第68話 佐山あかりの過去
復帰の二日前、土曜日の夕方だった。
寮の前に、佐山の車が停まっていた。
まだ外の空気は冷たい。
日が落ちる前の空は薄く灰色で、敷地内の街灯が少しずつ明るさを持ち始めている。
彩佳はコートの前を合わせ、ゆっくりと車へ向かった。
歩けないわけではない。
会社の外周を一周することも、今では日課に近くなっている。
それでも、夕方以降は疲れやすい。
人の多い場所や長い移動は、まだ少し不安が残る。
佐山はそれを分かっているのだろう。
最初から、迎えに行くと言ってくれていた。
「寒かった?」
運転席から降りた佐山が、助手席側のドアを開けながら訊いた。
「大丈夫です」
彩佳はそう答えてから、少しだけ笑った。
「迎えに来てもらって、すみません」
「いいの。今日は私が誘ったんだから」
佐山はいつもの調子で言った。
「それに、帰りに疲れたら困るでしょ」
「……はい」
彩佳は素直に頷き、助手席へ乗った。
車内は暖かかった。
ダッシュボードには小さな除菌シートのケースが置かれていて、佐山らしいと思った。
車は、ラクトセラムの敷地を出て、街の中心地とは反対方向へ向かった。
大きな通りを少し外れると、店やビルの明かりは少なくなっていく。
住宅街と畑が混じる道を抜け、さらに少し進んだ場所に、その店はあった。
落ち着いた雰囲気のある個人経営の洋食店だった。
派手に看板は出ておらず、入口の脇に、小さな灯りと、控えめな文字で店名が出ているだけだった。
駐車場に車を停めると、佐山は先に降り、彩佳が降りるのを待った。
「ゆっくりでいいよ」
「はい」
彩佳は足元を確かめながら車を降りた。
店内に入ると、外の冷たさが静かに遠のいた。
白いクロスのかかったテーブル。
暗めの木目の床。
壁には古い風景画が飾られている。
店内には、静かな音量でピアノの曲が流れていた。
客は数組だけで、話し声も低い。
社員食堂とも、寮の食堂とも違う。
少し背筋を伸ばしたくなるような場所だった。
彩佳は壁際の落ち着いた席に案内された。
左耳には補聴器をつけているが、店内の音はやわらかく、佐山の声も聞き取りやすかった。
向かいに座った佐山は、メニューを閉じると、少し申し訳なさそうに笑った。
「ごめんね。上司と食事なんて嫌じゃなかった?」
彩佳は首を振った。
「いえ、嬉しいです」
それから、少しだけ笑う。
「でも、びっくりしました。こういうお店だと思わなくて」
「突然だったしね。しかも、ちょっとかしこまった店だし」
「はい。少し緊張してます」
「ごめん。でも、今日は落ち着いて話したかったの」
佐山は、水の入ったグラスに指を添えた。
「彩佳さんに、ちゃんと話しておきたいことがあって」
彩佳は、膝の上で手を重ねた。
佐山の声が、いつもの軽さを少しだけ失っていた。
「私がラクトセラムに入った理由」
静かな店内の音楽が、少し遠くなる。
「それと、私が看護師として、あなたの試験に関わろうとした理由」
彩佳は黙って頷いた。
佐山に何か過去があることは、ずっと感じていた。
小出、という名前を聞いたことがある。
佐山がその名前に触れる時だけ、表情が少し変わることも知っていた。
でも、詳しいことは何も知らない。
だから今は、余計な言葉を挟まない方がいいと思った。
やがて、前菜の小さな皿とスープが運ばれてきた。
白い器から、温かいポタージュの湯気が立っている。
けれど二人とも、すぐにはスプーンを取らなかった。
佐山は少しだけ視線を落とし、それから言った。
「小出美紀っていう友達がいたの」
彩佳は静かに聞いていた。
「看護学校時代の同期生だった」
佐山の声は、落ち着いていた。
「学生の頃、仲が良くてね。授業も実習も、よく一緒にいた」
彩佳は、佐山の顔を見た。
その表情は淡々としている。
けれど、どこか遠い場所を見ているようでもあった。
「美紀は、すごくまっすぐな子だった。人を救いたいって気持ちが強くて、困ってる人を見ると放っておけなくて」
そこで一度、佐山は彩佳を見た。
「雰囲気は、彩佳さんに似てた」
彩佳は、すぐには返事をしなかった。
似ていると言われても、それがどういう意味なのか、まだ分からない。
ただ、佐山がその言葉を軽く言っていないことだけは分かった。
彩佳は小さく頷いた。
「最近ね」
佐山は少しだけ表情をやわらげた。
「彩佳さんと早苗さんを見ていると、時々思い出すことがあるの」
「……私と早苗、ですか」
「うん」
佐山は頷いた。
「美紀と私も、あんな感じだった時期があったなって」
彩佳は、早苗の顔を思い浮かべた。
いつも隣にいて、言いにくいことを言ってくれて、無茶をするとすぐに止める。
自分が前へ出すぎる時、手を引いてくれる人。
佐山にも、そんな相手がいたのだ。
「美紀が突っ走りそうになると、私もよく文句を言ってた」
佐山は懐かしむように言った。
「無理しないでって。寝なさいって。実習前にちゃんと食べなさいって」
彩佳は黙って聞いていた。
その言葉の中に、若い日の佐山と小出美紀がいる。
資料の中の名前ではなく、ちゃんと笑って、怒って、心配し合っていた二人がいる。
「卒業後、私は都立総合病院の救命センターに入った」
佐山は話を続けた。
「美紀は別の病院に就職したんだけど、そのあとマリア・ミルクに移ったの」
「マリア・ミルク……?」
彩佳は小さく繰り返した。
「ラクトセラムの前身みたいなところね」
佐山は頷く。
「当時は今みたいな会社じゃなくて、母乳バンクに近い組織だった。感染が広がって、母乳由来の免疫成分に注目が集まり始めた頃で、ガイアも関わるようになっていた」
彩佳は、静かに頷いた。
ラクトセラムという会社が、最初から今の形だったわけではない。
どこかで始まりがあり、そこに人がいて、その人たちの選択や傷の上に、今の仕組みがある。
「十三年前、感染拡大で救命センターもめちゃくちゃ忙しくて」
佐山の声が少しだけ低くなる。
「勤務も不規則で、連絡する余裕なんてほとんどなかった。美紀からもしばらく連絡が来なくなってたけど、忙しいんだろうと思ってた」
彩佳は、返事をしなかった。
佐山が続けるのを待つ。
「新薬が出て、感染が少し落ち着いてきた頃に、ふと思い出して連絡したの」
佐山は小さく息を吐いた。
「でも、返信がなかった」
店の奥で、食器の触れ合う音がした。
「電話も繋がらなかった」
彩佳は、膝の上の指を少しだけ握った。
「最初は、忙しいかなと思った。だからメッセージも見てないのかもって」
佐山は、少し間を置いた。
「でも、何度かけても繋がらなくて」
グラスの水を一口飲む。
「実家を訪ねたの」
彩佳は、佐山の横顔を見ていた。
「美紀のお母さんが出てきた」
佐山の目元が、わずかに揺れた。
「その時、聞いたの。美紀は、治験中に亡くなったって」
彩佳は何も言えなかった。
それは、資料の中の出来事ではなかった。
友達に連絡が取れなくなった。
心配して、実家まで行った。
そこで初めて、もう会えないと知らされた。
その事実だけで、十分だった。
「お母さんも、詳しいことは聞かされてなかった」
佐山は言った。
「偶発的な過剰反応だったって」
彩佳は、声には出さずにその言葉を受け止めた。
偶発的。
予測できなかった。
仕方がなかった。
そういう言葉で、どれだけのことが片づけられてきたのだろう。
「体質による予測困難な反応。そう説明されたって」
佐山の声が少しだけ硬くなる。
「でも、納得できなかった」
彩佳は佐山を見る。
「美紀はね、無理をする子だったから」
その言い方に、彩佳の胸が少し痛んだ。
「人のためになるなら、自分のことを後回しにする。苦しいことを苦しいって言わない。大丈夫じゃないのに、大丈夫って言う」
佐山は彩佳を見る。
「そういうところも、彩佳さんに似てた」
彩佳は目を伏せた。
否定はしなかった。
「だから、偶発的な反応で突然亡くなったって言われても、どこかで引っかかった」
佐山は続ける。
「本当に、誰も気づけなかったのか」
「本当に、中止できなかったのか」
「本当に、記録に残っていなかったのか」
ひとつひとつの問いが、静かに落ちる。
「でも、当時の私は救命センターで働いていただけの看護師だった。マリア・ミルクにも、ガイアにも、何の接点もなかった」
佐山は、冷めかけたポタージュへ視線を落とした。
「だから、調べようと思っても何も分からなかった」
彩佳は静かに頷いた。
「それで、ラクトセラムに入った」
佐山は自分でそう言った。
「美紀の死の真相を調べるために」
彩佳は息を吸った。
佐山がラクトセラムにいた理由。
医務課ではなく広報課寄りの場所にいた理由。
いつも周囲を見て、ガイアとの接点を気にしていた理由。
それが、ようやくひとつの形になった。
「広報課を希望したのも、そのため」
佐山は続けた。
「医務課に入れば、社員の体調は見られる。でも、外部との接点は限られる。広報や受付にいれば、ガイアの人間、行政、病院、取引先、いろんな人の出入りが見える」
彩佳は、ゆっくり頷いた。
「もちろん、最初から何か分かるとは思ってなかった。ただ、あの組織に近づきたかった」
しばらく沈黙が落ちた。
佐山はようやくスプーンを取ったが、まだ食べようとはしなかった。
「そんな時に、彩佳さんが入社してきた」
彩佳は顔を上げた。
「最初は、真面目で少し固い子が来たなと思った」
佐山の表情が少しだけやわらぐ。
「でも、受付に立つとちゃんと笑うし、相手の話をよく聞くし、何か頼まれると断れない」
彩佳は少しだけ困ったように笑った。
「それは、今でも少しあります」
「少し?」
佐山の声に、わずかにいつもの調子が戻る。
「……前よりは、減ったと思います」
「そうね」
佐山は小さく頷いた。
「美紀に似てると思った」
彩佳は静かに聞いていた。
「顔じゃないよ」
佐山はすぐに言った。
「雰囲気。誰かの役に立てるなら、自分が少し無理することを当然みたいに受け入れるところ」
胸の奥が、少し痛む。
「だから、試験出向が決まった時、嫌な予感がした」
佐山の声が静かに低くなる。
「絶対に守らないといけないと思った」
彩佳は、あの日のことを思い出す。
ガイアへの出向が決まった日。
佐山の表情。
いつもより少し硬かった声。
あの時、自分はそこまで気づいていなかった。
ただ、自分は選ばれたのだと思っていた。
役に立てるのだと思っていた。
頑張らなければと思っていた。
「でも、私は医務課勤務じゃない」
佐山は言った。
「正式には広報課側の人間で、試験の医療管理に入る立場じゃなかった」
彩佳は頷く。
「それでも、来てくれました」
「人事課長に話を通してもらったの」
佐山は言った。
「ガイア出向中の社員支援と、ラクト側の連絡補助という形にしてもらった。看護師資格があるから、処置や観察の補助にも入れるように」
彩佳は、ただ静かに聞いていた。
佐山がそこまでしてくれていたことを、今さら知る。
驚きよりも、胸の奥にゆっくり沈んでいく感じがあった。
「守りたかったから」
佐山の声は、静かだった。
「美紀の時に、何もできなかった」
「それだけじゃない、彩佳さんは、大切な部下だったから」
彩佳は何も言わなかった。
佐山が自分に優しかった理由。
時々、必要以上に心配しているように見えた理由。
相原や倉持に対して、ただの怒り以上のものを抱えていた理由。
それが、少しずつ分かっていく。
「でもね」
佐山はスプーンを置いた。
「結局、守れなかった」
彩佳は、ゆっくり顔を上げた。
「急変する前から、彩佳さんは苦しそうにしていた。足も張ってた。息も上がってた。顔色も悪かった。」
佐山の声が少しだけ震えた。
「気づいてた」
「でも、止めきれなかった」
彩佳は胸の奥が詰まるのを感じた。
「美紀の時と同じことを、また繰り返したと思った」
彩佳は、少しだけ息を吸った。
すぐには言葉にしなかった。
佐山の言葉を、ちゃんと受け止めたかった。
「……同じじゃないと思います」
しばらくして、彩佳は静かに言った。
佐山が目を上げる。
「上原先生や佐山さん、みんながいたから」
彩佳は、急がずに言葉を選んだ。
「私は、こうして生きていられるんだって思います」
佐山は何も言わなかった。
「命があるっていう意味もあります」
彩佳は続ける。
「あの時、本当に死んでいたかもしれないから」
言葉にすると、胸の奥が少しだけ冷えた。
けれど、逃げずに続けた。
「でも、それだけじゃなくて」
彩佳は佐山を見た。
「ちゃんと今、前を向いて歩けているって意味でもです」
佐山の表情が揺れる。
「ガイアから戻ってきた後も、私、何度も止まりそうになりました」
「でも、佐山さんや、上原先生、河合先生も、清水さんも、早苗だってみんなが手を引いてくれたから」
声は静かだった。
「だから、今こうして座って、佐山さんの話を聞けています」
佐山は、目を伏せた。
「全部が防げたわけじゃないかもしれません」
彩佳は続けた。
「でも、何もできなかったわけじゃないです」
その言葉に、佐山はしばらく返事をしなかった。
店内のピアノの音が、静かに流れている。
やがて佐山は、小さく息を吐いた。
「彩佳さんは、本当に変わったね」
「そうですか」
「うん」
佐山は小さく笑った。
「前より、ちゃんと受け取れるようになった」
彩佳は少しだけ照れたように視線を落とした。
「早苗にも、似たようなことを言われます」
「でしょうね」
彩佳も少しだけ笑った。
それから、店員に気づかれないくらい小さな声で言った。
「話してくれて、ありがとうございます」
佐山は、ようやくスプーンを手に取った。
「こちらこそ、聞いてくれてありがとう」
ポタージュは少し冷めていた。
けれど、そのやわらかな温度が、今の彩佳にはちょうどよかった。
メインの皿が運ばれてくる頃には、佐山は少しだけ昔の小出の話をした。
看護学校で忘れ物が多かったこと。
実習の前日に緊張しすぎて眠れなかったこと。
患者の前では妙に堂々としていたこと。
人のためになると信じた時だけ、驚くほど強かったこと。
それは、資料の中の小出美紀ではなかった。
生きていた人の話だった。
彩佳はそれを聞きながら、静かに思った。
いつか、小出美紀の墓へ行くことになるのだろう。
その時、自分は何を言えるのだろう。
まだ分からない。
けれど、少なくとも今は、小出美紀という名前が、少しだけ近くなった気がした。
*
帰りも、佐山が車で寮まで送ってくれた。
店を出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。
中心地から少し離れた通りは人も少なく、店の灯りが遠ざかると、車内はすぐに静かになった。
暖房の音が小さく響いている。
彩佳は助手席で、流れていく夜の景色を見ていた。
街灯。
低い住宅の窓明かり。
冬の畑の暗い輪郭。
佐山は運転に集中している。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
話を聞いた疲れはあった。
でも、それは悪い疲れではなかった。
佐山の過去を、少しだけ預かったような感覚があった。
「佐山さん」
彩佳は、静かに口を開いた。
「うん?」
「いつか……美紀さんに挨拶させてください」
佐山の手が、ハンドルの上でわずかに動いた。
彩佳は続けた。
「佐山さんが大切にしていた人に、私も挨拶したいです」
車は赤信号でゆっくり止まった。
佐山は前を向いたまま、少しのあいだ何も言わなかった。
信号の赤い光が、フロントガラスにぼんやり映っている。
「……ありがとう」
やがて、佐山はそう言った。
声は小さかった。
「美紀も、きっと喜ぶと思う」
彩佳は頷いた。
「はい」
信号が青に変わる。
車が静かに動き出した。
寮の灯りが見えてくる頃、佐山がふと思い出したように言った。
「そうだ。月曜の診察だけど」
「はい」
「上原先生からも、話があると思う」
彩佳は佐山を見る。
「先生からも、ですか」
「うん」
佐山は頷いた。
「今日、私が話したこととは別に、ちゃんと聞いておいた方がいいこと」
彩佳は少しだけ胸の奥が緊張するのを感じた。
でも、不思議と逃げたいとは思わなかった。
知るべきことがある。
聞くべきことがある。
そして、もう知らないまま守られるだけの場所には戻らない。
「分かりました」
彩佳は静かに答えた。
「月曜、ちゃんと聞きます」
佐山は少しだけ安心したように笑った。
「うん」
車は寮の前で停まった。
外へ出ると、冬の夜の空気が冷たく頬に触れた。
けれど、彩佳の足元は、思っていたよりしっかりしていた。




