表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
65/76

第64話 探される線

 一月中旬に入る頃、ラクトセラムの中の慌ただしさは、少しだけ形を変えていた。


 PLXの投薬開始直後に比べれば、体調不良を訴えて医務課を訪れる社員の数はわずかに落ち着き始めている。

 副作用の出方にも個人差が見え始めていた。


 頭痛が強く出る人。

 倦怠感で半日しか動けない人。

 浮腫で足の重さを訴える人。

 動悸が出て、医務課で横になる人。


 一方で、ほとんど症状が出ない人もいた。


 同じ薬を飲んでいるはずなのに、身体の反応は同じではない。

 それは当たり前のことだった。


 けれど、会社の中では、その違いまで含めて表にされ、数字になり、報告に変わっていく。


 医務課の廊下には、まだガイア側の医師や研究員の姿があった。

 以前のように端末や資料棚を必要以上に覗き込む姿は減ったものの、完全に消えたわけではない。


 ただ、明らかに空気は変わっていた。


 倉持が上原と河合を呼び出して以降、ガイア側の動きは一度、静かになった。


 勝ったと思っている。


 上原たちは、そう見ていた。


 そしてそれは、早苗と茉莉が作った見せ札が、少なくとも今は機能しているということでもあった。


     *


 その日の朝、彩佳は早苗と寮の外に出た。


 空気は冷たい。

 年末よりもさらに冬が深くなったような朝だった。


 吐く息が白い。

 植え込みの枝は乾いていて、ところどころ霜が残っている。

 空はよく晴れていたが、光はまだ弱い。


 彩佳は左耳の補聴器をつけている。


 朝の外では、ずいぶん慣れてきた。

 風の音、遠くの車の音、早苗の声。

 すべてが最初ほど尖っていない。


 食堂や廊下のざわめきはまだ疲れる。

 けれど、外の音には少しずつ身体が慣れてきていた。


「今日は調子良さそう」


 早苗が言う。


「うん。昨日、午後あんまり落ちなかった」


「珍しい」


「珍しいって」


「いい意味で」


 早苗は軽く笑った。


 彩佳も笑う。


 会社の外周を歩くことは、もう特別なリハビリではなくなっていた。

 朝の習慣。

 そう呼んでもいいくらいには続いている。


 もちろん、まだ完璧ではない。


 歩く速度はゆっくりだ。

 長く話しすぎると息が少し上がる。

 午後の疲労も残っている。


 それでも、外周一周は当たり前になってきた。


 それが彩佳には少し嬉しかった。


「早苗、仕事どう?」


「忙しい」


 即答だった。


「そんなに?」


「そんなに」


 早苗は少し肩を回す。


「試験の副作用で動ける人が減ってるし、医務課まわりの処理も多い。こういう時って、お金も人も物も一気に動くから、経理は忙しくなる」


「茉莉ちゃんは?」


「頑張ってる」


「元気は?」


 彩佳が訊くと、早苗は少しだけ黙った。


「前よりは戻った…というより信用を取り戻すために、必死に頑張ってるって感じ。でも、まだ何か抱えてる顔してる」


「そっか」


「まあ、あの件があった後だし」


 早苗は声を少し落とした。


 彩佳もあのあと早苗からある程度は話を聞いた。


 茉莉が巻き込まれたこと。

 早苗がそれを止めたこと。

 佐山や上原たちが動いたこと。


 資料の中身、誰の指示で茉莉が動いていたのか。


「茉莉ちゃん、私の前だと普通にしようとするんだよね」


「するね」


「気を使われてる」


「彩佳も気を使う側になることあるんだ」


「あるよ」


「自覚あったんだ」


「ひどい」


 彩佳が少しむくれると、早苗は笑った。


「でも、彩佳は普通にしてあげて」


「彩佳の普通は、人を安心させるから」


 いつか言われたその言葉が、補聴器越しに自然に入ってくる。


 彩佳は少しだけ耳の後ろに触れた。


「慣れてきた?」


「うん。早苗の声は分かりやすい」


「それはよかった」


「でも、食堂はまだ無理」


「食堂は私でもうるさい」


「早苗でも?」


「うるさいものはうるさい」


 その言い方に、彩佳は笑った。


 笑いながら歩く。


 冬の朝の空気は冷たいが、胸の中に入ってくる感覚は少し心地よかった。


     *


 その頃、医務課では上原と清水が朝の確認をしていた。


 経過観察室のベッドは、今日は半分ほど空いている。

 投薬開始直後に比べれば、少し落ち着いたように見えた。


 けれど、それは治験が安全に進んでいるという意味ではない。


 単に、社員側が症状の出方に慣れ、申告の基準を自分の中で下げ始めている可能性もある。


 上原は、それを警戒していた。


「昨日、午後に受診した社員の記録です」


 清水が紙の一覧を差し出す。


「頭痛が六件、倦怠感が九件、動悸が三件。浮腫が四件。うち二名は午前の時点では申告してませんでした」


「聞き取りでは?」


「“仕事に戻れると思った”そうです」


 清水の声には、少しだけ疲れがあった。


「医務課受診基準は配ってますよね」


「配っています」


「読んでても、我慢するんですね」


「我慢することに慣れている人が多いですから」


 上原は静かに言った。


 その言葉に、清水は何も返さなかった。


 ラクトセラムは学歴や出身は強く問わない。

 給料や福利厚生は高水準


 事情を抱えた人も多くいる


 でも決して入社するのは簡単ではない


 皆何かしらの覚悟をもって入社している


 でも、時々それは、人が自分を削ることを正当化する。


 清水は一覧を置き、声を少し落とした。


「ガイア側、最近少し静かですね」


「ええ」


「倉持さんが先生たちを呼んだ後から」


「資料を回収できたと思っているんでしょう」


「本当にそう思ってると思います?」


 上原は少しだけ考えた。


「完全には思っていないかもしれません。でも、少なくとも優先順位は下がったはずです」


「なら、今のうちですね」


「はい」


 上原は机の上のファイルを閉じる。


「紙資料の整理を進めます。河合先生にも今日確認します」


「佐山さんの方は?」


「広報課で保管してもらっている分があります」


「医務課より安全ですかね」


「少なくとも、ガイア側が最初に探す場所ではありません」


 清水は小さく頷いた。


「でも、いつまでも社内に置いておくのは危ない」


「分かっています」


 上原の声は低かった。


「外へ出すタイミングを考えないといけません」


     *


 午前の広報課は、電話の音が多かった。


 経鼻予防薬について、医療機関や関連団体からの問い合わせが増えている。


 まだ正式な供給予定は限られている。

 回答できることも少ない。


 それでも、相手は切迫している。


「いつから使えるのか」

「優先順位はどうなるのか」

「小児にも使えるのか」

「医療従事者への配布はあるのか」

「重症化予防効果はどの程度なのか」


 佐山は、広報課の席で問い合わせ履歴を確認していた。


 答えられる範囲と、答えてはいけない範囲。

 その線引きが日に日に難しくなっている。


 予防薬は希望になりつつある。

 それは事実だ。


 だが、その希望の背景に、今まさにPLXを飲んで体調を崩している社員がいる。


 そのことを、問い合わせの相手は知らない。


 知る必要がないと言われれば、その通りかもしれない。

 でも、それでいいのかという気持ちは消えなかった。


 昼前、佐山のスマホに一通の着信通知が入った。


 表示名を見て、佐山は手を止める。


 芹沢。


 湾岸総合医療センター。


 佐山は周囲を見た。

 広報課内には数人がいる。電話対応中の職員もいた。


 ここでは話せない。


 佐山は席を立ち、隣の職員に声をかけた。


「少し外します」


「はい」


 廊下へ出て、人気の少ない場所まで歩く。

 

 周囲を見て人がいない事を確認して折り返す。


 数コールで繋がった。


『あかり?』


 聞き慣れた声だった。


 かつては、もっと近い距離で聞いていた声。

 今は少しだけ遠く、でも完全には他人になっていない声。


「芹沢先生。どうしたの」


 仕事の口調ではなく、少しだけ砕けた声になった。


『あかりにそう呼ばれると違和感凄いね』


「じゃあ…恒一、どうしたの」

 

恒一、名前は恒一郎なのに、佐山がいつも芹沢の名前を呼ぶときに使っていた呼び方だった。


『そっちの方がいつも通りって感じ』


『最近忙しい?』


「忙しくない時なんて、最近ないよ」


『それはこっちも同じだ』


 短い沈黙。


 そのあと、芹沢の声が少し低くなった。


『被験者01について照会が入った』


 佐山の背筋が冷えた。


「どこから」


『表向きは院内の記録整理。だけど、実質はガイア絡みだと思う』


「石井彩佳で検索された?」


『そこは見てた。石井彩佳、ガイア被験者01、あと関連する日付。かなり具体的だった』


「湾岸晴海052は?」


『そこまでは辿ってない』


 佐山は目を閉じた。


 一瞬だけ息を吐く。


『ただ、安心はできない』


「分かってる」


『仮登録群も見られた。身元不明者、匿名化調整患者、移送記録。数が多すぎて、今回は流されたけどな』


「整理しろって言われた?」


『ああ。対象が退院済み、死亡済み、身元確認済みのものは整理しろって』


「まずいね」


『まずい』


 芹沢の声は重かった。


『湾岸晴海052は、隠してあるわけじゃない。紛れてるだけだ。次に同じ調査が来て、もう少し丁寧に見られたら危ない』


 佐山は机の端に手を置いた。


 指先が少し冷えていた。


「恒一は大丈夫なの」


『今のところはな。解雇も処分もない。むしろ、まだ何も気づかれてないから動けてる』


「無理しないで」


『お前に言われたくない』


「それ、最近よく言われる」


『だろうな』


 ほんの少しだけ、昔の空気が戻った。


 でも、それはすぐに消えた。


『あかり』


「うん」


『そっちは、もう出せる状態?』


 佐山は答えに詰まった。


 資料は揃いつつある。

 でもまだ完全ではない。


 ラクト側では、倉持を一度退けた。

 高田のメモも、上原たちの記録も、橋本からの十二年前の資料も残っている。


 けれど、それをどこへ、どう出すか。

 誰に渡せば潰されないのか。

 そこがまだ決まっていない。


「準備は進んでる」


『それは、まだ出せないって意味だな』


「……そうとも言う」


『急いだ方がいい』


 芹沢の声が、はっきりした。


『こっちは次の調査で持つ保証がない。湾岸晴海052が見つからなくても、被験者01の照会が増えれば、院内で隠しきれなくなる』


「分かった」


『あかり』


「何」


『あの時みたいに、一人で背負うなよ』


 佐山は少しだけ表情を失った。


 小出美紀。

 十二年前。

 墓前の花。

 高村。

 橋本。


 そのすべてが、一瞬で胸の奥に沈む。


「背負ってないよ」


『嘘が下手になったな』


「昔からでしょ」


『昔からか』


 芹沢は小さく息を吐いた。


『こっちはもう少し粘る。何か動きがあればすぐ連絡する』


「お願い」


『そっちも、動くなら早めにしろ』


「分かってる」


 通話が切れた。


 佐山はしばらくスマホを見つめていた。


 周りは静かだった。

 遠くで、広報課の電話の音が薄く聞こえる。


 時間がない。


 その言葉が、はっきり形を持った。


     *


 午後、佐山は上原と河合、清水を医務課のカンファレンスルームへ呼んだ。


 清水はまだ処置の合間だったらしく、手には記録用のバインダーを持っている。


「芹沢先生から連絡がありました」


 佐山が言うと、上原の表情が引き締まった。


「湾岸ですか」


「はい」


 佐山は内容を簡潔に説明した。


 被験者01への照会。

 石井彩佳の名前での検索。

 ガイア被験者01。

 関連日付。

 仮登録群の確認。

 湾岸晴海052にはまだ辿っていないこと。

 ただし、次は危ないこと。


 説明が終わると、しばらく誰も話さなかった。


 最初に口を開いたのは河合だった。


「つまり、湾岸側も探られている」


「はい」


「ラクト側だけじゃなくなったわけですね」


 清水がバインダーを握り直す。


「倉持さんたちは、こっちは一度抑えたと思ってる。でも病院側は別で探してる」


「おそらく」


 上原は静かに言った。


「ガイア側なのか、国側なのか、あるいは両方なのかは分かりません」


「どちらにしても」


 佐山が言う。


「時間はありません」


 上原は机の上に視線を落とした。


 そこには、整理途中の資料がある。

 今回のPLX試験。

 彩佳の急変。

 公式記録との差分。

 高田の安全評価メモ。

 河合の医学的補足。

 清水と佐山の看護記録。

 橋本から渡された十二年前の改ざん前資料。

 高村の試験説明資料。


 線は揃いつつある。


 でも、どこへ繋ぐかが問題だった。


「一ノ瀬社長へ出すしかありませんね」


 河合が言った。


 清水が顔を上げる。


「社長は、前に資料を回収する側に回ってます」


「分かっています」


 河合は答える。


「でも、国分さんに直接繋げる可能性があるのは社長です」


 佐山が頷く。


「別ルートもあります。でも、正面からラクトとして出すなら、一ノ瀬社長を通す必要があります」


「信用できますか」


 清水の声には迷いがあった。


 佐山はすぐには答えなかった。


 一ノ瀬は、一度ガイア側に協力した。

 会社を守るために、茉莉を通じて資料を探させた。


 その事実は消えない。


 でも、一ノ瀬を完全に敵に回してしまえば、ラクトセラムとしての告発は難しくなる。


 上原が静かに言った。


「信用するのではなく、判断させるんです」


 佐山が上原を見る。


「社長として、何を守るのか」


 上原の声は低かった。


「会社を守るということが、隠すことなのか。それとも、社員を犠牲にする構造を止めることなのか」


 清水は黙った。


 河合が息を吐く。


「上原先生、言う気ですね」


「言います」


 上原は顔を上げた。


「もう、資料だけでは足りないと思います」


「現場で何が起こっていたかちゃんと説明します」


「報告書に記載されている被験者としてではなく、ラクトセラム社員という括りでもなく、一人一人の人間に起きた事として」


 佐山は、その横顔を見ていた。


 冷静で、いつも線を引く上原。

 医師として、判断する側に立ち続けてきた人。


 そして、止められなかった事を一番後悔している人


 佐山の胸の奥が少し痛んだ。


 「四人全員で行きたいところですが…」


 「社長室なら医師と看護師一人ずつ、と言ったところでしょうか」


 佐山が言った。


「私は佐山さんに行ってほしいです。」


 清水が口を開く


「私も試験にはいい思い出がありません、言いたいことも沢山あります」


「だから、社長を目の前にしたら我慢出来る自身がありません」


 少しの間が空く


「でも、佐山さんは十二年前との決着をつけるべきです」


「なので、看護師として社長室に入るのは佐山さんの方がいいと思います」


 いつもの穏やかな清水とは少し違った表情をしていた。


「清水さん…ありがとうございます」


 佐山は静かに頷いた。


「上原先生が行ってください」


河合も清水に続けて言った


「私が担当医だった森下さんと大沢さんは症状こそ出てますが、幸いにも重症化していません」


「私は今回は資料側を詰めます」


 河合は続ける。


「医学的に突かれそうなところを補強します。上原先生が言葉で殴るなら、私は理屈で逃げ道を潰します」


「河合先生」


「何ですか」


「言い方」


「合ってるでしょう」


 少しだけ空気が緩んだ。


 でも、すぐにまた重くなる。


 佐山は資料の束を見た。


 紙の重さよりも、その中身の方がはるかに重い。


 そこには、彩佳の呼吸がある。

 森下の恐怖がある。

 小出美紀の死がある。

 高田の違和感がある。

 橋本の後悔がある。

 高村の怒りがある。


 そして、いま医務課で横になっている社員たちの身体がある。


「もう少ししたら」


 佐山は小さく言った。


「彩佳さんにもちゃんと話さないといけませんね」


 上原は目を伏せる。


「はい」


「一ノ瀬社長に伝えたら」


 上原の声は少しだけ硬かった。


「ちゃんと受け止められるか少し不安ですが、何も知らされないのは違います」


 佐山は頷いた。


 彩佳は、自分のことがきっかけになっていると知れば、きっとまた自分を責める。

  

 きっとまた迷ってしまう。


 だから今は、まだ話せない。


 守るために隠すことと、隠蔽は違う。


 そう信じたい。


     *


 その夜。


 寮の食堂で、彩佳は茉莉と向かい合っていた。


 早苗は仕事が長引いて、まだ来ていない。


 茉莉は以前より少しだけ食べる量が戻っていた。

 それでも、時々ぼんやりする。


「茉莉ちゃん」


「はい」


「最近、少し顔色戻ったね」


「そうですか?」


「うん」


「早苗先輩にも、ご飯ちゃんと食べてって言われてるので」


「早苗らしい」


 彩佳は笑った。


 茉莉も小さく笑う。


「彩佳先輩」


「ん?」


「補聴器、慣れましたか」


「少しだけ。食堂はまだ疲れるけど」


「じゃあ、私、右側から話した方がいいですか」


「気を使わなくていいよ。補聴器の練習にもなるし」


「でも」


「でも禁止」


 彩佳が言うと、茉莉は驚いたように目を丸くした。


「それ、早苗先輩の」


「借りた」


「便利ですね」


「うん」


 二人は少し笑った。


 その笑いが途切れた後、茉莉は小さく言った。


「先輩は、強いですね」


「私が?」


「はい」


 彩佳は少し困ったように笑う。


「強くないよ」


「でも、ちゃんと戻ろうとしてます」


「戻れてるかは分からない」


「でも、進んでます」


 茉莉の声は、少しだけ真剣だった。


 彩佳はその言葉を受け止めきれず、コップへ視線を落とした。


「進めてるなら、いいけど」


「進んでます」


 茉莉は言った。


 それは、自分にも言い聞かせているように聞こえた。


 彩佳は顔を上げる。


「茉莉ちゃんも、何かあったら言ってね」


 茉莉の表情が一瞬止まる。


「何かって」


「何か」


「曖昧ですね」


「うん。でも、困ってることとか、怖いこととか」


 茉莉は目を伏せた。


「……はい」


 その返事は小さかった。


 彩佳はそれ以上、踏み込まなかった。


 その時、食堂の入口から早苗が入ってきた。


 疲れた顔だった。

 明らかに復帰の疲れが出ている。


「顔死んでるよ」


 彩佳が言うと、早苗は椅子に座りながら答えた。


「ほんとに死にそう」


「そんなに?」


「試験の副作用で動ける人も減ってる。あと、こういう時ってお金も人も動くから経理は忙しくなるの」


 早苗はトレーを置き、茉莉を見る。


「茉莉は?」


「私は……まだ力不足です」


「そうだね」


「そこは否定してください」


「でも、いないと困る」


 早苗は淡々と言った。


 茉莉が言葉を失う。


 彩佳は少し笑った。


「早苗らしい褒め方」


「褒めてる」


「分かりづらいです」


 茉莉が小さく言う。


「慣れて」


 早苗は味噌汁を飲んだ。


 その横顔は疲れている。

 でも、少しだけ安心しているようにも見えた。


 茉莉がそこにいること。

 逃げずに経理で働いていること。

 それ自体が、早苗にとっては一つの答えなのかもしれない。


 彩佳は二人を見ながら、少しだけ胸が温かくなった。


 全員が万全ではない。


 自分はまだ補聴器に慣れている途中。

 早苗は復帰早々疲れている。

 茉莉は何かを抱えながら働いている。


 それでも、三人は同じテーブルにいた。


 それだけで、今日は少し救われる気がした。


     *


 その頃、佐山は広報課の机で、芹沢からの通話記録を見返していた。


 被験者01。

 湾岸晴海052。

 次は危ない。


 メモにそう書く。


 そして、その横にもう一つ書いた。


 ――一ノ瀬へ。


 ペン先が止まる。


 社長室へ持っていく。

 資料を渡す。

 判断を迫る。


 その相手は、一度資料を消す側に回った人間だ。


 それでも、そこへ行くしかない。


 佐山は目を閉じた。


 小出美紀の墓前にあった、まだ燃え尽きていない線香。

 高村の静かな声。

 橋本の後悔。

 芹沢の警告。


 十二年前から続いている線が、今のラクトセラムまで伸びている。


 それを、ここで切らなければならない。


 佐山はペンを置き、静かに息を吐いた。


 もう、準備の時間は終わりに近づいていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ