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第57話 忙しくなる会社

 説明会の翌日から、ラクトセラム本社の空気は目に見えて変わり始めた。


 何かが大きく動く前には、音が増える。


 廊下を行き来する足音。


 台車の車輪が床を転がる音。


 資材を運び込む段ボールの角が壁に当たる小さな音。

 普段なら一つ一つ聞き流せるはずのものが、今は全部、試験の準備として耳に残った。


 医務課の前には、新しい掲示が貼られていた。


 PLX大規模治験に伴う受診基準。


 頭痛。

 倦怠感。

 動悸。

 浮腫。

 息切れ。

 胸部不快感。

 発熱。

 めまい。


 白い紙に並んだ言葉は、ただの項目だった。


 けれど彩佳は、その前を通るたびに足を止めそうになる。


 どれも、知っている言葉だった。


 頭で理解している症状ではない。


 身体の奥で覚えている言葉だった。


 その日、彩佳は昨日の過換気の事で上原に呼ばれていた。


 廊下の端に立ち、邪魔にならないよう壁際へ寄る。


 医務課の中では、看護補助の職員が折り畳みベッドを運び込んでいた。


 普段は経過観察室に数床だけだったベッドが、部屋の端まで増やされている。


元々、十床あった病室の方まで配置がかわり、ベッドの数が増やされていた。


 パーテーションで簡易の仕切りが追加され、棚には血圧計やパルスオキシメーターがいくつも並べられていた。

 清水が、資器材の数を確認している。


 その横で、ガイア製薬の社員証を下げた男性が端末を覗き込んでいた。


「こちらの観察記録は、日単位でガイア側にも共有されます」


 男性は淡々と言った。


「副作用報告については、重症度分類も合わせて入力してください。ラクト側の自由記載欄も確認します」


 清水の返事は穏やかだった。


「分かりました。ただ、自由記載欄は現場の経過を残すためのものです。必要以上に簡略化されると困ります」


「形式を揃えるだけです、内容は簡略化しません」


「形式だけなら」


 清水は笑わなかった。


 彩佳は、そのやり取りを聞いて、そっと視線を落とした。


 ガイアの人間がいる。


 ここにも。


 ガイア三階とは違う。


 ここはラクトセラムだ。


 自分が働いてきた会社の医務課だ。


 それでも、社員証の青い紐を見るだけで、胸の奥がわずかに硬くなる。


「石井さん」


 声をかけられて顔を上げると、清水がそばに来ていた。


「お待たせしました。診察室、行きましょう」


「はい…」


 彩佳は清水の後を追うように診察室へ向かう。


その時、気づいたように清水は聞いた


「今日は一人なんですか?」


「はい。早苗は経理の方で確認があるみたいで」


「そうですか」


 清水は少しだけ声を落とした。


「おはようございます」


診察室に入ると、少し疲れた顔をしている上原がいた。


「昨日は最後まで診れなくてごめんなさい」


「佐山さんからある程度の経過は聞きましたが、そのあと特に変わった事は無いですか」


「いえ、特には…」


「あの…こういう事ってよくあるんですか?」


 少し考え込んで上原は答える


「ストレス障害によるフラッシュバックで過換気を起こしてしまうことはあります」


「特に、石井さんにはそれだけの経験があります」


「ただ、大切なのは、その症状に対してどう向き合うかです、そのサポートのために私達がいます」


「体の回復も大事ですが、心の方もこれから一緒に考えていきましょう」


「医務課、しばらく騒がしくなると思います。今日はしょうがないですが、必要な時以外は来ない方が良いかもしれません」


奥で上原を呼ぶ声が聞こえる

「すいません、今日も忙しくて、ではまた月曜日の朝一番の時間に来てください」


「はい、ありがとうございました」


彩佳の返事に笑顔で返すと上原は奥に向かっていった。


「掲示も、見すぎちゃだめですよ」


 隣に立っていた清水が言う


「見てたの、分かりました?」


「ちゃんと見てました」


 清水はいつものように言った。


 いつもと変わらない穏やかな言い方に少しだけ安心する。


「始まるんですね」


「始まっちゃいます」


 清水の声は静かだった。


「来週月曜から投薬開始です」


「飲み薬なんですよね」


「そうなんですけど…」


 清水は短く答えたあと、ほんの少し間を置いた。


「でも、身体に入るものには変わりありません」


 彩佳は頷いた。


 点滴ではない。

 だから軽い、というわけではない。


 それは、もう知っている。


 医務課の奥で、上原の声がした。


「この受診基準は、社員側にも必ず配ってください。部署長だけで止めないでください」


 相手はガイア側の担当者らしい。


「部署単位で周知されれば十分では」


「十分ではありません」


 上原の声は静かだったが、少し硬い。


「本人が自分で気づけるようにする必要があります。特に、浮腫や息切れ、胸部不快感は自己申告が遅れると危険です」


「前回データでは重篤例は限定的です」


「限定的だったから軽く見ていい、という意味ではありません」


 彩佳は、その言葉に少しだけ目を伏せた。


 上原の声は、相変わらず冷静だった。


 でも、その奥にあるものを、今の彩佳は少しだけ知っている。


 清水も同じ方向を見ていた。


「先生、ずっとあの調子です」


「怒ってます?」


「怒ってます」


 清水は小さく答えた。


「でも、怒り方が静かなんです」


 彩佳は少しだけ笑った。


「上原先生らしいです」


「ですよね」

 清水もほんの少しだけ表情を緩めた。


 清水と共に診察室を出ると廊下の向こうから、ガイア側の研究員らしい二人が歩いてきた。


 手にはタブレットとファイル。


 医務課の入口で立ち止まり、壁に貼られたフロア案内を確認している。


 一人が言った。


「共有端末はどこですか」


 案内していた管理課職員が答える。


「医務課内はラクト側の管理になりますので、確認は担当者を通してください」


「倉持から、事前確認は進めておくようにと言われています」


 その名前を聞いた瞬間、彩佳の指先がわずかに強張った。


 清水がそれに気づいたのか、さりげなく彩佳の前へ半歩出た。


「石井さん、今日はもう戻りましょう」


「…はい」


 彩佳は頷いた。


 これ以上ここにいる必要はない。

 医務課から離れる途中、もう一度だけ振り返る。


 ベッドが増えていく。

 資器材が並んでいく。

 掲示が貼られていく。

 人が動線を確認している。


 全部、誰かを守るための準備のように見える。


 でも彩佳には、別のものにも見えた。


 誰かが苦しくなった時に、そこへ運び込まれるための準備。


 始まる前から、倒れる人がいることを前提にした部屋。

     


 B1の品質管理課でも、準備は進んでいた。


 搾乳室の前には、新しい時間割が貼られている。


 これまでより細かく区切られた利用時間。


 部署別、投薬群別、採取タイミング別。


 サンプル回収ボックスには、新しいラベルが貼られていた。


 ワクチン接続後サンプル。

 PLX投薬後サンプル。

 定期測定用。

 副作用発現時追加採取。


 品質管理の職員が、ラベルの色と番号を確認している。


「これ、間違えたら大変ですね」


 若い職員が言う。


「大変で済まないよ」


 別の職員が返す。


「ロット管理がずれたら、全部確認し直しになる」


 そこへガイア側の研究員が入り、手順書を確認する。


 ラクト側の職員は丁寧に対応しているが、どこか緊張している。


 ガイア製薬の社員証は、本社のどの階でも目立つようになっていた。



 一階の経理・契約課でも、机の上には見慣れない書類が積まれていた。


 試験関連の納品書。

 医療機器の搬入予定表。

 薬剤管理に関する契約書。

 追加手当。

 補償説明資料。

 ガイア側との費用分担表。


 野村はそれらを確認しながら、ため息をついた。


「これ、一月末までに全部処理しろって?」


 隣の職員が苦笑する。


「通常業務、半分くらい止めるしかないですね」


「半分で済めばいいけど」


「これ、高橋さん戻って来てもきついわ」


「ねぇ、手空いてたら…これ、総務に回す分と契約課で確認する分、分けてもらえる?」


「はい」


 隣の広報課も協力して処理を行っている


 書類の量に、少し圧倒されている様子だった。


 野村が続ける。


「後に回せるものは回すとしても…こりゃ他の課からヘルプ貰わないと無理だな」


「ですよね」


「試験関連の契約と納品が増えるから。今の人数だけじゃ回らないです」


「…うちの課長にお願いしとく」


そんなやり取りが、ラクトセラム内の色々な課で聞かれるようになっていた。

     


 その日の夕方、医務課の奥の小さな会議スペースに、上原、河合、佐山、清水が集まっていた。


 表向きには、PLX大規模治験の受診基準と観察体制の確認。


 実際には、それだけではなかった。


 机の上には、ガイアから配布された運用資料が置かれている。


 その隣に、上原が作った手書きのメモがあった。

 清水が声を落とす。


「今日、ガイアの研究員が共有端末の場所を確認してました」


 河合が眉を寄せる。


「治験準備なら、薬剤管理とか観察記録を見るのは分かるけど」


「見てる場所が広いんです」


 清水は言った。


「医務課の資料棚とか、過去の観察記録の保管場所とか」


 佐山が続ける。


「一階でも、倉持さんの名前が出ていました。事前確認を進めろと」


 上原は黙って資料を見ていた。

 やがて、静かに言う。


「やっぱり、探しているかもしれませんね」


「高田さんの件ですか」


 河合が言う。


「おそらく」


 上原は頷いた。


「ガイア三階で、高田さんと清水さんの接触を倉持さんが見ている。決定的な証拠はなくても、何かが外に出た可能性は考えているはずです」


 清水の表情が硬くなる。


「私が、もう少し慎重に動いていれば」


「清水さんのせいではありません」


 上原はすぐに言った。


「むしろ、あの時点で高田さんと接触できたから、記録が残ったんです」


 河合が資料の端を指で叩いた。


「でも、電子データは危ないですね」


「はい」


 上原は頷く。


「社内端末に置いてあるものは、整理しましょう。必要なものは紙でも残します」


 佐山が静かに言う。


「紙資料は、私が別で保管します」


「広報課ですか」


「ええ。医務課よりは目立ちません」


 清水が小さく息を吐いた。


「まるで、こっちが悪いことしてるみたいですね」


 誰もすぐには返事をしなかった。


 しばらくして、河合が低く言う。


「でも、残さなかったら本当に消えます」


 上原は、机の上の資料を見つめた。


 正式な運用表。


 きれいに整えられた説明文。


 副作用は想定範囲。


 安全性は向上。


 共同運用。


 言葉は整っている。

 整っているからこそ、そこからこぼれ落ちたものが見えにくくなる。


「残しましょう」


 上原は言った。


「感情ではなく、記録として」


 佐山が頷く。


「はい」


「でも」


 清水が声を落とした。


「もし本当に探されているなら、ここから先は時間の問題です」


 その言葉に、誰も反論しなかった。


     

 週末に近づくにつれて、本社の中はさらに試験の色を濃くしていった。


 食堂では、栄養管理課からの掲示が増えた。


 投薬中の食事注意。

 水分摂取。

 体調不良時の申告。

 睡眠記録の提出。


 社員寮の掲示板にも、PLX大規模治験に関する案内が貼られた。


 対象者説明。

 投薬開始日。

 副作用時の連絡先。

 医務課受診基準。

 追加手当。

 補償について。


 それを見ながら、若い社員たちが小声で話している。


「頭痛くらいなら大丈夫かな」


「手当、結構出るんでしょ」


「でも医務課のベッド増えてたよ」


「大規模って言うくらいだし、今回はちゃんと管理するんじゃない?」


 彩佳は、その横をゆっくり通り過ぎた。

 声は聞こえる。


 でも、自分が何か言える立場ではない気がした。

 参加しない。


 できない。


 止めることもできない。


 自分はもう、試験の中心にはいない。

 それなのに、身体だけがまだその場所に置き去りにされているような感覚があった。


「彩佳」


 後ろから早苗の声がした。


 振り返る。


 早苗は買い物袋を片手に持っていた。


 寮用の軽食や飲み物だろう。


「見てたの?」


「うん」


 彩佳は掲示板へ目を向ける。


「始まるんだなって」


「うん」


 早苗も同じ掲示を見た。


「来週の月曜からだって」


「知ってる」


「そっか」


 早苗は少しだけ間を置いた。


「戻る?」


「うん」


 二人は寮の廊下を並んで歩き始めた。


 彩佳の歩幅は、以前よりはしっかりしている。


 でも、まだ早苗は自然と少しだけ速度を落としている。


 それに気づいて、彩佳は苦笑した。


「そんなにゆっくりじゃなくても大丈夫だよ」


「私がこの速度で歩きたいだけ」


「嘘っぽい」


「嘘じゃない」


 早苗は平然と答える。


 彩佳は少しだけ笑った。

 笑えたことに、自分で少し驚いた。


 まだ怖い。

 まだ思い出す。


 相原と倉持の顔を見ただけで、身体は崩れた。


 でも、今は歩いている。


 早苗と並んで、寮へ戻っている。

 それもまた、事実だった。

     


 翌週の月曜日。


 PLX大規模治験の投薬が始まった。

 朝、医務課前には対象社員が列を作っていた。


 透明なカップに入った錠剤。


 投薬記録表。

 水。

 服薬確認。

 その後の待機。


 点滴ではない。


 ただ、薬を飲むだけ。


 けれど、その小さな錠剤が身体の中で何を始めるのかを、彩佳は知っている。


 診察が終わった後、彩佳は廊下の端からその様子を見た。


 薬を飲んだ社員が、少し緊張した顔で椅子に座る。

 看護師が時間を確認する。


 ガイア側の研究員が端末へ入力する。


 流れは整っていた。


 整いすぎているくらいだった。


 彩佳は立ち止まらず、そのまま歩いた。

 もう、自分がそこに入ることはない。

 けれど、始まったのだと思った。


 また、誰かの身体を使って。

 また、誰かの善意を形にして。


 予防薬を増やすための試験が、ラクトセラムで始まった。

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