持っていて、医務課にも顔が利く。普段は穏やかな口調で、彩佳のことを仕事では「石井さん」、少し砕けた場では「彩佳さん」と呼ぶ人だった。
今日もこのあと顔を合わせるはずだ。
回収容器が自動で封緘される。ラベル番号だけが淡々と印字されていく。そこに名前はない。番号と時刻と、セッション記録。表向き、母乳は匿名化されて管理されていることになっている。誰の雫かではなく、どんな成分かだけを見る。そう説明された。
彩佳は、そこに特別な疑問を持ったことはなかった。
必要なら、そうするのだろうと思っていた。医療のためなら、仕組みがあるのは当然だ。きっと、誰かが見て、必要なところに届けている。自分が全部を知らなくても、ちゃんと意味はある。そう考えていた。
後処理を終え、更衣室に戻ると、ようやく人の体温がある空気に触れた気がした。ロッカーを閉め、ジャケットの袖に腕を通す。ネイビーの生地はしっかりしていて、着ると背筋が自然に伸びる。このジャケットが似合う、と言われたのは入社二年目の春だった。受付にも立てる、広報に向いている、と上司に褒められた時、彩佳は少しだけ嬉しかった。
人前に立つ仕事は、嫌いじゃない。
誰かに会社を説明することも。
「役に立つ仕事なんです」と言うことも。
それが本心だった。
エレベーターで一階へ上がると、空気が変わる。地下の無機質さから、地上の業務の匂いへ。印刷された資料の紙、消毒液、朝のコーヒー、制服の布。人が働いている会社の空気だ。
広報課のデスクにつく前に、彩佳は廊下の窓から外を見た。敷地の向こうに、低い設備棟が見える。その上に伸びる排気塔から、薄い白い蒸気がゆっくり上っていた。地下のB2生産ラインにつながる設備だと聞いたことがある。自分たちの母乳はあそこへ流れて、処理されて、製品になる。
製品。
その言葉を頭の中で繰り返すと、ほんの少しだけ胸がざわついた。
「石井さん」
声をかけられ、振り返る。佐山だった。今日も広報課のジャケットを着ている。髪はきちんとまとめられていて、歩き方に迷いがない。
「おはようございます」
「おはよう。朝、地下混んでた?」
「ちょっとだけ。でも今日は早かったです」
「そう」
佐山は短く頷いて、それから彩佳の顔を見た。
「ちゃんと寝てる?」
唐突な問いに、彩佳は一瞬だけ目を瞬かせた。
「寝てますよ」
「ほんとに?」
「ほんとです」
軽く笑って返すと、佐山は少しだけ眉を動かした。疑っているのか、確認しただけなのか、その顔だけでは分からない。
「ならいいけど」
それだけ言って、手に持っていた資料を彩佳へ渡す。
「午前中、十時から来客対応。ガイアの人、来るから」
彩佳の手がわずかに止まる。
「ガイアですか」
「うん。四階対応だけど、広報も資料押さえといて」
「分かりました」
返事をしながら、彩佳は胸の奥に小さな波が立つのを感じた。ガイア製薬。ラクト・セラムに資本参加している親会社。社員であれば名前を知らない者はいない。説明会でも研修でも必ず出る名前で、国家プロジェクトに深く関わっている企業だと教えられてきた。
助けるための薬を作る会社。
母乳を医療に変える会社。
そう教えられてきた。
佐山はそのまま行きかけて、また振り向いた。
「石井さん」
「はい」
「午前の来客終わったら、一回上に来て。会議資料の差し替えあるかも」
「分かりました」
佐山はそれ以上何も言わずに歩いていった。
彩佳はその背中を見送ってから、デスクについた。パソコンを立ち上げ、メールを開き、予定表を確認する。朝のルーティンは決まっている。やることが決まっていると、気持ちは安定した。迷わなくて済む。今やるべきことだけを見ていればいい。
机の上に置いていたスマートフォンに小さなニュース通知が光った。
中東地域で確認された新型感染症株、周辺国へ拡大。
変異速度の高さが懸念される。
専門家会議、国内流入リスクを指摘。
彩佳は本文を開くでもなく、その見出しだけを眺めた。
こういうニュースは、この数年で珍しいものではなくなっていた。どこかで流行が起こり、どこかで変異が見つかり、薬やワクチンの話が出る。けれど、画面の向こうの話は、まだ遠い。少なくとも今朝のこの会社には、いつも通りの空気が流れていた。
電話が鳴る。
誰かがコピー機の前で立ち止まる。
会議室の予約を確認する声がする。
紙を揃える音。
キーボードを打つ音。
そのすべての下に、地下から持ち上がってきたような感覚が残っている。
シュッ、シュッ、と。
雫を集める機械の呼吸。
午前十時前、彩佳は資料を持って四階へ上がった。
幹部フロアは一階や三階よりも静かだ。床材も、照明も、空気の張りつめ方も少し違う。応接室の扉は閉じられていて、中からは声が聞こえない。ただ、人がいると分かる気配だけがある。
資料を届けたあと、廊下の端で少し待機していると、応接室の扉が一度だけ開いた。中から見えたのは、スーツ姿の男の横顔と、テーブルに広げられた書類の端。それだけだった。だが、その一瞬で空気が違うと分かった。
ただの商談ではない。
そういう匂いがした。
「石井さん」
声を落として呼ばれ、彩佳はすぐ姿勢を正した。人事課の課長が廊下へ出てきていた。
「はい」
「資料ありがとう。今のところ差し替えはないです。下に戻って大丈夫」
「分かりました」
課長はすぐに扉の向こうへ戻っていく。扉が閉まり、また静けさが戻った。
彩佳はその場に数秒だけ立ち尽くした。四階の窓から、敷地の向こうが見える。白い空の下で、設備棟の上から蒸気が薄く流れていた。あの下で処理された雫が、どこかの医療現場へ届く。誰かを守るために使われる。そう思うと、少しだけ安心する。
自分の仕事には意味がある。
この会社には意味がある。
そう信じているうちは、立っていられる。
昼休み、五階の食堂で早苗と向かい合った時も、その感覚はまだ続いていた。
「今日、上、なんか空気変じゃなかった?」
トレーを置くなり、早苗が小声で言った。相変わらず単刀直入だ。彩佳は味噌汁の蓋を開けながら曖昧に頷く。
「ガイアの人が来てたみたい」
「みたい、じゃなくて絶対それでしょ。朝から人事も変だったし」
「早苗、そういうのよく見てるよね」
「見えるだけ」
早苗はそう言って箸を割った。
「なんか嫌な感じする」
彩佳は少しだけ笑う。
「また大げさ」
「大げさじゃないって。うち、最近ちょっと空気変わってる」
その言葉に、彩佳は即答できなかった。変わっている、という実感がまったくないわけではない。けれど、それを言葉にするほどの輪郭はまだなかった。目に見えない違和感ほど扱いにくいものはない。
「でもさ」
彩佳は小さく言った。
「もし本当に必要なことなら、誰かがやらないといけないんじゃない?」
早苗が顔を上げる。
「何が?」
「なんていうか……薬とか。そういうの」
「それをやるのは研究者でしょ」
「でも、その前段階で必要なこともあるじゃない」
言いながら、彩佳は自分が何を言おうとしているのか少し分からなくなった。
早苗はしばらく黙って彩佳を見ていたが、やがて呆れたように息をついた。
「彩佳って、たまにそういうこと言うよね」
「どういうこと?」
「自分がやらなくてもいいことまで、自分の番みたいに言うやつ」
彩佳は笑ってごまかした。
「別に、そんなつもりないよ」
「あるんだよ、無意識に」
早苗はそれだけ言って、箸を動かし始めた。
その言葉が、午後の間ずっと彩佳の中に引っかかっていた。
無意識に。
自分の番みたいに。
違う、と彩佳は思った。そんなつもりじゃない。ただ、自分が出せるものがあるなら、使ってもらっていいと思っているだけだ。自分より、それを必要としている誰かがいるなら。その考えのどこが変なのか、彩佳にはうまく分からなかった。
夕方、業務を終え、寮へ戻る道すがら、風が少しだけ冷たくなっていた。敷地内の灯りは規則正しく並び、寮の窓にも少しずつ明かりが灯り始めている。ここに暮らす女性たちのほとんどが、どこかで同じ仕事に関わっている。書類を作る人も、検査をする人も、数字を見る人も、母乳を搾る人も。
それぞれ違うはずなのに、どこか同じ雫の中にいる気がした。
寮の食堂で夕食を済ませ、部屋へ戻っても、昼の早苗の言葉は薄く残っていた。風呂を済ませ、ベッドに腰掛け、スマートフォンを開く。ニュースアプリにはまた中東の変異株の記事が並んでいる。感染者数、重症化率、空港検疫、専門家会議。画面を流れる数字を見ていると、突然、自分の仕事がすごく小さく、同時にすごく大きく感じられた。
この雫は、本当に誰かを守っているのだろうか。
守っているなら、もっと出した方がいいのだろうか。
そんなことを考えてしまった自分に、彩佳は小さく息をついた。
疲れているだけ。
今日は少し考えすぎた。
部屋の電気を消し、横になる。廊下の向こうから、誰かの足音が聞こえる。壁の向こうには早苗がいる。地下では、夜の搾乳室がまだ動いているはずだ。
シュッ、シュッ。
機械は、夜でも同じ呼吸を続ける。
目を閉じた瞬間、彩佳はぼんやりと、父の背中を思い出しかけた。だが、その輪郭がはっきりする前に、意識は浅い眠りの方へ沈んでいった。
まだ、この時は知らなかった。
今日と同じような明日が、もう長くは続かないことを。




