第58話 慣れない音
投薬が始まってから、医務課の前を通る人の流れが変わった。
朝は、対象社員が列を作る。
昼前には、頭痛を訴える社員が座っている。
夕方になると、倦怠感で顔色の悪い社員が、看護師に付き添われて経過観察室へ入っていく。
最初の数日は、まだ「少し体調が悪い人が増えた」程度だった。
けれど試験が始まり、週の後半に入る頃には、医務課の空気は明らかに重くなっていた。
「今日はベッド、全部埋まってるらしいよ」
夕方の寮の食堂で、誰かがそう話していた。
「え、そんなに?」
「頭痛とだるさが多いみたい。あと、動悸」
「でも、増産には必要なんでしょ」
「そう言われたら、まあ……」
会話はそこで曖昧に終わる。
誰も大きな声では言わない。
でも、みんな分かっている。
ラクトセラムの中で、何かが大きく動いている。
そして、その中心にはいつも、社員の身体がある。
彩佳は食堂の端の席で、お茶の入ったコップを両手で包んでいた。
左耳の奥で、食器の触れ合う音が少しだけ硬く響く。
まだ慣れない。
補聴器をつけ始めて、数日が経っていた。
RIC型の補聴器は、髪を下ろせばほとんど目立たない。
耳鼻科の医師にも「慣れればかなり自然に使えるはず」と言われた。
実際、右側から話しかけられているのか、左側から話しかけられているのか、前よりは分かる。
人の声も拾いやすくなった。
けれど、良いことばかりではなかった。
廊下の足音。
食堂の食器。
椅子を引く音。
誰かの笑い声。
トレーが重なる音。
これまで聞こえにくかった音が、一気にこちらへ戻ってくる。
戻ってくるというより、押し寄せてくる。
音には、重さがあるのだと初めて知った。
「大丈夫?」
早苗が右隣から訊いた。
彩佳は少し遅れて顔を上げる。
「うん。ちょっと音が多いだけ」
「外す?」
「もう少しだけ」
そう答えたものの、食堂のざわめきは身体の表面を細かく叩くようだった。
彩佳は左耳の後ろに指を伸ばしかけて、途中で止めた。
外したら楽になる。
それは分かっている。
でも、外したら負けたような気がした。
そんなことを考えている自分が少し嫌だった。
「無理に慣れなくていいよ」
早苗が言った。
彩佳は苦笑する。
「また顔に出てた?」
「出てる」
「みんなそれ言う」
「みんな見てるから」
早苗は淡々と返し、味噌汁を一口飲んだ。
「補聴器って、つけたらすぐ便利になるものかと思ってた」
「私も」
「やっぱり慣れるまで時間かかりそう?」
「うん」
「まぁ、でも慣れるしかないか」
「そうなんだよね」
彩佳は小さく笑った。
その時、左側からトレーの置かれる音がした。
少しだけ遅れて、茉莉の声が聞こえる。
「あ、ここいいですか?」
彩佳は反応が一拍遅れた。
早苗がちらりと彩佳を見てから、茉莉へ頷く。
「いいよ」
「ありがとうございます」
茉莉は向かいに座った。
いつもの眼鏡姿で、髪はきっちり整えている。
でも、どこか落ち着かないように見えた。
「茉莉ちゃん、今日遅かったね」
彩佳が言う。
「あ、はい。経理の方に、少し」
「今週からだっけ?」
「はい…人手が足りないからって、先週急に言われて…、今週から正式に入ったんですけど試験関連の書類が多いから、少しずつ覚えておいてって言われました」
茉莉は箸を持ったまま、視線を少し落とす。
「契約とか、納品とか、補償の書類とか……思ったより多くて」
「そりゃ多いでしょ」
早苗が言った。
「薬品、医療機器、ガイア側の人件費、治験手当、補償、搾乳量の記録、全部お金動くし」
「早苗先輩、怖いくらい詳しいですね」
「経理だからね」
「私、ついていける気がしないです」
「最初からついていけたら新人じゃない」
「それはそうなんですけど……」
茉莉は困ったように笑った。
彩佳はその顔を見て、少し安心した。
いつもの茉莉に見えたからだ。
でも早苗は、少しだけ眉を寄せていた。
「このタイミングで経理って、急だよね」
茉莉の箸が止まる。
「え?」
「総務も忙しいでしょ。ガイア側から出向してくる以上、人の出入りも増えるし、治験で勤務サイクルも変わればその分調整も増えるし…」
「あ……でも、経理も忙しいからって」
茉莉は遮るように言った
「まぁ、理由としては分かる」
早苗はそれ以上言わなかった。
けれど、沈黙が少しだけ残った。
茉莉は視線を落とし、味噌汁の椀を両手で持つ。
「私、あんまり役に立ててないので」
「そんなことないよ」
彩佳がすぐに言う。
茉莉は顔を上げる。
「そうですか?」
「うん。来客対応もしてるし、総務の仕事も覚えてるし」
「でも…、来客対応っていっても、彩佳先輩みたいに可愛くもなければ愛想がいいわけでもないですし、早苗先輩みたい仕事が早いわけでもないです」
「茉莉、よくない癖でてるよ」
早苗が遮る
「あはは…また出ちゃいました」
「私もまだ休職中だよ」
「でも、先輩は……」
茉莉は何か言いかけて、口を閉じた。
彩佳はその続きを待たなかった。
「私も、できないこと増えたよ」
そう言って、左耳の後ろに触れる。
茉莉の視線が、そこへ向いた。
「あ……それ」
「補聴器。分かりづらいでしょ」
「全然分からなかったです」
「それはそれで助かるんだけど、本人は結構気になる」
彩佳は笑ってみせた。
「まだ音が多すぎて疲れるんだよね」
茉莉は少し困ったような顔をした。
「すみません。さっき、左から声かけましたよね」
「ううん。補聴器入れてるから、前よりは分かる」
「でも遅れてました」
「慣らし中だから」
彩佳が言うと、早苗が横から付け足す。
「焦ってもしょうがない」
「早苗がそれ言うの?」
「大事だから」
茉莉は少しだけ笑った。
その笑い方は、いつもより弱かった。
その夜、彩佳は部屋に戻ってから補聴器を外した。
小さな機械をケースに置くと、左側の世界が少し遠くなる。
静かだった。
静かで、楽だった。
でも、同時に少し寂しい。
聞こえないことに慣れてきたわけではない。
聞こえにくい状態が楽になってしまうことが、少し怖かった。
ベッドに座り、耳の後ろを軽く押さえる。
補聴器をつけている時間はまだ短い。
耳そのものより、頭が疲れる。
音を聞き分けることが、こんなに体力を使うのだと知らなかった。
スマホが震える。
早苗からだった。
『明日、朝歩く?』
彩佳は少し考えてから返信する。
『歩く』
すぐに返ってくる。
『無理なら短く』
『了解』
送ってから、彩佳は少しだけ笑った。
早苗の返事はいつも短い。
でも、その短さに助けられることがある。
翌朝。
冬の空気はよく澄んでいた。
寮を出ると、吐いた息が白くなる。
空は薄い水色で、遠くの建物の輪郭がいつもよりはっきり見えた。
彩佳は左耳に補聴器をつけていた。
朝の外は、食堂よりずっと楽だった。
車の音も、遠くの作業音も、冷たい空気に薄く伸びている。
人の声が重ならない分、音が刺さらない。
早苗は隣を歩いている。
いつものコース。
寮から出て、ラクトセラムの敷地内を抜ける。
門へ向かう道は少し坂になっていて、二人はゆっくり下っていく。
坂の下から見上げる本社は、朝の光を受けて白く見えた。
ガラス張りの一階。
正面玄関に入ってすぐ右手にある受付。
奥にある階段。
来客用エレベーター。
一週間くらい前、あそこで崩れた。
思い出すと、胸の奥が少しだけ硬くなる。
彩佳は歩幅を小さくした。
早苗は何も言わず、同じ速度になった。
敷地の外へ出る。
会社の外周を回る道には、冬枯れの植え込みが続いていた。
葉を落とした枝の間に、朝日が細く入っている。
舗装された道の端には、霜が少しだけ残っていた。
「寒いね」
彩佳が言う。
「冬だからね」
「それ言ったら全部終わる」
「寒いけど、空気は気持ちいい」
「うん」
彩佳はゆっくり息を吸った。
冷たい空気が胸に入る。
以前なら、それだけで怖くなることがあった。
息が足りなくなる感覚を思い出してしまうから。
でも今日は、少し違った。
冷たい。
でも、吸える。
それが分かる。
しばらく歩いてから、早苗が言った。
「外周、一周するの普通になってきたね」
「うん」
「最初、洗面台まででも大仕事だったのに」
「思い出すだけでも辛くなる」
「私も辛かった」
「それは、ご迷惑おかけしました」
彩佳は少しだけ口を尖らせる。
早苗は軽く笑った。
その笑い声が、左側から少し遅れて入る。
補聴器越しの音は、まだ少し機械的だった。
でも、早苗の声だとは分かる。
彩佳は耳の後ろに触れた。
「どう?」
「外は平気。食堂よりずっと楽」
「食器の音?」
「うん。あと椅子の音。人の声が重なると、全部いっぺんに来る感じ」
「慣れるまで食堂は短めにする?」
「そうしたいけど、逃げてる感じがして」
「逃げてもよくない?」
早苗はあっさり言った。
「焦ってもしょうがない」
「またそれ」
「大事だから」
彩佳は笑いかけて、少しだけ視線を落とした。
「戻れてると思ったんだけどな」
声は小さかった。
早苗はすぐには返事をしなかった。
歩きながら、彩佳は続ける。
「外周も歩けるし、髪も自分で洗える日が増えたし、午後も前より動ける」
「うん」
「だから、もう少しで普通に戻れるのかなって」
坂の途中で、彩佳は足を止めた。
「でも、相原さんと倉持さん見たら、何もできなかった」
左耳の補聴器に、遠くのトラックの音が薄く入る。
「怖くて、息ができなくなって、またみんなに助けてもらって」
言いながら、胸の奥が少し熱くなる。
「戻れてると思ったのに」
早苗は隣で立ち止まった。
しばらく、本社の方を見ていた。
それから、彩佳へ視線を向ける。
「戻るんじゃなくて、今の身体で進むんでしょ」
彩佳は顔を上げた。
早苗の声は強くなかった。
慰めるというより、確認するような声だった。
「耳も、体力も、怖さも。全部、前と同じにはならないかもしれない」
「……うん」
「でも、今こうやって歩いてる」
早苗は道の先を見た。
「一周できるようになった。補聴器もつけてる。休むのも前より上手くなった」
「休むのはまだ下手だよ」
「前よりは」
早苗は言い切った。
彩佳は少しだけ笑う。
「前、そんなにひどかった?」
「ひどかった」
「即答」
「即答できるくらいひどかった」
少しだけ空気が緩んだ。
早苗は歩き出す。
「一緒に頑張ろう」
その言葉は、簡単だった。
でも、彩佳の中にまっすぐ落ちた。
一人で頑張る。
そう考えると、すぐに苦しくなる。
でも、一緒に頑張る。
そう言われると、少しだけ息がしやすい
彩佳も歩き出した。
「うん」
冬の朝の空気が、頬に冷たい。
足元の霜は、朝日に少しずつ溶け始めていた。
その日の昼前、医務課の経過観察室はほとんど埋まっていた。
投薬開始から5日程度。
まだ重症者はいない。
けれど、頭痛、倦怠感、動悸、吐き気を訴える社員が増えていた。
清水はベッド間を歩き、バイタルを確認していた。
「頭痛は十段階でいうと?」
「六くらいです」
「吐き気は?」
「少し」
「水分取れそうですか」
「はい」
カーテンの向こうでは、別の看護師が血圧を測っている。
ガイア側の医師が端末に入力し、研究員が投薬後の時間を確認していた。
上原はその様子を見ながら、端末の自由記載欄に手を止めた。
短くまとめることはできる。
頭痛あり。
倦怠感あり。
経過観察。
重症度軽度。
でも、その一行では足りない。
社員は、仕事の途中でここへ来ている。
午前中だけでも頑張ろうとして、結局立っていられなくなった人もいる。
手当があるからと、症状を軽く言おうとする人もいる。
それは、数字だけでは残らない。
「上原先生」
ガイア側の医師が声をかける。
「自由記載、少し長くなっています」
「必要な経過です」
「分類上は軽度です」
「分類上は、です」
上原は静かに返した。
相手はそれ以上言わなかった。
清水が少し離れた場所から、そのやり取りを見ていた。
そして、上原の端末の画面ではなく、その背後に立つ研究員の視線を見ていた。
研究員は、入力欄ではなく、画面のフォルダ階層を見ている。
清水は表情を変えず、そっと一歩動いた。
画面が見えない位置に立つ。
「先生、次の方のバイタルです」
「ありがとうございます」
上原が端末から視線を上げた。
清水は何も言わない。
でも、その目だけで伝えた。
見られている。
上原はほんのわずかに頷いた。
夕方。
広報課にも、PLXの影響は出始めていた。
経鼻予防薬の生産増加見込みについて、医療機関や関連団体から問い合わせが増えている。
正式発表前に答えられることは少ない。
それでも、「予定はあるのか」「供給時期は」「優先順位は」といった問い合わせは止まらない。
佐山は広報課の席で、問い合わせ一覧を確認していた。
医務課から回ってきた共有事項もある。
副作用対応で通常業務が圧迫されていること。
ガイア側の人員が医務課に常駐し始めたこと。
問い合わせ対応時に、試験詳細へ踏み込まないこと。
その中に、上原からの短いメモが挟まっていた。
――紙資料、予定通り移します。
佐山はそれを読み、すぐに細かく折った。
机の引き出しではなく、手帳の間に挟む。
それから何事もなかったように、電話を取った。
「お電話ありがとうございます。ラクト・セラム広報課、佐山です」
声はいつも通りだった。
けれど、胸の奥では別のものが重く動いている。
試験は始まった。
副作用も出始めている。
ガイアは資料を探っている。
そして、自分たちは記録を残そうとしている。
会社の中で、二つの流れが同時に進んでいた。
一つは、予防薬を増やすための流れ。
もう一つは、その裏で消されかけたものを守るための流れ。
どちらも、同じ建物の中にあった。
夜。
寮の廊下は、いつもより静かだった。
投薬対象者の中には、早めに部屋へ戻った人も多いらしい。
食堂の利用者も少なかった。
彩佳は部屋で補聴器を外し、ケースに入れた。
左側が少し遠くなる。
その静けさに、今日は少しだけほっとした。
スマホに早苗からメッセージが入る。
『明日も朝歩く?』
彩佳は少し考えた。
身体は疲れている。
でも、歩きたい。
歩けることを、確認したい。
そう思った。
『歩く』
すぐに返事が来る。
『無理なら短くしよ』
彩佳は笑った。
『一周』
『調子見て』
『はい』
送ってから、彩佳はベッドに横になった。
天井を見る。
相原と倉持を見た時の恐怖は、まだ消えない。
身体の奥に残っている。
でも、今日の朝、早苗と一周歩けた。
左耳には補聴器がある。
疲れる。
うるさい。
でも、声が拾える。
全部が前と同じではない。
でも、全部が失われたわけでもない。
彩佳は目を閉じた。
明日も歩く。
今はそれだけでいいと思った。




