表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
74/76

第73章 裁かれる者

 国分から正式な調査が入ってから、ラクトセラムの空気は少しずつ変わっていった。


 何かが大きく崩れたわけではないわけではない。


 けれど、医務課の廊下を歩く人の足取り。 広報課に届く問い合わせの文面。 経理課に回ってくる契約変更の書類。 総務や人事の扉の開閉。


 そういう小さなものが、日ごとに変わっていく。


 PLX大規模治験の投薬は止まった。


 搾乳と観察、検体回収は行政監督下で続いている。 経鼻予防薬の供給も、国内の優先医療機関向けに限って継続されている。


 止まったものと、止められないもの。


 その両方が、ラクトセラムの中にあった。


 ニュースでは、連日ガイア製薬の名前が出ていた。


 経鼻予防薬によって、優先医療機関の重症化率が下がりつつあること。 感染症病棟の逼迫が少しずつ改善していること。 一方で、その開発過程において安全管理と記録処理に重大な問題があった疑い。


 画面の中で、解説者が言う。


 ――試験中止相当の所見が、継続可能に見える形へ処理されていた可能性があります。


 ――十二年前の類似試験にも、同様の構造があった疑いが出ています。


 ――国はProject Lacta関連試験の運用について、ガイア製薬および関係機関に対し、正式な調査を開始しました。


 彩佳は広報課のデスクで、そのニュースの見出しだけを外部端末で見た。


 動画は再生しなかった。


 見なくても、内容は分かる。


 その言葉の中に、自分の身体がある。 小出美紀の名前がある。 佐山が長く抱えてきた時間がある。


 それが、社会の言葉になって流れている。


 必要なことだと思う。


 でも、どこかで少しだけ、自分の中から離れていくような感覚もあった。


 痛みは、ニュースになると別の形になる。


 見出しになり、数字になり、意見になる。 必要だと言う人がいる。 信用できないと言う人がいる。 早く広げてほしいと言う人がいる。 止めるべきだと言う人がいる。


 どれも、どこか正しい。


 だからこそ、疲れる。


「石井さん」


 佐山に声をかけられ、彩佳は端末から顔を上げた。


「はい」


「ありがとう、今日はここまでで大丈夫」


「はい」


 彩佳は社内共有文書を閉じる。


 手は動く。 仕事も、少しずつ戻っている。


 けれど、以前と同じ気持ちではない。


 それはもう、彩佳自身にもはっきり分かっていた。


     *


 ガイア製薬への調査は、想像していたよりも早く進んだ。


 詳細は社内にすべて共有されるわけではない。 それでも、断片的な情報は届いてくる。


 倉持は、PLX小規模試験の記録処理と、ラクトセラム側資料の回収指示について聴取を受けているという。


 高田の安全評価メモ。 上原と河合の医学的評価。 清水と佐山の現場記録。 正式記録との差分。


 それらを「証拠にはならない」と言って切り捨てようとした倉持の言葉は、今度は逆に、調査の中で彼女自身へ向かっていた。


 相原についても、研究責任者としての責任が問われている。


 小規模試験。 大規模治験。 そして十二年前の試験。


 そのどこまでを知っていたのか。 どこからを黙認したのか。 なぜ止めなかったのか。


 調査は、そこへ踏み込もうとしていた。


 真壁の名前も、話題の中に出るようになった。


 経鼻予防薬の海外展開を進めていたガイア製薬の経営戦略担当。 国内で限定承認された成果をもとに、海外企業との契約や技術提供を進めていた人物。


 だが、試験運用の倫理的問題が表面化したことで、海外企業からの契約見直しやキャンセルが相次いだらしい。


 経鼻予防薬は、国内では供給が続く。 しかし、海外展開は止まった。


 利益を見込んでいた計画は、大きく崩れ始めていた。


 彩佳は、その話を聞いても胸がすくような気持ちにはなれなかった。


 誰かが裁かれる。 責任を問われる。


 それは多分必要なことだ。


 でも、それで自分の左耳が戻るわけではない。 小出美紀が帰ってくるわけでもない。 佐山の十三年が消えるわけでもない。


 だから、これは復讐ではないのだと思った。


 なかったことにしないための手続き。 同じことを繰り返さないための線引き。


 きっと、そういうものなのだと思う。


     *


 同じ日、高田真也が国分側に保護された、という話を早苗は清水から聞かされていた。


 医務課での用事を済ませて、早苗が一階へ戻ろうとしていた時だった。


 清水が資料を抱えて廊下を歩いてきて、彩佳を見ると足を止めた。


「高橋さん、今日もお疲れ様です」


「清水さんも、お疲れ様です」


 清水は少しだけ周囲を確認してから、声を落とした。


「高田さん、国分さん側に繋がったそうです」


 早苗は目を上げた。


「高田さんが」


「はい」


 清水は頷いた。


「正式な事情聴取に入るみたいです。安全評価メモの作成経緯も、本人から説明できると思います」


「そうですか」


 早苗は小さく息を吐いた。


 あの時渡した自分のメモ帳…それが今ここまで繋がっている。


 高田の資料は、彩佳の経過をなかったことにしなかった資料だった。


「よかった、って言っていいのか分からないです」


 早苗が言うと、清水は少しだけ笑った。


「私も同じです」


 それから、清水は表情を引き締める。


「でも、あの資料が残っていてよかったとは思います」


「はい」


「誰かが、見ていたってことですから」


 早苗は頷いた。


 彩佳が意識を失っていく時。 自分の無力さを思い知った時。


 何とかしたいと思った。 見ていたことを残さないといけないと思った。渡した人がそれを消さなかった。


 それがここまでつながっていた。


     *


 経理課で午後の処理をしていると、野村が茉莉のデスクの横で足を止めた。


「横田さん」


「はい」


 茉莉は端末から顔を上げる。


 野村は少し言いにくそうに、手元のメモへ視線を落とした。


「三階の人事課長のところへ行くように、連絡が来ています」


 その言葉で、茉莉の手が止まった。


 周囲の音が、少し遠くなる。


「……今からですか」


「うん」


 野村は短く頷いた。


「今の処理はこっちで見ておくから。行ってきて」


「はい」


 茉莉は立ち上がった。


 椅子を戻す音が、いつもより大きく聞こえた。


 隣の席にいた早苗が、すぐに茉莉を見た。


「茉莉」


 呼び止める声は低かった。


 茉莉は振り返る。


 早苗の表情は変わらない。 けれど、目だけが少し鋭い。


「大丈夫?」


 茉莉は少しだけ迷ってから、頷いた。


「はい。行ってきます」


 そう言って、経理課を出た。


 三階へ向かうエレベーターの中で、茉莉は自分の手を見た。


 少し震えている。

 

 指先も冷たくなっている。


 分かっていた。


 何もなかったことにはならない。


 上原の机を開けたこと。 資料を持ち出そうとしたこと。 社長へ渡そうとしたこと。


 それが、自分一人の意思だけではなかったとしても。 上からの指示があったとしても。


 自分の手で鍵を使い、引き出しを開けた事実は消えない。


 エレベーターが三階に着いた。


 扉が開く。


 人事課のある廊下は、経理課より静かだった。


 茉莉が人事課の入口で名乗ると、奥にいた職員がすぐに立ち上がった。


「横田さん、こちらへどうぞ」


 案内されたのは、人事課の奥にある小さな別室だった。


 会議室というより、面談用の部屋に近い。 四角いテーブルと椅子が二脚。 壁際に、書類棚が一つ。


 そこに、人事課長が座っていた。


 五十代の男は、いつものように姿勢を崩さず、必要以上の感情を見せない顔をしていた。


 けれど、茉莉が入ると、すぐに立ち上がった。


「横田さん。来てもらってすみません」


「いえ」


 茉莉は頭を下げる。


「座ってください」


「はい」


 椅子に座ると、膝の上で手を揃えた。


 人事課長は、目の前の書類へ一度だけ視線を落とした。 そして、ゆっくり口を開く。


「本日、横田さんに伝えるのは、社内処分についてです」


 茉莉は小さく息を吸った。


「はい」


「処分内容は、口頭注意・口頭指導」


 人事課長は淡々と言った。


「人事記録には残りません。社内で扱える中では、最も軽いものです」


 茉莉は黙って聞いていた。


「今回の件について、我々の指示なので、横田さんに非はないのですが」


 人事課長の声が、そこで少しだけ重くなる。


「調査の過程で、ラクトセラムからガイア側へ渡した資料についても確認が入っています」


 茉莉は膝の上の手を握った。


「そのため、形式上、何らかの対応を取らないわけにはいきませんでした」


 人事課長は、茉莉をまっすぐ見た。


「避けられませんでした」


 茉莉は頷いた。


 胸の奥が冷たくなる。


 けれど、不思議と涙は出なかった。


「横田さん」


 人事課長は、そこで一度言葉を切った。


「あなたには、本当に申し訳ないことをしてしまったと思っています」


 その声には、初めて感情が滲んでいた。


「本来、あなたのような新人に背負わせるべきことではありませんでした」


「会社の中で、断りにくい立場にある人間を使った」


「その責任は、私にあります」


 茉莉は顔を上げた。


 人事課長は続ける。


「今回の処分は、あなたを責めるためのものではありません」


「ただ、調査上、資料が動いた経緯を社内として処理する必要がある」


「そのための形式です」


 茉莉はしばらく黙っていた。


 人事課長の言葉は、茉莉を庇っているようにも聞こえた。


 けれど、庇われるほど、自分の中の弱さが浮き上がる気がした。


 怖かった。 断れなかった。 家族のことを考えて、自分の立場を守ることばかり考えた。


 その結果、彩佳を裏切るようなことをした。


 だから、完全に悪くないとは思えなかった。


「いえ」


 茉莉は静かに言った。


「自分の弱さとして、甘んじず処分を受け入れます」


 人事課長の表情が、わずかに変わった。


「横田さん」


「指示があったことは分かっています」


 茉莉は、膝の上で手を握りながら続けた。


「でも、私が怖くて断れなかったことも事実です」


「高橋先輩が止めてくれなければ、そのまま渡していました」


 声は震えていなかった。


 それが、自分でも少し不思議だった。


「だから、これは私の弱さでもあります」


 人事課長は黙って聞いていた。


 茉莉は頭を下げた。


「処分、受け入れます」


 しばらく、部屋の中に沈黙が落ちた。


 やがて人事課長は、深く息を吐いた。


「分かりました」


 それから、静かに頭を下げる。


「改めて、申し訳ありませんでした」


 茉莉は、その姿を見て少しだけ目を伏せた。


 人事課長もまた、責任を背負おうとしている。


 けれど、それで全部がなくなるわけではない。


 誰かの指示。 誰かの弱さ。 誰かの判断。


 そういうものが重なって、人は間違える。


 茉莉は、ようやく少しだけそれを理解し始めていた。


     *


 経理課へ戻ると、野村と早苗がすぐにこちらを見た。


 茉莉は自分の席へ戻る前に、二人の前で足を止めた。


「戻りました」


 早苗が椅子から半分立ち上がる。


「どうだった」


 茉莉は一度、息を吸った。


「口頭注意・口頭指導、という形になりました」


「は?」


 早苗の声が低くなった。


 野村も眉を寄せる。


「人事記録には残らないそうです。社内で一番軽い処分だと」


「それでも処分でしょ」


 早苗がすぐに言った。


「茉莉は悪くないじゃん」


 その声には、はっきり怒りがあった。


「高橋さん」


 野村が制するように名前を呼んだが、早苗は止まらなかった。


「形式とか調査とか、そういう言い方すれば済むと思うの違うと思います。」


普段と違う早苗の様子に周囲も驚き、隣の広報課まで様子を気にしている。


その怒りは、茉莉のためだけではなかった。

 

 会社という場所が、また弱い立場の人間に何かを背負わせる。 その構造への怒りだった。


 茉莉は、早苗の顔を見た。


 胸の奥が少しだけ熱くなる。


 怒ってくれている。 自分のために。


 けれど、茉莉は首を振った。


「先輩」


「何」


 早苗の声にはまだ怒りが含まれている


「ありがとうございます」


 早苗が言葉を止める。


「でも、私の弱さのせいです」


 早苗の表情がわずかに揺れた。


「指示されたことは事実です」


 茉莉は続けた。


「でも、怖くて断れなかったのも事実です」


「早苗先輩が止めてくれなかったら、私は資料を渡していました」


 経理課の音が、少し遠くなる。


「だから、私にも受け止めるものはあります」


「茉莉…」


「処分は軽いです」


 茉莉は静かに言った。


「でも、軽いから何もなかったことにしちゃいけないと思います」


 早苗は何も言えなかった。


 野村も黙っている。


「それに、人事課長も謝ってくれました」


 茉莉は目を伏せた。


「本当に申し訳ないことをしたって」


 早苗は苦い顔をした。


「謝るくらいなら、最初からやらせないでほしかった」


「はい」


 茉莉は頷いた。


「私も、そう思います」


 その返事に、早苗は少しだけ息を呑んだ。


 茉莉は続ける。


「でも、私も次は相談します」


 早苗を見る。


「ちゃんと、相談します」


 早苗はしばらく茉莉を見ていた。


 それから、椅子に座り直す。


「……分かった」


 声はまだ不満そうだった。


「感情的になってしまって申し訳ありませんでした」


 椅子から立ち上がると、早苗は野村に頭を下げる


「うん、でも高橋さんの気持ちはわかる」


「すいません…」


その後、早苗は椅子に座り茉莉に向かって言った。


「茉莉も自分だけが悪いみたいな顔するのも禁止」


 茉莉は少しだけ困ったように笑った。


「……はい」


「ホントにわかってる?」


「はい…、ありがとうございます」


 早苗はようやく、少しだけ肩の力を抜いた。


 野村が小さく咳払いをする。


「じゃあ…横田さん。戻れるなら、さっきの続きからお願いします」


「はい」


 茉莉は自分の席に戻った。


 端末の画面には、処理途中の一覧が残っている。


 仕事は続く。


 処分を受けても。 謝っても。 許されたとしても、許されていない部分があったとしても。


 それでも、ここで立ち止まったままではいられない。


 茉莉は椅子に座り、深く息を吸った。


 そして、画面に向き直った。


 もう一人で抱え込まない。


 それが、今の茉莉にできる一番小さな償いだった。


     *


 夕方、彩佳は広報課で問い合わせ一覧を閉じた。


 外部からの問い合わせは、まだ減らない。


 ガイア製薬の調査について。 経鼻予防薬の供給について。 ラクトセラムの関与について。 医療機関からの納品見通しについて。


 答えられないことも多い。


 それでも、広報課は言葉を選び続ける。


 何を言うか。 何を言わないか。 どの言葉なら事実を歪めないか。


 以前なら、彩佳はそれを会社の顔としての仕事だと思っていた。


 今は、それだけではないと思う。


 言葉は、人を守ることもある。 でも、人を隠すこともある。


 その怖さを知ってしまった。


 彩佳が資料を片づけていると、佐山がデスクまで来た。


「石井さん」


「はい」


 顔を上げると、佐山は少しだけ迷うように視線を落とした。


 それから、静かに言った。


「小出美紀さんのお墓に、行こうと思っています」


 彩佳は、すぐには返事をしなかった。


 以前、車の中で自分が言った言葉を思い出す。


 美紀さんに挨拶させてください。 佐山さんが大切にしていた人に、私も挨拶したいです。


 佐山はその言葉を、ちゃんと覚えていてくれたのだと思った。


「……はい」


 彩佳はゆっくり頷いた。


「私も、行かせてください」


 佐山は小さく息を吐いた。


「うん」


 その返事は、少しだけ震えていた。


 調査は進んでいる。 裁かれるものは、少しずつ裁かれようとしている。


 けれど、それだけでは終わらない。


 忘れられていた名前に、会いに行かなければならない。


 彩佳は机の上の書類を静かに閉じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ