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第55話 線を合わせる

 十二月中旬の湾岸は、夕方になると一段冷えた。

 冬の冷たい風が海からまっすぐ上がってくる。


 ビルのあいだを抜けたそれは、日中の白い光をすっかり削ぎ落として、頬に薄く刺さるような冷たさだけを残していた。


 佐山はコートの襟を少し寄せて、湾岸総合医療センターの正面入口を見上げた。


 ここへ来るのは、もう何度目か分からない。

 けれど今日の目的は、これまでとは違っていた。


 確認ではない。

 照会でもない。

 迷いを聞いてもらうためでもない。

 線を合わせるために来た。


 ラクトセラム側で束ねた資料は、ほぼ形になっていた。

 高田が残した安全性評価メモ。

 A群とB群の比較。

 上原の医学的所見。

 河合の中止判断整理。

 清水の看護記録。

 佐山自身の現場記録。


 そして、高村から受け取った十二年前の改ざん前試験結果と、対外説明用試験結果の控え。

 紙は揃っている。


 だが、紙だけではまだ届かない。

 外から見て、逃げられない形にしなければならない。


 そのためには、病院側の線が必要だった。

 受付を通り、指定された階へ上がる。


 職員通路へ入ると、夜の病院特有の音が近くなる。

 遠くのモニター音。

 足早に動くスタッフの靴音。

 どこかで閉まる扉。

 明るいのに静かで、静かなのに止まっていない。

 角を曲がると、芹沢が待っていた。


「来たか」


 芹沢は短く言った。

 白衣ではなく、落ち着いた色の上着を羽織っている。


 勤務の隙間なのか、勤務後なのか、その境目が曖昧な姿だった。


「時間、悪かった?」


「悪かったら呼ばない」

 芹沢はそう返し、奥へ歩き出した。

「こっち」


 その言い方は、他の人間に向けるものより少しだけ砕けていた。


 昔からそうだった。

 芹沢は人前では必要以上に崩れない。


 でも佐山と二人になると、敬語の線が少しだけ外れる。

 案内されたのは、以前と同じような小さな打ち合わせ室だった。


 窓はない。

 机と椅子、壁際の端末、消毒薬の匂い。


 人を長く置くための部屋ではなく、必要なことだけを確認してすぐ出るための部屋だった。


 芹沢は扉を閉めると、机の上に薄いファイルを置いた。

 佐山も鞄から資料を出す。

 お互い、しばらく何も言わなかった。


 机の上に置かれていく紙の音だけが、やけに大きく聞こえた。


「まず、こっちから確認する」

 芹沢が言った。

「石井彩佳さんの病院側記録について」


 佐山は頷く。


「湾岸晴海052の線は?」


「実名へ接続できる状態にしてある」

 芹沢は淡々と言う。

「正式な照会が入れば、石井彩佳として辿れる」


「第三者委員会からでも?」


「出す」

 短く答える。

「少なくとも、俺のところで止めるつもりはない」


 その言い方に、佐山は少しだけ息を吐いた。


「助かる」


「礼を言われることじゃない」

 芹沢はファイルを開きながら言った。

「最初からそう残ってなきゃいけなかった」


 その声音は冷静だった。

 でも、冷たいわけではなかった。


 芹沢はいつも、患者を患者として扱うところから外れない。


 だからこそ、ガイア側の匿名管理や調整された記録を嫌っている。


「ガイア被験者01としての院内調整記録と、実名での医療経過が並べば」

 芹沢は続ける。

「どちらが実態に近いかは見える」


 佐山は黙って頷いた。

 それが欲しかった。


 ガイア側が整えた記録だけでは、彩佳は“管理された被験者”で終わる。


 だが病院側に実名で残るカルテが出れば、そこには患者としての身体がある。

 低酸素。

 血栓。

 処置。

 集中管理。

 数字では薄めきれない経過がある。


「美紀の方は?」


 佐山が訊くと、芹沢は一瞬だけ目を伏せた。


「k.mikiの古い記録は、出せる範囲を確認してる」


「ただ、あれだけじゃ足りない」


「急変後の経過は見える。でも、試験を続けさせた過程までは見えない」


「そこはこっちで補う」


 佐山は、高村から受け取った資料を机に置いた。


「十二年前の改ざん前試験結果」


「それと、対外説明用試験結果の控え」


「橋本が持ってたものを、高村さん経由で受け取った」


 芹沢の視線が紙束へ落ちる。


「……前後が揃ったのか」


「うん」


「重いな」


「重いよ」


 二人ともそれ以上は言わなかった。

 言わなくても分かるだけの時間が、二人の間にはあった。


 芹沢は資料を数枚めくった。

 表情は大きく変わらない。


 だが、目の動きがわずかに遅くなる箇所があった。


「今回と似てるな」


「似てる、では済まないと思ってる」


 佐山は自分の資料を開いた。


「今回の試験では、高田さんが安全性評価メモを残してる」


「A群とB群の比較、正式記録との乖離、症状の軽処理」


「そこにラクト側の医学的所見と看護記録を重ねる」


 上原の所見。

 河合の判断。

 清水の記録。

 佐山の現場メモ。

 それぞれを束ねた資料を、芹沢の前へ並べる。


「彩佳さんには、中止相当の所見があった」


「左脚の浮腫、歩行時の息切れ、頻脈、D-dimer上昇、胸部不快感、冷汗」


「それでも正式記録では、継続可能寄りに処理されていた」


 芹沢は静かに頷いた。


「病院側の急変後経過と合う」


「急に何もない状態から崩れたわけじゃない」


「前段階の所見があったことを、そっちの記録が示す」


「うん」


 佐山は資料を指先で押さえた。


「問題は、ガイア側がラクトの医療者の見落としにする可能性」


「ラクト側から医師と看護師が出向していた」


「だから、危険所見を見落としたのは私たちだ、と言われる」


「その逃げ道はある」


 芹沢は否定しなかった。


「でも、正式記録の軽処理と、現場記録の一致があれば話は変わる」


「現場が見落としていたんじゃなくて、上がる過程で軽くされた」


「そう示せれば、責任の位置は変わる」


 その言葉に、佐山は小さく頷いた。


 そこだった。


 こちらが感情で怒っているだけなら、いくらでも切られる。


 だが記録が一致すれば違う。

 医師の所見。

 看護記録。

 病院カルテ。

 内部の安全性メモ。

 それらが同じ方向を指せば、見落としではなく、処理の問題になる。


「提出先は」

 芹沢が言った。


「国分さんの線を考えてる」

 佐山は答えた。


「ただ、ラクトからだけでは弱い」


「病院側からも同時期に告発する必要がある、と上原先生も言ってる」


「同感」

 芹沢はすぐに言った。

「ラクト側だけなら、社内対立や責任逃れとして処理される余地がある」


「病院側の独立した記録と同時に出すことで、内部告発じゃなく、複数機関にまたがる照合になる」


 内部告発ではない。


 その言葉が、机の上に置かれた紙の意味を変えた。

 ラクトだけの怒りではない。

 病院だけの違和感でもない。

 過去だけでも、現在だけでもない。

 別々に残ったものが、同じ構造を指している。


「時期は」


 佐山が訊くと、芹沢は少しだけ沈黙した。


「今すぐ出せば、潰される可能性がある」


「国分さんも国側の人間だ」


「感染終息が最優先である以上、上からは抑え込む方向の圧力もかかる」


「分かってる」


「でも、遅すぎても意味がない」


 芹沢は続けた。


「新型ワクチン接種が進み、標的sIgAの確保が始まる」


「その供給量を増やすためにPLXの成果が使われる」


「社会的には、成果が見え始める時期だ」

 

佐山はその言葉を黙って受け止めた。

 質をワクチンで。

 量をPLXで。

 その言葉は、最近ラクトセラムの中でもよく聞くようになっていた。


 確かに、救われる人がいるかもしれない。

 だが、その量を確保するために何が踏み越えられたのかを、なかったことにはできない。


「だからこそ」

 芹沢は言った。

「感情じゃなく、証拠として出す必要がある」


「成果が出ているから許される、という逃げ方をさせないために」


「発表は、すぐではないよね」


「出すことと、表に出ることは別だ」  

 芹沢は言う。

「国分さんへ届いても、調査、照会、第三者委員会の設置、そこから公表までには時間がかかる」


「むしろ、その方がいい」 「手順を踏ませることで、握りつぶしにくくなる」


 佐山は机の上の資料を見た。


 十二月中旬。


 資料は揃い始めている。


 だが、世間に出るのはまだ先だ。


 感染終息が現実味を帯びる頃。

 三月下旬あたり。

 その頃に初めて社会が知ることになるのかもしれない。


 今は、そこへ向けて線を合わせる時期だった。


「ラクト側では」


 佐山が言う。


「社長へ上げる形になると思う」


「ただ、まだ順番を決めてる段階」


「上原先生たちと、誰へ、どの形で、いつ出すかを詰めてる」


「社長は動くか」


「動くしかない内容にする」


 言ってから、佐山は自分の声が少し硬いことに気づいた。


 一ノ瀬が会社を守るために迷うことは分かっている。


 ラクトがガイアに対して弱い立場にあることも知っている。

 

 それでもこの資料を見れば、逃げられない。


「それでいい」

 芹沢が言う。

「個人の善意に期待するより、逃げられない形にする方が確実だ」


 佐山は小さく息を吐いた。


「彩佳さんに、まだ話せてない」


 芹沢は資料から顔を上げた。

「聞かれた?」


「うん」  


「私のことですか、って」


「彩佳さんのこともある。でも彩佳さんだけじゃない。もう少ししたら全部話す、って答えた」


「それでいい」

 芹沢は静かに言った。

「今渡すには重すぎる」


「でも、最後まで外に置くなよ」


「分かってる」


「お前、守るつもりで隠す癖あるから」


 佐山は少しだけ眉を寄せた。


「……昔の話まで持ち出さないで」


「今もだろ」


 返す言葉がなくて、佐山は視線を落とした。

 芹沢はこういう時だけ、遠慮なく踏み込んでくる。

 

 昔の関係を引きずっているわけではない。

 けれど、知られている。


 他の誰かなら言わないことを、芹沢は短く言う。


 だから痛い。


「彩佳さんは、まだ回復途中なの」

 佐山は続けた。

「午後にはまだ落ちる。左耳も残ってる。電車の移動でもかなりの負担になる」


「それに、これからの生き方がまだ見えてない」


「十二年前の話は、きっと今じゃない」


「そうか」


「でも、自分の身体が何に使われたのかを知る権利はある」


 その言葉は、佐山の胸に重く落ちた。


 十二年前のこと、ガイアの記録補正、告発の構造まで伝えるには、順番が要る。


まずは、試験で負った傷と向き合えるようになること

それが最優先だ。


向き合えないままに現実を突きつけられるとただ利用されただけの辛い経験として傷跡になってしまう


「順番を間違えないようにする」


「それが一番難しい」


「知ってる」


 少しだけ沈黙が落ちる。

 部屋の外を、誰かが足早に通り過ぎていった。

 芹沢はファイルを閉じた。


「じゃあ、こっちは病院線を整理する」


「石井彩佳さんの実名カルテと、ガイア被験者01の調整記録」


「湾岸晴海052の接続」


「小出美紀さんのk.miki記録」


「照会が入った時に、出せる形を整えておく」


「こっちは、ラクト側の束をまとめる」


 佐山も資料を揃える。


「今回の試験記録」


「十二年前の改ざん前後」


「試験説明資料」


「中止基準と実際の所見の対比」


「高田さんの安全性評価メモ」


「出す時は、同じ週で動く」

 芹沢が言う。

「片方だけ先に出ると、切られる」


「分かった」


「それと」

 芹沢は少しだけ声を落とした。

「小出さんの件を、石井さんの件に従属させるな」


 以前にも聞いた言葉だった。


「同じ構造ではある」


「でも、別の人生だ」


「資料として束ねることと、ひとまとめに扱うことは違う」


 佐山は静かに頷いた。


「忘れない」


 そう答えたあと、佐山は一瞬だけ机の上の資料を見た。


 小出美紀。

 石井彩佳。

 湾岸晴海052。

 ガイア被験者01。

 k.miki。


 名前と番号と記録が並んでいる。

 どれも証拠として扱わなければならない。


 でも、証拠になる前に、それぞれ生きていた人間の時間だった。


 そこを間違えたら、自分たちも同じ側へ寄ってしまう。


「あかり」


 芹沢が言った。


「何」


「ここから先は、静かに進めた方がいい」


「うん」


「でも、止まるな」


 佐山は芹沢を見る。


「止まらない」


 短い返事だった。

 それだけで十分だった。

 打ち合わせはそれで終わった。


 資料を鞄に戻し、佐山は立ち上がる。

 扉を開けると、病院の明るい廊下が広がっていた。


 さっきまで閉じた部屋の中で扱っていた紙の重さとは関係なく、病院はいつも通り動いている。


 誰かが運ばれ、誰かが呼ばれ、誰かが記録を打つ。

 命を扱う場所は、感情が追いつかなくても止まらない。


 外へ出ると、湾岸の夜風が冷たかった。

 遠くに水面が見える。


 その向こうに、ガイアの建物があるはずだった。


 さらに別の方角には、ラクトセラムがある。


 線はもう、繋がっている。


 あとは、その線を切られない形で外へ出すだけだった。


 佐山は鞄の中の紙の重みを確かめるように持ち直し、駅へ向かって歩き出した。


 怒りでは足りない。


 記録だけでも足りない。


 でも、怒りを記録に変え、記録を線に変えた今なら、届く場所があるかもしれない。


 冬の風の中で、佐山は静かに息を吐いた。

 告発は、もう遠い出来事ではなかった。

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