第73話 小出美紀への挨拶
小出美紀の墓は、街の中心から少し離れた丘の上にあった。
冬の終わりの空は薄く曇っている。
風は冷たいが、刺すような寒さではなかった。
墓地へ続く坂道を、彩佳はゆっくり歩いていた。
前には佐山がいる。
その少し後ろを、高村が歩いていた。
佐山は白い花束を持っている。
いつもより口数が少なかった。
高村もまた、ほとんど話さない。
黒いコートの襟元を押さえながら、ただ前を見ている。
彩佳は、その空気を壊さないように歩いた。
ここは、自分にとっては初めて来る場所だった。
けれど佐山にとっては、何度も通ってきた場所。
高村にとっては、ずっと向き合えなかったものが眠る場所。
そして、小出美紀という人が、もう二度と帰ってこない場所だった。
坂を上がると、墓石が並ぶ区画に出た。
佐山は迷わず歩いていく。
何度も来た道なのだろう。
やがて、一つの墓の前で足を止めた。
小出家。
墓石に刻まれた文字を見て、彩佳は自然に背筋を伸ばした。
佐山は花を供え、水を替え、線香に火をつける。
その動作は慣れていた。
慣れていることが、かえって痛かった。
毎年、こうして来ていたのだ。
何年も。
誰にも話さず
詳しく知ることも出来ずに。
佐山は静かに手を合わせた。
高村もその隣で手を合わせる。
彩佳は少し遅れて、二人の後ろに立った。
何を言えばいいのか分からなかった。
会ったことのない人。
けれど、佐山から話を聞いてから、その名前はただの資料上の名前ではなくなっていた。
看護学校時代、佐山と仲が良かった人。
人を救いたいという気持ちが強かった人。
マリア・ミルクで働き、ガイアの試験に関わり、治験中に亡くなった人。
彩佳は手を合わせ、目を閉じた。
はじめまして。
心の中で、そう言った。
石井彩佳です。
佐山さんから、美紀さんのことを聞きました。
それ以上の言葉は、すぐには出てこなかった。
でも、無理に言葉を増やす必要はない気がした。
風が、墓地の木々を小さく揺らしている。
線香の煙が、細く上へ伸びていった。
「美紀」
佐山が、小さく名前を呼んだ。
それは、誰かに聞かせるための声ではなかった。
「遅くなって、ごめんね」
その言葉に、高村もわずかに反応した。
彩佳は目を開けた。
佐山は、墓石の前で静かに立っている。
泣いてはいない。
けれど、その横顔には、言葉にできないものが滲んでいた。
高村がゆっくり口を開いた。
「小出さん」
声は掠れていた。
「私は、あなたのことをずっと見ないふりをしてきました」
佐山は何も言わない。
高村は続けた。
「忘れていたわけではありません」
その言葉は、言い訳のようで、言い訳ではなかった。
「でも、向き合うことから逃げていました」
高村は深く頭を下げた。
「本当に、申し訳ありませんでした」
墓前に、静かな沈黙が落ちる。
彩佳はその言葉を聞きながら、胸の奥が少し重くなるのを感じた。
謝っても戻らない。
後悔しても時間は巻き戻らない。
それでも、言葉にしなければならないことがある。
きっと、そういう場所なのだと思った。
*
しばらくして、背後から砂利を踏む音が聞こえた。
佐山が先に振り返る。
彩佳も顔を上げた。
そこに、橋本が立っていた。
黒いコートを着て、手には小さな花束を持っている。
以前見た時と同じように、どこか疲れた顔をしていた。
けれど、今日は逃げるような雰囲気ではなかった。
「佐山さん」
橋本が静かに言った。
「高村さんも」
高村は橋本を見る。
「来てくれたのね」
橋本は、すぐには答えなかった。
墓石へ視線を向ける。
その目が、ほんの少しだけ揺れた。
「……はい」
短い返事だった。
佐山は橋本の手元の花を見る。
「橋本さん」
「はい」
「ここへ来るのは……」
佐山は言いかけて、言葉を止めた。
橋本は苦い顔をした。
「初めてです」
その声は、ひどく小さかった。
「十二年前から、ずっと来られませんでした」
佐山は何も言わなかった。
橋本は続ける。
「来る資格がないと思っていました」
「資料を持っていたのに、何もできなかった」
「高村さんにも、佐山さんにも、すぐに渡せなかった」
橋本は墓前へ近づきながら、花束を握り直した。
「小出さんのことを忘れていたわけではありません」
その言葉は、さっき高村が口にしたものと同じだった。
けれど、同じ言葉でも、背負っているものは少しずつ違う。
「でも、忘れていなかったなら、もっと早く来るべきでした」
橋本は墓前に花を供えた。
佐山が供えた花の隣に、橋本の花が置かれる。
橋本はその場で手を合わせて頭を下げた。
「小出さん」
声が震えていた。
「遅くなって、申し訳ありません」
誰も何も言わなかった。
彩佳は、橋本の背中を見ていた。
資料を守った人。
でも、来られなかった人。
忘れていなかった。
でも、動けなかった。
その差が、どれほど大きいのか。
彩佳にはまだ全部は分からない。
けれど、橋本が今ここにいることもまた、簡単ではなかったのだと思った。
橋本はしばらく頭を下げたままだった。
やがて、ゆっくり顔を上げる。
「国分さんから連絡がありました」
その言葉に、佐山の表情が引き締まる。
「調査のことですか」
「はい」
橋本は頷いた。
「十二年前の資料についても、正式に確認が入ります」
高村が目を伏せた。
「そう」
「私も、知っていることを話します」
橋本の声は静かだった。
「もう、黙っている理由はありませんから」
佐山は橋本を見た。
怒りがないわけではない。
でも、その怒りをぶつけるだけでは、ここまで残されたものの意味がなくなる。
橋本は、その視線を受け止めた。
「佐山さん」
「はい」
「遅すぎました」
橋本は言った。
「はい」
佐山の返事は短かった。
橋本は目を伏せる。
「でも、資料を捨てなくてよかったと、今は思っています」
佐山はすぐには答えなかった。
少しして、静かに言う。
「本当に、遅いです」
「はい」
「でも」
佐山は墓石を見る。
「残っていて、よかったです」
橋本は小さく頭を下げた。
*
その時だった。
もう一つ、足音が近づいてきた。
橋本の表情がわずかに強張る。
佐山が振り返った。
高村も、彩佳も、その方向を見る。
階段の下から、一人の男が上がってきていた。
黒いコート。
整えられた髪。
手には花束。
相原俊成だった。
以前見た時のような、隙のない冷たさはなかった。
疲れているようにも見えた。
何かが削ぎ落とされたようにも見えた。
それでも、彩佳の身体は先に反応した。
胸の奥が、きゅっと縮む。
一階のエレベーターホール。
相原の視線。
閉まるエレベーターの扉。
その直後に押し寄せた急変の日の記憶。
浅くなる呼吸。
冷たくなる手足。
膝から力が抜ける感覚。
全部が一瞬で蘇りそうになった。
佐山が、反射的に彩佳の前へ立った。
彩佳の視界が、佐山の背中で遮られる。
「……どうして」
佐山の声が低くなる。
高村も相原を見ていた。
橋本は唇を結んでいる。
相原は足を止めた。
その視線は、墓前に向いている。
そして一瞬、彩佳の方へ向いた。
彩佳は佐山の背中の後ろで、手を握りしめた。
怖い。
まだ怖い。
身体がそう言っていた。
それでも、彩佳は逃げなかった。
佐山の肩越しに見えた相原の手元に、花があった。
白い花。
淡い紫の小さな花が混じっている。
佐山の息が止まる気配がした。
「その花……」
佐山が呟く。
相原は花へ視線を落とした。
「小出さんの命日に、いつも供えられていた花と同じ……」
佐山の声が震えた。
「どうして、あなたが……」
相原は、しばらく何も言わなかった。
風が、花束の包み紙を小さく鳴らす。
やがて、相原は静かに口を開いた。
「ここに来る資格が無いことはわかっています」
声は低かった。
「許されたいとも、忘れたいとも思っていません」
佐山は動かなかった。
高村が、苦しそうに目を伏せる。
橋本は、相原から視線を外せずにいた。
相原は墓前を見たまま続けた。
「小出美紀さんは、私が責任者として初めて担当した治験の被験者の一人でした」
彩佳は、佐山の後ろでその声を聞いていた。
「当時も、止めるべき所見はありました」
橋本の表情が強張る。
「けれど、止められなかった」
相原は言葉を選ぶように、ゆっくり話した。
「国からの圧力。感染拡大。成果を求める声」
「そう言えば、理由にはなります」
相原は、花を持つ手に力を込めた。
「ですが、免罪にはなりません」
佐山の肩がわずかに震えた。
「小出さんは、最後まで協力的でした」
相原の声が少しだけ掠れる。
「人の役に立つなら、と言っていました」
彩佳の胸が痛んだ。
その言葉は、あまりにも近かった。
「私は、その言葉に甘えました」
相原は続ける。
「中止すべきだった」
「けれど、成果が出ていた」
「必要とされていた」
「だから進めた」
その言い方は、誰かに言い訳するものではなかった。
自分の中に何度も繰り返してきた言葉を、ようやく外へ出しているようだった。
「小出さんの治験中の顔が、今でも夢に出ます」
「どんなに辛くても笑おうとするあの顔…」
「研究者とはどういう存在なのか、私はよくわかりません」
佐山は目を伏せた。
相原は沈黙の後、深く息を吐いて再び口を開く
「それでも私は、ガイアに残りました」
「自分はもう汚れ役だと思うことで研究職を続ける理由にした」
「必要なものを作るためなら、汚れた判断を引き受ける人間も必要だと」
相原は、そこで初めて彩佳の方を見た。
佐山がわずかに動く。
彩佳は、その背中の後ろで息を整えた。
「あなた…、いえ、石井さんを見た時、違和感がありました」
相原の声が静かに落ちる。
「顔ではありません」
「雰囲気でした」
「人の役に立ちたいと信じて、前へ出ようとする空気」
彩佳は唇を結んだ。
「小出さんに、似ていた」
佐山の手が強く握られる。
「そして私は」
相原は言った。
「また、それを利用しました」
誰もすぐには言葉を返せなかった。
墓前に、重い沈黙が落ちる。
風の音だけが、木々の間を抜けていく。
*
彩佳は、佐山の背中を見ていた。
その向こうに、相原がいる。
怖い。
今も、怖い。
手が冷たい。
膝の力が抜けそうになっているのが自分でもわかる。
相原俊成という人は、彩佳にとってはただの研究責任者ではない。
ガイアの白い部屋。
試験の記録。
息ができなくなっていく感覚。
自分の身体が、自分のものではなくなっていく恐怖。
その全部と結びついている人だった。
前に相原を見た時、彩佳は過換気を起こした。
身体が先に恐怖を思い出した。
今も、話したくない。
目を逸らして、佐山の後ろに隠れて、この場をやり過ごしたい。
でも。
彩佳は、ゆっくり息を吸った。
「佐山さん」
小さく呼ぶ。
佐山が振り返る。
「彩佳さん」
止めようとするような声だった。
彩佳は小さく首を振った。
大丈夫、という意味ではない。
怖くない、という意味でもない。
それでも、自分で話したい、という意味だった。
佐山はしばらく彩佳を見ていた。
それから、ほんの少しだけ横へずれた。
完全に前を空けるのではなく、すぐ隣に立つように。
彩佳は一歩だけ前へ出た。
膝はまだ少し震えている。
指先だって冷たい。
それでも、立っていた。
「相原さん」
少し震える声で言った。
相原が彩佳を見る。
その視線を受けた瞬間、胸が強く脈打った。
でも、彩佳は目を逸らさなかった。
「私は、あなたのことを、許すとか許さないとか、そういう単純な感情では見られません」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「私の中では、まだ怖い人です」
佐山の手が、彩佳の背中の近くで止まっているのが分かった。
「正直、今こうして話すのも怖いです」
「逃げ出したいと思っています」
相原は何も言わなかった。
彩佳は息を整えた。
冬の空気が、喉の奥を冷たく通る。
「でも」
彩佳は続けた。
声は、少しずつ落ち着いていく。
「小出さんとの過去を忘れてないこと」
相原の表情が、わずかに揺れた。
「忘れていないに、止まれなかったこと」
その言葉は、責めるためだけのものではなかった。
でも、逃がすためのものでもなかった。
「その過去を抱えているのに、また同じような構造の中に人を入れた」
「その判断は、簡単に許されることではないと思います。」
彩佳は自分の左耳に、ほんの少しだけ意識を向けた。
補聴器の存在。
戻らなかった聴力。
急変の日から続いている身体の変化。
「私は、あの試験の後遺症をまだ抱えています」
「生き方も、ずっと考えていました」
「人を助けたいと思っていたのに、その気持ちごと利用されたんだって、そう思うこともあります」
声が一度、詰まりかけた。
それでも言葉を続ける。
「でも、私には隣に立ってくれる人がいました」
佐山が息を呑む気配がした。
「手を引いてくれる人がいました」
早苗。
佐山。
上原。
清水。
河合。
母。
自分を、ただ被験者や社員としてではなく、人として見てくれた人たち。
「だから、私は今、ここに立つことが出来ています」
彩佳はまっすぐに相原を見た。
「命があるという意味だけではなくて」
「ちゃんと、前を向いて生きることが出来るという意味でも」
相原は、何も言えないようだった。
彩佳は、最後の言葉を静かに置いた。
「相原さんがつらい過去を抱えていることは理解しました」
「でも、私はこの身体に起きてしまった事に縛られて生きるつもりはありません」
風が、墓地の木々を小さく揺らした。
彩佳の声は、もう震えていなかった。
「私は、私の人生を続けます」
相原は、深く目を伏せた。
その顔に、以前のような冷たさはなかった。
ただ、自分自身が諦めていた弱さの前に立っている人の顔だった。
「……はい」
相原は小さく言った。
「その言葉を、受けます」
そして、墓前へ歩み寄った。
佐山は一瞬身構えたが、相原はそれ以上彩佳に近づかなかった。
小出美紀の墓前に花を供える。
佐山が持ってきた花。
橋本が初めて供えた花。
そして、相原の花。
三つの花が、墓前に並んだ。
相原は手を合わせなかった。
しばらく墓石を見つめてから、深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
その謝罪が誰に向けられたものなのか、誰も問いたださなかった。
小出美紀へ。
佐山へ。
彩佳へ。
そして、今まで利用してきたすべての人へ。
相原は頭を上げると橋本に向かって言った。
「車に戻りましょう」
橋本は静かに頷いた。
やがて相原は、何も言わずに背を向けた。
砂利を踏む音が、少しずつ遠ざかっていく。
橋本は直ぐに背を向けず高村や佐山に向かって静かに言った。
「私、これからは逃げません」
「話します。全部」
佐山は墓石を見たまま答える。
「お願いします」
橋本はゆっくりと頭を下げた後、相原の方へ歩いていった。
*
二人の姿が見えなくなってからも、しばらく誰も動かなかった。
彩佳はその場に立ったまま、ゆっくり息を吐いた。
身体の奥に、まだ恐怖は残っている。
相原と話したからといって、急に消えるわけではない。
きっと、これからも思い出す日はある。
声が聞こえただけで、胸が詰まることもあるかもしれない。
白い部屋や、閉まるエレベーターの扉を思い出すこともあるかもしれない。
それでも、今日、自分は逃げなかった。
怖いまま、話した。
それが、今の彩佳にできる区切りだった。
「彩佳さん」
佐山の声がした。
振り返ると、佐山がすぐ隣にいた。
「大丈夫?」
彩佳は少し考えてから、正直に言った。
「怖かったです」
「うん」
「でも、話せました」
佐山の目に、涙が浮かんでいた。
「うん」
それ以上、佐山は何も言わなかった。
彩佳も、何も言わなかった。
佐山は、彩佳の背中にそっと手を添えた。
支えるというより、隣にいることを伝える手だった。
彩佳はもう一度、墓前に向き直った。
小出美紀の墓には、佐山の花と、橋本の花と、相原の花が並んでいる。
そのことが正しいのか、彩佳には分からない。
でも、来られなかった人が来た。
忘れられなかった人が来た。
忘れてはいけない人の前に、ようやく同じ線にいた人たちが立った。
それだけは、確かだった。
彩佳は手を合わせた。
小出美紀へ。
何を伝えればいいのか、まだ分からない。
でも、今度は少しだけ言葉が出た。
私は、私の人生を続けます。
佐山さんが大切にしていたあなたのことを、忘れないようにします。
そして、同じ構造に、誰かがまた飲み込まれないように。
自分にできる形で、進みます。
線香の煙が、空へ細く上がっていく。
冬の曇り空の中へ、ゆっくり溶けていった。
忘れられていたわけではなかった。
でも、忘れなかっただけでは止められなかった。
だから、これからは。
忘れないまま、止めるために進むしかない。
彩佳は静かに目を開けた。
墓地の向こうに、街が見える。
自分がこれから戻っていく場所。
そして、いつか離れていく場所。
その先に、まだ見たことのない未来がある。
彩佳は佐山の隣で、ゆっくりと歩き出した。




