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第56話 傷痕、始まる試験

誕生日の翌日、木曜日


 朝からラクト・セラム本社は、どこか慌ただしかった。


 四階大会議室で、PLX大規模治験の説明会が行われる。


 そのため、一階の受付前では管理課の職員が普段より多く動いていた。来客用のネームプレート、配布資料、案内板。見慣れた本社の一階なのに、空気だけが少し違う。


 正面玄関を入ったすぐの受付には、幹部対応用の資料が並べられている。


 社員入口側にも警備担当が立ち、来客用のエレベーター前では来客導線を確認する声がしていた。


 九時半頃。


 彩佳は医療補償の申請書類を受け取るために総務と医務課を訪れていた。


 総務で書類を受け取り、二階の医務課へ向かうと上原とすれ違う。


「石井さん」


「今日はどうしたんですか?」


「えっと…申請書を貰いに来ました」

 

「耳鼻科ですか?」


「はい、仕事の事も考えたらあった方が良いのかなって」


「そうですね。耳鼻科の先生と相談して決めるのが一番だと思います」

 

「受診したら、今度少し聞かせてください。職場で配慮できることがあれば、医務課でも確認します」


「はい。ありがとうございます」


「無理に急がなくていいですからね。まずは、ちゃんと相談してきてください」


 そう言って、上原は軽く会釈する。


「では、すみません、今日は少し立て込んでいて」


「説明会…でしたよね」


「はい、予定は十一時からですが、今日はガイアから沢山人が来るので、早めに戻ってくださいね」


「あの人たちも来るそうですから」


 あの人たち。


 上原は名前を出さなかった。


 でも、きっと相原と倉持のことだろうと思った。


 彩佳は階段の前で、浅く息を吐いた。


「よし」


 小さく声に出す。


 帰りは階段を使うことにした。


 体力は、ガイアから戻ってきた直後より確実に戻ってきている。普段はまだエレベーターを使うことも多いが、下りなら負担は少ない。エレベーターを待つ必要もない。


 早く一階を通り抜けて、寮へ戻る。


 そのためには、階段の方がちょうどいいと思った。


 一段ずつ、手すりに軽く触れながら降りる。


 階段は、思っていたより順調だった。踊り場を過ぎても、息はそこまで上がらない。膝も重いが、心配になるほどではない。


 このまま順調にいけば、早期復帰もあり得るかもしれない。


 そんなことを、ほんの少しだけ考えた。


 以前よりも歩ける。朝の散歩も続けられている。入浴から寝る準備まで一人でできる日も増えてきた。 


 午後には落ちるが、それでも、寮に戻って来た頃に比べれば動けるようになっている。


 そう思いながら、一階まで降りる。


 最後の段を下り、息を整えて顔を上げた。


 その瞬間、見覚えのある顔が目に入った。


 階段下から少し離れた、社員用エレベーターホール。


 そこに、スーツ姿の男と、隣に立つ女性がいた。


 相原。


 倉持。


 見た瞬間、身体が固まった。


 心臓が一度、強く脈打つ。


 胸が締めつけられ、息の吸い方が分からなくなる。


 相原も、気配を感じたように視線を上げた。


 彩佳の姿が目に入る。


 痩せた身体。


 決して良いとは言えない顔色。


 それでも、どこか意思を残した眼差し。


 相原の胸に、どこかで見たような感覚が掠めた。


 誰だったか。


 どこで見たのか。


 その感覚が形になる前に、エレベーターの到着音が鳴った。


「こちらへどうぞ」


 受付にいた佐山が、エレベーターの中まで案内する。


 倉持が先にエレベーターへ乗り込み、相原へ声をかけた。


「相原さん」


「ああ」


 相原は彩佳から視線を外し、エレベーターに乗り込んだ。


 ドアが閉まる。


 相原の姿が見えなくなる。


 その瞬間だった。


 急変した日の感覚が、一気に押し寄せた。


 白い廊下。


 壁に手をついた時の冷たさ。


 胸の奥を押しつぶすような苦しさ。


 遠くなる声。


 吸っても、吸っても足りなかった空気。


 呼吸が浅くなる。


 手足が冷たくなる。


 指先が痺れていく。


 自分でも、その感覚ははっきりと分かった。


「……っ」


 膝から力が抜けた。


 その場へ崩れる。


 ここから早く離れたいのに呼吸の仕方を忘れたように苦しくなり、体も言うことを聞かない。


 四階への案内を終え、一階へ戻ってきた佐山がすぐに気づいた。


「彩佳さん!」


 佐山は駆け寄り、床へ膝をつく。


 彩佳の肩を支えると、明らかに呼吸が速かった。


「佐山さん……苦しい、息が……」


 声は震えている。


 目は大きく開いているのに、どこか焦点が合っていない。


 佐山はすぐに理解した。


 過換気。


 パニック反応。


 でも、ただの過換気では終われない。


 この子は、一度本当に死にかけている。


 身体が、その時の記憶を先に思い出してしまっている。


「彩佳さん、大丈夫」


 佐山は落ち着いた声で言った。


「ちゃんと呼吸できてるから安心して」


「身体も痺れて……怖い……」


 彩佳の表情は、まだ不安と恐怖が残ったままになっている。


 佐山は彩佳の背中をゆっくり撫でる。


「ゆっくり吐くことに集中して」


「吸うより、吐く」


「大丈夫。私もいるから安心して」


 そう言って、震える手を握った。


 手のひらは冷たかった。


 それでも、その手を離さないように、佐山はゆっくりと握り返す。


 少しずつ。


 本当に少しずつ、彩佳の呼吸が落ち着いていく。


「……すいません……」


 彩佳が途切れ途切れに言った。


「落ち着いて…きました」


 その時だった。


「せ、先輩!?」


 受付にいた茉莉も気が付き駆け寄ってくる。


 佐山が振り返る。


「横田さん、医務課に電話して、上原先生がまだいるか確認できる?」


「はい、わかりました!」


 茉莉が慌てて社内用のPHSで呼び出そうとした瞬間だった。


「わ、びっくりした……!」


 振り返ると、すでに上原が立っていた。


 隣には清水。


 清水はパルスオキシメーターや血圧計など、最低限の観察資器材を持っている。


「ここだと人目もあります。医務課に移動しましょう」


 上原が静かに言う。


 清水がすぐ、彩佳の指へパルスオキシメーターを装着した。


「SpO2は下がってません」


 その言葉に、佐山も上原もわずかに安堵した。


 頻呼吸。


 痺れ。


 典型的な過換気症状。


 それでも、万が一を考えてしまう。


 茉莉が受付横から車椅子を持ってくる。


「座れますか?」


「……うん」


 彩佳は震える手で肘掛けを掴み、ゆっくり座った。


     


 医務課の経過観察室へ移動すると、彩佳はベッドへ横になった。


 呼吸はかなり落ち着いている。


 表情も少しずつ余裕を取り戻し始めていた。


 上原が申し訳なさそうに言う。


「すみません。まさかあんなに早く来るとは……」


 佐山が苦い顔をした。


「一時間も早く来ましたけど…」


「下から連絡をもらって、彩佳さんを呼び止めに行こうと思ったんですが……」


 彩佳は目を伏せる。


「すいません……迷惑かけてしまって……」


 清水が即座に返した。


「迷惑なのはあっちですよ」


「時間くらい守ってほしいです」


 その言い方が少しだけ清水らしくて、彩佳はかすかに息を吐いた。


 上原はカルテ端末へ視線を落としながら、佐山へ言う。


「今日、医師と看護師は全員、上に呼ばれていて……」


 “上”。


 四階大会議室。


 ガイア製薬の説明会のことだ。


「佐山さん、申し訳ないのですが、異常バイタルがないか確認できますか。あとできれば心電図もお願いしたいです。」


「わかりました」


 佐山が頷く。


「あとは任せてください」


「もし何があれば、社内PHSを持っていきますので連絡してください」


 そう言い残すと上原と清水は足早に部屋を出ていった。


 残った佐山が血圧を測り、心電図を確認する。


「うん。血圧も心電図も異常なし」


 佐山は、ほっとしたように言った。


「よかった」


 彩佳は体を起こしてベッドの端に座り直した後、小さく言った。


「ごめんなさい……私、パニックになっちゃって……」


「ううん」


 佐山は静かに首を振った。


「それだけのことがあったの。気にしないで」


 そう言った佐山自身も、動揺していなかったわけではない。


 身体だけではない。


 心にも傷が残っている。


 彩佳の震える手と浅い呼吸を見て、改めて思い知らされた気がした。


 その時、廊下から慌ただしい足音が聞こえた。


「彩佳……!」


 早苗だった。


 息が上がっている。


 急いで寮から来たのが分かる。


「よかった……」


「茉莉から連絡もらった。倒れたって聞いて」


 彩佳は少し困ったように笑った。


「ごめん。ちょっとパニックになっちゃった」


「だいぶ落ち着きました、もうし少し休んだら帰ります」


 早苗は彩佳の方を見たまま言う。


「私も付き添います」


 即答だった。


 佐山が申し訳なさそうに笑う。


「ごめんね。お願いしても大丈夫かしら。今日はまだ来客対応があって」


「はい」


 早苗が頷く。


 佐山は二人を見てから、足早に一階へ戻っていった。


 茉莉も部屋の入口から顔を覗かせる。


「先輩、私も途中なので戻ります」


「連絡ありがと」


 早苗が言う。


「そういえば、なんで茉莉が一階に?」


「今日は来客対応で、受付に入るように言われてて」


 茉莉は少し落ち着かない様子で答えた。


「そっか、今日そんなに人来るんだ」


「ガイア所属の医師とか研究職の方も来るみたいです」


「会議のあと、会社の中を案内しろって言われてて…今日はバタバタです」


「なるほど…今日がまだ休暇中で良かった」

 

 早苗は、冗談ぽく笑って返した。


「先輩ずるいです…、じゃなくてそろそろ戻らないと」

 

 彩佳も小さく笑う。


「茉莉ちゃんもありがとう。恥ずかしいところ見せてごめんね」


「私の普段に比べれば、先輩なんて恥ずかしいこと何もないですよ」


「それ、自慢することじゃないから」


 早苗がさらに冗談めかして即座に返す。


 茉莉なりの気遣いなのだろう。


 彩佳の表情が少しだけ緩んだ。


「呼び止めてごめん、仕事戻っていいよ。あとは大丈夫」


「すいません。よろしくお願いします」


 茉莉は深く頭を下げ、部屋を出ていった。


 二人きりになる。


 少し沈黙が落ちた。


 彩佳は俯いたまま静かに両肘を抱える。


「……ガイアの、相原さんと倉持さんが来てて……」


 声が震える。


「見たら、もうダメだった」


 頑張って明るく言おうとしていた。


 でも、目にはもう涙が溜まっていた。


 早苗はただ頷いた。


「うん」


「迷惑かけてごめん」

 

 震える声でやっと言葉にすると、我慢していた涙が頬を流れる。


「謝るの禁止」


 早苗が静かに言った。


「うん……」


 順調だと思っていた。


 戻って来られていると思っていた。


 前と形は違っても、もうすぐ一人で立てると思っていた。


 でも、パニックになった。


 怖くて、何も考えられなくなった。


 また色んな人に手を引いてもらった。


 スタート地点に引き戻されたような感覚だった。


 気が付いたら涙が止まらなくなっていた。


 早苗は何も言わず、彩佳の背中を撫でていた。


 早苗も、もう大丈夫だと思っていた。


 でも違う。


 まだ回復の途中なのだ。


 身体だけではなく、心も。


 朝の散歩もできるようになった。


 髪も、一人で洗って乾かせる日が増えた。


 午後も、前よりは動ける。


 だから、戻れていると思っていた。


 でも実際には、身体の奥に残った恐怖は消えていなかった。


 頭では終わったと思っていても、身体はまだ終わっていない。


 そのことを、今日思い知らされた。


 悔しかった。


 情けなかった。


 少し浮かれていた自分に腹も立った。


 でも同時に、もしここで一人だったらと思う。


 佐山が気づかなかったら。


 早苗が来てくれなかったら。


 きっと、もっと怖かった。


 それだけは、はっきり分かった。


 早苗の手が、背中をゆっくり撫でる。


 一定のリズム。


 急かさない手つき。


 その温度を感じながら、彩佳はゆっくり目を閉じた。


 窓の外では、冬の白い光が静かに廊下へ伸びていた。


     *


 同じ頃。


 四階大会議室では、大規模治験説明会の開始時刻が近づいていた。


 会議室の座席はほとんど埋まっている


 午前十一時。


 説明会は時間通り始まった。


 大型スクリーン。


 並べられた資料。


 前方の席には、相原と倉持。


 ラクト・セラムの幹部、医務課、管理課の職員が席についている。


 見慣れない服を着た人たち、ガイア製薬の社員も座っている。


 上原は席に着きながら、手元の資料へ視線を落とした。


 PLX大規模治験。


 NV-40経鼻型予防薬。


 緊急承認申請に向けた最終評価。


 資料の表紙には、整った言葉が並んでいた。


 けれど、その資料のどこにも、彩佳が今も残る傷痕と戦っていることは何処にも書かれていない。


 ガイア三階を出たあとも、息苦しさの記憶が身体に残っていること。


 一度は戻りかけた日常の中で、ふいに足元をすくわれる瞬間があること。


 そうしたものは、緊急承認に向けた資料の中で扱われることはない。


 相原が立ち上がった。


 濃い色のスーツに、乱れのない姿勢。


 壇上に立つその姿は、研究責任者というより、すでに一つの計画全体を背負う人間のように見えた。


 相原は、ゆっくりと会場を見渡した。


「ラクト・セラムは、単なる母乳バンクではありません」


 静かな声が、マイクを通して大会議室に広がった。


「設立当初から、ヒト母乳由来sIgAを医薬品原料として扱うことを前提に、提供者管理、感染症検査、汚染対策、成分分析、ロット管理を整備してきました」


 スクリーンに、採取から保管、分析、製剤化までの流れが表示される。


 矢印でつながれた工程は、ひどく滑らかに見えた。


「ガイア製薬が早期から本事業に出資してきたのも、そのためです。Project Lactaにおいて、安定したsIgA供給基盤は不可欠でした」


 会場の誰かが、資料をめくる音を立てた。


「今回の大規模治験は、その基盤を用い、NV-40に対する経鼻型予防薬の緊急承認申請に必要なデータを取得するものです」


 上原は、資料の端を指で押さえた。


 相原の説明は、間違っていない。


 むしろ、制度上も、開発上も、よく整理されている。


 だからこそ、厄介だった。


「ただし、医薬品化に必要なのは、通常条件下のデータだけではありません」


 相原は一拍置いて、続けた。


「有効成分であるsIgAを、どの条件で、どの程度まで安定して高濃度化できるのか。高反応個体において、安全域はどこに設定されるべきなのか。副反応はどの段階で管理可能範囲を超えるのか」


 安全域。


 その言葉が出た瞬間、佐山の表情がわずかに強張った。


 上原も、その変化に気づいた。


 同じ言葉に、同じものを思い出したのだと思った。


「これらを確認しなければ、実際の製造条件も、投与対象も、品質規格も定めることはできません」


 相原の声は揺れなかった。


「先行するPLX試験では、そうした安全域と有効成分確保の限界を確認するため、複数の反応群に分けた評価が行われました」


 スクリーンに、棒グラフと折れ線グラフが映し出される。


 sIgA濃度。


 NV-40中和活性。


 ロット間変動。


 副反応発現率。


 数字は整っている。


 見やすく、比較しやすく、説明しやすい。


 だが、そのどこにも、白い廊下で壁に手をついた彩佳の姿はない。


 息を吸おうとしても吸えず、膝から崩れ落ちた身体はない。


 数値になる前の異変は、グラフの中ではほとんど見えなくなる。


「その結果、NV-40に対する中和活性を有するsIgA画分について、緊急承認申請に必要な水準のデータが得られつつあります」


 相原は、次のスライドへ進めた。


「現在の流行状況を考えれば、通常の開発速度を待つ余裕はありません。医療現場、高リスク者、集団感染リスクを抱える施設へ、一日でも早く予防手段を届ける必要があります」


 会場は静かだった。


 誰も、相原の言葉を否定しない。


 できない。


 NV-40の流行が続いていることは事実だ。


 医療機関が疲弊していることも、予防薬が必要とされていることも、間違いではない。


 相原は、最後に少しだけ声を強めた。


「そのために、ラクト・セラムの協力は不可欠です」


 短い沈黙が落ちた。


 すぐには、拍手は起こらなかった。


 会場の空気が、ほんのわずかに重くなる。


 それは、相原の説明が理解できなかったからではない。


 むしろ、理解できてしまったからだった。


 ラクト・セラムでこれまで行われてきた通常の投薬プロセスでも、副作用は出る。


 頭痛、倦怠感、浮腫、動悸。


 それらは医務課にとって、資料上の想定項目ではなく、日々診察室で見てきた身体の反応だった。


 PLXによって乳汁分泌量がさらに増える。


 sIgA濃度を高め、供給量を前倒しする。


 その言葉が意味するものを、医務課の人間は分かっていた。


 量が増えるなら、負荷も増える。


 効果が強く出るなら、副作用も強く出る可能性がある。


 それを、誰も声には出さなかった。


 やがて、前方の幹部席のあたりから、控えめな拍手が起こった。


 それに合わせるように、会場のあちこちで手が鳴る。


 大きな拍手ではなかった。


 熱を帯びた賛同でもない。


 ただ、この計画がもう動き始めていることを、誰もが理解している音だった。


 相原は軽く頭を下げ、席へ戻った。


 続いて、倉持が立ち上がった。


「今回、試験運用管理を担当させていただきます倉持です」


 倉持の声は、相原よりも事務的だった。


 無駄な抑揚がないぶん、資料の文字をそのまま読み上げているようにも聞こえた。


「今回の大規模治験では、治験データの取得と並行して、予防薬生産量の増加を見据えた運用確認を行います」


 スクリーンに、運用表が映る。


「具体的には、搾乳量、sIgA濃度、NV-40中和活性、ワクチン接続後抗体価、副作用発現状況、生活活動量、睡眠状態などを日単位で記録します」


 上原は、手元の資料に視線を落とした。


 日単位で記録。


 生活活動量。


 睡眠状態。


 それは、被験者の生活そのものがデータになるという意味だった。


「また、安定したsIgA生産には、乳汁分泌量の増加が不可欠です。そのため、前回試験で比較的安定した結果が得られた八週間投薬プロトコルを基本運用とします」


 倉持は次のページを示した。


「投薬八週間、経過観察二週間、合計十週間を予定しています。なお、今回は大規模運用のため、ガイア製薬側からも医師、研究員、安全性評価担当を派遣し、ラクト・セラム側スタッフと共同運用を行います」


 会議室が、わずかにざわついた。


 佐山が資料から顔を上げる。


 河合も、隣で小さく眉を寄せた。


 共同運用。


 その言葉は、聞こえはいい。


 だが、ガイア側の人間がラクト・セラムの内部に入ってくるということでもある。


「副作用については、頭痛、倦怠感、浮腫、動悸などが想定されています。ただし、前回試験データを反映したことで、安全性は向上しています」


 倉持の声は淡々としていた。


「有害事象については、ラクト・セラム医務課およびガイア側安全性評価担当が連携し、重症度分類を行います」


 重症度分類。


 上原は、その言葉を心の中で繰り返した。


 分類することは必要だ。


 しかし、分類の仕方ひとつで、症状は軽くも重くも見える。


 記録は、人を守ることもできる。


 同時に、人を消すこともできる。


「また、対象者数が多いため、各部署には勤務調整、休憩導線、医務課受診基準の周知をお願いします」


 倉持は一度、会場を見渡した。


「今回の運用は、あくまで大規模治験としての安全管理体制のもとで実施されます」


 説明は、最後まで淡々としていた。


 整っている。


 必要な言葉は揃っている。


 資料も、運用表も、責任分担も、一見すれば抜けはない。


 けれど上原には、その整い方そのものが、どこか危うく見えた。


 彩佳が今も後遺症と向き合いながら、日常へ戻ろうとしていることを、相原も倉持も知らない。


 知らないまま、安全性と必要性を語っている。


 いや、仮に知っていたとしても、きっとこの資料には載らない。


 載せるとすれば、一時的な体力低下、といった簡単な言葉で処理されるだろう。


 その説明を、上原たちは静かに聞いていた。


     *


 説明会が終わると、会議室の空気は一気に緩んだ。


 幹部職員が相原の周囲に集まり、管理課の職員が資料を回収し始める。


 倉持はガイア側の研究員と短く言葉を交わし、次の打ち合わせへ向かう準備をしていた。


 上原は資料を閉じ、席を立った。


 廊下へ出ると、少し遅れて河合、佐山、清水も出てくる。


「佐山さんも呼ばれてたんですね」


 清水が廊下で先に口を開いた。


「ええ、試験の人手が足りなくなるかもしれないので聞いておくよう急に言われて…」


佐山は静かに続けた。


「ガイア側はある程度の副作用を見込んで運用するつもりかのかもしれません」


 四階の廊下は静かだった。


 大会議室の中とは違い、人の声が壁に吸われていく。


 河合も歩きながら続けて口を開く。


「副作用…あまり考えたくないですけど」


「ガイア側からも人を集めて、ラクトの人員は総動員させる」


「そういう事なのかもしれませんね」


そこで清水も口を開く


「それにしても…」


「きれいにまとまっていましたね」


 皮肉というより、疲れたような声だった。


 河合が資料を軽く持ち上げる。


「相原さんの説明自体は、間違ってはいません。むしろ、緊急承認に向けた説明としては筋が通っている」


「だから余計に厄介なんです」


 上原は静かに言った。


 自分でも、声が少し硬くなったのが分かった。


「ラクト・セラムは、もともとsIgAを医薬品原料として扱うために作られた会社です。提供者管理、感染症検査、汚染対策、成分分析、ロット管理。そこは確かに整っている。ガイアが早期から出資していた理由も、そこにあります」


 佐山が、黙って頷いた。


「母乳由来の予防薬を承認に乗せるには、単に“母乳由来です”では通らないんですよね」


 清水が確認するように言う。


 上原は頷いた。


「ええ。承認で問われるのは、NV-40に対する中和活性を持つsIgA画分を、一定の品質で、安定して供給できるかどうかです。総sIgA量だけでは足りません。NV-40に結合するか、感染を阻害できるか、一回分に必要な力価があるか、ロットが変わっても再現できるか。そこまで見られます」


「だから、製造ロットごとの管理と、大規模な安全性データが必要になる」


 河合が続けた。


「緊急承認とはいっても、何も確認せずに出せるわけではない。安全性、有効性の推定、対象者の限定、承認後の追跡。必要な条件は多い」


「それは分かるんです」


 清水は資料を抱え直した。


「でも、説明を聞いていると、全部が工程みたいに聞こえるんです。採取して、分析して、投与して、記録して、評価して。そこに人がいる感じが薄くなる」


 佐山が、低く言った。


「人が薄くなるように、言葉が作られているんでしょうね」


 その一言に、少しだけ沈黙が落ちた。


 上原は、廊下の先へ目を向けた。


 エレベーターの方では、管理課の職員がガイア側の来客を案内している。


 来客用のネームプレートが、胸元で小さく揺れていた。


「高反応群の評価も、必要性だけで言えばあります」


 上原は言った。


「通常条件でうまくいきました、だけでは医薬品にはできません。どの条件でsIgAが増えるのか。どこから副反応が増えるのか。高反応個体では、安全域をどこに設定するべきなのか。それを知らないまま大規模化すれば、もっと多くの人を危険に晒すことになります」


「だから、彩佳さんみたいな高リスク群が設定された」


 河合が静かに言う。


 上原は、少しだけ目を伏せた。


「資料上は、そうです。高反応群における安全域評価。有効成分確保の限界確認。後続の大規模治験に向けた投与条件と除外基準の基礎資料」


 言葉にすると、どれも理屈は通る。


 けれど、その言葉の中に、彩佳の顔はない。


 佐山が、短く息を吐いた。


「高リスク試験そのものが、全部悪いわけじゃない。危ない条件を知らないまま外に出す方が危ない場合もある。そこは、私も分かります」


 そして、声を少し落とした。


「でも、高リスク試験は、誰かを限界まで使うためのものじゃない。限界を越える前に止めるためのものです」


 清水が、ゆっくり頷いた。


「本来は、止める線を見つけるための試験」


「ええ」


 上原が答える。


「ガイアの問題は、高リスク試験を行ったことだけではありません。リスクが見えたあとに、止めるための記録ではなく、続けるための記録に変えたことです」


 河合の表情が曇る。


「継続可能寄りの評価ですね」


「症状がある。検査値にも変化がある。現場も違和感を持っている。それでも、全体評価では“管理可能範囲”に寄せる」


 上原は、資料の表紙を指で押さえた。


「今回の大規模治験では、そこを絶対に曖昧にできません」


 清水が小さく言った。


「今日の石井さんのことも、たぶん資料にすれば簡単な文で処理されるんでしょうね」


 誰もすぐには返事をしなかった。


 試験後の一時的な体力低下に伴う呼吸苦症状。


 SpO2低下を認めず、安静にて改善。


 心的な要因による過換気症状が強く疑われる。


 試験に伴う一時的な体力低下との関連性は明らかでは無い。


 それは事実だ。


 だが、事実のすべてではない。


「簡単な文で済ませてはいけない時があります」


 上原は言った。


「もちろん、医学的には過換気で、バイタルも心電図も大きな異常はない。それはきちんと記録する必要があります。でも、なぜ起きたのか。何が引き金になったのか。ガイア側の来訪が、彼女の身体に何を思い出させたのか。そこを切り落とせば、同じことがまた起きます」


 佐山が静かに頷いた。


「身体だけじゃない。心もまだ回復の途中なんです」


 清水は、少しだけ顔を伏せた。


「……さっき、石井さんとすれ違った時、思いました。もう歩けるようになってきているし、顔色も前より戻ってきている。でも、終わってないんですね」


「終わっていません」


 上原の返事は、はっきりしていた。


「本人が日常に戻ろうとしているほど、周りは“戻った”ように見てしまう。でも、身体の中にも、記憶の中にも、まだ反応は残っています」


 河合が、廊下の奥を見た。


「大規模治験が始まれば、社内全体がまた試験の空気になります。投薬、記録、診察、休憩、搾乳、データ提出。彩佳さんにとっては、ガイア三階と重なる場面が増えるかもしれない」


「だから、復帰判断も慎重にしないといけません」


 上原が言う。


「早期復帰の可能性はあります。でも、無理に戻すことはできない。本人が歩けることと、試験運用の空気に耐えられることは別です」


 佐山は、資料を抱え直した。


「それから、もう一つ」


 その声に、河合が視線を向ける。


「ガイア側の人間がラクトに入るなら、私たちがまとめている資料の管理を変えた方がいいです」


 上原の表情が引き締まった。


「私も同じことを考えていました」


 清水が、二人を見る。


「告発用の資料ですか」


「ええ」


 上原は声を落とした。


「高田さんから届いた安全性評価メモ。倉持さんの報告書との差分。湾岸総合医療センターの記録に関する整理。高村専務から預かった旧資料。今の段階で存在を知られると、潰される可能性があります」


 河合が苦い顔をする。


「ガイア側の安全性評価担当が入るとなると、医務課の記録や共有フォルダに触れる口実も作れますね」


「そうです」


 上原は頷いた。


「表向きは共同運用です。副作用管理のため、記録の確認が必要だと言われれば、断りにくい場面も出てくる」


 清水が不安そうに資料を抱えた。


「じゃあ、どうしますか」


「まず、証拠資料と日常運用資料を完全に分けます」


 上原はすぐに答えた。


「医務課の通常記録は通常記録として残す。ただし、告発用に整理している比較表や補足メモは、課内・社内の共有領域には置かない。紙の資料も、持ち歩く人間を限定します」


 佐山が続けた。


「彩佳さんや早苗さんに関わる記録も、必要以上にガイア側へ見せない方がいい。治験対象者ではないと言っても、向こうは関心を持つでしょうから」


「特に今日の件は」


 河合が言った。


「過換気としてだけ処理すれば、軽く見える。でも、ガイア側来訪による反応として記録すれば、彼女が受けた心理的影響の証拠にもなる」


「その扱いは、慎重にします」


 上原は答えた。


「医療記録としては正確に残す。ただし、誰がどこまで閲覧できるかは制限する必要があります」


 清水が小さく息を吐いた。


「説明会では、社会を救う話をしていたのに、裏では資料を守らなきゃいけないんですね」


「守るんです」


 佐山が静かに言った。


 清水が顔を上げた。


 佐山は、まっすぐ前を見ていた。


「彩佳さんの身体に起きたことを、ただの成功データにしないために。今度の大規模治験で、同じことを繰り返させないために」


 上原は、その言葉を受けて頷いた。


「相原さんの言葉には、希望があります。NV-40を防ぐ予防薬ができれば、助かる人はいます。そこは否定しません」


 そして、少しだけ声を低くした。


「でも、希望だけでは人は守れません。止める線を曖昧にしないこと。記録を都合よく整えないこと。数字になる前の異変を拾うこと。それができなければ、どんなに正しい目的でも、また誰かを傷つけます」


 廊下の向こうで、エレベーターの到着音が鳴った。


 扉が開き、来客対応の職員が数人をエレベーターの中へ案内していく。


 その中に、倉持の姿が見えた。


 倉持は一瞬こちらを見たが、すぐに視線を外した。


 上原たちは、誰も声をかけなかった。


 倉持の背中がエレベーターのドアの向こうに消える。


 清水が、小さくつぶやいた。


「これから、社内にガイアの人が普通にいるんですね」


「ええ」


 河合が答えた。


「だから、こちらも普通の顔をして動く必要があります」


 佐山が、資料を胸元で抱え直した。


「普通の顔をして、止める準備をする」


 上原は、静かに頷いた。


「はい」


 その声は、説明会で聞いたどの言葉よりも小さかった。


 けれど、上原の中では、はっきりと線が引かれていた。


 高リスク試験は、誰かを限界まで使うためのものではない。


 限界を越える前に、止めるためにある。


 その線を、今度こそ消させてはいけない。


「まずは医務課に戻りましょう」


 上原が言った。


「今後の事について話をまとめましょう、今日の記録の扱いも整理します」


「はい」


 清水が頷く。


 河合も資料を抱え直し、佐山は一度だけ大会議室の扉を振り返った。


 中ではまだ、相原の使ったスクリーンが点いたままだった。


 社会的意義。


 緊急承認。


 安定供給。


 安全域評価。


 どれも必要な言葉だった。


 けれど、その言葉だけでは足りない。


 佐山は視線を戻し、上原たちと並んで歩き出した。


 四階の廊下には、冬の白い光が差し込んでいた。


 きれいで、冷たい光だった。

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