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第67話 託される想い

 社長室に、夜の静けさが残っていた。

 窓の外には、ラクトセラム本社の敷地が見える。


 二階の医務課には、まだ明かりが点いていた。

 地下へ続く搬入口の照明も消えていない。

 大規模治験は止まらない。


 投薬。

 観察。

 搾乳。

 検体回収。

 品質管理。


 そのすべてが、日付の境目とは関係なく動き続けている。


 そして今、その上に、経鼻予防薬の限定承認という言葉が重なっていた。


 社会は、希望を見始めている。


 医療機関からは供給を求める声が届き、広報課は朝から問い合わせに追われている。


 国も、企業も、医療現場も、予防薬を必要としている。


 成果は出ている。


 だからこそ、一ノ瀬は机の上の書類から目を離せなかった。


 上原が置いていった資料。

 佐山が静かに突きつけた問い。

 そして、ページの中に並ぶ、正式記録とは異なる経過。


 中止相当


 その四文字が、何度見ても紙の上から消えなかった。


 会社を守る。

 一ノ瀬は、ずっとそう考えてきた。


 ラクトセラムは、ガイア製薬の下でしか生きられない。

 Project Lactaという国家案件の中で、うまく立ち回らなければならない。

 社員の雇用を守り、供給体制を維持し、社会的信用を失わないようにする。


 そのためには、時には不本意な判断も必要だと思っていた。


 上原たちがまとめていた資料を探すよう、人事課長へ求めたことも、その一つだった。


 正式な社内文書ではない。


 公文書でもない。


 会社として承認された報告書でもない。


 未承認のメモ。


 現場の医師や看護師が、正式化する前にまとめていた準備段階の資料。


 そう言えば、処理できると思っていた。

 未承認資料が外に出れば、会社は危険にさらされる。


 ガイアとの関係も壊れる。

 予防薬供給にも影響が出る。

 そう自分に説明していた。


 だが、佐山の声が耳に残っている。

 ――社長は、会社のためなら、ひとりの人生はどうでもいいとお考えですか。


 そんなつもりはない。


 そう答えた。

 本心だった。

 けれど、その本心が何を守っていたのか、一ノ瀬には分からなくなっていた。


 会社とは何か。 

 建物か。

 契約か。

 供給体制か。

 親会社との関係か。

 それとも、そこにいる人間か。


 社長室の扉が、控えめにノックされた。


「入ってください」


 扉が開き、人事課長が入ってきた。


 五十代の男は、いつものように姿勢を崩さず、必要以上の感情を見せない顔をしていた。


 だが、その目元には疲れがあった。


「遅くにすみません」


「構いません。あなたにも聞いておきたいことがありました」


 一ノ瀬は資料から視線を上げる。

 人事課長は、向かいの席へ腰を下ろした。


「横田さんの件ですか」


「ええ」


 一ノ瀬はすぐに答えた。


「あなたは、最初からこうなると思っていましたか」


 人事課長は少しだけ黙った。


「いいえ」


 短い答えだった。


「ただ、もし資料が存在するなら、それは社員を守るために存在しているのだと思いました」


 一ノ瀬は表情を変えなかった。


「そのために、横田さんを使ったと?」


「はい」


 人事課長は逃げなかった。


「横田さんを危険な位置に置いたのは、私です」


「私の指示を受けたからでしょう」


「最終的に動かしたのは私です」


 人事課長の声は静かだった。


「私は責任を免れるつもりはありません」


 一ノ瀬は資料へ視線を落とす。


 人事課長は続けた。


「ガイアから“未承認資料”を探すよう求められた時、正面から拒めば、社内のどこを探られるか分かりませんでした」


「だから、横田さんに探させた」


「はい」


「命令に逆らえない新人を使って」


「そうです」


 人事課長は一度だけ目を伏せた。


「ただ、横田さんなら高橋さんと繋がれると思いました」


 一ノ瀬の目がわずかに動く。


「高橋さんが気づくと?」


「はい、人事評価を見るのが私の仕事ですからね」


「でも、賭けでした」


「賭けで社員を危険にさらした」


「その通りです」


 人事課長の声には、言い訳がなかった。


「ただ、あの時点で正面から動けば、資料は確実に消えていました」


 沈黙が落ちる。


「だから、ああするしかなかった」


 一ノ瀬は長く息を吐いた。


「あなたは、私も騙したわけですね」


「はい」


 人事課長は頷いた。


「社長まで騙す必要がありました」 


 一ノ瀬は人事課長を責めなかった。


 責める資格が、自分にどれほどあるのか分からなかった。


 人事課長もまた、会社を守ろうとした。


 その方法は危うく、茉莉を傷つけた。

 だが、同じことを自分もしている。


 未承認資料だから。

 正式な記録ではないから。

 会社を守るためだから。

 そう言って、自分は一人の新人を、危険な場所へ立たせた。


「社長」


 人事課長が口を開いた。


「会社を守ることと、ガイアを守ることは同じではありません」


 一ノ瀬は顔を上げた。

 人事課長は、まっすぐにこちらを見ていた。


「高村専務がいた頃、この会社にはまだ、踏みとどまる場所がありました」


「……」


「今は、そこが薄くなっています」


 人事課長は静かに言った。


「社長は会社を守ろうとしている。それは分かっています」


「ですが、社員が会社に守られていないと感じ始めた時、会社はもう形だけになります」


 一ノ瀬は何も言えなかった。


 人事課長は視線を落とした。


「横田さんを危険な位置に置いた責任は、私が取ります」


「早苗さんにも、横田さんにも、上原先生にも、佐山さんにも、謝らなければなりません」


「ですが、今この資料を止めることだけは、してはいけません」


 社長室の空気が重く沈んだ。


 一ノ瀬は再び書類を見る。


 上原の言葉が蘇る。


 ――私は、そんな会社に未来があるなんて思いたくありません。


 会社の未来。


 それは、ガイアとの関係を壊さないことではない。


 不都合な資料を消すことでもない。


 社員が、自分の身体や人生を差し出した先で、なかったことにされない会社であること。

 少なくとも、そうでなければならない。


 一ノ瀬は端末を引き寄せた。


「国分さんに連絡します」


 人事課長の表情が、わずかに変わった。


「よろしいのですか」


「よくはありません」


 一ノ瀬は言った。


「これは、会社にとって危険な判断です」


「ガイアとの関係も、供給体制も、対外的信用も、すべて揺らぐ可能性がある」


 それから、机の上の資料へ視線を落とす。


「ですが、この資料を見なかったことにする判断の方が、もっと危険です」


 人事課長は深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


「礼を言われることではありません」


 一ノ瀬は端末を操作する。

 国分の連絡先を開く。


 Project Lacta行政監督担当。

 国分。


 名前を見た瞬間、指が少しだけ止まった。

 ここから先は、もう社内の問題では済まない。


 国が動けば、ガイアが動く。


 Project Lactaそのものに傷が入る。


 それでも、一ノ瀬は送信した。


 短い文面だった。

 ――Project Lacta関連試験の安全管理および記録処理について、至急ご相談したい事項があります。ラクト・セラムとして、資料を提示します。


 送信済みの表示が出る。

 一ノ瀬は、しばらくその画面を見ていた。


     

 国分からの返信は、予想よりも早かった。


 翌朝、ラクトセラム本社に国分は現れた。


 人事課長の案内で国分が会議室に入る。


 4階会議室にはすでに一ノ瀬、上原、河合、佐山、清水が集まっていた。


 濃紺のスーツ姿。

 年齢は四十代後半ほど。

 表情は穏やかだが、目の奥に無駄な動きがない。


「お時間をいただきありがとうございます」


 一ノ瀬社長が言った。


「こちらこそ」


 国分は静かに答えた。


 静かに椅子に座ると、直ぐに口を開く


「Project Lacta行政監督担当として、確認すべき事項であれば伺います」


 その言い方に、佐山は少しだけ緊張を覚えた。


 国分は、驚いているようには見えなかった。


 上原が資料を机の上に置く。


「ガイア製薬で行われたPLX小規模試験、および現在ラクトセラムで行われている大規模治験について、安全管理と記録処理に重大な問題があると考えています」


 国分は頷いた。 


「拝見します」


 資料が一枚ずつめくられていく。


 彩佳の急変前後の経過。


 正式記録との差分。


 高田の安全評価メモ。


 上原と河合の医学的評価。


 清水と佐山の看護記録。


 橋本から渡された十二年前の改ざん前資料と、対外説明用試験結果の控え。


 高村が補足した当時の説明経緯。


 小出美紀の名前に繋がる資料。


 国分は途中で何度か手を止めた。


 だが、驚きの声は上げなかった。

 むしろ、確認しているように見えた。


 やがて、国分は資料の束を閉じた。


「……ようやく繋がりました」


 その言葉に、佐山が顔を上げた。


「あの…繋がった、というのは」


 国分は佐山を見る。


「ラクトセラム以外からも情報が来ています」


 上原の表情が引き締まる。


 湾岸総合医療センターからだと思った。


「詳細はお伝えできませんが、今見せて貰っている資料と繋がりがあるものです」


 その場の空気が変わった。


 佐山の指先が、膝の上で強く握られる。


 国分は続ける。


「まだ全てが揃っているわけではありません。ですが、方向は一致しています」


「試験において、中止相当の所見を正式記録から外し、継続可能な形へ補正する処理が、過去にも現在にも存在した可能性がある」


 河合が小さく息を吐いた。


「やはり、単発ではなかった」


「今私の元にある資料が事実であればそうなります」


 国分は言った。


「試験に関係した組織にはすぐに正式に照会をかけます」


「あの、照会までに証拠を削除される恐れは」


 佐山が思わず訊いた。


 国分は佐山を見た。


「その可能性もあるので、すでにそれぞれの組織に調査グループを向かわせています」

 

佐山の肩から、わずかに力が抜けた。


「告発に関与する人物からも直接聴取を行います」


 清水が口を開く。


「今、渡した資料はガイア組織内の方も協力してくれています」


「把握しています。もちろん、その方からも聴取を行います」


 国分はそう答えた。


 清水は目を伏せた。

 高田のメモが生きている。

 その事実が、今ようやく正式な場所へ届こうとしている。


 一ノ瀬は国分を見た。


「この告発を、どう扱われますか」


 国分はしばらく黙った。


 そして、机の上の資料へ手を置いた。


「正式な調査対象として扱います」


 その言葉は静かだった。

 だが、その場にいる全員にとって重かった。


「ただし、ここから先は慎重に動きます」


 国分は続ける。


「相手はガイア製薬だけではありません。Project Lactaそのものに関わる問題です」


「経鼻予防薬はすでに限定承認され、優先医療機関で使用が始まっています」


「供給停止による社会的影響も無視できません」


 佐山は唇を結んだ。

 国分はそれに気づいたように、静かに言う。


「だからといって、安全管理上の問題や記録改ざんを見逃すという意味ではありません」


 佐山は国分を見る。


「まず、PLX試験の安全管理と記録処理を調査します」


「大規模治験については、投薬を一時停止する可能性があります」


 一ノ瀬がわずかに身じろぎした。


「供給は」


「乳汁分泌量の到達状況を確認したうえで、国内限定・行政監督下での供給継続を検討します」


 国分の声は淡々としていた。


「本来なら、関連試験全体の調査完了まで供給を止めるべきです」


「しかし、現状の感染拡大と医療逼迫を踏まえれば、社会的判断として完全停止は難しい」


「その代わり、調査対象を明確に絞り、ガイア側の独自運用を停止させます」


 上原は静かに頷いた。


 それは、完全な理想ではない。

 だが、現実の中で最も近い落としどころだった。

 成果を社会に残しながら、犠牲を隠した構造を裁く。


 その線が、ようやく形を取り始めていた。


「ラクトセラムには、全面的に協力していただきます」


 国分が一ノ瀬を見る。


 一ノ瀬はまっすぐに頷いた。


「協力します」


 短い言葉だった。

 だが、昨日までの一ノ瀬なら言えなかった言葉だった。


 人事課長も頭を下げる。


「現場から上がっていた報告経路については、私からも説明します」


「お願いします」


 国分は頷いた。


「特に、ガイア側へ共有された情報と、ラクトセラム内部で止まっていた情報の差を確認したい」


「分かりました」


 人事課長は短く答えた。


「私のところで止めていた報告もあります」


 一ノ瀬が人事課長を見る。


 人事課長は続けた。


「ガイア側にそのまま流せば、現場の社員が不利益を受ける可能性があると判断したものです」


 国分はメモを取る。


「その判断に至った経緯も、後ほど確認します」


「はい」


 国分は資料をまとめ、静かに立ち上がった。


「本日中に、こちらで初動の手続きを取ります」


 一ノ瀬も立ち上がる。


「ガイアには」


「直ぐに、こちらから入ります」


 国分の声は変わらなかった。


「ただし、ラクトセラム側の資料がガイアへ流すような事は避けてください」


「承知しました」


「電子データの保全、紙資料の所在、関係者の証言。この三点を優先します」


 上原が頷く。


「医務課側で残している資料は、改めて一覧化します」


「お願いします」


 河合も続けた。


「医学的評価については、作成経緯も含めて説明できます」


「後ほど伺います」


 佐山は少しだけ手を握りしめた。


「十二年前の資料については、私が保管していたものがあります」


 国分は佐山を見た。


「橋本氏から渡された資料ですね」


 佐山は息を呑む。


「そこまで」


「概要は把握しています」


 国分は静かに言った。


「ただし、正式にはこれから確認します」


「はい」


 佐山は頷いた。


 国分は最後に、一ノ瀬へ視線を戻した。


「一ノ瀬社長」


「はい」


「ここから先、会社防衛のために一部を伏せるという判断は、かえって会社を危険にします」


 一ノ瀬はその言葉を受け止めた。


「分かっています」


「なら結構です」


 国分は短く言い、資料の一部を封筒へ収めた。


「では、改めて連絡します」


     


 会議が終わった後、佐山は会議室の外でしばらく動けなかった。


 廊下の窓から、冬の光が入っている。

 明るいのに冷たい光だった。

 上原が隣に立つ。


「佐山さん」


「はい」


「受理されましたね」


「……はい」


 佐山は小さく答えた。


 長かった。

 十二年前から続いていた線。


 小出美紀の名前。

 高村の後悔。

 橋本が守っていた資料。

 芹沢が残した湾岸晴海052。

 高田の安全評価メモ。

 彩佳の急変。

 茉莉が踏みとどまった見せ札。


 それらが、ようやく一つの場所に置かれた。

 消されたはずの線は、まだ残っていた。


 佐山は目を閉じる。

 涙は出なかった。

 ただ、胸の奥がひどく重かった。


 これはもう、一人の社員の事故ではない。


 十二年前から続いていた構造そのものを、ようやく裁くところまで来たのだ。


 上原が静かに言った。


「彩佳さんには、話さないといけませんね」


 佐山は目を開けた。


「ええ」


「もう、知らされるべき段階です」


「そうですね」


 彩佳は、何となく気づいている。


 自分たちが資料をまとめていることも、茉莉の件も、きっと想像している。


 それでも、正式に言葉にする必要がある。

 守るために隠す時間は終わった。


「医務課の面談室で」


 佐山が言った。


「早苗さんにも同席してもらいましょう」


「はい」


 上原は頷いた。


 廊下の向こうから、医務課へ向かう職員の足音が聞こえる。


 一階では、今日も広報課の電話が鳴っているだろう。


 地下では、検体回収が続いている。


 ラクトセラムは、まだ動いている。


 けれど、その内側で、確かに何かが変わり始めていた。

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