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第65話 効き始める薬

 一月下旬に入ると、ニュースの中に少しずつ違う言葉が混じり始めた。


 感染拡大。

 医療逼迫。

 救急搬送困難。

 病床使用率。


 それらの言葉は、相変わらず毎日のように画面に流れている。


 けれど、その横に、別の言葉が並ぶようになった。


 経鼻予防薬。

 限定承認。

 優先医療機関での使用開始。

 重症化リスク低下の可能性。

 院内感染抑制への期待。


 朝の食堂で、そのニュースが流れた時、寮生たちの何人かが顔を上げた。


『政府は本日、ヒト由来型免疫計画に基づき開発が進められていた経鼻予防薬について、優先医療機関での限定使用を承認したと発表しました』


 アナウンサーの声は、いつもより少し明るい。


『対象は感染症指定医療機関、救急受け入れ拠点、重症患者対応病棟を有する医療機関などに限られますが、医療従事者への予防的使用により、院内感染および重症化リスクの低下が期待されています』


 食堂の空気が、ほんの少しだけ変わった。


「やっとだね」


「これで病院、少し楽になるかな」


「うちの分、使われるってこと?」


「たぶん」


「すごいじゃん」


 小さな声があちこちで上がる。


 彩佳は、トレーの上の味噌汁を見つめたまま、その声を聞いていた。


 すごいことだ。


 それは間違いない。


 もし医療従事者の感染が減るなら。

 救急が止まらずに済むなら。

 病院の中で守れる命が増えるなら。


 それは、本当に意味のあることだ。


 父がいたら、どう思っただろう。


 彩佳はそう考えた。


 救急救命士だった父。

 現場で人を助けることを仕事にしていた人。

 きっと、このニュースを見たら、少しだけ安心した顔をしたかもしれない。


 よかったな、と言ったかもしれない。


 でも、彩佳の左耳には補聴器がある。


 その小さな機械が、食堂のざわめきを拾っている。

 トレーの音。

 誰かの笑い声。

 ニュースの声。

 食器がぶつかる硬い音。


 救われる人がいる。


 その一方で、自分の身体には、救われなかったものが残っている。


 彩佳は左耳の後ろに触れた。


 その動きに、向かいの早苗が気づく。


「音、きつい?」


「ううん」


 彩佳は首を振る。


「大丈夫」


「ほんと?」


「ほんと」


 早苗は数秒だけ彩佳を見た。


 それから、テレビへ視線を向ける。


「始まったね」


「うん」


「嬉しい?」


 彩佳は少し考えた。


 簡単には答えられなかった。


「嬉しい、と思う」


「うん」


「でも、それだけじゃない」


「うん」


 早苗はそれ以上聞かなかった。


 その代わり、味噌汁を一口飲んでから言った。


「それでいいんじゃない」


「そうかな」


「そうだよ。嬉しいことと、許せないことは別」


 彩佳はその言葉を聞いて、少しだけ目を伏せた。


 早苗はいつも、そういう線引きをはっきりさせる。


 救われる人がいることを否定しない。

 でも、そのために踏みつけられたものまで肯定しない。


 それはたぶん、今の彩佳が一番ほしかった言葉だった。


     *


 その日の広報課は、朝から電話が鳴り続けていた。


 経鼻予防薬の限定承認が報じられたことで、医療機関や自治体、関連団体からの問い合わせが一気に増えた。


 供給時期。

 対象医療機関。

 優先順位。

 追加供給の見込み。

 副反応や安全性に関する資料。

 一般向け使用の可能性。


 広報課は通常業務をさらに圧縮し、問い合わせ対応に回っていた。


 佐山は席で受話器を取りながら、画面に表示された回答例を確認する。


「現時点では、優先医療機関への限定供給となります。一般向けの使用時期については、関係省庁および医療機関との調整後になります」


 同じ説明を、何度も繰り返す。


 声だけは落ち着いている。

 けれど、指先は少し冷たかった。


 問い合わせの向こうには、確かに期待がある。


 救われるかもしれない。

 現場が少し持ちこたえるかもしれない。

 自分たちの病院にも届くかもしれない。


 その期待の声を聞くたびに、佐山の胸の奥には別の重さが生まれる。


 成果は出ている。


 だからこそ、難しい。


 もし何の成果もなかったなら、告発はもっと単純だったかもしれない。

 失敗した試験。

 危険な運用。

 隠蔽された記録。


 でも今、予防薬は確かに人を救い始めている。


 その事実を、どう扱うのか。


 受話器を置くと、隣の職員が小さく言った。


「すごい反響ですね」


「ええ」


「やっと希望が見えてきた感じがします」


「そうですね」


 佐山は短く答えた。


 希望。


 その言葉を否定することはできない。


 けれど、希望という言葉が強くなりすぎると、その影で声を失った人たちが見えなくなる。


 佐山は机の引き出しではなく、手元の手帳をそっと押さえた。


 その中には、別に保管する資料の受け渡しメモが挟んである。


 誰かを救う薬が、誰かの傷の上に作られている。


 その事実を、きれいな言葉だけで終わらせてはいけない。


     *


 医務課では、限定承認のニュースに合わせるように、社内の空気も少し変わっていた。


 PLX投薬対象者の中には、自分たちの身体が成果に繋がっているのだと感じ、少し誇らしそうに話す社員もいた。


「ニュースで言ってたやつ、うちのですよね」


「たぶん」


「私、昨日も頭痛ひどかったけど、あれで病院助かるならまあ……」


 その言葉を、清水は経過観察室で聞いた。


 ベッドに横になっている社員は、顔色が悪い。

 軽い浮腫もある。

 それでも、笑おうとしている。


「“まあ”で済ませないでください」


 清水は言った。


 社員が少し驚いたように見る。


「助かる人がいることと、あなたが無理していいことは別です」


「でも、みんなやってるし」


「みんなやっていても、あなたの症状はあなたのものです」


 清水は血圧計を外しながら続ける。


「今日は午後休んでください」


「え、でも」


「休んでください」


 社員は困ったように笑った。


「清水さん、最近厳しいですね」


「最近じゃありません」


 清水は淡々と返した。


 近くで記録していたガイア側の研究員が、そのやり取りに少しだけ視線を向ける。

 以前なら、清水はその視線に苛立ちを覚えたかもしれない。


 今は、気にしない。


 いや、気にはしている。

 でも、引かないことにした。


 上原は少し離れた場所で、そのやり取りを聞いていた。


 そして端末の自由記載欄に、清水の指示内容も含めて記録する。


 本人は午後休養指示。

 頭痛、倦怠感、浮腫あり。

 業務継続希望あり。

 医療側判断により就業不可。


 その一行を残すことが、どれほど意味を持つのかは分からない。


 でも、残さないよりはいい。


 残さなければ、なかったことになる。


 それだけは、もう嫌だった。


     *


 昼休み、上原と河合は医務課奥の小さな会議スペースで資料を確認していた。


 告発用の資料は、少しずつ形になっている。


 今回のPLX小規模試験における安全性評価。

 彩佳の急変前後の時系列。

 正式記録との差分。

 高田の安全評価メモ。

 河合の医学的補足。

 清水と佐山の看護記録。

 橋本から渡された十二年前の改ざん前資料。

 高村の試験説明資料。

 小出美紀に関する過去記録。


 そして、湾岸側。


 被験者01。

 湾岸晴海052。

 芹沢の証言。

 照会が入ったという事実。


 河合は資料を読みながら、眉間に皺を寄せた。


「こうして並べると、かなり繋がりますね」


「はい」


「単発の事故ではない」


「そう見せる必要があります」


 上原は答えた。


「彩佳さんの件だけなら、ガイアは“個別症例の重症化”で処理できます」


「十二年前だけなら、古い案件として切れる」


「湾岸だけなら、病院側の記録管理の問題にされる可能性があります」


 上原はページをめくる。


「でも、三つが繋がれば違う」


 河合が頷く。


「中止基準に達しても、記録を継続可能寄りに補正し、試験を続ける構造」


「ええ」


「問題は、一ノ瀬社長ですね」


 河合の声が低くなる。


「社長は、一度向こう側に回っています」


「分かっています」


「資料を見ただけで動くと思いますか」


 上原は少し黙った。


 資料だけでは足りない。


 その感覚は、上原自身にもあった。


 一ノ瀬は会社を守る人間だ。

 ラクトセラムの社員を守りたい気持ちもあるだろう。

 でも、会社の存続、ガイアとの関係、国家案件、供給体制。


 それらを前にすれば、資料の重さだけでは押し切れないかもしれない。


「動かすしかありません」


 上原は言った。


「どうやって」


 河合が訊く。


 上原は手元の資料を見下ろした。


 そこには、彩佳の急変時系列がある。


 呼吸苦。

 胸部不快感。

 SpO2低下。

 意識レベル低下。

 搬送。

 集中管理。

 左耳聴力障害。


 文字にすれば、ただの経過だった。


 でも上原の中には、その時の彩佳の顔が残っている。


 息ができず、目だけで助けを求めていた顔。

 それでも、誰も責めなかった声。

 今でも診察室で笑って「先生」と呼ぶ声。


「私が話します」


 上原は言った。


 河合は顔を上げる。


「資料の説明ではなく?」


「それもします」


 上原の声は静かだった。


「でも、それだけでは駄目だと思います」


 河合はしばらく上原を見ていた。


「先生、泣くかもしれませんね」


「泣きません」


「泣きそうな顔してます」


「していません」


 河合は少しだけ笑った。


「じゃあ、泣いても大丈夫な資料構成にしておきます」


「河合先生」


「冗談です」


 けれど、その声は優しかった。


 上原は目を伏せる。


「ちゃんと伝えないといけないんです」


「知ってます」


 上原は言葉を探した。


「これは、私の責任でもあるので」


 河合は黙って頷いた。


     *


 その日の夕方、彩佳は広報課の前を通りかかった。


 診察ではない。

 医務課へ提出する書類の確認を終えて、寮へ戻る途中、少しだけ顔を出すつもりだった。


 一階の広報課は、いつもより慌ただしい。


 電話が鳴る。

 誰かが資料を印刷している。

 別の職員が問い合わせ一覧を確認している。


 その奥に、佐山の姿が見えた。


 ネイビーのジャケット。

 きちんとまとめた髪。

 受話器を片手に、落ち着いた声で応対している。


「現時点では、優先医療機関への限定供給となります。詳細については、厚生労働省からの追加発表後にご案内いたします」


 佐山は彩佳に気づいたが、電話中だったため、軽く目だけで合図した。


 彩佳も小さく頭を下げる。


 そのまま通り過ぎようとした時、広報課の別の職員が声を漏らした。


「本当に問い合わせすごいですね。これで少し世の中が落ち着くといいんですけど」


 その言葉に、彩佳は足を止めそうになった。


 世の中が落ち着く。


 それは、良いことだ。


 良いことのはずだった。


 でも、自分の中にはすぐに「よかった」と言い切れない何かがある。


 彩佳は補聴器に触れた。


 その小さな動きに、電話を終えた佐山が気づいた。


「彩佳さん」


 今度は、仕事の声ではなかった。


「はい」


「帰り?」


「はい。書類出してきました」


「そう。今日はこのあと予定ある?」


「特には」


「じゃあ、ゆっくり休んで」


 佐山の言葉は短い。


 でも、その目はいつもより少し疲れていた。


「佐山さんも、忙しそうですね」


「忙しいね」


 佐山は苦笑した。


「でも、広報は今が踏ん張りどころだから」


「予防薬の問い合わせですか」


「うん」


 彩佳は少しだけ視線を落とした。


「ニュース、見ました」


「そう」


「すごいことですよね」


「うん」


「でも」


 そこまで言って、彩佳は口を閉じた。


 佐山は急かさない。


 彩佳は少ししてから言った。


「でも、変な気持ちです」


「うん」


「救われる人がいるなら、良かったって思うんです」

「父も、たぶんそう思うと思います」


 佐山は静かに聞いている。


「でも、私の耳とか、あの日のこととか、医務課で横になってる人たちのこととか」

「そういうのが、どこにも映らないんだなって」


 言ってから、彩佳は少しだけ慌てた。


「すみません。変なこと言って」


「変じゃない」


 佐山はすぐに言った。


「全然、変じゃないよ」


 その声があまりに自然だったので、彩佳は胸の奥が少し緩むのを感じた。


 佐山は一度だけ広報課の方を見る。


 そして、声を落とした。


「成果は成果。傷は傷」

「どっちかで、もう片方を消しちゃいけないんだと思う」


 彩佳はその言葉を聞いて、ゆっくり頷いた。


「はい」


「だから、彩佳さんが複雑に思うのは普通」


 佐山は微かに笑う。


「むしろ、普通でいてくれてよかった」


「普通、ですか」


「うん」


 彩佳はその言葉を小さく繰り返した。


 普通。


 今の自分にとって、それは少し不思議な響きだった。


 身体は前と違う。

 左耳も前とは違う。

 働き方も、たぶん前とは違っていく。


 それでも、複雑なものを複雑なまま感じることは、普通なのかもしれない。


「ありがとうございます」


 彩佳が言うと、佐山は軽く頷いた。


「寮まで気をつけて」


「はい」


 彩佳は広報課を離れた。


 廊下を歩きながら、左耳に入る音を少しだけ意識する。


 電話の音。

 紙の音。

 遠くの足音。

 自分の靴音。


 全部が、今の世界の音だった。


     *


 夜、寮の食堂では、また予防薬のニュースが流れていた。


 専門家が、限定承認の意義について説明している。

 医療機関の映像。

 救急車。

 病棟。

 防護服の医師や看護師。


 彩佳は、早苗と茉莉と同じテーブルに座っていた。


 早苗はかなり疲れている。

 復帰してから、顔色が日に日に悪くなっている気がした。


「早苗、ちゃんと休んでる?」


「休んでる」


「本当に?」


「それ、今日三回目」


「三回言うくらい顔に出てる」


 早苗は少しだけ眉を寄せた。


「彩佳に心配される日が来るとは」


「来たよ」


 彩佳は少し胸を張る。


「私も成長してるので」


「それは知ってる」


 早苗が何気なく言ったその一言に、彩佳は少しだけ言葉を失った。


 茉莉が横から小さく言う。


「私も知ってます」


「茉莉ちゃんまで」


「先輩、前よりちゃんと休むようになりました」


「それ、褒めてる?」


「褒めてます」


 冗談で言ったつもりが思ってもいない答えが帰ってきて拍子抜けしてしまう


 テレビでは、医療従事者への予防薬使用が始まった病院の様子が映っている。


 看護師がインタビューに答えていた。


『これで少しでも感染リスクが下がるなら、本当にありがたいです』


 その声を聞いて、茉莉がぽつりと言った。


「ちゃんと役に立ってるんですね」


「うん」


 早苗が答える。


「役には立ってる」


 茉莉はテレビを見つめる。


「じゃあ、余計に難しいですね」


「何が」


「悪いことだけじゃないから」


 その言葉に、三人とも少し黙った。


 彩佳は湯呑みを両手で包む。


「そうだね」


 悪いことだけなら、怒ればいい。

 許せないと言えばいい。


 でも、救われる人がいる。

 それを見て、良かったと思う自分もいる。


 だから難しい。


 早苗は静かに言った。


「でも、良い結果が出たことと、やり方を間違えたことは別」


 茉莉が頷く。


「はい」


「結果が良かったからって、何でも許されるなら、また同じことをする」


 早苗の声は低かった。


 彩佳はその横顔を見る。


 早苗は疲れている。

 でも、目だけははっきりしていた。


 茉莉も、その言葉をしっかり聞いている。


 この三人は、それぞれ違う場所から同じことを見ているのだと思った。


 差し出した側。

 見抜く側。

 巻き込まれた側。


 完全に同じ気持ちにはなれない。


 でも、同じテーブルに座って、同じニュースを見ている。


 それだけで、少しだけ前へ進んでいる気がした。


     *


 その夜遅く。


 一ノ瀬は社長室で、机の上に置かれた資料を見ていた。


 倉持から回ってきたもの。

 茉莉を通じて回収された資料。

 そして、ガイア側からの簡単な報告。


 不正確な内部メモ。

 未承認資料。

 正式記録ではない。

 証拠能力は低い。


 その評価は、いかにも処理しやすい言葉でまとめられていた。


 一ノ瀬は椅子に深く座り、窓の外を見る。


 夜のラクトセラム本社。

 敷地内の灯り。

 寮の窓。

 医務課のある二階には、まだ明かりがついている。


 会社を守る。


 自分はずっとそう考えてきた。


 親会社との関係。

 社員の雇用。

 予防薬供給。

 社会的責任。

 国との連携。


 どれも軽くない。


 だから、ガイアから資料確認の話が来た時も、会社を守るために処理した。

 不正な資料があるなら、火種になる前に消す。

 そう判断した。


 その判断が、本当に会社を守ることだったのか。


 机の上の資料へ視線を戻す。


 表紙の一文。


 中止相当所見と正式記録との差異。


 指先が、紙の端を押さえた。


 少しだけ、強く。


 その時、社用端末に通知が入った。


 人事課長からだった。


『上原先生、佐山さんより、社長へ直接相談したい件があるとのことです。試験関連の重要事項と思われます』


 一ノ瀬はしばらく画面を見ていた。


 やがて、短く返信する。


『明朝、時間を取ります』


 送信してから、再び窓の外を見た。


 医務課の明かりは、まだ消えていなかった。


 会社は守らなければならない。


 だが、会社とは何なのか。


 建物か。

 契約か。

 供給体制か。

 親会社との関係か。


 それとも、そこにいる人間か。


 一ノ瀬はその問いに、すぐには答えられなかった。

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