第66話 告発
静かな朝だった。
大規模治験という名の、予防薬生産へ向けたプロセスがラクトセラムで動き続けている朝。
医務課では、今日も投薬後の観察が始まっている。
B1では、搾乳と検体回収が止まらない。
広報課には、経鼻予防薬に関する問い合わせが朝から届いている。
けれど、四階の社長室前だけは、別の時間が流れているように静かだった。
上原と佐山は、社長室の前に立っていた。
上原の手には、告発の書類とデータメモリがある。
紙の重さよりも、その中身の方がはるかに重いことを、二人とも分かっていた。
佐山は、閉じた扉を見つめている。
この扉の向こうにいる一ノ瀬は、会社を守ろうとしてきた人間だ。
それは分かっている。
だが、その会社を守るために、茉莉を使った。
上原たちが残した資料を探らせた。
彩佳の身体に起きたことを記したものを、消せる可能性のある場所へ流そうとした。
その事実は、佐山の中でずっと消えずに残っていた。
人事課長が扉をノックする。
すでに来訪は伝えられている。
数秒の間。
そのわずかな時間が、やけに長く感じられた。
やがて扉が開き、人事課長が顔を出す。
「どうぞ」
短い言葉だった。
声には緊張が混じっている。
この先に起こることを、誰もが完全には言葉にできないまま理解していた。
室内に入る。
一ノ瀬は、応接用の席の前に立っていた。
「おはようございます」
上原が頭を下げる。
佐山も続いた。
一ノ瀬は二人を見て、ゆっくり頷いた。
「ある程度話は聞いています。とりあえず座って話を聞きましょうか」
机を挟んで、三人が向かい合う。
形式はいつもと同じはずだった。
社長に報告する。
資料を示す。
判断を仰ぐ。
けれど、空気だけが違っていた。
最初に口を開いたのは上原だった。
「先日ガイア製薬で行われた試験について、社長にお願いがあります」
一ノ瀬は黙って聞いている。
「Project Lactaの関連試験として行われたPLX試験において、一部安全管理が損なわれた運用がありました」
上原は手元の資料を一ノ瀬の前へ置いた。
「この事実は、試験運用の問題として、厚生労働省へ報告すべきです」
一ノ瀬は一度だけ頷いた。
「ガイアから貰った書類は既に拝見しています。先にそちらから送って貰ったデータも確認しています。」
そこで言葉を切る。
視線が、机の上の書類に落ちる。
ページをめくる指が、一瞬止まった。
そこには、正式記録とは異なる経過が並んでいた。
報告は事実なのだと、改めて認識している顔だった。
数秒の沈黙の後、一ノ瀬は顔を上げた。
「逃れようのない事実だということは理解しています」
その声は低かった。
「ですが、私は会社を守る立場です」
佐山の眉がわずかに動く。
一ノ瀬は続けた。
「今回の相手は親会社です。出方を誤れば、丸め込まれる可能性もある」
「社員の生活、会社の存続、進行中の予防薬供給体制……全てが危険にさらされる。その点は理解していますか」
「はい」
上原は間を置かずに答えた。
「ですので、国分さんに直接お会いできる社長にお願いしに来ています」
一ノ瀬の目が少し細くなる。
「国もガイア側だった場合は?」
「その場合は、別ルートでの告発も準備しています」
佐山が静かに言った。
「複数のルートから同時に出せば、握り潰すことはできません」
「……なるほど」
一ノ瀬は小さく息を吐いた。
椅子の背に軽く身体を預ける。
だが、その視線は再び書類へ落ちていた。
ページの端にある、ひとつの症例番号。
その横に記された経過。
中止相当。
その言葉が、修正後の正式記録では消えている。
一ノ瀬の指先が、わずかに強く紙を押さえた。
会社への損害。
進行中の計画への影響。
対外的信用。
関係各所への波及。
どれも軽くない。
ここで扱いを誤れば、会社そのものが傾きかねない。
だが、この書類が、もう“なかったこと”にしていい段階ではないことを表しているのも、一ノ瀬には十分理解できた。
それでも迷う。
一度判断してしまえば、もう戻れない。
どちらの判断でも、守れるものはある。
そして、失うものもある。
一ノ瀬は、自分の中にあるその“守るべきもの”が何なのか、分からなくなっていた。
社長として会社を守るのか。
一人の人間として、社員の尊厳を守るのか。
その二つの間で、彼はほんの数秒黙っていた。
その時だった。
「社長」
佐山の声が、静かに落ちた。
一ノ瀬が顔を上げる。
「横田さんに、医務課の資料を探させたのは社長ですか」
室内の空気が止まった。
上原は何も言わなかった。
ただ、佐山の横顔を見た。
一ノ瀬の表情が、わずかに硬くなる。
「……会社として、必要な確認を行いました」
「必要な確認」
佐山はその言葉を繰り返した。
「ガイア側から“未承認資料”を探すよう求められ、人事課長を通して、横田さんに動かせた」
「佐山さん」
一ノ瀬の声が少し硬くなる。
「言葉を選んでください」
「選んでいます」
佐山は一歩も引かなかった。
「横田さんは新入社員です。地方から出てきたばかりで、家族に仕送りをしている。会社を辞められない理由がある子です」
一ノ瀬は黙った。
「そういう子を使ったんですね」
「会社を守るために、必要な確認でした」
「会社を守るため」
佐山の声が、少しだけ低くなる。
「その会社を守るために、石井さんの身体に何が起きたかを記録した資料を消そうとした」
「消そうとしたわけではありません」
一ノ瀬はすぐに返した。
「不正確な資料が外部に流れれば、会社全体が危機にさらされる。確認する必要がありました」
「不正確かどうかを判断するのは、ガイアですか」
一ノ瀬は答えなかった。
佐山はまっすぐ一ノ瀬を見る。
「社長は、会社のためなら、ひとりの人生はどうでもいいとお考えですか」
その声が、空気を切った。
一ノ瀬はすぐに視線を上げた。
「そんなつもりはありません」
返事は早かった。
早かったからこそ、その言葉は痛かった。
ほんの一瞬だけ、何かを飲み込むような間がある。
「ですが、慎重に動く必要があるということです」
「慎重って……」
佐山は感情を押し殺した。
その先の言葉を、上原が引き取るように口を開いた。
「一ノ瀬社長」
声は落ち着いていた。
だが、その奥に何かが揺れている。
「彼女たちが、どんな思いで試験に参加していたかご存知ですか」
一ノ瀬は上原を見る。
「特に石井さんは、“人が救われるなら”と言って試験に参加し、投薬を受けていました」
上原の視線が、一瞬だけ下がる。
「まだ入社三年目です。目の前の仕事は独り立ちして処理できても、社会的な構造や、企業と国の力関係まで理解できる立場ではありませんでした」
ゆっくりと、伝わるように続ける
「副作用も強かった。ずっと我慢していました」
「我慢して、我慢して……重症化しました」
呼吸を一つ置く。
「身体がどんなに辛くても、社会が救われると信じて耐えていたんです」
「きっと、怖かったと思います」
そこで、ほんの一瞬だけ言葉が途切れた。
「でも」
上原は顔を上げてまっすぐに一ノ瀬を見る。
「この会社は、そんな彼女の気持ちには目を向けず、まだまだ未熟な善意を利用したんです」
室内の空気が、重く沈む。
「石井さんは……」
上原の声が、わずかに揺れた。
「石井さんは、私が医師としてここで独り立ちして、初めて担当した社員の一人です」
「真面目で、明るくて、まっすぐで。でもすぐに無理をするので、ちゃんと診ないといけないと思っていました」
佐山は黙って聞いていた。
上原がそんなふうに彩佳のことを語るのを、初めて聞いた気がした。
「……ラクトセラムは、身体を差し出す会社です」
上原の声は低く、静かだった。
説明のための言葉ではない。
言い切るための言葉だった。
「給料は高い。学歴も出身も問われにくい。社員教育も福利厚生も、寮制度も整っている」
「いい会社だと思います」
「でも、その反面、色々な事情を持った人もたくさんいます」
空気が、さらに重くなる。
「借金返済」
「母子家庭」
「家庭内暴力から逃げてきた人」
「家族の事情で仕送りをしなければいけない人」
淡々と並べる。
その言葉を、あえて修正しない。
誰も動かなかった。
「みんな、それ相応の覚悟で働いています」
「…だから平気で無理をします」
上原は淡々と続ける
「投薬プロセスは、乳汁分泌が得られるようになる半面、身体的にも精神的にも負担がかかります」
「体調を崩す人もいます」
「仕事を失うことを恐れて、壊れるまで我慢する人も見てきました」
少しだけ間を置く。
「……私は、それを止めきれませんでした」
初めて、“自分”を主語にした。
「病気を治療するはずの医師なのに、薬を飲んだ人の体調が悪くなるのは、今でも嫌です」
「でも」
「制度だから、で済ませてきた」
「個人の事情は見ないようにしてきた」
「自分に与えられた役割だから、で流してきた」
「その方が全体が回ると、分かっていたからです」
そこまで言ってから、上原はゆっくりと顔を上げた。
「つまり私は、この構造の中で働いていた側の人間です」
自分も利用する側にいたのだと逃げずに言い切る。
沈黙。
そのあとで、ほんのわずかに声の質が変わった。
「でも」
その一言が、空気を裂いた。
「石井さんは、違いました」
上原は、はっきりと言った。
「誇りを持って、この仕事をしていた」
「選ばされたわけじゃない」
「自分で選んで、立っていた」
言葉が少しずつ強くなる。
「きつくても、受付に立って」
「笑って、挨拶をしていた」
「“そうする”って、自分で決めていた人です」
視線が、まっすぐに一ノ瀬へ向く。
「彼女だけは、違った」
その言い方は、ほとんど祈りに近かった。
「ここにいる人間は、そういう人に支えられて、回っています」
「私も、その一人です」
上原は一度、唇を結んだ。
「何度も、救われました」
そのあと、言葉が落ちる。
「でも」
もう一度、自分の逃げ場を塞ぐために。
「そういう人を、私たちは止めなかった」
声が、明確に揺れた。
「止められたのに、止めなかった」
「“仕事だから”で、進めた」
「“自分に与えられた役割”で、通した」
一つ一つが、突き刺すように落ちる。
「その結果――」
呼吸が一度乱れる。
それでも、言う。
「石井さんは、だんだん呼吸ができなくなって」
「酸素が落ちて」
「意識が途切れていきました」
部屋の空気が凍る。
「モニターの数字が、下がっていくのを見ていました」
「それでも、あの場ではまだ“試験中”でした」
言葉が止まらなくなる。
「私は医師なのに、最初にやっていたのは“中止させること”じゃなかった」
「悪化することを前提にした準備」
「中止させるための準備をしないといけなかったんです」
「そうなることは、誰だって予想できた」
「でも、それが正しい動きだと、思ってしまった」
一瞬だけ、声が途切れる。
静寂。
誰も息をしない。
「私は、彼女を止めなかった」
「守れなかった」
「担当医として」
「いえ…医師として失格です」
涙が落ちた。
それでも、上原は顔を逸らさない。
「それでも彼女は、私を一度も責めません」
声が、かすれる。
「あんなことがあったのに、今でも笑顔で私に話しかけてくれます」
「彼女なりに努力して、立ち直ろうとしています」
一ノ瀬の視線が揺れた。
沈黙が、重く沈む。
「だから、私も折れるわけにはいきません」
上原はゆっくりと言った。
「会社が人を守らないなら…」
「会社が“必要な犠牲”で終わらせるなら」
視線はまっすぐだった。
涙が残っているのに、逃げていない。
「私は、そんな会社に未来があるなんて思いたくありません」
佐山は、上原の横顔を見ていた。
初めて見た。
上原が泣いた顔。
感情を出して訴える姿。
出向が決まった日。
ガイアでの試験中。
湾岸総合医療センター。
彩佳が戻ってからの日々。
色々な場面の中で、上原はずっと感情を押し殺してきたのだろうと思った。
医師として。
判断する者として。
線を引く者として。
それでも今、その線の内側にしまっていたものを、自分で破っている。
しばらく沈黙があった。
上原は目元を拭わず、少しだけ頭を下げた。
「感情的になってしまい、申し訳ありません」
声はまだ震えていた。
「どうか、一人ひとりの社員のことを第一に考えた決断をお願いします」
その意思だけは、はっきりと伝わった。
一ノ瀬は、しばらく何も言わなかった。
机の上の書類を見る。
上原を見る。
佐山を見る。
そして、もう一度書類へ視線を落とした。
会社を守る。
その言葉の意味が、今までとは違う形で目の前に置かれている。
会社とは何か。
建物か。
契約か。
供給体制か。
親会社との関係か。
それとも、そこにいる人間か。
一ノ瀬は静かに息を吐いた。
「分かりました」
その声は、低く、重かった。
「私にも考える時間をください」
佐山の表情がわずかに動く。
一ノ瀬は続ける。
「この書類は預かります」
上原は頷いた。
「お願いします」
「国分さんへ繋ぐかどうかも含めて、私が判断します」
一ノ瀬は言った。
「ただし、これはもう私だけの問題ではありません。会社としても、個人としても、逃げられる段階ではないことは理解しました」
それは、まだ決断ではなかった。
だが、逃げるための保留ではなかった。
佐山には、それが分かった。
上原も、同じように受け取ったのだろう。
「ありがとうございます」
静かに頭を下げる。
*
社長室を出た後、廊下の空気が少しだけ冷たく感じた。
佐山は隣を歩く上原を見る。
目には、まだ涙が浮かんでいた。
本人は平静を装っているが、鼻をすする音が小さく聞こえる。
「佐山さん」
上原が言った。
「はい」
「今日のこと……石井さんには絶対に言わないでください」
「もちろんです」
佐山は即答した。
上原は少しだけ目を伏せる。
「彼女の前では、まだ担当医として立っていたいんです」
「ちゃんと見届けたいんです」
社長室でのやり取りの後で聞いたその言葉には確かな重みがあった。
「先生…」
少しだけ沈黙が流れる。
それから佐山は、わざといつもの調子に近づけて言った。
「先生も、“彩佳推し”だったんですね」
上原は一瞬だけ目を瞬いた。
それから、涙の残った目で佐山を見た。
「言ったじゃないですか」
声はまだ少し震えていた。
「私は彼女の担当医ですよ」
佐山は小さく笑った。
「告発、絶対に通しましょう」
「もちろんです」
上原はまっすぐ前を見た。
「どんな手を使っても通します」
その言葉には、もう涙の揺れはなかった。
冷静な医師の声でもない。
ただ、一人の人間としての決意だった。
廊下の先には、階段がある。
下の階では、今日も医務課が動いている。
一階では、広報課が電話を受けている。
地下では、搾乳と検体回収が続いている。
ラクトセラムは、今日も止まっていない。
だからこそ、止めなければならないものがある。
佐山は上原と並んで、静かに歩き出した。




