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第60話 止まらない試験

 二六日、十二月の最後の金曜日


 会社の中は年末特有の空気になっていて、仕事を一段落させるために忙しそうにしていた。


 けれど、今年のラクトセラムに、いつもの年末とは異なっていた。


 総務や経理、広報の通常業務は、年末年始の休みに向けて整理されている。

 外部企業との契約処理も、納品確認も、年内に必要なものを除けば一度止まる。


 だが、PLX大規模治験に関わる業務だけは止まらなかった。


 投薬。

 観察。

 副作用対応。

 搾乳量の記録。

 検体回収。

 sIgA濃度測定。

 予防薬生産へ回すためのロット管理。


 それらは、年末だからといって止められない。


 むしろ、感染拡大が続いている今、止めることは許されないという空気が社内にあった。


 社員寮の掲示板にも、数日前からある案内が貼られていた。


 年末年始期間中の外泊および帰省について。

 PLX大規模治験および予防薬供給体制維持のため、寮生の帰省は原則禁止。

 やむを得ない事情がある場合は、上司および所属課長への事前申請が必要。


 帰省禁止。


 文字だけなら、淡々としている。

 でも、その奥にある意味は重かった。



 感染拡大を防ぐため。

 搾乳対象者の母乳確保を優先するため。

 予防薬生産を止めないため。


 理由は分かる。


 分かるからこそ、余計に何も言えない。


仕事納めの夕方になると、寮内も帰省する者で慌ただしくなるのだが、今年は普段とは違った空気が流れていた


「今年は、寮に残る人多そうだね」


 隣で早苗が言った。


「うん」


「まあ、私はもともと帰る予定なかったけど」


「私も」


 彩佳は少しだけ苦笑した。


 実家には、もう行っている。

 母と話した。

 父の写真にも手を合わせた。


 それだけで、今年は十分だった気がしていた。


 もう一度年末に帰るかと聞かれたら、たぶん迷ったと思う。

 でも今は、迷う前に会社が答えを出していた。


「でも、帰りたかった人はきついよね」


「うん」


 早苗は掲示を見ながら、小さく息を吐いた。


「“原則禁止”って書き方が、いかにも会社っぽい」


「禁止って書くより柔らかい?」


「柔らかく見せてるだけ」


 早苗らしい言い方だった。


 彩佳はその横顔を見て、少しだけ笑った。


 早苗は年明け、 一月五日から経理へ復帰することになっている。

 そのことを考えると、本人はあまり表情に出さないが、少しずつ仕事のことを考え始めているのだろうと思った。


 今はまだ休みのはずなのに、早苗の視線は掲示板や食堂の会話、経理課の動きへ自然と向いている。


 それは彩佳にも分かった。


「早苗、復帰前から仕事してる顔になってる」


「なってない」


「なってる」


「彩佳に言われたくない」


「確かに」


 二人は小さく笑った。


 けれど、その笑いの先で、彩佳はふと食堂の入口の方を見た。


 茉莉がいた。


 トレーを持って、少し迷うように周囲を見回している。

 いつもならこちらを見つけると、少し遠慮しながらも近づいてくる。

 けれど今日は、一瞬だけ目が合ったあと、視線を逸らした。


「茉莉ちゃん?」


 彩佳が声をかけると、茉莉はびくりと肩を揺らした。


「あ……はい」


「こっち座る?」


「いいんですか」


「いいに決まってるでしょ」


 早苗が言う。


 茉莉は小さく頭を下げ、二人の向かいに座った。


 眼鏡の奥の目が、少し疲れている。

 食事にもあまり手が伸びていない。


「茉莉ちゃん、大丈夫?」


 彩佳が訊く。


「はい。大丈夫です」


 返事は早かった。


 早すぎる返事だった。


 早苗が箸を置く。


「大丈夫じゃなさそうだけど」


「そんなことないです」


「じゃあ、ご飯食べな」


「あ、はい」


 茉莉は慌てて箸を持つ。

 でも、口へ運ぶ動きは遅い。


 彩佳と早苗は、ちらりと目を合わせた。


 経理に異動してから約2週間。

 最初は慣れない仕事の疲れだと思っていた。

 でも、ここ数日の茉莉は、それだけではない沈み方をしている。


 納品や契約の事務処理は、年末年始に入るため新規の分はもう無いはずだ。

 医務課へ立ち会いに行くような仕事ももう終わっている。


 それなのに、茉莉の顔色は戻らない。


「年末、実家帰れないのつらい?」


 彩佳がなるべく軽く訊いた。


 茉莉は少しだけ目を伏せた。


「いえ……もともと帰る予定はなかったので」


「そうなの?」


「交通費もかかりますし。年末に帰っても、手伝いばっかりになるので」


 言い方は冗談めいていた。

 でも、声に力がなかった。


 早苗が静かに訊く。


「家には連絡した?」


「はい。帰れないって言ったら、まあ仕方ないねって」


「そっか」


「でも、仕送りはいつも通りなので」


 そこまで言って、茉莉ははっとしたように口を閉じた。


 彩佳は何も言わなかった。

 早苗も、すぐには突っ込まなかった。


 茉莉は気まずそうに笑う。


「あ、すみません。変な話して」


「変じゃないよ」


 彩佳が言う。


 茉莉は少し困った顔をした。


「先輩は優しすぎます」


「そう?」


「そうです」


 茉莉はそう言って、味噌汁に視線を落とした。


 早苗はその様子を見ていた。


 責めるような目ではない。

 でも、見逃さない目だった。


「茉莉」


「はい」


「経理、今は年末だから処理止まってるんだよね」


「はい。急ぎのもの以外は、年明けです」


「じゃあ、今は少し休めてる?」


「……はい」


 また、ほんの少しだけ間があった。


 早苗はその間を覚えておくように、静かに頷いた。


「ならいいけど」


「はい」


 会話はそこで切れた。


 食堂のテレビでは、年末のニュースが流れていた。

 帰省ラッシュという言葉は、今年もあまり明るい響きを持たない。

 感染対策。

 医療機関の逼迫。

 予防薬供給体制。

 年末年始の救急受診への注意。


 その画面の下に、速報のように感染者数と死亡者数が流れる。


 彩佳は、左耳の補聴器に触れた。


 音はまだ多い。

 食堂のざわめきとニュースの音声が重なって、少し疲れる。

 でも、今日は外さなかった。


 茉莉の小さな声を聞き逃したくなかった。


     


 仕事納めを過ぎても、医務課の慌ただしさは変わらなかった。


 通常の診療は最低限に絞られ、PLX投薬後の観察と副作用対応が中心になる。

 経過観察室には、日によって空きがほとんどない。


 頭痛で額を押さえる社員。

 倦怠感で横になる社員。

 動悸を訴え、胸に手を当てる社員。

 浮腫で足の違和感を訴える社員。


 清水は、ひとりずつ声をかけていく。


「無理に仕事へ戻らないでください」


「でも、年末で人が少ないので」


「だから余計に戻らないでください」


 何度も同じことを言っているはずなのに、清水の声は乱れなかった。


 上原は端末と紙のメモを行き来している。


 正式記録。

 観察記録。

 自由記載。

 別紙メモ。


 どの記録に何を残すか。

 どこまで残せば消されにくいか。


 そんなことを考えながら診療をする日が来るとは、医師になった時には思っていなかった。


 河合も、年末の勤務調整をしながら医務課へ顔を出していた。


「この人数で年末越すの、結構きついですね」


 清水が小さく言う。


「きついですね」


 河合は答えた。


「でも、これでも通常業務を減らしてる分、回ってる方です」


「回ってるって言葉、便利ですね」


「便利だけど嫌な言葉です」


 河合は淡々と言った。


 上原はその会話を聞きながら、ガイア側の医師が端末に入力している内容を横目で確認した。


 軽度。

 想定範囲。

 経過観察。


 間違いではない。


 でも、足りない。


 その足りなさが積み重なることを、上原たちはもう知っていた。


     


 今年最後の月曜日。


 ラクトセラムは年末年始の休みに入っているが、今年は帰省禁止のため年始を除いて食堂は運営されている


 彩佳は夕食後、食堂の隅でコップを持っていた。


 早苗は向かいに座り、スマホで何かを確認している。


「何見てるの?」


「一月の予定」


「復帰?」


「うん。五日から」


「不安?」


「仕事自体は別に」


「別に?」


「茉莉が心配」


 早苗は画面を伏せた。


 彩佳は食堂の入口へ目を向ける。

 茉莉は今日はまだ来ていない。


「やっぱり元気ないよね」


「ない」


「経理が大変だからかな」


「それもあると思う」


「それ以外も?」


 早苗は少しだけ黙った。


「まだ分からない」


 その言い方で、彩佳はそれ以上聞かなかった。


 早苗が「分からない」と言う時は、だいたい何かを見ている。

 でも、確証がないうちは口にしない。


 そういう人だと、彩佳は知っている。


「私、茉莉ちゃんに何かできるかな」


「今は普通にしてあげればいいと思う」


「普通に」


「彩佳の普通は、だいぶ人を安心させるから」


「そう?」


「うん」


 早苗は少しだけ笑った。


「本人は危なっかしいけど」


「余計な一言」


「大事な一言」


 彩佳は苦笑した。


 その時、食堂の入口に茉莉が現れた。


 少し遅い時間だった。

 手にはトレー。

 やはり顔色は冴えない。


 彩佳が手を振ると、茉莉は少し迷ってから近づいてきた。


「遅かったね」


「少し部屋で横になってました」


「体調悪い?」


「いえ、寝不足です。たぶん」


 茉莉は座りながら答えた。


 早苗が訊く。


「眠れてないの?」


「ちょっとだけ」


「理由は?」


「……年末だから、ですかね」


「年末関係ある?」


「あります。なんか、考えることが増えます」


 茉莉は曖昧に笑う。


「実家とか、来年のこととか」


 彩佳は頷いた。


「分かるかも」


「先輩もですか」


「うん。年末って、勝手にいろいろ考えちゃう」


「今年、色々ありすぎましたもんね」


 茉莉が言う。


 その言葉は、思ったより重かった。


 彩佳は少しだけ目を伏せる。


「うん」


 今年。


 ガイアへ行った。

 倒れた。

 戻ってきた。

 補聴器をつけた。

 母と話した。

 誕生日を迎えた。

 そしてまた、PLXが始まった。


 全部が、同じ年の中にある。


「来年は、少し落ち着くといいですね」


 茉莉が小さく言った。


 早苗が答える。


「落ち着かせるしかないでしょ」


「早苗先輩らしいです」


「そう?」


「はい」


 茉莉は少しだけ笑った。


 その笑顔はまだ弱い。

 でも、完全に消えてはいなかった。


     

 ラクトセラム本社は、もう年末休みに入っている。


 一階の経理・契約課は、照明が一部だけになっている。

 総務も最低限の当番だけ。

 広報課も、緊急問い合わせ対応を除けば静かだった。


 けれど、二階の医務課と地下一階の品質管理課だけは、相変わらず動いていた。


 投薬は続く。

 観察も続く。

 搾乳も、検体回収も、ロット管理も止まらない。


 寮でも、いつもより部屋にいる人が多かった。


 帰省できない寮生たちは、それぞれの部屋で年末を過ごしている。

 食堂では、いつもより早い時間からテレビがついていた。

 年末特番の明るい音が流れているのに、どこか現実味が薄い。


 彩佳は朝、早苗と外周を歩いた。


 空気はさらに冷たくなっていた。

 風が頬を刺す。

 吐く息は白い。


 でも、歩ける。


 一周しても、息は大きく乱れない。

 足の重さはあるが、以前ほどではない。


 補聴器越しに聞こえる風の音にも、少しずつ慣れてきた。


「一周、普通になったね」


 早苗が言う。


「うん」


「年明けには、私も仕事戻るし」


「寂しくなる」


「すぐ会うでしょ。部屋隣だし」


「朝の散歩は?」


「行ける日は行く」


「毎日は?」


「仕事次第」


「そっか」


 彩佳は少しだけ残念そうに言った。


 早苗が横を見る。


「一人で歩ける?」


「もちろん」


「ホントに?」


「私も自立しないとね」


「なんか、ハッキリ言われると逆に寂しい」


今度は早苗が少し残念そうな顔をする


「でも、自立したいのは本当」


「早苗も、今は自分の事に集中して欲しい」


「茉莉ちゃんの事もあるし」


「わかった」


「…でも、やっぱり寂しいからたまには一緒に歩いて」


「そこは自信持ちなよ」


 二人は笑った。


 冬の朝の光が、本社のガラスに反射している。

 その中では、今日も誰かが働いている。


 医務課。

 品質管理。

 搾乳室。

 研究員。

 看護師。

 対象社員。


 年末でも、試験は止まらない。


 彩佳はその建物を見上げた。


 怖さはまだある。

 でも、少しずつ別の感情も混じってきている。


 自分はもう、あの中で投薬を受ける側ではない。

 でも、あの中で起きていることから目を逸らしていいわけでもない。


 そう思った時、左耳の補聴器が風の音を拾った。


 少しだけ硬い音。

 でも、聞こえる音。


 彩佳は耳の後ろに触れ、ゆっくり息を吐いた。


「戻ろうか」


 早苗が言う。


「うん」


 二人は寮へ向かって歩き出した。


 年末の静けさと、試験の慌ただしさが、同じ敷地の中に並んでいた。

 ラクトセラムの冬は、止まらないまま新しい年へ向かっていた。

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