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第62話 掴んだ違和感

 一月五日


 年が明けても、ラクトセラムの中にある空気は大きく変わらなかった。


 正月飾りが、一階ロビー受付の端に小さく置かれている。

 医務課や管理課でも「あけましておめでとうございます」という挨拶が交わされる。


 けれど、その声の奥にはどこか疲れが混じっていた。


 PLXの投薬は止まっていない。

 搾乳も、検体回収も、医務課の経過観察も続いている。


 そして今日から、休みに入っていた一部の部署も少しずつ通常業務へ戻り始める。


 早苗は、経理・契約課の自席に座っていた。


 机の上には、年末に止まっていた書類が積まれている。


 試験関連の契約書。

 納品確認表。

 補償処理の一覧。

 医務課へ入った観察資器材の請求書。

 ガイア側との費用分担に関する確認資料。


 復帰初日に見る量ではない。


 早苗は一度だけ息を吐き、社員端末を立ち上げた。


「高橋さん、復帰早々悪いね」


 野村が隣から声をかける。


「いえ」


「本当はもう少しゆっくり戻ってもらいたかったんだけど、見ての通りで」


「分かってます」


 早苗は短く返す。


 経理の中も、明らかに人手が足りていなかった。

 PLXに参加している社員の中には副作用で休んでいる者もいる。出勤していても午前中だけで医務課へ行く者もいた。


 その分、残った人間に仕事が寄る。


 そういう仕組みは、どこの部署でも同じだった。


「横田さん」


 野村が少し離れた席へ声をかけた。


 茉莉が立ち上がる。


「はい」


「今日から高橋さんにも見てもらって。契約書の確認フロー、一度整理して」


「はい」


 茉莉はファイルを持って早苗の席へ来る。


「よろしくお願いします」


「よろしく」


 早苗は茉莉の顔を見る。


 年末より少しだけ顔色は戻っている。

 けれど、目の奥の緊張はまだ消えていなかった。


 早苗はあえて何も言わず、ファイルを受け取る。


「まず、どこまでやった?」


「納品確認表は、年末までに入った分を一覧にしました。契約書は、医療機器関係と補償関係で分けています」


「ガイア側の費用分担表は?」


「まだ途中です。確認項目が多くて……」


「そこは後で一緒に見る」


「はい」


 茉莉は素直に頷いた。


 その動きだけを見れば、ただの真面目な新人だった。

 少し緊張していて、不慣れで、でも必死に追いつこうとしている。


 けれど早苗は、茉莉の手元を見ていた。


 ファイルを押さえる指に、力が入りすぎている。

 視線が、ときどき医務課側の廊下へ流れる。


 何かを気にしている。


 早苗は、その違和感を胸の奥に置いたまま、仕事の説明を始めた。


     *


 同じ頃、彩佳は二階の医務課にいた。


 月曜日の朝一番。

 いつもの診察時間だった。


「おはようございます」


「おはようございます」


 診察室には上原がいた。

 年末年始も当番で何度か出ていたのだろう。顔には少し疲れが見える。


「年末年始、体調はどうでした?」


「大きく崩れたりはしてないです」


「外周は?」


「一周できます。息もあまり上がらなくなりました」


「午後の疲れは?」


「まだあります。でも、前よりは短くなった気がします」


 上原は頷き、端末へ入力していく。


「経過としては良いです。血液検査の結果も大きな問題はありません。薬も今ある分で終わりにしましょう」


「わかりました」


「そういえば、補聴器の方はどうですか?」

 

 彩佳は左耳の後ろに軽く触れた。


「少し慣れてきました。食堂はまだ疲れますけど、外とか、静かな場所なら大丈夫です」


「なるほど、順調そうで少し安心しました」


「医務課でできることは対応しますので何でも言って下さいね」


「はい」


 診察室の外では、人の出入りが絶えない。

 投薬対象者が医務課へ来ているのだろう。廊下の向こうから、清水の声が聞こえる。


「頭痛が強いなら、今日は仕事へ戻らないでください」


 上原はその声に一瞬だけ意識を向け、それから彩佳へ戻した。


「医務課、忙しそうですね」


「ええ」


 上原は短く答える。


「PLXの副作用対応が増えています。重症例は今のところありませんが、軽く見ていい数ではありません」


 彩佳は目を伏せる。


 重症例はない。

 その言葉に、少しだけ安心する。


 でも、軽く見ていい数ではない。


 その続きが、今の医務課の現実なのだろう。


「石井さん」


「はい」


「気にしすぎないでください」


 上原は静かに言った。


「今ここで起きていることは、あなたの責任ではありません」


「……はい」


 そう言われても、完全には頷けない。


 でも、前ほど自分を責める方向へは流れなくなっていた。


 それも回復なのかもしれない。


 診察が終わり、彩佳は経過観察室の前を通って廊下へ出た。

 ベッドは今日もほとんど埋まっている。


 カーテンの隙間から、横になっている社員の手が見えた。

 額に手を当てている人。

 目を閉じている人。

 看護師に何かを伝えている人。


 その横で、ガイア側の研究員が端末へ入力している。


 彩佳は立ち止まりそうになって、やめた。


 見すぎない。

 佐山にも、早苗にも、上原にも言われた。


 でも、見ないことと、なかったことにすることは違う。


 彩佳はゆっくり息を吐き、医務課を出た。


     *


 昼前。


 経理・契約課では、早苗が茉莉と並んで書類を確認していた。


「この納品日、実際の搬入日と違う」


「え?」


「ここ。請求書は十二月二十六日だけど、搬入予定表だと二十七日になってる」


「あ……すみません」


「謝らなくていい。気づければいい」


 早苗は赤ペンで印をつける。


「医務課に入ったものは、医務課側の受領記録とも照合すること。ガイア側の納品書だけで通さない」


「はい」


「あと、医療機器は契約課だけじゃなく、管理課の設備確認も絡む。どこに確認するか分からない時は、勝手に進めない」


「はい」


 茉莉はメモを取っている。


 字は細かく、きれいだった。


 早苗はそのメモを横目で見ながら、ふと訊いた。


「医務課の立ち会い、年末はなかったんだよね」


「はい。納品関係は止まっていたので」


「年明けは?」


「今日の午後、確認があるかもしれないって言われました」


「誰に?」


 茉莉のペンが止まる。


「……人事課長です」


「野村さんじゃなくて?」


「あ、野村さんにも共有はされていると思います」


「思います?」


 茉莉は唇を結んだ。


 早苗はそれ以上突っ込まなかった。


 その代わり、書類を一枚めくる。


「午後の確認、私も行く」


 茉莉が顔を上げる。


「え?」


「復帰したばかりだけど、医務課関連の納品確認なら経理として把握しておきたい」


「あ、でも」


「何か困る?」


 早苗は静かに訊いた。


 茉莉は一瞬だけ視線を揺らし、それから首を振った。


「いえ……困りません」


「じゃあ行く」


「はい」


 茉莉の声は小さかった。


 早苗は書類へ視線を戻す。


 やっぱり何かある。


 まだ何かは分からない。

 でも、茉莉は確実に何かを隠している。


     *


 午後になっても、医務課関連の納品確認はなかった。


 連絡も来ない。


 早苗が野村に確認すると、野村は首を傾げた。


「今日の午後? 医務課の納品は入ってないと思うけど」


「そうですか」


「何か聞いてる?」


「いえ。確認です」


 早苗はそれだけ言って席へ戻った。


 茉莉は自席で端末を見ている。

 画面には契約書類の一覧が開かれていた。


 ただ、茉莉の指はキーボードの上で止まっている。


 早苗は声をかけなかった。


 午後三時を過ぎる頃、茉莉が立ち上がった。


「少し、総務に確認してきます」


 声は小さかった。


 野村が顔を上げる。


「急ぎ?」


「はい。キーボックスの……いえ、備品管理の確認です」


「分かった。長くならないようにね」


「はい」


 茉莉はファイルを一つ持ち、経理を出ていった。


 早苗は端末の画面を閉じる。


 少しだけ待った。


 一分。

 二分。

 三分。


 それから立ち上がる。


「野村さん、私も総務へ確認があります」


「分かった」


 野村は書類から顔を上げずに答えた。


 早苗は廊下へ出た。


 茉莉の姿はもう見えない。


 総務へ向かうなら、三階へ上がる。

 けれど、早苗の足は階段の前で止まった。


 嫌な予感がした。


 医務課。


 納品確認の話。

 キーボックスと言いかけたこと。

 茉莉の落ち着かない目。


 早苗は二階へ向かった。


     *


 医務課の廊下は、午後の観察で慌ただしかった。


 経過観察室では、清水がベッドの間を動いている。

 上原の姿は見えない。

 おそらく診察中か、会議か、別室だろう。


 早苗は廊下の端で立ち止まる。


 医務課の診察室前には人がいなかった。

 ドアは閉まっている。


 その奥、上原の診察室。


 ほんのわずかに、扉の隙間から光が漏れていた。


 早苗は足音を殺して近づく。


 中から、引き出しを開けるような音がした。


 胸の奥が冷える。


 ドアは完全には閉まっていなかった。


 早苗はゆっくりと隙間から中を覗いた。


 茉莉がいた。


 上原のデスクの前に立っている。

 手には小さな鍵束。

 机の引き出しは開いていた。


 茉莉は震える手で中を探っている。


 デスクの下には、小さな付箋が落ちていた。


 黄色い付箋。


 そこには、細い字でこう書かれている。


 PLX安全評価メモ

 USB確認


 茉莉はそれを見て、引き出しの奥へ手を入れた。


 そして、茶色い封筒と、黒いUSBメモリを取り出した。


 封筒の中から、印刷された資料が覗く。


 表紙。


 『PLX小規模試験 安全性評価メモ――中止相当所見と正式記録との差異』


 茉莉はその文字を見た瞬間、息を呑んだ。


「これだ……」


 小さな声だった。


 その声に、早苗の胸の奥で何かが固まる。


 茉莉は資料を鞄へ入れようとした。


「茉莉」


 早苗は静かに声をかけた。


 茉莉の身体が跳ねた。


「っ……!」


 手から資料が滑り落ちる。


 紙が床へ広がった。


 茉莉は振り返り、早苗を見た。


 顔から血の気が引いている。


「早苗、先輩……」


 早苗は部屋に入り、床に落ちた資料を拾った。


 表紙を見る。


 もう一度、タイトルを読む。


 PLX小規模試験。

 安全性評価メモ。

 中止相当所見。

 正式記録との差異。


 早苗はゆっくり顔を上げた。


「何してるの」


 声は低かった。


 茉莉は口を開いたが、言葉が出ない。


「これ、何の資料か分かってる?」


「……」


「答えて」


 茉莉の目が揺れる。


「試験の……資料です」


「何の」


「……改ざん、の」


 早苗の指先に力が入った。


「誰に言われたの」


 茉莉は黙った。


「茉莉」


「言えません」


「言えないじゃない」


 早苗は一歩近づいた。


「あんた、これを持っていってどうするつもりだったの」


「……確認するだけです」


「嘘」


 早苗の声が鋭くなる。


「上原先生の机の鍵を開けて、USBと資料を持ち出そうとして、確認だけ?」


 茉莉は肩を震わせた。


「誰に言われたの」


「……」


「倉持?」


 茉莉の表情がわずかに動く。


「一ノ瀬社長?」


「……」


「人事課長?」


 茉莉は目を伏せた。


 それで十分だった。


 早苗は息を呑む。


「本当に、そこまで来てるんだ」


 茉莉は小さく首を振った。


「違うんです……私は、ただ」


「ただ?」


 早苗の声が震えた。


「あんたも見たでしょ」


 茉莉が顔を上げる。


「ガイアから帰ってきた彩佳を見たでしょ」


 早苗の言葉は、抑えているのに鋭かった。


「洗面台まで歩くのもやっとで、息が上がって、左耳も聞こえづらくなって、相原と倉持を見ただけで過換気起こして」


 茉莉の目に涙が浮かぶ。


「それでも、こんなことできるの」


「私だって……嫌です」


 茉莉の声が崩れた。


「嫌に決まってるじゃないですか……」


「じゃあ何で」


「断れなかったんです!」


 茉莉は叫ぶように言った。


 すぐに自分の声に驚いたように口を押さえる。


 医務課の外の音が遠くなる。


 早苗は何も言わず、茉莉を見る。


 茉莉の目から涙がこぼれた。


「私、ここを辞められないんです……」


 声が震える。


「実家、借金があって……兄弟も多くて……仕送りもしてて……」


 早苗の表情がわずかに変わる。


「父は今、働けるような状態じゃないし、母と上の兄姉の収入で、何とか生活出来ているんです、それでも返済が滞ることもある……父の手術にだってお金がかかる…私が一番稼いでるんです」


「……」


「ここ、寮もあって、給料もちゃんとしてて、仕送りで少しは楽になってきたって……だから、私が辞めたら、困るんです」


 茉莉は泣きながら言った。


「命令されたら、断れないんです」


「でも、彩佳先輩のことも、早苗先輩のことも、裏切りたくないんです」


「何で……何でいつも、私ばっかり……」


 最後の言葉は、ほとんど嗚咽だった。


 早苗は、手に持った資料を見下ろした。


 怒りは消えていない。


 彩佳のことを思えば、茉莉を許せるはずがなかった。

 上原の机を開けたことも、資料を持ち出そうとしたことも、簡単に流せることではない。


 でも、目の前で泣いている茉莉もまた、構造の中に押し込まれた一人だった。


 会社を失えない。

 家族を支えなければならない。

 命令に逆らえない。


 早苗は、それを理解してしまった。


 理解したから、余計に腹が立った。


「茉莉」


 早苗は静かに言った。


「はい……」


「泣くのは後」


 茉莉が顔を上げる。


 早苗は資料を封筒に戻した。


「これ、本当に渡すつもりだった?」


 茉莉は震えながら頷く。


「一ノ瀬社長に……渡せって」


「その先は?」


「分かりません。でも、ガイア側に……」


「だよね」


 早苗は短く言った。


 そして、茉莉をまっすぐ見る。


「だったら、私に協力して」


 茉莉は涙で濡れた目を見開いた。


「え……」


「このまま持っていったら、本当に全部消される」


「でも、渡さなかったら」


「渡す」


 早苗は言った。


「ただし、全部は渡さない」


 茉莉は意味が分からないという顔をする。


 早苗はUSBメモリを見る。


「本命は残す。向こうには、渡したと思わせる」


「そんなこと……」


「できるようにする」


 早苗の声は低く、確かだった。


「茉莉、あんたは今から、向こうに従ったふりをして」


「……」


「その代わり、私の言う通りに動いて」


 茉莉は震えていた。


「私、そんなことできません……」


「できる」


「無理です」


「無理じゃなくて、やるの」


 早苗は一歩近づいた。


「ここで本当に裏切るか、怖くても踏みとどまるか。今決めて」


 茉莉は泣きながら、唇を噛んだ。


 早苗は続ける。


「クビになるのが怖いのは分かった」


「家のことも分かった」


「でも、これをそのまま渡したら、彩佳のことも、先生たちが残したものも、全部なかったことにされる」


 茉莉の肩が震える。


「それでもやるなら、私は止める」


 早苗の声が少しだけ柔らかくなった。


「でも、止まりたいなら手伝う」


 長い沈黙。


 医務課の外から、誰かを呼ぶ声が聞こえた。


 現実は止まっていない。


 茉莉は両手で顔を覆い、泣きながら頷いた。


「……協力、します」


 早苗は息を吐いた。


 張り詰めていたものが、ほんの少しだけ緩む。


「分かった」


 早苗は床に散らばった紙を拾い集めた。


「まず、この部屋を元に戻す」


「はい……」


「それから、上原先生と佐山さんに連絡する」


 茉莉がびくりとする。


「先生に……」


「当たり前でしょ。勝手に進めたら、こっちも同じになる」


「……はい」


「でも、茉莉をすぐ責めさせるためじゃない」


 早苗は資料を抱え直した。


「守るため」


 茉莉は泣きながら、また頷いた。


 早苗は開いた引き出しを見た。


 鍵。

 付箋。

 USB。

 資料。


 全部、あまりにも危うい場所にあった。


 いや、違う。


 危ういのは場所ではない。


 この会社そのものだ。


 早苗はそう思った。


 誰かが残したものを、誰かが消そうとしている。

 そして、そのために茉莉のような新人まで使われる。


 怒りが静かに身体の奥へ沈んでいく。


 それは、すぐに燃え上がる怒りではなかった。


 もっと冷たい、長く残る怒りだった。


     *


 その日の夕方。


 広報課の片隅で、佐山は早苗からの短い連絡を受け取った。


『至急相談したいことがあります。横田も一緒です。医務課の資料の件です』


 佐山は一瞬だけ画面を見つめた。


 それから、すぐに立ち上がる。


 受付対応の資料を隣の職員へ渡し、短く言った。


「少し外します」


「はい」


 佐山は廊下へ出た。


 歩きながら、胸の奥が冷たくなる。


 ついに来た。


 そう思った。


 ガイア側が探しているかもしれない。

 そう話していたもの。


 それが、実際に動いた。


 佐山は医務課ではなく、人気の少ない会議スペースへ向かった。

 途中で上原へ連絡を入れる。


『高橋さんから連絡。横田さんも一緒。資料の件です』


 すぐに既読がつく。


 返信は短かった。


『向かいます』


 佐山はスマホを握りしめる。


 窓の外では、冬の夕方が早くも暗くなり始めていた。


 年が明けたばかりのラクトセラムで、隠されていた線が動き出していた。

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