第74話 父への挨拶
三月末、彩佳は一度実家へ戻った。
予備校に向けての準備に加えて、父にも挨拶をしておきたかった。
引っ越しのために寮から送った荷物の一部は、すでに家へ届いていた。
玄関近くの部屋には、段ボール箱がいくつか重ねて置かれている。
衣類。
本。
寮で使っていた小さな机。
ラクトセラムで使っていたものが実家の中に置かれている光景は、少しだけ不思議だった。
ここを出た時は、もう戻らないつもりだったわけではない。
けれど、自分の荷物が再びこの家へ運び込まれているのを見ると、長い時間を回って戻ってきたような感覚があった。
ただ、以前と同じ場所へ戻ったわけではない。
あの頃とは、身体も、考え方も、母との関係も変わっている。
彩佳は、部屋の隅に置かれた段ボール箱を見つめた。
会社を辞める。
医学部を目指す。
まだ何も始まっていない。
それでも、次の生活の輪郭が少しずつでき始めていた。
*
昼前、彩佳は母の運転する車で父の墓へ向かった。
助手席の窓から、郊外の景色が流れていく。
春を待つ畑。
低い住宅。
道路沿いの店。
以前、実家へ戻った時と同じような景色だった。
けれど、今日は少しだけ違って見えた。
母は運転に集中しながら、時折、彩佳の体調を確認するように横目で見た。
「疲れてない?」
「大丈夫」
「本当に?」
「本当に」
彩佳が答えると、母は前を向いたまま小さく息を吐いた。
「ならいいけど」
その言い方に、彩佳は少しだけ笑った。
心配されることを、以前ほど重く感じなくなっていた。
大丈夫だと言わなければならないとも思わない。
疲れたら、疲れたと言えばいい。
そう思えるようになった。
墓地に着くと、母は車から花と線香を取り出した。
彩佳も荷物を持とうとしたが、母が先に花を抱えた。
「これは私が持つから」
「持てるよ」
「分かってる。でも持たせて」
彩佳は少しだけ迷ってから、頷いた。
「うん」
二人は並んで墓地の中を歩いた。
父の墓は、以前と変わらずそこにあった。
墓石の周りを簡単に掃除し、花を供える。
母が線香に火をつけ、彩佳へ渡した。
彩佳は線香を供え、墓前で静かに手を合わせた。
目を閉じる。
以前ここへ来た時とは、少し違う感情で墓の前に立てている気がした。
父に謝りたかった頃があった。
父のようになれなかったこと。
人を助けられなかったこと。
自分ばかりが生き残っているように感じていたこと。
父の背中を追おうとして、どこまで行けばいいのか分からなくなっていた。
でも今は、少しだけ違う。
父と同じ場所へ行かなくてもいい。
同じ制服を着なくてもいい。
父と同じように、危険な場所へ行かなくてもいい。
彩佳は心の中で、父に語りかけた。
お父さん。
私、医学部を目指すことにしたよ。
形は違うけど、お父さんと同じ、命を支える仕事。
お父さんがあの時言ってくれた言葉を、ちゃんと理解できたかどうかは、まだ分からない。
でも、自分まで沈むような選択は、もうしない。
誰かを助けるために、自分を差し出すこともしない。
私には、隣に立ってくれる人がいた。
手を引いてくれる人もいた。
だから、今ここに立ってる。
お母さんとも、前よりは話せるようになったよ。
全部うまくいったわけじゃないけど。
それでも、これからはちゃんと前を向いて生きていきます。
すぐに医者になれるかは分からない。
受験に受かるかも分からない。
でも、今度は自分で決めた道だから。
やってみるね。
彩佳はゆっくり目を開けた。
線香の煙が、春の薄い空へ上っていく。
隣では、母も静かに手を合わせていた。
母が何を父へ話しているのかは分からない。
彩佳は聞かなかった。
しばらくして、母が目を開ける。
「もういい?」
「うん」
二人はもう一度だけ墓前に頭を下げた。
墓地を離れる時、彩佳は振り返らなかった。
父を置いていくわけではない。
今度は父の背中だけを追うのではなく、自分の道を歩くのだと思った。
*
墓参りの後、彩佳と母は昼食のため、国道沿いの飲食店に入った。
入口には、手指消毒用の機械が置かれている。
壁には、
――店内ではマスクの着用にご協力ください。
――入店時の手指消毒をお願いします。
と書かれたポスターが貼ってあった。
感染が完全に収まったわけではない。
けれど、少し前まで街全体を覆っていた張り詰めた空気は、いくらか薄くなっていた。
二人は窓際の席へ案内された。
注文を終えると、母は店内を見回した。
以前より客は多い。
家族連れもいる。
隣の席では、子どもがメニュー表を広げていた。
「医療機関逼迫って、あんまり聞かなくなったね」
母が言った。
「うん」
「彩佳の会社が作ってる薬のおかげなんだろうね」
彩佳は少しだけ視線を落とした。
「うん。たぶん」
優先医療機関での使用が始まってから、重症患者は少しずつ減っている。
供給はまだ限定的だ。
それでも、確かに救われた人がいる。
母はテーブルの上で指を組んだ。
「お母さんね」
その声が、少しだけ低くなる。
「彩佳の身体をこんなふうにした会社や薬を、恨んでないわけじゃない」
彩佳は黙って聞いた。
「今でも、もっと早く止めてくれてたらって思う」
「うん」
「彩佳があんな目に遭わなくても、薬は作れたんじゃないかって思う」
「うん」
母は窓の外を見る。
「でも」
少しだけ間を置いた。
「彩佳は、人に恵まれてたんだろうなって思う」
彩佳は顔を上げた。
「佐山さんや、高橋さんとか」
「うん」
「会ったことがない人もいるけど、彩佳を助けようとしてくれた人がいたんでしょ」
「いたよ」
彩佳は静かに答えた。
「たくさんいた」
母は小さく頷いた。
「だから、彩佳が働いた時間とか、会社にいたことまで、否定するつもりはない」
彩佳はすぐには返事ができなかった。
ラクトセラムで働いた時間。
会社に傷つけられた。
でも、会社で出会った人たちに助けられた。
そのどちらかだけではない。
母も、少しずつそのことを受け止めようとしているのだと思った。
「ありがとう」
彩佳が言うと、母は少しだけ困ったような顔をした。
「お礼を言われることじゃないけど」
ちょうど料理が運ばれてきた。
二人は店員へ頭を下げる。
母は箸を取ろうとして、一度手を止めた。
「それと、大学のお金なんだけど」
彩佳も手を止める。
「うん」
「学費くらいは出せるから」
「え」
思わず声が出た。
母は、彩佳の反応を予想していたように眉を上げる。
「元々、大学に行ってほしくて勉強させてたんだから」
「でも……」
「結婚の時に渡そうと思って、そのまま取ってある」
彩佳は母の顔を見た。
高校時代、母から勉強するように言われ続けた。
良い大学へ行きなさい。
将来困らないようにしなさい。
その言葉が苦しかった時もあった。
母の期待を背負わされているように感じていた。
けれど母は、言葉だけではなく、彩佳のためにお金も残していたのだ。
「そんな……」
彩佳が言うと、母は少し強い口調で遮った。
「意地張らないで」
それから、少しだけ表情を緩める。
「私にも、親らしいことさせて」
彩佳は目を伏せた。
助けてもらうことは悪いことではない。
今まで、何度もそう教えられてきた。
人から手を差し出された時、遠慮するだけが正しいわけではない。
受け取ることも必要なのだと思う。
「うん……」
彩佳は小さく頷いた。
「ありがとう」
母は満足そうに頷き、ようやく箸を取った。
「今週で会社は最後?」
「うん。金曜日に挨拶して、土曜日に退寮する」
「それが終わったら?」
「来週から予備校」
母は少しだけ目を細めた。
「忙しいね」
「うん」
「頑張らないとね」
彩佳は頷いた。
「うん」
それから、少しだけ考えて言い直す。
「でも、無理しないように頑張る」
母は彩佳を見た。
「お母さんも支えるから」
「うん、ありがとう」
そう言って
二人は食事を始めた。
窓の外を、車が行き交っている。
店の壁には、感染対策のポスターがまだ残っている。
社会は完全に元へ戻ったわけではない。
彩佳の身体も、以前と同じには戻らない。
それでも、止まったままではなかった。
少しずつ形を変えながら、前へ進んでいる。
彩佳は母と向かい合いながら、静かにそう思った。




