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第69話 明かされる告発、彩佳の復帰

月曜日の朝、彩佳はいつものように医務課へ向かった。


 週明けの会社は、まだ少し慌ただしい。


 一階では広報課の電話が鳴り、地下へ向かう職員の足音が続いている。


 PLX大規模治験が始まってから、ラクトセラムの中はずっと何かに追われているようだった。


 今日は定期診察の日だった。


 そして、もう一つ。


 彩佳が広報課へ短時間復帰する初日でもあった。


 まだ受付には立たない。

 来客対応も、長時間の電話対応もない。

 まずは資料確認と、社内共有文書の整理。

 広報課の机に戻ると言っても、以前と同じ働き方ではない。


 それでも、仕事に戻る。

 その事実だけで、朝から胸の奥が少し落ち着かなかった。


「血液検査の値は落ち着いています」


 上原は端末を確認しながら言った。


「炎症反応も問題ありません。貧血も改善傾向です」


「はい」


「体力の戻りも、今のペースなら悪くありません」


 彩佳は診察椅子に座ったまま、小さく頷いた。


 上原は少しだけ表情を緩めて言った。


「今日から広報課ですね」


「はい」


 彩佳は少しだけ背筋を伸ばした。


「短時間ですけど」


「いきなり長時間は無理です」


 上原はすぐに言った。


「むしろ、今日は“戻れたかどうか”より、“戻ったあとに疲れすぎないか”を見る日だと思ってください」


 彩佳は小さく笑った。


「佐山さんにも似たようなことを言われました」


「でしょうね」


 上原は端末へ視線を戻しながら言う。


「午前中だけでも、思っているより疲れると思います。久しぶりに部署へ戻るだけで、体力とは別の緊張がありますから」


「はい」


「途中で疲れたら、休んでください。広報課で無理に最後まで座っていようとしなくていいです」


「分かりました」


「分かりました、だけではなく、実際に休んでくださいね」


 上原の声は穏やかだったが、そこだけは少し強かった。


 彩佳は苦笑する。


「……はい。実際に休みます」


「お願いします」


 上原はそこでようやく、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 けれど、そのあとすぐには診察を終えなかった。


「石井さん」


「はい」


 上原は端末を閉じた。


「このあと、少し時間をもらえますか」


 彩佳は、膝の上で指を組み直した。


 土曜日の夜、佐山から聞いた言葉を思い出す。


 月曜の診察後、上原先生からも話があると思う。


「はい」


 彩佳は静かに答えた。


「佐山さんから、少し聞いています」


 上原は一瞬だけ目を伏せた。


「そうですか」


「詳しいことは、聞いていません。でも、ちゃんと聞いた方がいいことだって」


「はい」


 上原は椅子から立ち上がった。


「面談室へ移りましょう」


     *


 医務課の面談室に入った瞬間、彩佳は少しだけ足を止めた。


 四人掛けのテーブル。

 壁際の棚。

 窓の位置。

 机の上に置かれた消毒液。

 そこまで特別な部屋ではない。

 医務課の中にある、ただの面談室だった。


 けれど、彩佳には見覚えがありすぎた。


 去年の夏頃。


 まだ自分の身体をうまく扱えていなかった頃。

 試験出向の話が出始めていた頃。

 搾乳量を増やしたくて、無理をしていた頃。


 この部屋で、上原や佐山に何度か話をされた。


 体調を崩しているのに、大丈夫ですと言った。


 少し休みましょうと言われても、仕事に戻れますと答えた。


 搾乳量が落ちることが怖くて、期待に応えられないことが怖くて、平気なふりをした。


 あの頃の自分は、この部屋に座るたびに、注意されることを怖がっていた。


 でも本当は、止めようとしてくれていたのだと思う。


 今なら、それが少し分かる。


「石井さん?」


 上原が声をかけた。

 彩佳は小さく息を吸い、部屋の中へ入った。


「すみません。少し、思い出してました」


「この部屋のことですか」


「はい」


 上原は何も言わなかった。

 少し遅れて、佐山が入ってきた。


 彩佳の表情を見て、何を思い出したのか察したように、ほんの少しだけ眉を下げる。


「無理してた頃の面談、ここだったね」


 佐山が静かに言った。


「はい」


 彩佳は苦笑に近い表情を浮かべた。


「その節は、ご迷惑をおかけしました」


「迷惑じゃないけど、心配はした」


「……はい」


 そう返せるようになったことが、自分でも少し不思議だった。


 昔なら、すぐに謝って、早く話を終わらせようとしていた。


 今は、心配されたことを、少しだけ受け取れる。

 彩佳が席に着いてしばらくすると、廊下の向こうから足音が近づいてきた。


「すみません、遅れました」


 早苗だった。

 仕事中だったのだろう。


 経理課のブルゾンを着たまま、少しだけ息を整えている。


「高橋さん、急に呼んですみません」


 上原が言う。


「大丈夫です。経理には少し抜けるって伝えてあります」


 早苗は短く答え、彩佳の右側の席に座った。


「早苗も呼ばれてたんだ」


「うん」


 それ以上は言わなかった。


 でも、早苗が隣にいるだけで、彩佳は少しだけ落ち着いた。


 上原がテーブルの向かいに座る。


 佐山はその隣。

 早苗は彩佳の右側。

 その配置だけで、何かを支えてもらっているようだった。


 上原は、手元の封筒に触れた。


 中には資料が入っているのだろう。


 けれど、すぐにそれを出すことはしなかった。


「石井さん」


「はい」


「今日話すことは、体調のことだけではありません」


 彩佳は頷いた。


「PLX試験のことですか」


 上原の表情が、ほんの少しだけ変わった。


 佐山も、彩佳を見る。


 彩佳は、膝の上の手を見つめながら続けた。


「何となく、分かっていました」


 早苗は何も言わなかった。


「上原先生も、佐山さんも、河合先生も、清水さんも、ずっと何かをまとめているんだろうなって」


 言葉にすると、胸の奥が少しだけ重くなる。


「それに、茉莉ちゃんのことも……少し聞いてます」


 佐山の表情が引き締まった。


「高橋さんから?」


 早苗が小さく頷いた。


「全部じゃありません。でも、話さない方が不自然だったので」


 彩佳は早苗の方を見た。


「年末くらいから、茉莉ちゃん、ずっと様子が変だったから」


 早苗は視線を落とす。


「うん」


「何かあったんだろうなって思ってた」


 面談室に沈黙が落ちる。


 彩佳はもう一度、上原を見た。


「だから、聞きます」


 上原はゆっくり頷いた。


「分かりました」


 それから、封筒から数枚の資料を取り出した。

 彩佳の前へ直接渡すのではなく、テーブルの中央に置く。


 そこにあることを示すための置き方だった。


「私たちは、ガイア製薬で行われたPLX小規模試験と、現在ラクトセラムで行われている大規模治験について、資料をまとめていました」


 上原の声は静かだった。


「中心になっているのは、あなたの急変前後の経過です」


 彩佳は静かに聞いていた。

 資料の文字は目に入る。

 けれど、すぐには追わなかった。

 今は、上原の声を聞こうと思った。


「石井さんの状態は、本来であれば、試験中止を検討すべき段階に入っていました」


 上原は言った。


「ですが、正式記録では、その部分が継続可能に見える形へ補正されていました」


 彩佳は黙って頷いた。


「ガイア側にも、違和感を持っていた人がいました。高田真也さんです」


 高田。


 早苗から少し聞いていた名前だった。


「高田さんは、正式記録と実際の経過の違いを、安全評価メモとして残していました」


 上原は別の紙を示す。


「その中に、石井さんの経過も含まれています」


 彩佳は静かに資料を見た。

 自分の名前ではない。

 登録名と番号。

 それでも、それが自分のことだと分かった。


「それから、土曜日に佐山さんから聞いたと思いますが」


 上原は一度、佐山を見る。


「十二年前にも、似た構造がありました」


 小出美紀。

 彩佳はその名前を心の中で思った。

 佐山が看護学校時代に仲が良かった人。


 連絡が取れなくなり、実家を訪ねて初めて死を知った人。


 偶発的な過剰反応として片づけられた人。


「…小出美紀さん…」


 彩佳が静かに言うと、佐山の目がわずかに揺れた。


「ええ」


 上原が答える。


「十二年前の試験でも、中止相当の所見があったにもかかわらず、対外的な資料では継続可能に見える形へ整理されていた可能性があります」


 彩佳は黙って聞いていた。

 もし土曜日の夜に佐山から話を聞いていなければ、きっとただの過去の症例としてしか受け取れなかった。


 でも今は違う。


 小出美紀は、資料の中だけの人ではない。

 佐山が大切にしていた人だった。


「今回、ラクトセラム側の資料、ガイア側から残った高田さんのメモ、湾岸総合医療センター側の記録、十二年前の資料を合わせて、国分さんへ報告しました」


 上原は、はっきりと言った。


「Project Lacta行政監督担当の国分さんです」


 彩佳は静かに息を吸った。


「国に、ですか」


「はい」


「先日、国分さんがラクトセラムへ来ました」


 佐山が言う。


「資料は正式な調査対象として扱われます」


 部屋の空気が、少しだけ重くなった。


 上原は続けた。


「大沢さんと森下さんにも、担当医の河合先生が説明します」


 彩佳は顔を上げた。


「二人にも」


「はい」


 上原は頷いた。


「出向者全員に関わる話です。石井さんだけに話して終わりにはできません」


 佐山も静かに言った。


「ただ、伝え方はそれぞれの状態に合わせます」


 彩佳は小さく頷いた。

 大沢。

 森下。

 ガイアで一緒にいた二人の顔が浮かぶ。


 自分だけではない。


 あの試験にいた人たち全員が、それぞれ何かを持ち帰っている。


「PLX大規模治験は、今後一時停止になる可能性があります」


 上原は続けた。


「ただし、経鼻予防薬の供給は国内限定、行政監督下で続く可能性が高いです」


「止まらないんですね」


 彩佳の声は、自分でも思ったより静かだった。


「完全には」


 上原は答えた。


「本来なら、関連試験全体の調査が終わるまで止めるべきです。ですが、感染拡大と医療逼迫があります。すでに優先医療機関で使われ始めていて、効果も見えています」


 彩佳は、そこまでずっと静かに聞いていた。

 怖くないわけではない。

 自分の症状。

 自分の急変。

 後遺症。

 左耳の聴力。

 それらが資料として扱われ、誰かに読まれ、判断の材料になる。


 そのことは怖い。

 でも、言葉はまだ出てこなかった。

 上原が、少しだけ身を乗り出す。


「石井さん」


 彩佳は顔を上げた。


「大丈夫ですか?」


 その問いに、彩佳は一度、ゆっくり息を吐いた。

 早苗が隣で何も言わずに待っている。

 佐山も、上原も、急かさない。


「はい」


 彩佳は静かに言った。


「話してくれて、ありがとうございます」


 その言葉を言ってから、ようやく自分の中の言葉が少しずつ形になっていくのを感じた。


「前なら」


 彩佳は、膝の上の手を見つめた。


「前なら、たぶん、自分のせいだと思ったと思います」


 早苗が少しだけ視線を落とした。


「私が試験に参加したから」


「私が我慢したから」


「私が倒れたから、みんなに迷惑をかけたって」


 言葉にしても、以前ほど胸が締めつけられなかった。


 それが少し不思議だった。


「でも、今は少し違います」


 佐山は何も言わずに聞いている。

 上原も、彩佳の言葉を遮らない。


「私は、あの構造の中に入ってしまったんだと思っています」


 彩佳は続けた。


「人の役に立ちたいと思ったことも、誰かを助けたいと思ったことも、嘘じゃないです」


「でも、それを利用されたんだと思います」


 面談室の空気が、少し重くなる。


「誰かのために頑張ることって、本当は悪いことじゃないはずなのに」


 彩佳は、自分の言葉を確かめるように言った。


「場所を間違えると、ただ使われるだけになってしまう」


 上原の表情がわずかに揺れた。

 佐山は、苦しそうに目を伏せた。

 早苗は何も言わない。


 ただ、彩佳の右側に座っている。

 その存在だけで、十分だった。


「だから、先生たちが動いてくれたことを、私のためだけだとは思ってません」


 彩佳は顔を上げた。


「試験を監督する立場にいた人たちが、これ以上同じことが起きないように動くのは、自然なことだと思います」


 それから、少しだけ間を置いた。


「怖いです」


 それは本音だった。


「自分のことが資料になっているのも、正直、怖いです」


 手元の紙を見る。

 そこにあるのは、自分の身体だった。

 呼吸が苦しくなり、酸素が落ち、意識が途切れた時間。


「でも、知らないまま守られるのは、もう嫌です」


 彩佳は静かに言った。


「私のことだけじゃないなら、ちゃんと最後まで見たいです」


 佐山が、目を伏せたまま小さく息を吐いた。

 上原はしばらく黙っていた。

 そして、ゆっくり頷いた。


「分かりました」


 その声は、いつもの診察の声とは少し違った。


「これから先、石井さんに関わることで、話すべきことはきちんと話します」


「はい」


「ただし」


 上原は少しだけ眉を寄せる。


「無理はしないでください」


 彩佳は思わず小さく笑った。


「はい、実家にちゃんと休みます」


 上原が少しだけ笑って返す。


「お願いしますね」


面談が終わる頃には、彩佳の顔には少し疲れが見えていた。


上原がすぐに気づく。


「今日は広報課に顔を出したら、無理せず早めに戻ってください」


「はい」


「明日、疲れが残るようなら医務課に来てください」


「分かりました」


 佐山も立ち上がった。


「じゃあ、一階まで一緒に行きましょう」


 早苗も席を立つ。


「私も経理に戻るから、一緒に下りる」


「うん」


 彩佳は椅子から立ち上がろうとして、少しだけ足元に力が入りにくいのを感じた。


 早苗が自然に手を出す。


 彩佳は、その手を見た。


 以前なら、たぶん遠慮した。


 大丈夫、と言った。


 迷惑をかけたくないと思った。


 でも今は違う。


 手を借りることは、悪いことではない。

 彩佳は、早苗の手を素直に掴んだ。


「ありがとうございます」


 上原に頭を下げる。


「話してくれて」


 上原は静かに頷いた。


「こちらこそ、聞いてくれてありがとうございます」


 面談室を出ると、医務課の音が戻ってきた。

 誰かの足音。

 遠くで鳴る端末の通知音。

 清水の声。

 いつものラクトセラムの音だった。


 でも、さっきまでとは少し違って聞こえた。

 知らないまま通り過ぎていた音ではない。


 その奥にあるものを、もう少しだけ知った後の音だった。


     *


 佐山、早苗、彩佳の三人は、階段ではなくエレベーターで一階へ下りた。


 無理をしない。


 今日は何度も言われた言葉だった。


 一階に着くと、経理課の方から電話の音が聞こえた。


「じゃあ、私先に戻る」


 早苗が言った。


「うん。ありがとう」


「無理しないで」


「分かってる」


「見てるから」


 彩佳は苦笑した。


「デスクが近くて良かった」

 

 早苗は彩佳の言葉を聞いて少し笑うと経理課の方へ戻っていった。


 その背中を見送ってから、佐山が彩佳を見る。


「行けそう?」


「はい」


「じゃあ、広報課の皆に少し挨拶しようか」


 広報課に入ると、何人かの職員が顔を上げた。


「石井さん」


「おかえり」


「無理しないでね」


 声が重なる。


 彩佳は少し照れながら頭を下げた。


「ありがとうございます。今日から短時間ですが、よろしくお願いします」


 拍手が起きるような大げさなものではなかった。

 でも、その控えめな歓迎が、彩佳にはちょうどよかった。


 佐山は彩佳を自分のデスクの近くへ案内した。


「今日やるのは、まずここに置いてある社内共有文書の確認」


 佐山が書類の束を示す。


「それから、広報宛ての問い合わせ一覧を見るだけ。返答はしなくていいから、内容の傾向だけ見ておいて」


「はい」


「電話は取らなくていいし、来客対応もしない。」


「はい」


「一時間くらいで切り上げるつもりで」


「分かりました」


 彩佳は自分のデスクを見た。


 名前のラベルは残っていた。


 引き出しの中も、ほとんどそのままだった。


 少しだけ胸が詰まる。


 戻る場所を、残してもらっていた。

 彩佳は椅子に座り、ゆっくり引き出しを開けた。


 古いメモ。

 使いかけの付箋。

 ボールペン。

 以前作った資料の控え。


 どれも、急変前の自分が置いていったものだった。


 同じ机。


 同じ広報課。


 でも、同じ自分ではない。


 彩佳は机の上を少しずつ整えた。


 自分の場所を、今の身体で確かめ直しているようだった。


 佐山が少し離れた場所から声をかける。


「石井さん、明日からはちゃんと仕事があるから」


「今日は、それくらいで大丈夫」


 時計を見ると、まだそれほど時間は経っていない。

 でも、身体は確かにわずかに重くなっていた。


「はい」


 彩佳は素直に頷いた。

 無理をしない。

 それは、戻らないための言葉ではない。

 続けるための言葉なのだと、少しずつ分かってきていた。

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