第72話 新しい目標
仕事復帰後、最初の土曜日だった。
朝の空気はまだ冷たい。 会社の外周を歩くと、吐いた息が白くなって、すぐに冬の空へほどけていく。
彩佳と早苗は、いつものように並んで歩いていた。
ラクトセラムに帰って来た時より彩佳の足取りはかなり安定している。会社の外周を一周することはもう日常になっている。 左耳には、目立ちにくいRIC型の補聴器がついている。
まだ疲れやすい。 人の多い場所では、音に少し疲れる。 それでも、歩けている。
戻れている
身体の面では、はっきりそう感じる。
「今さらだけど、仕事忙しいね」
彩佳がぽつりと言った。
早苗は隣で小さく息を吐く。
「ホントに。復帰してからずっと忙しい」
「広報課も問い合わせがすごくて」
「広報課は今がピークだろうね」
「ニュースも最近忙しいしね」
「ガイアのこと?」
「うーん」
彩佳は少し考える。
「予防薬のこととか、ガイアのこととか」
白い息が、言葉と一緒に消えていく。
「どっちに対しても、良いことも悪いことも、たくさん流れてる」
ここ数日、ニュースは経鼻予防薬の話題で持ちきりだった。
優先医療機関で使用が始まり、重症化リスクの低下が見え始めていること。 医療機関の逼迫が、少しずつ改善しつつあること。 それでもまだ限定的な使用に留まっているため、早く使用範囲を広げてほしいという声が出ていること。
一方で、ガイア製薬での予防薬開発において、不適切な運用の疑いがあり調査が入っていることも報道されていた。
試験の安全管理や記録処理に問題があった可能性。 そして、その構造が以前から存在していた疑い。
街頭インタビューでは、さまざまな声が流れていた。
早く予防薬を流通させてほしい。 自分の子どもにも使えるようにしてほしい。 医療機関を助けるためには必要だ。
その一方で、危険な試験で作られた薬を信用できないという声もあった。 人の身体を犠牲にして作ったものを、そのまま使っていいのかという意見もあった。
どれも、間違っているとは言い切れない。
だからこそ、聞いていると胸の奥が疲れた。
「みんな好き勝手言ってるよね」
早苗が言った。
彩佳は少しだけ笑う。
「本当だよ、何にも知らないのにさ」
「知ってるかのように喋ってる」
二人はそう言って、少しだけ笑った。
しばらく、二人は黙って歩いた。
冬の朝の光が、ラクトセラム本社の白い外壁に反射している。 建物は相変わらず清潔で、静かで、遠目には何も変わっていないように見えた。
彩佳は前を向いたまま、ゆっくり息を吐いた。
「早苗」
「ん?」
「仕事って、何だろうね」
「何、今さら」
早苗は少し驚いたように笑った。
彩佳も少しだけ笑う。
「今さらだよね」
「うん。だいぶ今さら」
「でも、何か……」
彩佳は言葉を探した。
「せっかく復帰できたのに、気持ちがついていかなくて」
早苗はすぐには返さなかった。
ただ、彩佳の歩幅に合わせて歩いている。
「やりがいってこと?」
「うん……たぶん」
彩佳は足元を見た。
薄く霜の残った道を、ゆっくり踏みしめる。
「なんか、色々見すぎちゃって」
ラクトセラムに入ったばかりの頃、彩佳はこの仕事をまっすぐ信じていた。
母乳由来の免疫資源が、医療現場へ届く。 NICUや小児病棟で、小さな命を支える。 感染症で苦しむ人たちを助ける。
自分も、その一部になれる。
そう思っていた。
でも、今は違う。
その仕事の先にあるものを、見てしまった。
自分たちの身体がどう扱われるのか。 善意がどう利用されるのか。 中止すべき所見が、どう言い換えられるのか。 誰かの痛みが、成果の陰に隠されることがあるのか。
知ってしまった。
「早苗は、そんなことないの?」
彩佳が聞くと、早苗は少しだけ肩をすくめた。
「あるよ」
返事は意外なくらい早かった。
「だから、もう搾乳も辞めたし、次もやらない」
「うん」
「給料は下がったけど」
早苗は前を向いたまま言う。
「でもさ、私はやりたいことあるから」
彩佳は早苗を見る。
「それまでは頑張る」
早苗の声は、いつも通り淡々としていた。
「この会社辞めても、ここより条件いいところ、そうそうないし」
「うん」
「寮もあるし、給料も安定してるし、経理の経験も積める。嫌なところもあるけど、全部が悪いわけじゃない」
「うん」
「だから私は、もう少しここで働く」
早苗は、そこでようやく彩佳を見た。
「彩佳は?」
彩佳は少し黙った。
もう、自分の中では答えが出始めている。
でも、言葉にするのが怖かった。
言葉にした瞬間、本当にその道へ進まなければならなくなる気がした。
「そうだね……」
彩佳はゆっくり口を開いた。
「私は、やっぱり人を助ける仕事がしたいかな」
「うん」
「でも、ちゃんとした立場と、自分の判断で助けられるようになりたい」
早苗は何も言わなかった。
「誰かに言われて、ただ差し出すんじゃなくて」
彩佳の声は静かだった。
「自分で判断して、誰かを助けられるようになりたい」
早苗は少しだけ目を細める。
「そっか…じゃあ、ここ辞めることになりそう?」
彩佳は前を向いた。
「うん……そうなると思う」
言ってしまった。
胸の奥が少しだけ締めつけられる感じがした。
「まだ、はっきりとは決めてないけど」
彩佳は続ける。
「ちゃんと勉強して、医学部を受験しようかなって」
早苗は表情を変えなかった。
少なくとも、見た目でわかる程には。
少しだけ息を吐いて、前を向いた。
「彩佳」
「うん」
「私に気使わなくていいよ」
彩佳は思わず早苗を見る。
「え?」
「私がここに残るからとか、茉莉のことがあるからとか、そういうの」
早苗は淡々と言った。
「それで遠慮しなくていい」
彩佳は言葉に詰まった。
正直、そこが一番引っ掛かっていた。
だから、早苗に一番先に言わなければと思っていた。
早苗を置いていくような気がした。 茉莉のこともある。 自分だけ違う道へ進むことに、少し後ろめたさがあった。
早苗は、そういうところをすぐに見抜く。
「勉強のことは分からないけど」
早苗は前を向いたまま言った。
「彩佳がそう決めたなら、応援する」
彩佳は、しばらく何も言えなかった。
それから、小さく頷く。
「うん……ありがとう」
「月曜、診察あるんでしょ」
「うん」
「上原先生にも相談するの?」
「うん。診察の時に話してみる」
彩佳は少しだけ苦笑した。
「なんか…ごめん」
「なんで」
「茉莉ちゃんのこととか、色々」
早苗はすぐには答えなかった。
二人の足音だけが、冬の朝に小さく続く。
やがて、早苗が言った。
「寂しい」
彩佳は一瞬、聞き間違えたのかと思った。
「え」
「だから、寂しいって言ったの」
「急にびっくりした」
「こっちだって、たまには言うよ」
早苗は少しだけむっとした顔をする。
彩佳は、少し笑ってしまった。
「でも」
早苗は続けた。
「それでいいと思う」
彩佳は早苗を見る。
「茉莉のことは、心配しなくて大丈夫」
「うん」
「あの子はあの子で、ちゃんと自分で立ち直るしかない。私も見てるから安心して」
早苗は少しだけ空を見る。
「それに……私も、海外に行くお金が貯まったら辞める」
「お菓子の勉強?」
「うん」
「本当に行くんだ」
「行くよ」
早苗の声は迷っていなかった。
「だから、彩佳は彩佳の道を進んでほしい」
彩佳は、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
寂しいと言ってくれた。
進んでいいと言ってくれた。
その両方が、嬉しかった。
「早苗」
「何」
「ありがとう」
「さっきも聞いた」
「じゃあ、もう一回」
「じゃあ受け取っとく」
二人は少しだけ笑った。
外周の道は、もう半分を過ぎていた。
遠くには寮とラクトセラムの社屋が見える
彩佳は、その建物を見た。
ここで働いた。 ここで傷ついた。 ここで助けられた。 ここで、次の道を考え始めた。
全部が、ここにある。
だからこそ、ここを離れるのだと思った。
*
月曜日の診察は、いつも通り朝一番だった。
彩佳は医務課の診察室に入り、椅子に座る。
上原は端末を見ながら、検査結果と復帰後の状態を確認していた。
「復帰してから一週間ほど経ちましたが、体調はどうですか」
「疲れやすさはあります」
彩佳は正直に答えた。
「でも、仕事終わりに寝込むほどではないです」
「睡眠は取れていますか」
「はい。寝れています。」
「補聴器の疲れは?」
「人が多い場所だと少し疲れます。でも、短時間なら大丈夫です」
上原は頷きながら記録を入力する。
「広報課での業務内容は、今のところ資料確認と文書整理が中心ですね」
「はい。電話と受付はまだしていません」
「そのままでいいです」
上原は少しだけ顔を上げた。
「このまま調子が大きく崩れなければ、今月中旬あたりから十五時までの勤務に延ばしてもいいと思います」
「十五時まで……」
「もちろん、段階的にです。最初から毎日ではなく、週に何日か。疲労が強ければ戻します」
「そのあたりの調整は佐山さんとも相談してください」
「はい」
「ただし、無理をしたらすぐに分かりますからね」
上原の声は淡々としていた。
彩佳は少しだけ笑った。
「分かりました」
「本当に?」
「本当に」
「ならいいです」
上原は端末を閉じた。
「今日の診察としては、ここまでです。何か気になることはありますか」
彩佳は、膝の上の手を少しだけ握った。
土曜日の朝から、ずっと胸の中にあった言葉。
言うなら今だと思った。
「あの、先生」
「はい」
「相談してもいいですか」
上原の表情が、少しだけ変わった。
顔だけ彩佳の方に向けていたのを、座り直して身体ごと彩佳の方を向ける。
いつもの診察の顔のまま、少しだけ目がやわらぐ。
「もちろんです」
彩佳は一度、息を吸った。
「私、ラクトセラムを辞めようと思っています」
言葉にすると、思ったより静かだった。
上原は驚いた顔をしなかった。
ただ、続きを待っている。
「もう、搾乳はしないと思います」
「はい」
上原は短く頷いた。
「それは、私も自然なことだと思います」
その返事に、彩佳は少しだけ肩の力が抜けた。
「でも、人を助ける仕事はしたいんです」
彩佳は続けた。
「今回のことで、善意だけじゃだめなんだって思いました」
「うん」
「人を助けたいと思っていても、立場がなければ、知識がなければ、判断する力がなければ、ただ利用されることもあるんだって」
上原は黙って聞いていた。
「だから、ちゃんと勉強して、医師として、人を助けたいと思っています」
部屋の中が静かになる。
彩佳は、少しだけ目を伏せた。
「小児科医になりたいです」
上原はしばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「小児科医、ですか」
「はい」
「どうして、そう思ったんですか」
彩佳はゆっくり言葉を探した。
「新人研修の時に、ラクトセラムで集めた母乳がNICUや小児病棟で使われているところを見ました」
その時の光景は、今でも覚えている。
保育器の中の小さな身体。 細い手足。 透明なチューブ。 小さく動く胸。
そこに、ラクトセラムの母乳が届いていた。
「その時、小さな命を守っているんだって、すごく思いました」
彩佳は言った。
「それがずっと残ってます」
父への憧れもあった。 救命士として人を助ける父の姿は、今でも彩佳の中にある。
でも、自分はもう同じ道は選べない。
聴力も、体力も、消防組織の中で働く基準には届かない。 それは分かっている。
けれど、命を守りたいという思いまで消えたわけではない。
「小さな命を守る仕事がしたいです」
彩佳は上原を見た。
「自分を差し出すんじゃなくて、ちゃんと学んで、判断できる立場で」
上原は静かに聞いていた。
しばらくして、少しだけ視線を上げる。
「医師も大変な仕事ですが…石井さんがそう決めたなら応援します。」
「石井さんは、高校はどちらでしたか」
「県立中央高校です」
上原の表情が、わずかに変わった。
「まさか、特進科ですか」
「一応……」
彩佳は少しだけ困ったように笑う。
「学科内の成績は、あんまりでしたけど」
上原は、小さく息を吐いた。
「私も同じ学科です」
「え」
彩佳は思わず顔を上げた。
「そうなんですか」
「はい」
上原は少しだけ口元を緩めた。
「なので、言いますが」
彩佳は背筋を伸ばした。
「十分可能性はあると思います」
その言葉は、彩佳の胸に静かに落ちた。
無責任な励ましではなかった。 上原は、できないことを簡単にできるとは言わない人だ。
その上原が、可能性はあると言った。
「もちろん、簡単ではありません」
上原は続けた。
「聴力のこともあります。実習や臨床で配慮が必要になる場面もあるでしょう」
「はい」
「でも、それは不可能という意味ではありません」
上原はまっすぐ彩佳を見る。
彩佳は頷いた。
「一人で何とかしようとしないこと」
「……はい」
「ちゃんと相談すること」
「はい」
「佐山さんには相談してますか」
確認するように上原は言った
「今日、異動希望の面談があるのでその時に報告しようと思っています」
「わかりました」
そう言うと上原は端末を開き直し何かを入力してから、少しだけ声をやわらげた。
「石井さん」
「はい」
「私は、医師としてはあなたに無理をしてほしくありません」
彩佳は静かに聞いていた。
「でも、あなたが自分の人生を選ぼうとしていることは、止める理由がありません」
上原は言った。
「応援します」
「あと…石井さんの白衣姿、楽しみにしています」
上原は優しい笑顔でそう言った
彩佳は、喉の奥が少し熱くなるのを感じた。
「ありがとうございます」
それだけ言うのが、やっとだった。
*
その日の午後、彩佳は佐山と面談室で向かい合っていた。
今度は医務課ではなく、広報課近くの小さな面談スペースだった。
佐山は手元の人事異動希望の用紙を見ながら、いつものように穏やかな声で言った。
「石井さん、そろそろ人事異動だけど、何か希望はある?」
「広報課の業務だけじゃなくて、ちがう部署に行きたいとかでも大丈夫だよ」
彩佳は少しだけ息を吸った。
上原に話したばかりなのに、もう一度言うのは少し緊張した。
「あの、実は退職を考えていて……」
佐山は、用紙から顔を上げた。
驚いたようではあった。
けれど、責める顔ではなかった。
「デスクまで残してもらっていたのに、すみません」
彩佳は続けた。
「それに、急……ですよね」
佐山はしばらく黙った。
それから、静かに言う。
「びっくりした……確かに急だけど」
声は落ち着いていた。
「やりたいこと、見つかったの?」
その問いに、彩佳は顔を上げた。
「医学部を目指そうと考えています」
佐山の目がわずかに揺れた。
「医学部」
「はい」
彩佳は頷いた。
「やっぱり、人を助ける仕事はしたいので」
言葉にすると、胸の奥が少しだけ震えた。
「でも、もう自分を差し出す形ではなくて」
「ちゃんと学んで、判断できる立場で」
「命を守れるようになりたいです」
佐山は何も言わなかった。
その表情に、いくつもの感情が通り過ぎる。
驚き。 寂しさ。 安堵。 そして、少しだけ誇らしさ。
「そっか」
佐山は小さく言った。
「見つかったんだね」
「はい」
「寂しいけど」
佐山は正直に言った。
「でも、嬉しい」
彩佳は目を伏せた。
「すみません」
「謝らなくていい」
佐山はすぐに言った。
「これは、謝ることじゃない」
その言葉に、彩佳は唇を結んだ。
「退職時期は、年度末で考えてる?」
「はい。可能なら、三月三十一日付で」
「分かりました。人事課長にも相談します」
「ありがとうございます」
「ただし」
佐山は少しだけ表情を引き締める。
「三月末までは、無理しない勤務でいきます。受験のことを考え始めるのはいいけど、体調を崩したら意味がないから」
「はい」
「あと、早苗さんには話した?」
「はい。土曜日に」
「何て?」
「応援するって言ってくれました」
佐山は少し笑った。
「高橋さんらしいね」
「あと、寂しいとも言ってくれました」
「それも高橋さんらしい」
彩佳も少しだけ笑った。
面談室の窓から、午後の光が入っている。
ラクトセラムで過ごした時間が、急に遠くなるわけではない。 まだ仕事は続く。 机もある。 広報課の問い合わせも、明日にはまた届くだろう。
でも、出口が少しだけ見えた。
終わるための出口ではない。
次へ進むための出口だった。
佐山は、人事異動希望の用紙を静かに閉じた。
「石井さん」
「はい」
「応援する」
短い言葉だった。
それだけで十分だった。
彩佳は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
顔を上げた時、胸の奥にあった迷いが少しだけ軽くなっていた。
まだ何も始まっていない。
受験も、退職も、これからだ。
それでも、彩佳は初めて、自分の未来を自分の手で選び始めた気がした。




