表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
72/76

第71話 止まる投薬

 PLX大規模治験の投薬停止が社内に通知されたのは、二月上旬の朝だった。


 まだ冬の空気が残っている。


 ラクトセラム本社の窓には、白く薄い光が差し込んでいた。


 いつもなら始業前から慌ただしく動き始める地下への動きが、その日は少しだけ違っていた。


 搾乳室へ向かう社員。

 医務課へ呼ばれる社員。

 検体回収のために移動する職員。

 ガイア製薬側の医師や研究員。

 人の流れそのものは消えていない。

 けれど、どこか音が小さくなったように感じた。


 その朝、全社員向けの社内通知が出された。


 ――PLX大規模治験について、行政監督下での調査実施に伴い、投薬を一時停止します。


 ――既に投薬済みの社員については、医務課および担当医の指示に従い、経過観察を継続して下さい。


 ――搾乳・検体回収・品質管理業務については、行政監督下で必要範囲を継続します。


 ――経鼻予防薬の供給については、社会情勢を踏まえ、国内優先医療機関向けに限定し、監督機関の指示に従うものとします。


 短い文面だった。

 必要なことだけが、淡々と書かれていた。

 けれど、その文面が社内端末に表示された瞬間、ラクトセラムの空気は確かに変わった。


     *


 二階の医務課は、朝から落ち着かなかった。

 投薬停止といっても、医務課の業務が止まるわけではない。


 むしろ、やることは増えていた。


 すでに投薬を受けている社員の経過確認。

 副作用が残っている社員の診察。

 投薬停止後の観察計画の修正。

 ガイア側の医師との引き継ぎ。

 国分側の調査チームへ提出する記録の整理。


 上原は診察室とスタッフステーションを行き来していた。


 机の上には、確認待ちの資料が積まれている。

 端末画面には、PLX試験参加社員の一覧が表示されていた。


「午前中の診察枠、三人追加です」


 清水がファイルを持ってきた。


「昨日から動悸が残ってる人と、倦怠感が強い人。それから浮腫が引かない人です」


「分かりました」


 上原は一覧を確認する。


「河合先生は?」


「搾乳室側の確認に入っています。ガイア側の先生が引き上げ前の記録確認をしているので、立ち会いです」


「はい」


 上原は短く頷いた。


 ガイア製薬側の医師や研究員は、全員がすぐに引き上げるわけではなかった。


 一部は、国分側の調査が入るまでの記録保全と引き継ぎのため、まだラクトセラム内に残っている。


 ただ、その動きは明らかに変わっていた。


 以前のように、社内端末を必要以上に見たり、医務課の棚や資料を細かく確認したりする様子はない。


 むしろ、必要以上に触れないようにしている。


 調査が入る。


 その事実が、ガイア側の人間の動きを抑えていた。

 清水は低い声で言った。


「急におとなしくなりましたね」


「そうですね」


 上原は端末から目を離さずに答えた。


「でも、油断はしません」


「もちろんです」


 清水はそう言って、別のファイルを抱え直した。


 医務課の奥では、看護師が血圧計を片づけている。


 観察室のベッドは、今日も空いていない。


 投薬は止まった。


 けれど、副作用はすぐには止まらない。


 身体は、通知一枚で元には戻らない。


     *


 広報課も、朝から騒がしかった。


 経鼻予防薬の限定供給がニュースになってから、医療機関や関係団体からの問い合わせは増え続けている。


 そこに、PLX大規模治験の投薬停止が重なった。

 正式発表前のため、答えられることは限られている。


 それでも、電話は鳴る。


 メールは届く。


 確認依頼は止まらない。


 佐山は広報課の一角で、問い合わせ対応の文面を確認していた。


「この表現は少し強いですね。調査中という形にしてください」


「はい」


「供給停止とは書かないでください。国内優先医療機関向けの供給は継続予定です」


「分かりました」


「あと、医務課への直接問い合わせは全部こちらで受けてください。今、向こうは診察と調査対応で手一杯です」


 佐山の声は落ち着いていた。

 だが、忙しさは隠せない。


 彩佳も、自分のデスクで手を動かしていた。

 電話にはまだ出ない。

 来客対応にも立たない。


 それでも、医療機関から届く問い合わせの一覧を確認し、返答文を作るための資料をそろえる。

 経鼻予防薬に関する社内共有文書を読み、問い合わせ内容を分類する。


 やることは多かった。


 短時間勤務とはいえ、机に座っているだけでは終わらない。


 広報課は、予防薬の限定承認とPLX試験停止の両方に追われていた。


「石井さん、お願いした返答文どこまで進んでる?」


 佐山に声をかけられ、彩佳は顔を上げた。


「8割くらいは」


彩佳もキーボードを打ちながら答える


「ちょっと確認させて」


「はい」


そう答えると入力をやめて一度文章ファイルを閉じる


「さすがね、休職明けとは思えない」


「後はこっちで預かる」


文章を確認したあと、彩佳の方をみて佐山はそう言った。


「わかりました」


 返事は自然に出た。

 仕事はできている。

 文字も読める。

 内容も理解できる。

 問い合わせの分類も、以前と同じようにできる。

 前と同じように文章も作れる。


 けれど、どこかで小さな違和感があった。

 戻れている。

 でも、戻った感じがしない。


 前は、この仕事の先にあるものを、まっすぐ信じられていた。


 ラクトセラムが集めた母乳が、医療現場へ届く。


 小さな命を守る。


 感染で苦しむ人を減らす。


 その一部に自分も関わっている。

 そう思うことが、誇らしかった。

 受付に立つことも、問い合わせに答えることも、資料を整えることも。


 どれも、自分にできる形で誰かを助ける仕事だと思っていた。


 でも今は、その仕事の先を見てしまった。

 自分たちの身体が、どこまで資源として扱われるのか。


 善意が、どう都合よく使われるのか。

 中止すべき所見が、どのように言い換えられるのか。


 誰かの痛みが、成果の陰で見えなくなることがあるのか。


 知ってしまった。

 知ったうえで、同じ机に座っている。


 だから、手は動くのに、気持ちが少しだけ置いていかれる。


 この場所に、ずっといる自分が想像できなかった。

 ラクトセラムが嫌いになったわけではない。

 ここで働く人たちを信じられなくなったわけでもない。


 佐山がいる。

 上原がいる。

 早苗がいる。

 茉莉もいる。

 この場所で、自分を助けてくれた人たちは確かにいる。


 それでも、もう同じ形でここには居られない気がした。


 人を助ける仕事はしたい。

 それは、まだ消えていない。

 でも、自分を差し出すことで誰かを助ける場所ではなく。


 自分の身体を資源として差し出す場所でもなく。

 もっと別の形で。


 そう思った瞬間、彩佳は手元の問い合わせ一覧を見つめたまま、少しだけ息を止めた。

 まだ、言葉にはできない。

 けれど、胸の奥で何かが静かに形を取り始めていた。


「石井さん?」


 佐山の声で、彩佳は我に返った。


「大丈夫?」


「あ……はい」


 彩佳は慌てて資料を整える。


「すいません」


 佐山は彩佳の顔を見た。

 何か言いかけたようだったが、すぐには踏み込まなかった。


「今日はここまでにしましょう」


「でも、まだ」


「ここまで」 


 佐山の声は強くない。

 けれど、引かない声だった。


「戻って最初の週に、会社の混乱全部を受け止めなくていい」


 彩佳は少しだけ目を伏せた。


「……はい」


「よし」


 佐山は資料を受け取る。


「仕事は逃げないから、特に今は」


「だから、今日は帰っても、何もしないでゆっくり休んで」


できればもう少しやって帰りたい、

でも、それは佐山に余計な心配をかけるだけだと思い素直に聞き入れる。


「はい、役に立てるよう、明日に向けて充電しときます」


「期待してます、もちろん、休むことも業務の一部だからね」


 彩佳は少しだけ笑った。


「難しいけど、休みます」


「うん、素直でよろしい」


 佐山は優しい表情で答えた。


 その返しがあまりにいつも通りで、彩佳の胸の重さが少しだけ緩んだ。


     *


 一階の経理課では、早苗も忙しくしていた。

 投薬停止によって、契約や納品予定の見直しが一気に発生している。


 ガイア側から入っていた医療機器や試験関連資材の請求、返却、保管費用。


 追加で必要になった観察用備品。


 行政監督下で継続される供給関連の手続き。


 画面には、確認待ちの一覧が並んでいた。


「高橋さん、これ納品日の変更連絡来てます」


「見ます」


「こっちはガイア側の担当者が変わるって」


「今は一旦保留。社内決裁通してから返してください」


 早苗は端末を操作しながら、短く指示を返す。

 その近くで、茉莉も書類を抱えて動いていた。


 少し前までのような、不自然な硬さは薄れている。

 もちろん、すべてが元通りになったわけではない。


 彩佳に謝ったからといって、茉莉の罪悪感が消えるわけではない。


 早苗の怒りが完全に消えたわけでもない。


 けれど、茉莉は逃げなかった。


「早苗先輩、これ、医務課へ確認が必要な分です」


 茉莉が書類を差し出す。

 早苗はそれを受け取り、目を通した。


「今は医務課に直接持って行かないで。清水さん宛てにまとめて送って」


「はい」


「あと、判断に迷ったら止めて」


 茉莉が顔を上げる。

 早苗は端末から目を離さずに言った。


「自分だけで処理しようとしない」


 茉莉は一瞬だけ言葉を失った。

 それから、小さく頷く。


「……はい。相談します」


「うん、お願いね」


 早苗は短く答えた。

 それ以上は言わなかった。


 でも、茉莉の表情が少しだけ変わった。


 相談していい。

 その言葉が、まだ不慣れな場所に置かれたようだった。


     *


 昼前、社内に追加通知が出た。

 ガイア製薬から派遣されていた医師・研究員の一部が、調査対応および引き継ぎのため段階的に撤収する。


 ラクトセラム内に残るガイア社員は、行政監督下での確認対象業務に限定して動く。


 その通知が出た後も、ラクトセラムの社員は普段と変わらず働いている。


 ただ、空気が少しだけ動いた。

 医務課前の廊下で、PLX対象社員の一人が小さく呟いた。


「投薬、止まるんだ」


 隣にいた別の社員が頷く。


「でも、搾乳は続くんだよね」


「うん。観察も」


「そっか」


 安堵だけではない。

 不満だけでもない。

 疲れと、虚脱と、よく分からない感情が混じっていた。


 ここまで耐えてきた身体がある。


 ここまで増やした乳汁がある。 


 そこから作られた予防薬がある。


 それが、医療機関で誰かを助け始めている。


 だから、全部が無意味だったとは思えない。

 でも、だからといって、何でも許されるわけではない。


 その線引きが、ようやく言葉になり始めていた。


     *


 彩佳は寮へ戻る途中、少しだけ会社の前で立ち止まった。


 冬の空は高く、雲が薄い。


 会社の白い外壁に、冷たい光が反射している。

 この建物に初めて来た日のことを思い出した。


 清潔で、明るくて、ちゃんとした会社に見えた。


 自分にもできることがあると思った。


 誰かを助ける仕事だと思った。


 その気持ちは、嘘ではなかった。


 嘘ではなかったからこそ、今も痛い。


 彩佳は左耳の補聴器にそっと触れた。

 小さな機械の感触が指先にある。

 以前と同じではない身体。

 以前と同じではない仕事。

 以前と同じではない会社の見え方。

 それでも、自分はここに立っている。


 もう一度、何をしたいのか考えなければならない。


 誰かを助けたい。


 命を守りたい。


 その思いは、まだ胸の奥に残っている。


 でも、今度は自分を差し出すためではなく。


 自分を失わない形で。


 彩佳は、ゆっくり息を吐いた。


 投薬は止まった。

 けれど、止まったのは投薬だけではなかった。


 これまで見ないふりをされてきたものが、ようやく止められようとしていた。


 そして彩佳の中でも、何かが静かに終わり、別の何かが始まろうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ