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エピローグ 雫の先

 夜間外来の診察室は、忙しかった。


 壁の時計は、午前十二時を少し過ぎている。

 待合のざわめきは、ようやく途切れかけていた。


 彩佳は椅子に座り、診察台の上の小さな男の子へ少し身をかがめた。


 白衣の胸元には、ネームプレートがある。


 県立総合病院

 小児科

 医師 石井


「あーんして」


 男の子は母親の膝の上で、少し不安そうに彩佳を見た。


「そうそう、上手だね」


 彩佳はペンライトで喉を確認する。

 赤い。

 けれど、呼吸状態は落ち着いている。


「じゃあ、次はもしもししてもいいかな」


 聴診器を手に取る。


 彩佳は右手で聴診器のチューブを軽く支え、右耳にだけイヤーチップが入るように角度を調整した。

 左耳には、髪に少し隠れるように補聴器がついている。


 もう、慣れた動作だった。


 昔は、その一つ一つに自分の身体が変わったことを思い知らされていた。

 けれど今は違う。


 今の自分の働き方だ。


「冷たいよ。ごめんね」


 聴診器を胸に当てると、男の子が少し肩をすくめた。


「うん、上手。背中も聞かせてね」


 呼吸音はきれいだった。

 喘鳴もない。

 胸の動きも悪くない。


 彩佳は聴診器を外し、母親の方へ向き直った。


「お母さん、お子さん、喉は腫れていますが、呼吸の音はきれいです。今のところ、肺の方まで悪くなっている感じはありません」


 母親の顔に、少しだけ安堵が広がる。


「お薬を出しますので、今日はご自宅で様子を見てください。水分が取れなくなる、呼吸が苦しそうになる、ぐったりして反応が悪い、そういう時はすぐにまた受診してください」


「はい」


 母親は何度も頷いた。


「夜遅くに診てくださって、ありがとうございました。病院が見つからなくて、本当に助かりました」


 その声には、疲れと不安がまだ残っていた。


 彩佳は少しだけ表情をやわらげる。


「子どもは急に熱が出ますからね。心配になるのも分かります」


 男の子が、母親の袖を握っている。


 彩佳は男の子にも笑いかけた。


「お薬飲んで、今日はゆっくり寝ようね」


 男の子は小さく頷いた。


「お大事にしてくださいね」


 母親が深く頭を下げ、診察室を出ていく。


 扉が閉まると、彩佳は一度だけ息を吐いた。


 疲れている。


 患者が途切れることはなく、昔とは違う重さを覚える。

 若い頃のように無理は利かない。

 左耳も、長い診療の後は少し疲れる。


 けれど、不思議と嫌ではなかった。


 誰かの不安が、ほんの少し軽くなる。

 小さな身体が、明日も息をしている。


 それを確かめる仕事を、今、自分はしている。


     *


 午前十時を過ぎた頃、彩佳は駅近くの小さな洋菓子店にいた。


 白い壁と木目の棚。

 入口には、金色の文字で店名が書かれている。


 Pâtisserie Jeune Pousse

 パティスリー・ジュンヌ・プース


 若い芽の洋菓子店。


 かつての店の面影を残しながら、店内は明るく改装されていた。

 ショーケースには、チーズケーキ、タルト、焼き菓子が並んでいる。

 店の奥と2階にイートインスペースがあった。


 彩佳は、1階の奥、窓際の席に座っていた。


「お疲れ様」


 カウンターの奥から早苗が出てくる。


 白いエプロン。

 まとめた髪。

 昔より少し大人びた顔。


 でも、歩き方や声の調子は、あまり変わっていなかった。


「はい、チーズケーキと紅茶」


 彩佳の前に、白い皿が置かれる。


 表面がなめらかなチーズケーキ。

 紅茶の湯気が、ゆっくり立っている。


「ありがとう」


 彩佳は肩の力を抜いた。


「当直、疲れたよ」


「疲れたなら、早く帰って寝ればいいのに」


 早苗は呆れたように言う。


「当直明けは、これ食べたくなっちゃうんだよね」


 彩佳はフォークを手に取る。


 早苗は少し目を細めた。


「彩佳のお父さんと同じ」


 その言葉に、彩佳は一瞬だけ手を止めた。


 それから、小さく笑う。


「確かに」


 父も、仕事帰りにこの店へ寄っていた。


 まだ早苗が小さかった頃。

 彩佳も、自分がその店主の娘に嫉妬していたことなんて、ほとんど覚えていなかった頃。


 知らないところで、いくつもの線が繋がっていた。


 今、彩佳はその店で、父が買ってきてくれたものと同じチーズケーキを食べている。


 自分も、当直明けに。


「てんてー」


 奥から小さな声がした。


「こんちわー」


 彩佳が顔を上げると、小さな女の子が両手を広げて走ってくる。


 早苗の娘、陽菜だった。


「だっこしてー」


「わー、ひなちゃんこんにちは」


 彩佳は笑って、椅子を少し引く。


「よしよし、ちょっと待ってね」


 膝の上に乗せる準備をすると、陽菜は当然のように彩佳へ身を預けた。


「わ、また重くなってる」


 彩佳は陽菜を抱き上げ、膝の上へ座らせる。


「てんてー、びょーいん?」


「そう。今日は病院でお仕事してきたよ」


「いたいの、なおした?」


「うん。ちょっとだけお手伝いした」


 陽菜は満足したように頷き、すぐにテーブルの皿へ目を向けた。


「けーき、たべるー」


「こら、陽菜。それ彩佳先生のでしょ」


 早苗がすぐに注意する。


 それから、カウンターへ戻って小さな皿を持ってきた。


「はい、どうぞ」


 陽菜の前にも、小さく切ったチーズケーキが置かれる。


「ありがとございます」


 陽菜は丁寧に頭を下げてから、彩佳の隣でケーキを食べ始めた。


 彩佳はその横顔を見て、少しだけ目を細める。


 小さな口で、少しずつ食べる。

 頬にケーキをつけて、嬉しそうに笑う。


 小さな命。


 十五年前、自分が守りたいと思ったもの。

 あの日、NICUで見たもの。

 自分が、もう一度勉強しようと思った理由。


 それは今、こんなふうに隣でケーキを食べている。


「もう、お店始めて一か月くらい?」


 彩佳が訊くと、早苗は彩佳の向かいに座って言った。


「うん、そうだね。いい感じでしょ?」


「うん。前の感じも好きだったけど」


「結構古かったから。それに、ちゃんと中で食べられるようにしたかったし」


「私がしょっちゅう来るの、予想してた?」


「いや、それは予想外だったけど」


「私も」


「何それ」


 二人で笑った。


 その笑い声に、陽菜が不思議そうに二人を見上げる。


「なにー?」


「何でもないよ」


 彩佳が陽菜の髪を軽く撫でる。


 栗色の柔らかい髪だった。


 陽菜はまたケーキへ戻る。


 店内には、焼き菓子の甘い匂いと、紅茶の香りが漂っていた。

 外から入る春先の光が、床にやわらかく伸びている。


 十五年。


 長かったのか、短かったのか、よく分からない。


 彩佳は医学部へ入り、何度も折れそうになった。

 勉強も、実習も、国家試験も、研修医の日々も、簡単なものではなかった。


 左耳のことを説明しなければならない場面もあった。

 体力の限界を思い知らされたこともあった。

 小児救急の現場で、かつての記憶が一瞬だけ胸を掠めた夜もあった。


 それでも、続けた。


 続けるために、休むことを覚えた。

 助けてもらうことを覚えた。

 一人で立てない日も、立ち上がる方法を覚えた。


 早苗も同じだった。


 ラクトセラムを辞めた後、洋菓子を学びに海外へ行った。

 戻ってきて、祖母と両親が残した店の名前をもう一度掲げた。


 形は変わった。

 でも、なくなってはいなかった。


「ねえ、早苗」


「ん?」


 早苗が顔を上げる。


 彩佳は紅茶のカップを両手で包んだ。


「お互い、ちゃんと生きてたね」


 早苗は少しだけ黙った。


 それから、ゆっくり笑った。


「そうだね」


 その声は、昔よりも少し柔らかかった。


「ちゃんと生きてた」


 陽菜がケーキを食べながら、二人の顔を交互に見る。


 早苗は陽菜の口元を拭きながら続けた。


「だから、ちゃんとチーズケーキ作ったでしょ」


 彩佳はフォークで一口分を切り取り、口へ運ぶ。


 濃厚なのに、重すぎない。

 甘さの奥に、少しだけ酸味がある。


 昔、父が買ってきてくれた味。

 早苗の家の記憶。

 自分が知らなかったつながり。


 その全部が、今は静かに重なっている。


「うん」


 彩佳は微笑んだ。


「やっぱり、このチーズケーキが一番おいしい」


 早苗は少しだけ得意そうに笑った。


「でしょ」


     *


 ラクトセラムは、十五年前とは違う会社になっていた。


 Project Lactaそのものが消えたわけではない。

 ヒト乳汁由来の免疫資源を必要とする医療は、今も社会の中に残っている。


 けれど、十五年前のあの告発から会社は再編された

一ノ瀬は社員を出向させた件や告発の件の責任を取り辞任。


人事課長も会社の再編を見届けた後に辞職した。


 ドナー対象者の健康管理、同意手続き、外部監査、投薬プロセスの審査、医療側の中止権限。

 かつて曖昧にされていたものは、いくつも制度として見直された。


 その中心に立った一人が、佐山だった。


 佐山は、芹沢という姓に変わり、ラクトセラムの専務になっている。

 かつて高村がそうだったように、外からの圧力と現場の間に立つ防波堤になっていた。


 厳しい人になった、と言われることもある。

 けれど、佐山はその評価を否定しない。


 守るために厳しくなることがある。

 それを、十五年前に知ったからだ。


 上原は今も、ラクトセラムの医師として働いている。

 社員の診察を続け、投薬プロセスの安全評価に関わり、時には外部委員会にも出ている。


 彩佳とは、今も細く繋がっていた。


 県立総合病院へ供給されるヒト乳汁由来製剤の確認や、乳幼児への使用に関する連携会議。

 仕事の中で顔を合わせるたび、上原は昔と同じように淡々と言う。


 無理はしていませんか。


 彩佳はそのたびに笑う。


 してません、と答える時もある。

 少ししました、と正直に言う時もある。


 茉莉は総務課で、人事担当として働いている。


 新入社員の教育。

 寮生活の相談。

 家庭事情を抱えた社員への支援。

 社内で声を上げにくい若い社員の面談。


 かつての自分の経験を、茉莉は忘れていない。


 命令に逆らえなかったこと。

 会社を辞められないと思い込んだこと。

 誰かを裏切りかけたこと。

 それでも、早苗に止められ、彩佳に「一人で決めないで」と言われたこと。


 だから茉莉は、新入社員に必ず言う。


 困った時は、一人で判断しないでください。


 それは制度の説明ではなく、祈りに近い言葉だった。


     *


 店の外を、昼前の光が流れていく。


 陽菜はケーキを食べ終えると、彩佳の膝の上で眠そうに目をこすった。


「眠くなった?」


「ねむくない」


「それ、眠い時の返事だよ」


 彩佳が笑うと、陽菜はむっとした顔をした。


 その表情があまりに早苗に似ていて、彩佳はまた笑ってしまう。


「何笑ってるの」


 早苗が言う。


「似てるなと思って」


「誰に」


「早苗に」


「それはそうでしょ、私の子だし」


 早苗はそう言いながら、少し嬉しそうだった。


 彩佳は紅茶を飲み干し、空になった皿を見る。


 当直明けの身体は、まだ重い。


 でも、心の奥は静かだった。


 十五年前、自分はラクトセラムを辞めた。


 逃げたわけではない。

 捨てたわけでもない。


 ただ、自分を差し出す場所から離れた。

 そして、自分を守りながら誰かを守るための道を選んだ。


 その道の先で、今日も小さな子どもの喉を見て、胸の音を聞いた。


 右耳だけで聴診器を使い、左耳には補聴器をつけて。


 それが、今の石井彩佳だった。


「そろそろ帰る?」


 早苗が訊く。


「うん。少し寝る」


「ちゃんと寝て」


「分かってる」


「本当に?」


「上原先生みたいなこと言う」


「上原先生、正しいから」


「それはそう」


 二人はまた笑った。


 彩佳は陽菜をそっと早苗へ渡し、立ち上がった。


 店の入口へ向かう途中、ショーケースの中のチーズケーキが目に入る。


 白く、静かに光っていた。


 父が買ってきてくれたもの。

 早苗が取り戻したもの。

 自分が当直明けに食べに来るもの。


 過去は消えない。

 傷も、後悔も、なくならない。


 それでも、その先に続くものがある。


「また来るね」


 彩佳が言うと、早苗はすこし笑って頷いた。


「いつでもどうぞ」


彩佳も軽く笑い手を軽く挙げて返す。


 外へ出ると、春の光が眩しかった。


 少しだけ風がある。

 補聴器越しに、街の音がやわらかく届く。


 車の音。

 誰かの話し声。

 店の扉が閉まる音。


 その中に、陽菜の声が混じった。


「てんてー、ばいばーい」


 彩佳は振り返り、手を振った。


「ばいばい。またね」


 小さな手が、ガラス越しに揺れている。


 彩佳はその手を見ながら、静かに微笑んだ。


 雫は、ただ底に沈むだけではなかった。


 誰かの手にすくわれ、別の場所へ運ばれ、また小さな命を潤していく。


 その先へ、自分も歩いている。


 彩佳は羽織ったコートの襟を直し、駅へ向かって歩き出した。

ここまで読んで下さってありがとうございました。


youtubeでMVを公開してます。

興味がある方は是非ご覧下さい。

https://youtu.be/3N56btNNaew?si=eerLBsVhQTQTytPW

しずくの底 で検索していただけると見つかると思います。

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