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最終話 旅立ち

 三月の終わりが近づくにつれて、ラクトセラム本社の空気は少しずつ春へ向かっていた。


 朝の冷え込みはまだ残っている。 けれど、昼前になると窓から入る光に少しだけやわらかさが混じる。


 敷地の端にある桜の枝にも、薄い色のつぼみがつき始めていた。


彩佳は三月中旬頃から、有給消化と引っ越し準備、予備校の申し込み、各種手続きで会社や寮に居ない日も多くなっていた。


 今日は、広報課のデスクを片づけるために来ている。


 引き出しを開けると、思っていたよりも物は少なかった。


 出向前から残っていたメモ。 受付対応マニュアルの控え。 社内共有資料に貼ったままの付箋。 使いかけの付箋束。 インクの薄くなった古いボールペン。


 どれも、急変前の自分が残していったものだった。


 彩佳は、メモ帳を手に取った。


 表紙の端が少し折れている。 中には、来客対応の注意点や、よくある問い合わせの言い回しが細かく書かれていた。


 丁寧な字だった。


 でも、少しだけ必死な字にも見えた。


 あの頃の自分は、ここでちゃんと役に立ちたいと思っていた。 受付に立ち、笑顔で来客を迎え、広報課の一員として会社を支える。


 それが、自分にできる仕事だと思っていた。


 同じ机に戻ってきた。


 でも、ここに残るためではなかった。


 ここから出ていくために、戻ってきたのだと思った。


 その気持ちは、少し寂しかった。


 けれど、不思議と間違っているとは思わなかった。


「石井さん」


 佐山の声がした。


 顔を上げると、佐山が自分のデスクの向かいに立っていた。


「片づけ、進んでる?」


「はい」


 彩佳は少しだけ笑った。


「思ったより、物は少なかったです」


「そう?」


「はい。でも、メモは多かったです」


 彩佳がメモ帳を見せると、佐山は少し懐かしそうに目を細めた。


「彩佳さん、何でも書いてたからね」


「忘れないようにと思って」


「忘れないというより、失敗しないようにって感じだった」


 佐山の言葉に、彩佳は苦笑した。


「そうかもしれません」


 佐山はデスクの横まで来て、段ボール箱を覗き込んだ。


「本当に行くんだね」


 その声は、静かだった。


 彩佳は手を止めた。


「はい」


「寂しいけど」


 佐山は少しだけ笑う。


「安心もしてる」


「安心、ですか」


「うん」


 佐山は机の上に残っていた付箋を一枚手に取った。


「彩佳さんが、自分の足で決めた道だから」


 彩佳は何も言えなかった。


 自分の足で。


 その言葉が、胸の奥に静かに落ちる。


 ずっと、誰かのために進もうとしていた。 人の役に立つなら、自分が無理をしないといけないと思っていた。


 けれど今は、自分で選んだ道へ進もうとしている。


 それが正しいかどうかは、まだ分からない。


 医学部受験は簡単ではない。 体力も、聴力も、不安はある。 お金のことも、勉強のことも、先の見えないことばかりだった。


 それでも、自分で決めた。


「佐山さん」


「うん?」


「デスク、残してくれてありがとうございました」


 彩佳は机に手を置いた。


「戻る場所があるって、思えました」


 佐山は少しだけ目を伏せた。


「戻ってきてほしかったから」


「はい」


「でも、戻ってきたうえで、別の道を選んだ」


「……はい」


 佐山は頷いた。


「なら、それでいいと思う」


 その言葉に、彩佳は深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 佐山は少しだけ照れたように笑った。


「片づけ終わったら医務課にも顔出して。上原先生、今日いるから」


「はい」


     *


 医務課の診察室には、上原がいた。


 診察ではない。 退職前に、体調の確認と今後の相談をしておこうということで、少しだけ時間を取ってくれていた。


「引っ越し準備で疲れていませんか」


 上原は端末を見ながら言った。


「少し疲れてます」


 彩佳は正直に答えた。


「でも、休みながらやっています」


「それは良いことです」


「最近は、無理していないか聞かれる前に自分で言うようにしています」


「成長ですね」


 上原が淡々と言うので、彩佳は少し笑った。


「先生、今さらですけど前より少しだけ言い方が柔らかくなりましたよね」


「そうですか」


「はい」


「では、気のせいです」


「気のせいですか」


「はい」


 上原は真顔で言った。


 けれど、その口元はほんの少しだけ緩んでいた。


 ガイアから帰った後から、上原との距離は少し変わった。


 担当医と患者。 その線はもちろん残っている。


 けれど、以前よりも少しだけ雑談が増えた。 上原が、診察に関することだけでなく、自分の事もたまに話してくれるようになっていた。


 それが彩佳には少し不思議で、少し嬉しかった。


「退職しても、体調のことで困ったら連絡してください」


 上原が言った。


 彩佳は目を瞬いた。


「いいんですか」


「はい」


「でも、もう社員ではなくなります」


「元担当医としては、放っておけません」


 上原は端末を閉じた。


「それに、医学部受験をするなら、体調管理も含めて相談先はあった方がいいです」


「先生、最近少し過保護です」


「今さらです」


 即答だった。


 彩佳は思わず笑ってしまった。


 上原も、わずかに笑う。


「ただし」


「はい」


「勉強を始める前に、まずは生活リズムを整えてください」


「はい」


「焦らないこと。体力を戻すこと。」


「はい」


「そして、一人で全部決めないこと」


「わかりました」


 彩佳は素直に頷いた。


 上原は机の引き出しから、小さなメモ用紙を取り出した。


「これは、私の連絡先です」


「え」


「業務用です。急ぎでなくても、体調のことで相談があれば連絡してください」


 彩佳はそのメモを両手で受け取った。


「ありがとうございます」


「あと」


 上原は少しだけ間を置いた。


「勉強で分からないことがあれば、私が高校時代に使っていた参考書の話くらいはできます」


 彩佳は少し驚いて顔を上げた。


「先生、そこまでしてくれるんですか」


「同じ高校の後輩なので」


 上原は優しい笑顔で言った。


「それに、医師を目指す人が一人増えるのは、悪いことではありません」


 彩佳はメモを見つめた。


 小さな紙だった。


 けれど、そこに書かれているものは、これから先の道に伸びる細い線のように見えた。


「先生」


「はい」


「私、頑張ります」


 言ってから、少しだけ慌てて付け加える。


「あ、無理しない範囲で」


 上原は静かに頷いた。


「そこまで言えれば、十分です」


      *    


 退職の日が近づくにつれて、寮の部屋は少しずつ空になっていった。


空になった本棚、最低限の着替えるしか入っていないクローゼット、長く暮らしたはずなのに、物が減ってしまえば、入社したばかりの頃とそれほど変わらない部屋に見えた。


 早苗は、荷造りを何度か手伝いに来てくれた。


 床に座り、段ボールへ本を詰めながら、早苗が何気なく言った。


「荷物、意外と少ないね」


「そう?」


「うん。もっと色々あるかと思ってた」


「ある程度は、先に実家へ送っちゃったし」


「そっか」


 早苗は納得したように頷き、最後の一冊を段ボール箱へ入れた。


 ガムテープを引き出す音が、物のなくなった部屋に少し大きく響く。


 それきり、二人の間に沈黙が落ちた。


 彩佳は、何も置かれていない机と、半分ほど空いたクローゼットを眺める。


「ねえ、入社した頃のこと、覚えてる?」


 早苗が手を止めた。


「どうしたの、急に」


「荷物が少なくなった部屋を見てたら、思い出しちゃって。ここに来たばかりの頃も、こんな感じだったなって」


「まあ、何にもなかったもんね」


「うん」


 彩佳は懐かしそうに笑い、それから早苗の顔を見た。


「私、最初は早苗のこと、怖い人だと思ってた。あんまり笑わないし、必要なことしか話してくれないし」


「それは別に間違ってないかも」


「認めるんだ」


「だって私、彩佳のこと苦手だったし」


「えっ」


 彩佳が目を見開いて、早苗を見る。


 早苗は何でもないことのように、段ボールの中の本を揃えている。


「超がつくほど真面目で、いつも必死で、休憩もしないし。声掛けられても“大丈夫です”って笑って人に頼ろうとしないし」


「そこまで?」


「そこまで。ずっとにこにこしてるから、最初は何考えてんだろって。すごく負けず嫌いで、堅い人なのかなって思ってた」


 早苗は箱の縁に手を置いたまま、少しだけ笑って彩佳を見た。


「でも、朝になると、たまに目を腫らしてるし」


「……気づいてたんだ」


「気づくよ。隣に住んでたんだから」


 彩佳は恥ずかしそうに視線を落とし、膝の上で指を組んだ。


「隠せてると思ってた」


「全然」


「恥ずかしい……」


「それに、加減を知らないし。苦しい時ほど平気なふりをするし、人のことになると後先考えずに動くし」


 早苗の声は呆れているようでいて、どこか優しかった。


「だから、放っておけなくなった」


 彩佳はゆっくり顔を上げる。


 早苗は少し照れたように目を逸らし、ガムテープの端を指でいじった。


「必死すぎて見てるこっちが疲れる時もあったけどさ。それでも、彩佳が頑張ってると、私ももう少しくらい頑張ってみようかなって思えた」


「私が?」


「そう。本人は全然気づいてないだろうけど」


 早苗は小さく笑った。


「危なっかしくて、心配ばっかりかけるのに、人を前向きにさせるんだよね、彩佳は」


 彩佳はしばらく何も言えずに早苗を見ていた。


「……早苗が、そんなこと言うの珍しいね」


「彩佳が急に昔話なんか始めるからでしょ」


「でも、嬉しい」


「そういうのは言わなくていい」


「なんで?」


「恥ずかしいから」


 早苗がそっぽを向く。


 彩佳は堪えきれずに笑った。


「やっぱり早苗って、面倒見のいいお姉ちゃんみたいだよね」


「同い年」


「最初は怖かったけど」


「まだ言う?」


「今は優しいお姉ちゃん」


「だから、同い年だって」


 早苗もとうとう吹き出した。


 物の少なくなった部屋に、二人の笑い声が広がった。


 しばらくして、早苗がぽつりと言った。


「本当に出ていくんだね」


 彩佳は手を止めた。


「うん」


「寂しい」


「うん」


「でも、いいと思ってる」


「うん」


 同じ言葉ばかりだった。


 けれど、その短いやり取りで十分だった。


「早苗も、海外行くんだよね」


「行く」


「お菓子の勉強」


「うん」


「本当に行くんだ」


「もちろん」


 早苗の声は迷っていなかった。


「だから、彩佳もちゃんと行きなよ」


「うん」


「落ちたらまた受ければいいし」


「さらっと厳しいこと言うね」


「医学部でしょ」


「まぁそうなんだけどさ」


「じゃあ正しいじゃん」


 二人は少しだけ笑った。


 寮の部屋は、笑い声が消えるとすぐに静かになった。


 でも、その静けさは寂しいだけではなかった。


 次へ向かうための静けさだった。


     *


 退職前日、茉莉が彩佳の部屋を訪ねてきた。


 手には、小さな紙袋を持っている。


「先輩」


「うん」


「あの、これ」


 茉莉は紙袋を差し出した。


 中には、淡い色の付箋セットと、細めのペンが入っていた。 それから、小さな封筒も一つ。


「勉強で使えるかなと思って」


 彩佳は目を細めた。


「ありがとう」


「そんなに高いものじゃないんですけど」


「ううん。嬉しい」


 茉莉は少しだけほっとしたように笑った。


 それから、真面目な顔になる。


「先輩」


「うん」


「ちゃんと相談してくださいね」


 彩佳は思わず笑った。


「それ、私が言ったやつ」


「返します」


 茉莉は少しだけ照れたように言った。


「先輩も、一人で頑張りすぎると思うので」


「うん。気をつける」


「ちゃんと相談する」


 彩佳がそう言うと、茉莉はようやく笑った。


「はい」


 それから、少しだけ視線を落とす。


「先輩」


「うん」


「私、まだ怖いです」


 彩佳は黙って聞いた。


「また何かあったら、ちゃんと相談できるか、まだ自信はないです」


「うん」


「でも、相談します」


 茉莉は顔を上げた。


「そう決めました」


 彩佳は静かに頷いた。


「うん」


「それでいいと思う」


 茉莉は少しだけ涙ぐんだ。


 でも、泣かなかった。


「先輩も、頑張ってください」


「うん」


「でも、頑張りすぎないでください」


「みんなそれ言う」


「みんな正しいです」


 茉莉が真面目な顔で言うので、彩佳は笑ってしまった。


     *


 三月最後の金曜日。


 彩佳にとって、ラクトセラムでの最終勤務日だった。


 午前中はいつも通り、広報課で問い合わせ一覧の確認と、社内共有文書の整理をした。


 電話には最後まで出なかった。 受付にも立たなかった。


 それでも、広報課の机に座り、資料を読み、佐山に確認を返す。


 それだけで、自分が確かにここで働いていた時間を、もう一度なぞっているような気がした。


 午後になると、佐山から声をかけられた。


「石井さん、少しいい?」


「はい」


 佐山の声はいつも通りだった。 でも、広報課の空気が少しだけ違う。


 隣の経理課の方からも、人の気配がしていた。


 彩佳が立ち上がると、佐山は一階の広報課と経理課の間にある、少し開けた場所へ案内した。


 そこには広報課の職員たちが集まっていた。 隣の経理課からも、野村や早苗、茉莉が顔を出している。


 少し離れたところには、上原、河合、清水の姿もあった。


 二階の医務課から、わざわざ来てくれたのだと分かって、彩佳は胸の奥が少し熱くなった。


 佐山が隣に立ち、穏やかに言う。


「今日で、石井さんはラクトセラムでの勤務が最後になります」


 その言葉を聞いた瞬間、ようやく実感が追いついてきた。


 最後。


 この会社で働く最後の日。 広報課の自分の机に座る最後の日。 佐山の隣で業務をする最後の日。


 彩佳は一歩前に出た。


 視線の先に、広報課の人たちがいる。 経理課には早苗と茉莉がいる。


 茉莉はすでに少し泣きそうな顔をしていた。


 彩佳は小さく息を吸った。


「本日で、退職することになりました」


 声は少し緊張していた。


「入社してから、広報課と受付でたくさんのことを教えていただきました」


 最初に受付に立った日のことを思い出す。


 ラクトセラムの社章が付いたネイビーのジャケットにスラックス。 緊張で少し冷たくなった手。 来客に向けて、初めて「おはようございます」と言った時のこと。


「うまくできないことも多くて、迷惑をかけたこともたくさんありました」


 彩佳は少しだけ目を伏せた。


「体調を崩してからは、戻る場所を残していただいて、本当にありがとうございました」


 広報課の誰かが、小さく鼻をすする音がした。


「短い間でしたが、この会社で働けたこと、ここで皆さんに会えたことを、私は忘れません」


 言葉が、一度詰まりかける。


 でも、彩佳は顔を上げた。


「私はこれから、別の道を目指します」


 早苗が静かにこちらを見ている。


「うまくいくかはまだ分かりません。でも、ここで助けてもらったことを忘れずに、ちゃんと前を向いて進みたいと思います」


 彩佳は深く頭を下げた。


「本当に、お世話になりました」


 少しの沈黙のあと、拍手が起きた。


 広報課から。 経理課から。 そして、少し離れたところにいた上原たちからも。


 拍手は大きすぎず、でも温かかった。


 彩佳は頭を上げた。


 佐山が隣で小さく笑っている。 上原は静かに頷いていた。 河合は少し目元を緩め、清水はいつものようにまっすぐ彩佳を見ていた。


 茉莉は、もう泣いていた。


 早苗はその隣で、困ったような顔をしている。


 挨拶が終わった後


 自分のデスクに戻る途中、上原が歩み寄ってきた。


「石井さん」


「はい」


「体調には気をつけてください」


 いつもの言葉だった。


 けれど、今は少しだけ違って聞こえた。


「はい」


「困ったことがあれば、連絡してください」


「ありがとうございます」


 清水も少しだけ前に出る。


「無理したら、上原先生に言いますからね」


「それ、退職後もですか」


「もちろんです」


 清水が真顔で答えたので、彩佳は少し笑った。


 河合も穏やかに言う。


「受験勉強、体力も使いますからね。無理しすぎないでください」


「はい」


「でも、応援しています」


「ありがとうございます」


 その後、広報課の人たちが順番に声をかけてくれた。


 短い言葉ばかりだった。


 元気でね。 頑張って。 また顔出して。 無理しないで。


 その一つ一つが、胸に残った。


 最後に、佐山が彩佳のデスクまで一緒に戻った。


 机の上には、もうほとんど何も残っていない。 小さな段ボール箱が一つあるだけだった。


「明日、駅まで送る」


 佐山が静かに言った。


 彩佳は顔を上げた。


「え」


「荷物もあるでしょ。寮の前まで車で行くから」


「でも、佐山さんにそこまでしてもらうのは」


「最後くらい、上司らしいことさせて」


 佐山は少しだけ冗談めかして言った。


「それに、彩佳さんの体調もあるし。電車に乗る前に疲れたら困るでしょ」


 彩佳は少し迷ってから、頷いた。


「……ありがとうございます」


「うん」


 佐山は静かに笑った。


「明日、寮の前で」


     *


 翌日、土曜日。


 寮の前には、佐山の車が停まっていた。


 朝の空気はやわらかく、三月の終わりらしい匂いがした。 敷地の桜は、いつの間にか満開に近くなっている。


 彩佳は、何もなくなった部屋の真ん中に立っていた。


 ベッド。 机。 椅子。 窓。


 荷物を運び出した部屋は、思っていたより広く見えた。


 ここで眠った。 泣いた。 早苗と話した。 茉莉の謝罪を聞いた。 退職を決めた夜も、この部屋にいた。


 物がなくなると、思い出だけが残る気がした。


 少し寂しい。


 そう思った。


 彩佳は白いキャリーケースの持ち手を握り、最後にもう一度だけ部屋を見回した。


「ありがとうございました」


 小さく呟いて、頭を下げる。


 そして、部屋を出た。


 廊下には、早苗が立っていた。


「遅い」


「ごめん」


「部屋で泣いてた?」


「少し」


「え、ホントに?」


「ごめん、嘘」


 二人は少し笑い合う


 早苗がキャリーケースを見る。


「持つ?」


「大丈夫。これくらいは」


「無理そうなら言って」


「うん」


 二人でエレベーターへ向かった。


 玄関には茉莉と、佐山の車が見えた。


「先輩……」


 その声だけで、もう泣いているのが分かった。


 彩佳は少し困ったように笑った。


「茉莉ちゃん、早いね」


「今日が最後だと思うと落ち着かなくて…」


 佐山は運転席から降りて、キャリーケースを受け取った。


「荷物、後ろに入れるね」


「ありがとうございます」


 佐山が荷物を積み、彩佳は助手席に乗った。 後部座席には、早苗と茉莉が並んで座る。


 車がゆっくり動き出した。


 ラクトセラムの敷地を出る前に、彩佳は窓の外を見た。


 白い本社。 ガラス張りのロビー。 広報課のある一階。 医務課のある二階。 そして、寮。


 その全部が、少しずつ後ろへ流れていく。


 後部座席から、すすり泣くような音がした。


「ちょっと、何でもう泣いてるのよ」


 早苗が呆れたように言う。


「だって……やっぱり寂しいです」


 茉莉の声はすでに涙混じりだった。


「二度と会えなくなるわけじゃないんだから」


「分かってますけど……」


 彩佳は振り返って、少し笑った。


「そうだよ。落ち着いたら、みんなで集まろ」


 茉莉が顔を上げる。


「その言葉、絶対忘れませんからね」


「うん。忘れないで」


 佐山も前を向いたまま微笑んだ。


「私も楽しみにしてる」


 彩佳は頷いた。


「はい。受験が終わったら、すぐに連絡します」


「受験が終わったら、ね」


 早苗が少しだけ強調する。


「途中で無理しそうになったら、その前に連絡」


「はい」


「返事だけじゃなくて」


「実際に連絡します」


 そのやり取りに、佐山が少し笑った。


「みんな同じこと言うね」


「彩佳には何回言ってもちょうどいいです」


 早苗が即答する。


 車内に、小さな笑いが広がった。


 泣いている茉莉も、涙を拭きながら少しだけ笑っていた。


     *


 駅前のロータリーに着くと、佐山は車を停めた。


「私、車で待ってるから」


 佐山は後部座席を振り返る。


「二人は見送りしてきて」


 早苗と茉莉が同時に頭を下げた。


「ありがとうございます」


「ありがとうございます」


 彩佳は助手席から降り、佐山を見る。


「佐山さん」


「うん」


「送ってくれて、ありがとうございました」


「こちらこそ」


 佐山は少しだけ笑った。


「気をつけて行ってきて」


「はい」


 佐山はそれ以上言わなかった。


 言葉を増やすと、別れが重くなりすぎると分かっているようだった。


 彩佳はキャリーケースを引き、早苗と茉莉と一緒に駅の入口へ向かった。


 ロータリーから駅の入口までの短い道を、三人は無言で歩いた。


 春の風が吹いている。 駅前の桜は満開だった。 薄い花びらが、舗道の端に少しだけ落ちている。


 駅の入口まで来ると、三人は自然に足を止めた。


 顔を見合わせる。


 早苗が、茉莉を見て言った。


「また茉莉泣いてる」


「……すいません」


 茉莉は涙を拭いた。


 その様子を見て、早苗も彩佳も困ったように笑った。


 泣かれると困る。


 でも、泣いてくれることが嬉しくもある。


 彩佳はキャリーケースの持ち手を握り直した。


「……じゃあ、そろそろ行くね」


 早苗は頷いた。


「うん。落ち着いたら連絡して」


「分かった。ちゃんと連絡する」


 茉莉が、はっとしたように顔を上げた。


「あっ、しゃ、写真撮っていいですか」


 思い出したような声だった。


 早苗が少し眉を寄せる。


「また、時間がない時に……」


「す、すいません……」


 茉莉が慌ててスマートフォンを取り出す。


 彩佳は笑った。


「いいよ。撮ろう」


 三人は駅の入口脇に寄った。


 背景には、満開の桜と、駅前のロータリーが入る。


 茉莉がスマートフォンを少し高く持つ。


「い、いきます」


「泣き顔でいいの?」


 早苗が言う。


「いいです。これが今の私なので」


「開き直った」


 彩佳は笑ってしまった。


 シャッター音が鳴る。


 一枚。 もう一枚。


 最後に、通りかかった人にお願いして、三人並んだ写真も撮ってもらった。


 彩佳は真ん中より少し左に立ち、白いキャリーケースを持っている。 早苗は少し照れたように笑い、茉莉は涙目のまま、それでもちゃんと笑っていた。


「ありがとうございます」


 茉莉がスマートフォンを受け取り、画面を見る。


 その瞬間、また泣きそうな顔になった。


「いい写真です……」


「だから泣かない」


 早苗が言う。


 彩佳は二人を見て、胸の奥が熱くなった。


「じゃあ、行くね」


 今度こそ、そう言った。


 早苗は小さく頷く。


「行ってらっしゃい」


 茉莉も、涙をこらえながら言った。


「行ってらっしゃい、先輩」


 彩佳は、二人を見た。


「行ってきます」


 そして、自動改札へ向かった。


     *


 ホームに立つと、春の風が少し強く感じられた。


 電車を待つ人たちの間で、彩佳は白いキャリーケースを横に置いた。


 ホームの向こうには、駅前の桜が見える。 満開の枝が、風に揺れていた。


 やがて、電車が到着する。


 ドアが開き、彩佳はキャリーケースを引いて乗り込んだ。


 空いている席に座る。


 窓側の席だった。


 電車がゆっくり動き出す。


 ホームが流れていく。 駅の看板が遠ざかる。 桜の色が、窓の外を薄く染める。


 彩佳は窓の外を見た。


 三年間過ごした街の景色が、少しずつ後ろへ流れていく。


 住宅街。 低いビル。 街路樹。 小さな公園。 遠くに見えるラクトセラムの白い建物。


 ここで働いた。


 ここで傷ついた。


 ここで助けられた。


 ここで、自分の道を選び直した。


 スマートフォンが小さく震えた。


 メッセージアプリの着信音だった。


 画面を開くと、茉莉からのメッセージが届いていた。


『先輩、またみんなで集まりましょう』


 その下に、さっき駅前で撮った写真が送られている。


 彩佳は画面を見つめた。


 桜の下に、三人が並んでいる。


 早苗は少し困ったように笑っている。 茉莉は涙目で、それでも笑っている。 彩佳も、自分で思っていたより自然に笑っていた。


 胸の奥が、静かにほどけていく。


 彩佳は写真を保存した。


 そして、返信を打つ。


『うん。絶対に集まろう』


 送信してから、もう一度写真を見る。


 涙が一粒、頬を伝った。


 悲しいだけではなかった。


 寂しい。 怖い。 でも、少しだけ楽しみでもある。


 電車は春の街を進んでいく。


 窓の外では、桜が満開だった。


 彩佳はスマートフォンを胸元に抱き、ゆっくり目を閉じた。


 さようなら、ではない。


 行ってきます。


 そう心の中で呟いて、彩佳を乗せた電車は春の光の中を走っていった。

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