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第63話 見せ札

 会議スペースの照明は、半分だけ点いていた。


 窓の外はもう暗い。

 冬の夕方は早く、ガラスには室内の白い光がぼんやり映っている。


 早苗は、テーブルの端に立っていた。

 その隣で、茉莉は椅子に座ったまま膝の上で手を握りしめている。


 机の上には、茶色い封筒。

 その中には、上原のデスクから持ち出されかけた資料が入っている。


 『PLX小規模試験 安全性評価メモ――中止相当所見と正式記録との差異』


 表紙の文字は、ただの資料名だった。

 けれど、その場にいる全員にとっては、ただの紙ではなかった。


 佐山が先に入ってきた。


「高橋さん」


 短く呼び、すぐに茉莉を見る。


 茉莉は立ち上がろうとしたが、足に力が入らなかったのか、椅子の背に手をついた。


「すみません……」


 声が震えていた。


 佐山は責めるような目をしなかった。

 ただ、机の上の封筒へ視線を落とした。


「先生は?」


「すぐ来ます」


 早苗が答える。


「河合先生も呼びますか」


「上原先生が判断すると思います」


 早苗の声はいつもより硬かった。


 佐山はそれを聞いて、小さく頷く。


「分かった」


 数分もしないうちに、上原が入ってきた。

 スクラブ姿のまま、白衣も羽織っていない。急いで来たのだろう。

 続いて河合も姿を見せた。


「何があったんですか?」


 上原は座らずに訊いた。


 早苗は封筒を差し出す。


「横田が、先生のデスクからこれとUSBを持ち出そうとしていました」


 上原の表情が一瞬だけ止まる。


 それでも声は冷静だった。


「横田さん」


「……はい」


「誰の指示ですか」


 茉莉は唇を噛んだ。


 涙はもう止まっている。

 けれど、目元は赤い。


「人事課長から……資料を探すように言われました」


「人事課長?」


 河合の声が低くなる。


「その前は?」


 早苗が言った。


「一ノ瀬社長です。たぶん、その上にガイアがいます」


 茉莉は震えながら頷いた。


「詳しいことは、聞かされていません。ただ、試験に関する未承認資料や、外部から受け取った可能性のあるデータがあれば回収するようにって」


「未承認資料」


 上原が静かに繰り返す。


「便利な言葉ですね」


 その声は低かった。


 茉莉は頭を下げた。


「本当にすみませんでした……」


 上原はすぐには答えなかった。


 怒っていないわけではない。

 むしろ、怒っている。

 それは早苗にも分かった。


 ただ、上原の怒りは熱くならない。

 温度を下げて、硬い形になる。


「謝罪は後で聞きます」


 上原は言った。


「今は、状況を確認します」


 茉莉は小さく頷いた。


「はい……」


 佐山が封筒から資料を出す。

 上原が表紙を見た瞬間、ほんのわずかに息を止めた。


「これを見つけた経緯は?」


 早苗が答える。


「上原先生の机の下に付箋が落ちていました。そこに“PLX安全評価メモ、USB確認”と書いてあって、横田がそれを見て引き出しを開けました」


「鍵は?」


「総務課のキーボックスから」


 茉莉が小さく答えた。


「暗証番号を教えられていました」


 河合が眉を寄せる。


「そこまで?」


 茉莉は頷く。


「資料検索のためだと……」


 上原は目を閉じた。


「分かりました」


 短い沈黙。


 清水はいない。

 医務課で副作用対応に回っているのだろう。


 佐山が静かに言った。


「ガイア側は、やっぱり高田さんの資料を探していたんですね」


「でしょうね」


 上原は資料をめくる。


「ただ、これをそのまま持っていかれていたら、かなり危なかった」


「本命は別にありますよね」


 早苗が言った。


 上原が早苗を見る。


「あります」


「なら、これを使えませんか」


 河合が顔を上げた。


「使う?」


「横田は、資料を見つけたことにして渡す。向こうには“回収できた”と思わせる」


 早苗は言葉を切らずに続けた。


「でも、本命は渡さない。渡すのは、証拠として不完全なものだけにする」


 佐山がゆっくり早苗を見る。


「見せ札」


「はい」


 早苗は頷いた。


「向こうが探しているなら、見つからないままだとずっと探すと思います。医務課の端末も、共有フォルダも、上原先生たちの動きも」


「でも、何かを見つけたと思えば」


 河合が続ける。


「それで満足する可能性がある」


「満足というより、勝ったと思わせるんです」


 早苗の声は冷静だった。


「これだけでは証拠にならない。正式記録でもない。署名も元データもない。だから、倉持は上原先生たちを呼んで脅すだけで済ませるかもしれない」


 上原は黙って早苗を見ていた。


 その目には、少しだけ驚きがあった。


「高橋さん」


「はい」


「いつからそこまで考えていました?」


「横田を見つけてからです」


 早苗は即答した。


「でも、茉莉の異動自体はずっと変だと思っていました」


 茉莉が小さく肩を震わせる。


 早苗はその方を見なかった。


「経理に来てから、医務課周辺の納品確認が多すぎました。総務権限も残ってる。キーボックスの話も出た。今日、野村さんに確認したら、午後の医務課納品なんてありませんでした」


「それで追ったんですか」


「はい」


 上原は息を吐いた。


「助かりました」


 その一言に、茉莉が顔を伏せた。


 自分が見つかったから助かった。

 その事実は、茉莉にとって救いでもあり、痛みでもあった。


 佐山が言う。


「見せ札にするなら、中身を作り直す必要がありますね」


「はい」


 上原は資料を机に置いた。


「このままでは渡せません。重要な部分が入りすぎています」


 河合が椅子に座る。


「抜くべきものは、元データ、時系列の全体、検査値の変化、急変直前の記録、署名、作成日」


「逆に残すものは?」


 佐山が訊いた。


 上原は少し考える。


「高田さんの安全評価メモの一部抜粋。中止相当という言葉は残してもいい。ただし、根拠になる検査値は抜く」


 河合が続ける。


「上原と私の医学的評価も一部だけ残す。けれど、正式記録との差分表は未完成版にする」


「彩佳さんの急変時系列は?」


 佐山が言う。


「一部だけ」


 上原は答えた。


「全体が繋がらない程度に」


 早苗が確認する。


「つまり、向こうが見た時に“危ない資料ではあるけど、これだけでは証拠にならない”と思う程度」


「そうです」


 上原が頷く。


「そして倉持さんなら、きっとそう言うでしょう」


 河合が苦く笑った。


「“主観的な所見と後から整理したメモでは証拠にならない”」


「言いそうですね」


 佐山が言う。


 茉莉はその会話を聞きながら、膝の上で手を握りしめていた。


 早苗が茉莉へ向き直る。


「茉莉」


「はい」


「ここから先、怖いと思う」


「……はい」


「でも、今やめたら本当に終わる」


 茉莉は顔を上げた。


「横田さん」


 今度は上原が呼んだ。


 茉莉はびくりとする。


「私は、あなたを許したわけではありません」


 その言葉に、茉莉の顔が強張る。


 けれど上原は続けた。


「でも、あなたがここで踏みとどまるなら、協力します」


 茉莉の目にまた涙が溜まった。


「……はい」


「泣いている時間はあまりありません」


「はい……」


「まず、この資料をどう渡すかを決めます」


 上原は資料をまとめる。


「茉莉さんは、予定通り一ノ瀬社長へ渡してください。ただし、こちらで差し替えたものを」


 佐山が確認する。


「USBは?」


「中身を作り直します。元データには触れない。コピーした一部抜粋だけを入れる」


 河合が言った。


「端末の履歴は?」


「残ります」


 早苗が答える。


「でも、横田が閲覧権限を与えられているなら、アクセス自体は不自然ではありません。ただ、長時間はまずい」


「では今夜中に作ります」


 上原が言った。


 佐山が封筒を手に取る。


「本命資料は?」


「紙は分散します」


 上原が答える。


「佐山さん、広報課で保管してもらえますか」


「はい」


「河合先生は、医学的評価の控えを別に」


「分かりました」


「清水さんには、看護記録の一部を別保管してもらいます」


「私から伝えます」


 佐山が言う。


 早苗が口を開いた。


「データのバックアップは、私も持ちます」


 上原が一瞬迷う。


「高橋さん」


「経理の端末には置きません。個人で隠し持つのでもありません。保管先は相談してください」


 早苗は言った。


「でも、同じ場所に置いたら消されます」


 その言葉に、誰も反論しなかった。


 上原は静かに頷いた。


「分かりました」


 茉莉は、そのやり取りを見ていた。


 自分が持ち出そうとしたものを、今度は守るために、何人もの人が動こうとしている。


 その中心に、自分も入ってしまった。


 逃げたい。

 今すぐ逃げたい。


 でも、逃げたら全部終わる。


 茉莉は震える指を握りしめた。


     *


 作業は、夜まで続いた。


 医務課の小さな会議スペースには長くいられない。

 上原と河合は診療の合間に、必要な部分だけを確認した。

 佐山は広報課へ戻るふりをして紙資料を分けた。

 早苗は経理で通常業務を片づけたあと、別の端末で資料構成を確認した。


 茉莉は一度、寮へ戻るように言われた。


 けれど部屋に戻っても、座っていることしかできなかった。


 スマホを握りしめる。


 実家からのメッセージが入っていた。


『年明けも忙しい? 身体に気をつけて。仕送り助かってる』


 たったそれだけの文だった。


 責める言葉ではない。

 期待しているとも書いていない。


 でも茉莉には、その短い文章が胸を押しつぶすように重かった。


 辞められない。

 失えない。


 そのために、自分は何をしようとしていたのか。


 彩佳の顔が浮かぶ。

 左耳の補聴器。

 ゆっくり歩く姿。

 それでも自分に笑いかけてくれる声。


 早苗の声も浮かぶ。


 ――今決めて。


 茉莉は目を閉じた。


 決めた。

 決めたはずだ。


 でも怖い。


 怖くてたまらない。


     *


 翌日。


 茉莉は、一ノ瀬のいる四階へ向かった。


 手には封筒。

 中には、差し替えられた資料とUSBメモリ。


 本命ではない。


 でも、何も知らない人が見れば、それなりに危険な資料に見える。


 エレベーターの中で、茉莉は何度も呼吸を整えた。


 四階へ着く。


 幹部フロアは、他の階より静かだった。

 廊下の空気が違う。

 足音まで吸い込まれるようだった。


 秘書担当の職員に声をかけると、すでに話は通っていたのか、すぐに応接室へ案内された。


 数分後、一ノ瀬が入ってきた。


 社長としての表情だった。


「横田さん」


「はい」


「資料は」


 茉莉は封筒を差し出した。


 手が震えそうになるのを、必死で抑える。


「医務課内で見つけました」


「中は確認しましたか」


「表紙と、数ページだけ……」


「そうですか」


 一ノ瀬は封筒を受け取った。


 茉莉は視線を上げられなかった。


 ここで全部話してしまえば、楽になるかもしれない。

 でも、それをしたら終わる。


 早苗の顔が浮かんだ。


 踏みとどまる。


「他に見つかったものは?」


 一ノ瀬が訊く。


「今のところ、ありません」


 声が震えなかったことに、自分で驚いた。


「分かりました。引き続き、不審なものがあれば報告してください」


「はい」


 それだけで終わった。


 茉莉は応接室を出た。


 廊下へ出た瞬間、足が少し震えた。


 でも倒れなかった。


 歩いた。


 エレベーターへ向かいながら、茉莉は小さく息を吐いた。


 第一段階は、終わった。


     *


 数日後。


 上原と河合は、四階の小会議室へ呼び出された。


 呼び出したのは倉持だった。


 上原はその知らせを受けた時点で、何が起きたのかを察した。

 河合も同じだった。


「来ましたね」


 河合が低く言う。


「ええ」


 上原は落ち着いて答えた。


「行きましょう」


 二人が会議室に入ると、倉持はすでに席についていた。


 相原はいない。

 倉持だけだった。


 机の上には、茶色い封筒。

 そして、印刷された資料。


 倉持は表情を変えずに言った。


「お忙しいところ、ありがとうございます」


「何のご用件でしょうか」


 上原が訊く。


 倉持は封筒から資料を取り出し、机の上に置いた。


 表紙が見える。


 『PLX小規模試験 安全性評価メモ――中止相当所見と正式記録との差異』


「こちらについてです」


 河合の表情がわずかに動いた。

 だが、すぐに抑えた。


 上原は資料を見つめたまま、黙っている。


 倉持は淡々と続けた。


「高田さんとの接触があったことは、こちらでも把握しています」


 上原は顔を上げた。


 倉持の目は冷たい。


「高田さんからも、ある程度話は聞いています」


 嘘だ。


 上原はそう思った。


 高田が本当に話しているなら、倉持はもっと具体的に出してくる。

 これは揺さぶりだ。


 河合も同じように察したのか、表情を変えなかった。


「それで」


 河合が言う。


「この資料が何か」


「正規の試験記録ではありません」


 倉持は言った。


「主観的な医学的所見、後から整理された時系列、未完成の差分表。正式な署名も作成日もありません」


 上原は黙って聞いている。


「このようなものを作成し、外部へ持ち出そうとする行為は、試験運用への妨害と見なされる可能性があります」


「外部へ持ち出そうとした、とは誰が言ったんですか」


 上原が静かに訊いた。


 倉持はわずかに目を細める。


「可能性の話です」


「では、こちらも可能性の話をします」


 上原の声は静かだった。


「医療者が現場で必要と判断した経過を記録することは、妨害ではありません」


「正式記録に残すべきものは、正式な手順で残してください」


 倉持は即座に返す。


 その言葉に、河合が少しだけ笑った。


「正式記録が正しく残るなら、そうします」


 会議室の空気が冷える。


 倉持は河合を見る。


「河合先生」


「はい」


「発言にはお気をつけください」


「気をつけています」


 河合は穏やかに答えた。


「ですから、今の程度にしています」


 沈黙が落ちた。


 上原は机の上の資料を見る。


 見せ札。


 元データはない。

 署名もない。

 作成日も曖昧。

 差分表も未完成。


 倉持が今言った通り、これだけでは証拠にならない。


 それでいい。


 そう思いながらも、上原の内側には怒りがあった。


 証拠にならないようにして渡した資料でさえ、倉持はこうして圧をかけてくる。


 もし本命が渡っていたら、どうなっていたか。


 考えるだけで背筋が冷える。


 倉持は資料を閉じた。


「無駄なことはやめてください」


 淡々とした声だった。


「PLXはすでに大規模治験として動いています。予防薬生産にも直結する重要な試験です」


「個人的な疑念で現場を混乱させることは、誰の利益にもなりません」


 上原は倉持を見る。


「個人的な疑念ではありません」


「では、正式な手順で報告してください」


「正式な手順が機能しているなら」


 倉持の表情は変わらない。


「これ以上、不適切な資料が作成されることがないようお願いします」


 それで話は終わりだった。


 上原と河合は立ち上がる。


 会議室を出る直前、倉持が言った。


「高田さんの件も、こちらで対応しています」


 上原は振り返らなかった。


 河合も何も言わなかった。


 ドアが閉まる。


 廊下へ出た瞬間、河合が小さく息を吐いた。


「腹立つわね」


「はい」


 上原は短く答えた。


「でも、乗ってくれました」


「ええ」


 河合は資料を持っていない手を見る。


「これで、向こうはしばらく“回収できた”と思う」


「そう願います」


 上原は廊下の先を見た。


 医務課の方角。

 そこでは今日も副作用対応が続いている。


「戻りましょう」


「ええ」


 二人は歩き出した。


     *


 その日の夕方。


 広報課の奥で、佐山は早苗から報告を受けていた。


 茉莉も一緒だった。


 茉莉は終始、肩を縮めている。

 それでも、逃げずにそこにいた。


「倉持さん、上原先生と河合先生を呼んだそうです」


 早苗が言った。


「内容は想定通りでした。高田さんの名前も出したみたいです」


「高田さんから話を聞いたって?」


「はい。でも上原先生は嘘だと思うって」


「でしょうね」


 佐山は静かに頷いた。


「向こうが本当に高田さんを押さえているなら、もっと具体的に来るはず」


 茉莉は小さく息を呑んだ。


「私が渡したから……」


「横田さん」


 佐山が呼ぶ。


 茉莉は顔を上げた。


「あなたが渡したから、向こうはそれ以上探るのをやめるかもしれない」


「……」


「今回は、それが目的です」


 茉莉の目が揺れる。


 佐山は少しだけ表情を和らげた。


「怖かったでしょう」


 その一言で、茉莉の顔が崩れそうになる。


 でも、泣かなかった。


「怖かったです」


 小さく言った。


「でも……早苗先輩が」


「私は何もしてない」


 早苗が即座に言う。


「嘘です」


 茉莉が小さく返した。


 早苗は少しだけ目を逸らした。


 佐山はその様子を見て、ふっと息を緩める。


「高橋さん、横田さん、大活躍だね」


 早苗は首を振った。


「茉莉が頑張ってくれたおかげです」


 茉莉が驚いたように早苗を見る。


「私、ですか」


「そう」


「でも、私が最初に……」


「それは忘れない」


 早苗の声は静かだった。


「でも、踏みとどまったのも茉莉」


 茉莉は何も言えなくなった。


 佐山は二人を見ながら、胸の奥に少しだけ温かいものを感じた。


 同時に、別の冷たいものもある。


 これで終わりではない。

 むしろ、ここからが本番だ。


 ガイア側の調査は一度収まるかもしれない。

 だが、倉持が完全に諦めたわけではないだろう。


 それでも、時間は稼げた。


 その時間で、資料を整えなければならない。


「高橋さん」


 佐山が言う。


「はい」


「上原先生たちに伝えて。紙資料の保管先、もう一段分けます」


「分かりました」


「横田さん」


「はい」


「あなたは、これまで通りにしてください。急に態度を変えないこと」


「……はい」


「それから、何か言われたら必ず高橋さんへ」


 茉莉は頷いた。


「はい」


 佐山は最後に、少しだけ柔らかく言った。


「一人で抱えないで」


 茉莉は、今度こそ涙をこぼした。


「……はい」


     *


 その夜。


 茉莉は寮の部屋に戻ってから、しばらく机の前に座っていた。


 何もしていない。


 ただ、座っている。


 手はまだ少し震えていた。


 一ノ瀬に封筒を渡した時のこと。

 倉持が上原たちを呼んだこと。

 早苗が、自分のことを「頑張ってくれた」と言ったこと。


 全部が頭の中でぐるぐる回っている。


 自分は裏切った。

 でも、踏みとどまった。


 その二つが、同じ場所にある。


 簡単に帳消しにはならない。

 でも、完全に終わったわけでもない。


 スマホが震えた。


 早苗からだった。


『明日、朝ご飯食べるなら一緒に行く』


 短いメッセージ。


 茉莉は画面を見つめた。


 返事を打つ指が震える。


『はい』


 それだけ送った。


 すぐに既読がつく。


『遅刻しないで』


 茉莉は少しだけ笑った。


 泣きながら、笑った。


     *


 同じ頃。


 上原は医務課の診察室で、一人端末を閉じた。


 倉持との会話が、まだ耳に残っている。


 無駄なことはやめてください。


 その言葉を思い出すたびに、胸の奥が冷える。


 無駄。


 彩佳が苦しんだこと。

 森下が怯えたこと。

 高田が危険を承知で渡したメモ。

 清水が残した看護記録。

 河合が拾った違和感。

 佐山が背負ってきた過去。


 それらを、無駄と言った。


 いや、倉持はそういう意味で言ったのではないのかもしれない。

 けれど上原には、そう聞こえた。


 上原は机の引き出しを見る。


 そこはもう空だった。


 本命資料は別にある。

 分けた。

 残した。


 でも、空になった引き出しを見ていると、ひどく不安になる。


 消されるかもしれない。

 握り潰されるかもしれない。

 また、なかったことにされるかもしれない。


 その不安を抑えるように、上原はゆっくり息を吐いた。


 感情ではなく、記録として。


 そう自分に言い聞かせてきた。


 でも今は、感情があるから記録を残しているのだと分かる。


 怒り。

 後悔。

 恐怖。

 守れなかった痛み。


 それを消さないために、記録が必要だった。


 上原は椅子から立ち上がった。


 医務課の廊下では、まだ清水が片づけをしている音がする。


 試験は続く。

 記録も続く。


 そして、告発までの時間は、少しずつ近づいていた。

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