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プロローグ

 サイレンの音がする。

 夜の道路を切り裂くように、赤い光が窓ガラスを何度も流れていく。

 救急車の中は狭く、白く、金属の匂いがした。

 誰かが時刻を告げ、誰かが心臓マッサージをしている

「気道確保出来たから、次ルートとってアドレナリン入れるよ」

 低く落ち着いた声だった。

 手際良く点滴に必要な資器材が準備されていく

 焦っていないのに、少しも遅くない。

 白い手袋をはめた両手が、倒れた患者の腕をとり血管を確認する

 車体が揺れても、父の手だけはぶれない。

「ルートとれた、固定完了」

「脈、まだ触れません」

「了解、アドレナリン投与する」

 必要なことだけを短く返す。

 父の声を聞くと、周りの人まで少し落ち着くように見えた。

 幼い彩佳は、その姿をテレビで見たことがある。

 特集番組の中、薄い灰色の服で走る人たちのひとりとして。

 事故現場で、担架の横で、救急車の扉の前で。

 誰かが泣いている場所へ駆けていって、苦しそうな人に手を伸ばす人。

 そのたびに、彩佳は誇らしかった。

 これが自分の父なのだと思うと、胸が熱くなった。

 ヒーローみたい。

 そう言った時、父は少しだけ笑っていた。

 困ったような顔で、でも嬉しそうに。

「ヒーローじゃないよ。でも、目の前の命が繋がる様に頑張ってるんだ。」

 それでも彩佳には、やっぱりヒーローに見えた。

 怖い場所へ行ける人。

 泣いている人の前で、ちゃんと動ける人。

 助からないかもしれない誰かのために、迷わず手を出せる人。

 病院へ着く。

 後部ドアが開いて、冬の空気が一気に流れ込む。

 父たちは担架を押して走る。

 明るすぎる搬入口。

 開いた自動ドア。

 待っていた医療者たちの声。

「心肺停止、ドレナリン一回、気道確保済み――」

 父の声は最後まで途切れない。

 引き継ぎの言葉は早いのに、不思議なくらい聞き取りやすい。

 患者の命を一秒でも次へ渡すための声だった。

 担架が奥へ消えていく。

 父はその場で立ち止まり、ようやく一度だけ息を吐く。

 額に汗がにじんでいる。

 それでも次の瞬間にはもう顔を上げていた。

 その横顔を、彩佳は夢の中で見ている。

 まっすぐで、頼もしくて、少しも迷っていない。

 ――やっぱり、ヒーローみたいだ。

 場面が変わる。

 テレビの速報。

 増えていく数字。

 知らない言葉。

 父が家にいる時間は少しずつ減っていく。

 母の顔は、少しずつ固くなっていく。

「危ない仕事なんでしょう」 「誰かがやらないといけないから」

 食卓の上の空気だけが、冷たい。

 10歳の彩佳には、何がそんなに怖いのか分からなかった。

 父はいつだって人を助けてきた。

 今回だって、きっとそうなのだと思っていた。

 だから言った。

「お父さん、患者さんを助けてあげて」

 母が息を呑む気配。

 父は一瞬だけ黙って、それから、あの困ったようなやさしい顔で笑った。

 また場面が飛ぶ。

 静かな部屋。

 線香の匂い。

 泣いている母。

 白い骨壺。

 父は帰ってこなかった。

 胸の奥で、何かが乱暴につながる。

 自分が言った。

 助けてあげて、と。

 だから父は行って、帰ってこなかった。

 そんなはずはないのに、夢の中ではそれだけが消えない。

 …………

 ………

 ……

 …

 彩佳は目を開けた。

 薄い朝の光が、カーテンの隙間から部屋に差している。

 頬が冷たかった。

 触れると、指先が濡れる。

「……またか」

 しばらく天井を見つめたあと、ゆっくり起き上がる。

 洗面台で顔を洗い、鏡の中の自分を見る。

 目元は少し赤いが、そのうち戻るだろうと思う。

 制服に袖を通し、社員証を取る。

 いつもの朝。

 いつもの手順。

 玄関を出ると、冬の空気が頬に触れた。

 ラクト・セラムへ向かう道を歩きながら、彩佳は夢の細部をもう思い出さないようにする。

 ただ、胸の底には残っている。

 ヒーローみたいだった父の横顔と、

 いまだ輪郭のはっきりしない、古い罪悪感だけが。

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