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第59話 揺れる気持ち

 十二月下旬、PLX試験が始まって丸一週間が過ぎた頃


 彩佳は早苗と並んで、いつものように寮を出た。


 空はよく晴れている。

 冬らしい澄んだ青だった。


 敷地へ出ると、冷たい空気が頬に触れる。

 補聴器越しに聞こえる風の音は、まだ少し硬い。

 でも、食堂のざわめきよりはずっと楽だった。


 朝の外は音が少ない。


 車の音も遠い。

 人の声もまばら。

 足音も、二人分だけ。


 だから、彩佳はこの時間が少し好きになっていた。


「今日は耳、どう?」


 早苗が右側から訊く。


「外なら平気」


「食堂は?」


「まだちょっと疲れる」


「じゃあ夜は端の席にしよ」


「毎回気を使わせてる」


「使ってない。私が端が好きなだけ」


「またそれ」


「便利でしょ、この言い方」


 早苗が少し笑う。


 彩佳もつられて笑った。


 会社の外周を歩く。

 もう一周すること自体は珍しくなくなっていた。

 最初は途中で休まなければならなかった距離を、今はゆっくりなら歩き切れる。


 それでも、以前と同じではない。


 少し冷たい空気を吸い込みすぎると、胸の奥がきゅっとする。

 長く話しながら歩くと、息が上がる。

 午後になれば、まだ身体が重くなる。


 でも、歩けている。


 彩佳はその事実を、毎朝ひとつずつ確認していた。


 敷地の端を曲がると、本社の裏側が見えた。

 搬入口には、医療機器の納品車が停まっている。

 箱を運び入れる作業員のそばに、ガイア側の社員証を下げた人物が二人立っていた。


 早苗が少しだけ足を緩める。


「また納品?」


「最近多いね」


「医務課も、地下一階の管理課も、経理も全部巻き込まれてる」


「早苗、復帰したら大変そう」


「考えたくない」


 言いながらも、早苗は納品車の方を見ていた。


 彩佳はその横顔に気づく。


「何か気になる?」


「んー」


 早苗は曖昧に返した。


「試験関連のものが増えてるのは分かるけど、ちょっと流れが急すぎる気がする」


「流れ?」


「人とか書類とか。配置とか」


 彩佳には、その意味が少し分からなかった。


 でも、早苗が何かを引っかけているのは分かった。


「早苗って、そういうのよく気づくよね」


「経理だから」


「関係ある?」


「ある。お金と書類の流れを見る仕事だから」


 早苗はそう言って、また歩き出した。


 彩佳も隣に並ぶ。


「でも、休み中なんだから、あんまり考えすぎないでね」


「彩佳に言われたくない」


「確かに」


 二人は少し笑った。


 笑いながら歩ける。

 それだけでも、少し前の自分からはずいぶん遠いところまで来た気がした。


     


 同じ頃、医務課では朝の投薬後の確認が始まっていた。


 経過観察室のベッドは、今日も半分以上が埋まっている。


 清水はひとつずつバイタルを取り、訴えを聞き取っていた。


「頭痛は昨日より強いですか」


「少しだけ……でも大丈夫です」


「大丈夫かどうかはこちらで判断します。無理しないでください」


 その言葉に、ベッドの上の社員は少し困ったように笑った。


「でも、仕事が」


「仕事は逃げません」


 清水は短く言った。


「身体は逃げたら戻ってきませんよ」


 近くにいた上原が、そのやり取りを聞いてわずかに視線を上げた。


 清水はいつも通りだった。

 穏やかで、現場的で、必要なところでは容赦がない。


 その少し離れた場所で、ガイア側の医師が端末を操作している。

 研究員が、昨日からの副作用件数を表にまとめていた。


「軽度頭痛が増えていますね」


「想定範囲です」


 ガイア側の医師が答える。


「倦怠感も多いですが、重症度分類ではほとんど軽度です」


 上原はその言葉を聞きながら、端末の自由記載欄に症状経過を入力した。


 軽度。

 中等度。

 重度。


 分類は必要だ。

 数字で見ることも、線を引くことも必要だ。


 でも、その線のこちら側で苦しんでいる人がいる。


 それを忘れた瞬間、記録はただの言い訳になる。


 上原は入力を終え、画面を閉じた。


 その時、研究員の一人が別の共有端末へ視線を向けているのに気づいた。

 医務課の観察記録ではなく、共有フォルダの階層を見ている。


「そちらは治験用の入力端末ではありません」


 上原が言った。


 研究員は一瞬動きを止める。


「ああ、失礼しました。フォルダ構成を確認していただけです」


「確認が必要な場合は、私か清水さんに声をかけてください」


「分かりました」


 研究員は表面上は素直に頷いた。


 けれど、上原の中に残った違和感は消えなかった。


 探している。


 確信に近いものが、少しずつ形になっていく。


     


 夕方。


 寮の食堂は、以前より少し静かだった。


 PLXの投薬対象者の中には、夕食を部屋で済ませる人も増えている。

 食堂に来ていても、額に手を当てている人や、早めに席を立つ人がいた。


 彩佳と早苗は、いつもの端の席に座っていた。


 彩佳は左耳の補聴器をつけたままだった。

 夕食時の食堂は音が多い。

 でも今日は、端の席だから少し楽だった。


 トレーの音。

 食器の触れる音。

 遠くの話し声。

 それらが重なっても、以前よりは少しだけ受け流せる。


 完全に慣れたわけではない。

 けれど、少しずつ境目が分かってきた。


 どの音が必要で、どの音は聞き流していいのか。


 耳ではなく、頭が練習している気がした。


「ここ、いいですか」


 茉莉がトレーを持って立っていた。


「いいよ」


 早苗が答える。


 茉莉は向かいに座る。

 経理に異動してから丸一週間ほど経っているはずなのに、まだどこか落ち着かない顔をしていた。


「大丈夫?」


 彩佳が訊く。


「はい。……たぶん」


「たぶん?」


 茉莉は箸を持ったまま、少し困ったように笑った。


「経理の書類、思ってたより難しくて」


「契約書?」


「はい。あと納品確認とか、補償関係とか、ガイア側から入ってくる機器の確認とか……」


 茉莉は言いながら、小さく息を吐いた。


「一週間経っても、まだ全然慣れません」


「一週間で慣れたら逆に怖いよ」


 早苗が言う。


「そうなんですか」


「そう。経理は書類の種類も多いし、お金の流れも部署ごとに違う。最初から分かった顔してる方が危ない」


「早苗先輩、そう言ってくれると少し安心します」


「安心していいけど、確認はちゃんとして」


「…落とすの早いです」


 彩佳は小さく笑った。


 茉莉も少しだけ笑う。


 けれど、その笑顔はやはりどこか弱かった。


 早苗は味噌汁の椀を置き、茉莉を見る。


「医務課の納品立ち会いも、もう行ってるの?」


 茉莉の箸が一瞬止まった。


「……はい。野村さんか契約担当の方と一緒ですけど」


「どのくらい?」


「今週は二回です。観察資器材とか、薬品管理用の保管ケースとか、あとガイア側の端末周りの確認も少し」


「端末?」


「私は詳しくは分からないです。ガイア側の方が確認していて、私は納品書と設置場所の確認だけで」


「ふうん」


 早苗の返事は短かった。


 彩佳は二人を見比べる。


「何か変なの?」


 早苗は少し考えてから答えた。


「経理が納品立ち会いに行くのは変じゃない」


「じゃあ」


「でも、茉莉が行く回数が多い気がする」


 茉莉の表情がわずかに硬くなる。


「私、手が空いてるからだと思います。まだ大きい処理は任されてないので」


「そういう理由なら分かる」


 早苗はそう言ったが、完全には納得していない声だった。


 茉莉は視線を落とす。


「私、ちゃんとできてますかね」


「仕事の話?」


「はい」


「まだ分からない」


「ですよね……」


「でも、分からないことを聞けてるなら大丈夫」


 早苗は少しだけ声を柔らかくした。


「勝手に判断しないこと。困ったら言うこと」


「はい」


「野村さんでも、私でもいいから」


 茉莉は少しだけ顔を上げた。


「早苗先輩に言ってもいいんですか」


「私、経理なんだけど」


「あ、そうでした」


「忘れないで」


 彩佳が笑う。


 茉莉もつられて笑った。


 その瞬間だけは、いつもの茉莉に戻ったように見えた。


 けれど早苗は、その笑顔の奥に残っている小さな強張りを見逃さなかった。


 経理に来て一週間が過ぎた。

 慣れない仕事。

 医務課への納品立ち会い。

 ガイア側の端末確認。

 そして、茉莉の落ち着かない様子。


 理由はある。

 説明もつく。


 でも、説明がつきすぎる時ほど、早苗は少し立ち止まる。


 何かが変だと、まだ言い切れるほどではない。

 けれど、何もないと言い切るには、茉莉の目が揺れすぎていた。


「茉莉ちゃん」


 彩佳が声をかける。


「はい」


「無理しないでね」


 茉莉は一瞬、言葉に詰まったように見えた。


 それから、少し遅れて笑う。


「……先輩もです」


「私は今、無理しない練習中」


「練習なんですか」


「そう、早苗に監視されてる」


「監視じゃない」


 早苗が即座に返す。


 茉莉はようやく、少しだけ自然に笑った。    



 食事が終わる頃、食堂のテレビでは再びニュースが流れていた。


 NV-40の感染状況。

 医療機関の逼迫。

 一部地域での救急搬送受け入れ制限。

 新型予防薬の開発進捗。


 アナウンサーの声は、抑えた調子だった。


『政府は、本日、ヒト由来型免疫計画に基づく予防薬生産体制の強化について、関係企業と協議を進めていることを明らかにしました』


 食堂の誰かが顔を上げる。


『一部では、母乳由来sIgAを用いた経鼻予防薬について、優先医療機関での限定使用に向けた準備が進められているとのことです』


 彩佳は箸を置いた。


 画面には、病院の外観が映っている。

 マスクをした医療従事者。

 救急車。

 待合室。

 防護服。


 父のことを思い出す。


 救急車の前で笑っていた父。

 テレビで見た父。

 人を助ける仕事をしていた父。


 もしこの予防薬で救われる人がいるなら。

 それはきっと、喜ぶべきことなのだろう。


 でも。


 彩佳は左耳の補聴器に指を触れた。


 この小さな機械の存在を、テレビの画面は知らない。

 森下が不安そうにしていた声も知らない。

 医務課のベッドが埋まっていくことも知らない。


 成果だけが、綺麗な言葉で流れていく。


「彩佳」


 早苗の声で、彩佳は顔を上げた。


「大丈夫?」


「うん」


 そう答えたが、少し遅れた。


 早苗はそれ以上聞かなかった。


 茉莉はテレビを見つめたまま、ぽつりと言う。


「すごいことなんですよね」


「うん」


 彩佳は答える。


「たぶん、すごいこと」


 茉莉がこちらを見る。


「でも、先輩は複雑ですよね」


 その言葉に、彩佳は少し驚いた。


 茉莉はすぐに慌てる。


「あ、すみません。勝手に」


「ううん」


 彩佳は首を振った。


「そうだね。複雑」


 否定しなかった。


 救われる人がいる。

 それは本当に良いことだ。


 でも、それを理由に全部が正しかったことになるのは違う。


 その二つが、まだうまく一つの場所に置けない。


「私、最近ずっと思うんです」


 茉莉が小さく言った。


「この会社、良い会社だと思ってたんです」


 早苗の視線が、茉莉へ向く。


「寮もあって、食堂もあって、給料もちゃんとしてて。私みたいなのでも雇ってもらえて」


「茉莉ちゃん」


 彩佳が呼ぶと、茉莉は少し笑った。


「でも、なんか……良い会社って、何なんでしょうね」


 その問いに、誰もすぐには答えられなかった。


 テレビの中では、専門家が予防薬の有効性について説明している。

 食堂では、食器の音が重なっている。

 医務課では、きっとまだ誰かが横になっている。


 全部が同じ会社の中にある。


 早苗が静かに言った。


「少なくとも、人を壊していいと思ってる会社は、良い会社じゃない」


 茉莉は顔を上げた。


 早苗は視線を逸らさない。


「仕事は大事だけど、それで人が壊れたら意味ない」


 彩佳はその言葉を聞きながら、少しだけ胸が痛くなった。


 早苗は自分にも言っている。

 たぶん、彩佳にも。

 そして、茉莉にも。


 茉莉は小さく頷いた。


「……はい」


 その声は、少し震えていた。


     


 夜、茉莉は自分の部屋へ戻ってから、しばらく鞄を開けられずにいた。


 四階の部屋は静かだった。

 彩佳や早苗のいる三階より、廊下の人通りも少ない。


 机の上には、経理で渡された資料が置いてある。

 試験関連契約一覧。

 納品予定表。

 部署別確認事項。


 そして、別の封筒。


 社長命令という名目で人事課長から渡されたものだった。


 開ける必要はない。

 中身はもう知っている。


 確認する対象。

 医務課周辺。

 試験関連資料。

 不審なメモ、未承認データ、外部提供の可能性があるもの。


 正式な言葉で書かれている。

 けれど、意味は一つだった。


 探せ。


 茉莉は椅子に座ったまま、手を握りしめる。


 嫌だと思った。


 本当に嫌だった。


 でも、断れなかった。


 ラクトセラムを辞めるわけにはいかない。

 実家には借金がある

 仕送りも必要だ

 弟と妹の学費もある。


 上の兄姉は、地元で工場に勤めながら農作業を手伝っている。

 自分だけが、寮のある会社に入って、毎月きちんとした給料をもらっている。


 家族は喜んでいた。


 茉莉が大きな会社に入ったと。

 安定した仕事についたと。


 だから、ここを失うわけにはいかない。


 失えない。


 でも。


 彩佳の顔が浮かぶ。


 食堂で補聴器に触れていた手。

 少し遅れて反応する目。

 それでも笑おうとする表情。


 早苗の声も浮かぶ。


 人を壊していいと思っている会社は、良い会社じゃない。


 茉莉は机に額をつけた。


「……なんで私に」


「…無理」


 小さくこぼした。


 何が無理なのか、自分でも分からなかった。


 命令に従うことなのか。

 逆らうことなのか。

 何も知らなかったふりをすることなのか。


 全部だった。


     


 翌日も、医務課のベッドは埋まっていた。


 投薬開始から日が経つにつれ、副作用の訴えは増えていった。

 ほとんどは軽度から中等度。

 頭痛、倦怠感、浮腫、動悸。


 重篤例はない。

 公式にはそうまとめられる。


 けれど、医務課の椅子に座る社員の顔色は、公式な言葉よりずっと正直だった。


 清水は昼過ぎ、経過観察室の奥で水分補給を促していた。


「今日は帰ったら休んでください」


「でも、午後の作業が」


「休んでください」


「でも」


「休んでください」


 三回目で、社員はようやく頷いた。


 その様子を、ガイア側の研究員が端末へ入力している。


 上原はそれを見ながら、静かに息を吐いた。


 記録は残っている。

 でも、どのように残るのかは分からない。


 だから、別に残すしかない。


 上原の机の引き出しには、紙のメモが少しずつ増えていた。


 正式記録とは別の、現場の記録。


 いつか誰かに見せるためではない。

 まずは、消されないために。


     


 その日の夕方、早苗は寮の階段を上がりながら、ふと足を止めた。


 茉莉とすれ違った。


 茉莉は急いでいた。

 手には薄いファイル。

 目が合った瞬間、少しだけ表情が揺れた。


「茉莉」


 早苗が呼ぶ。


「はい」


「どこ行くの」


「えっと、総務に」


「この時間に?」


「急ぎって言われてて」


「そのファイルは?」


「確認書類です」


 答えは早かった。


 早すぎた。


 早苗は数秒、茉莉を見る。


「そう」


「はい」


 茉莉は頭を下げ、階段を降りていった。


 早苗はその背中を見送る。


 違和感は、小さな棘のようだった。


 まだ形にはならない。

 でも、確かに引っかかっている。


 このタイミングで経理。

 総務権限が残ったまま。

 医務課周辺の納品。

 試験関連資料。

 そして、茉莉の顔。


 早苗はスマホを取り出し、何かを打ちかけてやめた。


 まだ、誰かに言う段階ではない。


 でも、見ておく必要はある。


 そう思った。

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