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第70話 弱さの置き場所



 その日の夜、彩佳はベッドに横になっていた。


 夕食を終えて、部屋へ戻ってからしばらく経っている。

 復帰初日だったこともあり、身体には思っていた以上の疲れが残っていた。


 広報課に顔を出した時間は短かった。

 デスクの整理をして、社内共有文書を少し確認しただけだった。


 それでも、久しぶりに自分の席へ戻ったこと。

 職場の人たちに声をかけられたこと。

 上原たちからPLX試験の告発について聞いたこと。


 その全部が、静かに身体の奥へ沈んでいた。


 左耳の補聴器は、もう外してある。

 部屋の中は静かだった。


 その時、スマートフォンが小さく震えた。


 画面を見ると、茉莉からのメッセージだった。


『今、お時間大丈夫ですか?』


 彩佳はしばらく画面を見つめた。


 告発のことを聞いた後だった。

 茉莉の用事も、何となく察しがついた。


 彩佳はベッドからゆっくり起き上がり、返信を打った。


『大丈夫だよ』


 送信して、スマートフォンを膝の上に置く。


 間もなくして、部屋のドアが控えめにノックされた。


「はい」


 彩佳が立ち上がってドアを開けると、茉莉が緊張した表情で立っていた。


 眼鏡の奥の目が、落ち着かずに揺れている。

 両手は身体の前でぎゅっと握られていた。


「先輩」


 茉莉は小さな声で言った。


「お話したいことがあります」


 その後ろに、早苗もいた。


 早苗と目が合う。


 それだけで、茉莉が来た理由は分かった。


 彩佳は少しだけ息を吸い、できるだけ穏やかに言った。


「部屋、入っていいよ」


 緊張している茉莉を怖がらせないように。

 責めるために呼び入れるのではないと伝わるように。


 その気遣いに気づいたのか、茉莉の表情がさらに崩れそうになった。


「先輩は……優しすぎます」


 小さな声で、茉莉はそう言った。


 彩佳は首を振らなかった。

 否定もしなかった。


 ただ、少しだけ横へ避ける。


「とりあえず座ろ」


 早苗と茉莉は部屋に入った。


 早苗は床に置いてあるクッションに座り、茉莉は彩佳の机の椅子に浅く腰掛けた。

 彩佳はベッドの端に座る。


 早苗は何も言わず、茉莉を見守っていた。


 部屋の中には、暖房の低い音だけがしている。


「あの……」


 茉莉が口を開いた。


 すぐには言葉が続かなかった。


 膝の上で、両手を強く握りしめている。

 指先が白くなるほどだった。


「彩佳先輩に、謝らないといけないことがあって……」


 彩佳は黙って頷いた。


 茉莉の言葉を待つように。


「今朝、告発のことについて、上原先生から説明を受けたって、早苗先輩から聞きました」


「うん」


 彩佳は静かに返事をした。


 茉莉は一度、深く息を吸った。


「私……その書類を、上原先生の机から盗って、社長に渡そうとしてました」


 声が徐々に震えていく。


「彩佳先輩が出向した時の資料って知ってて……」


 茉莉は俯いたまま続ける。


「先輩が辛い経験をしたことも知ってて……」


「理解した上で、上原先生の机を開けました」


 膝の上で握られた手の甲に、涙が一滴落ちた。


「今回は、早苗先輩が気づいて止めてくれました」


「でも、彩佳先輩を裏切るようなことをしたことには変わりありません」


 茉莉の声が詰まる。


「謝って済むことじゃないって、分かってます……」


「彩佳先輩も、早苗先輩も、大好きなのに……」


「でも、私……どうしたらいいか、分からなくて……」


 そこで、茉莉は顔を上げられないまま、絞り出すように言った。


「ごめんなさい……」


 その言葉を言った瞬間、茉莉は涙で言葉が出なくなった。


 彩佳は、すぐには返さなかった。


 怒っていないわけではなかった。


 自分の急変に関わる資料。

 自分の身体の記録。

 上原や佐山たちが、消されないように守っていたもの。


 それを探され、持ち出されそうになった。


 ガイア製薬のスタッフステーションでも忙しそうにしていた。

 皆が苦労してまとめていたのは何となくわかる。

 だからこそ、裏切りとも取れるその行為に感情が揺らがないわけではない。



 けれど、目の前の茉莉は、ただ平気で裏切った人には見えなかった。


 怖くて、逃げ道がなくて、自分で止まれなくなっていた人だった。


 彩佳は、ゆっくり口を開いた。


「ちゃんと謝ってくれて、ありがとう」


 茉莉の肩が小さく震えた。


「我慢するの、辛かったと思う」


 茉莉は俯いたまま、袖で涙を拭いながら頷いた。

 まだ言葉は出せそうになかった。


 早苗が静かに口を開く。


「茉莉は、ずっと謝りたいって言ってた」


 彩佳は早苗を見る。


「でも、全体が分からないまま謝っても、彩佳が混乱すると思った」


 早苗は、少しだけ目を伏せた。


「だから、上原先生たちの説明を聞いた後の方がいいと思って」


「うん……」


 彩佳は小さく頷いた。


 早苗が止めていたのだろう。

 茉莉を突き放すためではなく、彩佳が受け止められるタイミングを待つために。


「本当に……ごめんなさい」


 茉莉は震える声でもう一度言った。


 彩佳は少しだけ、早苗の方を見た。


「早苗が先輩で良かったね」


 早苗は一瞬だけ反応したが、何も言わずに視線を戻した。


 茉莉は泣いたまま、顔を上げた。


「彩佳先輩は……私のことが嫌いにならないんですか?」


 その声には、怯えがあった。


 嫌われることを覚悟している。

 でも、本当はそれが怖い。


 彩佳は少しだけ考えた。


「うーん……」


 すぐに綺麗な答えは出なかった。


「前に話を聞いた時、茉莉ちゃん、家のこととか大変そうだったし」


 茉莉が瞬きをする。


「断れない事情があったのかなって」


「でも……」


 茉莉は、苦しそうな顔をした。


 自分の事情と、やったことは別だ。

 そう言いたい顔だった。


 彩佳は静かに聞く。


「でも?」


 少し間が空いた。


 茉莉は涙を拭い、震える息を整えようとした。


「じゃあ……少しだけ、言い訳させてください……」


 彩佳は頷いた。


「うん」


 茉莉は膝の上の手を見たまま、少しずつ話し始めた。


「私の実家、農家なんです」


「地方の、そんなに大きくない農家で」


 声はまだ震えていた。


「家族が多くて、昔から裕福ではなかったです。でも、生活できないほど困ってたわけじゃなくて」


 彩佳は黙って聞いていた。


「上の兄と姉は、実家の手伝いもしながら近くの工場で働いてて、母も働いてて」


「みんなで何とかしてました」


 茉莉は唇を噛んだ。


「でも、ここ数年、天気がおかしくて」


 その言い方は、少しだけ抽象的だった。

 けれど、彩佳には意味が分かった。


 雨が降らない。

 降りすぎる。

 暑すぎる。

 収穫量が安定しない。


 農家にとっては、それだけで生活が揺らぐ。


「収穫が駄目になった年が続いて、機械も直さないといけなくて」


「経営を続けるために、借金をしないといけなくなりました」


 茉莉の声がまた小さくなる。


「父は腰を痛めてて……本当は手術が必要なんです」


「でも、手術しても、そのあとの仕事をどうするかとか、お金とか、色々あって」


 茉莉は、涙をこらえながら続けた。


「母と兄と姉の収入は、ほとんど借金の返済に回ってます」


「生活費も、病院代も、全部ぎりぎりで」


「私がラクトセラムに入って、寮に入って、給料をもらえるようになって」


 そこで、一度言葉が止まった。


「私が、一番収入が多いんです」


 彩佳は、静かに息を吸った。


「仕送りを始めてから、実家の生活が少し楽になりました」


 茉莉は俯いたまま言う。


「母から、助かってるって言われて」


「父の手術も、もう少ししたら考えられるかもって」


 涙がまた落ちる。


「だから、会社を辞めるわけにはいかないって思いました」


 早苗は何も言わなかった。


 ただ、茉莉を見ていた。


「指示された時、嫌だって思いました」


 茉莉は震える声で続ける。


「絶対におかしいって思いました」


「でも、逆らったらどうなるんだろうって」


「会社にいられなくなったらどうしようって」


「実家に送るお金がなくなったら、父の手術も、借金も、全部……」


 言葉が崩れていく。


「そればっかり考えて」


「彩佳先輩のことを考えなきゃいけなかったのに」


「上原先生たちが何のために資料を残してたのか、分かるはずだったのに」


「怖くて、自分の家のことばっかりになって」


 茉莉は顔を覆った。


「私、弱いんです」


 小さな声だった。


「先輩みたいに、前を向けない」


 彩佳は、茉莉の言葉を受け止めていた。


 弱さ。


 それは、茉莉だけのものではなかった。


 彩佳にもあった。

 自分が頑張らなければと思って、誰にも相談せずに進んだ弱さ。

 期待に応えられないことを怖がって、苦しいと言えなかった弱さ。


 早苗にも、佐山にも、上原にも、きっとそれぞれにある。


 弱いから、間違える。

 弱いから、抱え込む。

 弱いから、誰かを傷つけることがある。


 でも、それを一人で隠し続けたら、もっと戻れなくなる。


「茉莉ちゃん」


 彩佳は静かに呼んだ。


 茉莉が、涙の残った目で顔を上げる。


「怖かったんだよね」


 その一言で、茉莉の表情が崩れた。


「……はい」


「怖かったです」


「うん」


「でも、それを言い訳にしていいとは思ってません」


「うん」


「私、また同じことがあったら……ちゃんと断れるか分からないんです」


 茉莉は泣きながら言った。


「今回だって、早苗先輩が見つけてくれたから止まれただけで」


「次も、自分で止まれるか分からない」


「また誰かを裏切るかもしれない」


 早苗が小さく息を吐いた。


 彩佳は、少しだけ目を伏せた。


 その怖さは、分かる気がした。


 自分もずっと、自分一人で決めてきた。


 頑張ること。

 我慢すること。

 差し出すこと。


 その先に何があるかも分からないまま、正しいと思って選んできた。


 そして、壊れた。


「じゃあ」


 彩佳は言った。


「ちゃんと相談して」


 茉莉が涙の残った目で彩佳を見る。


「え……」


「また同じようなことがあったら、一人で抱えないで」


 彩佳はゆっくり言った。


「自分だけで何とかしようとしないで、ちゃんと相談して」


 茉莉は何も言えない。


「怖い時って、視野が狭くなると思う」


 彩佳は、自分自身にも言うように続けた。


「自分が我慢すればいいとか、自分が差し出せばいいとか、そういうふうにしか考えられなくなる」


 早苗が、静かに彩佳を見る。


「でも、そういう時に手を引いてくれる人がいるから」


 彩佳は茉莉を見た。


「隣に立ってくれる人がいるから」


 茉莉の涙がまた落ちた。


「少なくとも、私や早苗はそうしたいって思ってるよ」


「やっぱり、先輩は優しすぎます…」


 そういうと、茉莉はまた泣きそうな表情をしながらも少しだけ笑った。


 早苗は少しだけ肩をすくめた。


 「勝手に巻き込まれたけど」


 「早苗」 


 「でも」


 早苗は茉莉を見る。


「ちゃんと相談しなさい」


 その言い方は少しぶっきらぼうだった。


 けれど、冷たくはなかった。


「私は、彩佳みたいに根っからの善人じゃない」


「だから、正直怒ってる」


 茉莉がびくりと肩を震わせる。


「資料を探したことも、黙ってたことも、かなり怒ってる」


「……はい」


「でも、一番悪いのは、茉莉じゃなくて人の弱いところに付け入って利用したこの組織」


「ただ、そういう時に一人で抱えられる方がもっと困る」


 早苗は淡々と言った。


「だから相談して」


 彩佳と同じ言葉だった。


 茉莉は両手で顔を覆った。


「すみません……」


 泣き声が、部屋の中に小さく落ちる。


 彩佳はすぐには触れなかった。


 泣く時間も必要だと思った。


 しばらくして、茉莉が顔を上げる。


「先輩は、強いと思います」


 彩佳は少しだけ首を傾げた。


「私?」


「はい」


 茉莉は鼻をすすりながら言った。


「会社にも、試験にも、傷つけられたのに」


 言葉を探す。


「それでも、前を向こうとしてるから」


 彩佳は黙って聞いていた。


「私は、巻き込まれただけで、こんなに怖くなって」


「自分の弱さばっかり見えて」


「同じことがあったら、また逃げるかもしれないって思って」


 茉莉は目を伏せた。


「だから、先輩は強いと思います」


 彩佳はすぐには答えなかった。


 強い。


 そう言われても、実感はなかった。


 過換気で崩れた。

 泣いた。

 怖かった。

 今も疲れやすいし、左耳は戻らない。


 それでも、前へ進もうとしているのは確かだった。


「強いかは、分からない」


 彩佳は静かに言った。


「でも、私も一人だったら無理だったと思う」


 茉莉が顔を上げる。


「上原先生や河合先生、佐山さん、清水さん、そして早苗、いろんな人が手を引いてくれたから」


 彩佳は続けた。


「だから今、前を向けてるだけ」


 早苗が小さく頷いた。


「彩佳は一人だとすぐ無理するから」


「その通り」


 そういって彩佳が少しだけ笑うと、茉莉も泣きながら、ほんの少し表情を緩めた。


「茉莉ちゃんも」


 彩佳は言った。


「一人で強くならなくていいと思う」


 その言葉に、茉莉はまた泣きそうな顔をした。


「……はい」


「ちゃんと相談して」


「はい」


「次は、早苗に先に言って」


「え」


 早苗が驚いたように反応する。


 彩佳は少し笑った。


「ちがうの?」


「いや、違わないけど」


「そこは私に言ってじゃない?」


「早苗ならすぐ止めるでしょ」


「いや、止めるでしょ、普通」 


「だから」


「そこは、彩佳も止めないとダメじゃん」


 茉莉は、二人のやり取りをみて少しだけ笑いながら涙を拭きながら小さく頷いた。


「ちゃんとお二人に相談します」


 その声はまだ頼りなかった。


 でも、さっきより少しだけ、息ができているように見えた。


     *


 茉莉と早苗が部屋を出たあと、一気に部屋が静かになった。


 廊下の足音が遠ざかる。


 彩佳はベッドに背を預け、天井を見た。


「疲れた」


 気づけば声が漏れていた


 前の自分なら、ああいう風にきっと言えなかっただろう

 

 傷ついて、手を引かれて、支えられて、やっと今ここに立っている。


 窓の外には、寮の外灯が白く光っている。


 部屋は静かだった。


 誰かの弱さは、簡単には消えない。


 茉莉の怖さも。

 早苗の怒りも。

 彩佳自身の傷も。


 でも、それを一人で隠さなくていい場所があるなら、少しだけ違う形に置けるのかもしれない。


 彩佳は、そう思った。

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