第54話 誕生日
医務課の待合室の椅子に座り息を整えると、普段よりも周りが慌ただしいことに気が付く。
廊下には問診票を持った社員が何人も行き来している。
接種後観察のために並べられた椅子は以前より増え、受付横の棚には新しいファイルが何冊も積まれていた。
新型ワクチンの一回目接種は、今週中に一通り終わるらしい。
彩佳は待合の椅子に座りながら、その流れをぼんやり見ていた。
ワクチンで標的ウイルスに対するsIgAを作る。
そして、そのsIgAを含む母乳を増やすためにPLXを使う。
質をワクチンで、量をPLXで。
最近、会社の中で聞く言葉は、だいたいそこへ向かっている。
分かっている。
それが現実に必要とされていることも。
そこから予防薬が作られ、救われる人がいるかもしれないことも。
でも、その言葉の中に自分の身体が含まれている気がして、彩佳はまだ少しだけ息が詰まる。
「石井さん、診察室へどうぞ」
呼ばれて顔を上げる。
診察室へ入ると、上原は端末の画面から目を離し、彩佳へ向き直った。
「おはようございます」
「おはようございます」
上原の机の上には、いつもより多い書類が置かれていた。
接種対象者リスト、観察記録、投薬開始前確認表。
全部がきれいに重ねられているのに、その量だけで忙しさが伝わってくる。
それでも、上原の声はいつも通り落ち着いていた。
「体調はどうですか」
「朝はだいぶ動けるようになってきました」
「外周も、ゆっくりなら一周できる日があります」
「息切れは?」
「ありますけど、前ほどではないです」
「午後はまだ落ちますけど、前ほどではなくなってきています」
上原は頷きながら、カルテへ入力していく。
「経過、良さそうですね」
その言葉に、彩佳は少しだけ肩の力を抜いた。
「本当ですか」
「はい」
「少なくとも、身体の回復としては順調です」
上原は血圧や酸素飽和度、歩行距離、睡眠、食事量を一つずつ確認した。
忙しそうなのに、必要なところを飛ばす感じはない。
雑談が少ないぶん、診察の輪郭がはっきりしている。
「薬はまだ様子見ですね」
「はい」
「診察が終わったら血液検査をします」
「採血室に行ってください」
「分かりました」
そこで一度、上原の視線が彩佳の左側へ向いた。
「左の聞こえ方はどうですか」
彩佳は少しだけ返事に迷った。
「……あまり変わらないです」
「左から呼ばれると、まだ気づくのが遅れます」
「人が多い場所だと、特に」
実家へ行く途中、都心の乗り換えで左から来た人にぶつかったことを思い出す。
大きな事故ではなかった。
でも、あれで自分の身体が前とは違うことを改めて思い知らされた。
上原は表情を変えずに聞いていた。
「やっぱり、耳鼻科を受診しましょう」
「今後の生活も考えると、補聴器も検討した方がいいかもしれません」
補聴器。
その言葉は、思っていたより重く響いた。
生活のための道具。
それは分かる。
でも、その道具の名前が出ることで、残ったものが急に形を持ってしまう気がした。
「……はい」
彩佳は少し遅れて答えた。
「考えます」
「紹介状はできているので今渡しますが、急いで決めなくて大丈夫です」
上原は静かに言った。
「ただ、困っているのに我慢する方向にはしないでください」
「聞こえづらさがあるなら、それに合わせた道具を使う」
「それは後退ではありません」
後退ではない。
その言葉を、彩佳はゆっくり受け取った。
手を借りること。
道具を使うこと。
無理に一人で立とうとしないこと。
実家で母と話したことや、夜に早苗へ父の夢を話したことが、胸の奥で静かに重なる。
「分かりました」
上原は頷き、少しだけ声の調子を変えた。
「それと、今週末PLXの説明会があるそうです」
「大規模治験という名目で、今日社内通知を出すと聞いています」
彩佳は顔を上げた。
「今週末……」
「はい」
上原は淡々と言った。
けれど、わざわざ伝えているということ自体に、淡々としていないものがあった。
「何も知らせないのは違うと思ったので、伝えておきます」
「ありがとうございます」
彩佳は膝の上で指を軽く握った。
PLX。
ガイアで自分の身体を削ったもの。
森下が怯えていたもの。
早苗と大沢のデータが、今度は大規模治験の土台になるもの。
社内通知が出る。
いよいよ始まる。
会社は進んでいく。
「正直」
彩佳は小さく言った。
「置いていかれてる感じはあります」
上原はすぐには否定しなかった。
「置いていかれているというより」
少しだけ考えてから言う。
「石井さんは、一度かなり深いところまで引き戻されたんだと思います」
「だから今は、同じ速度で走る時期ではありません」
彩佳は上原を見る。
「同じ速度で……」
「石井さんが遅れているわけではありません」
「今は、戻る道を歩いている途中です」
その言葉は、すぐに胸の奥へ落ちるというより、少し時間をかけて染みていくようだった。
「戻る道……」
「それに、戻るというのは、前と全く同じになることだけではありません」
「今の身体で、生活の形を作り直していくことも含みます」
彩佳は少しだけ息を吐いた。
「そう言ってもらえると、少し楽です」
「それなら良かったです」
上原はカルテを閉じる前に、ふと彩佳の顔を見た。
「表情、良くなりましたね」
「そうですか?」
「ええ」
上原は穏やかに言った。
「迷いがなくなった、というより……」
「自分を追い込む方向へ行かなくなった気がします」
彩佳は少しだけ目を伏せた。
「確かに、頑張らなきゃって思うことはまだありますけど」
「無理して進むのが正しいとは、あまり思わなくなりました」
「担当医としては、とても心配でした」
「みんな、似たようなこと言います」
「みんな、石井さんが心配なんですよ」
「それも前に言われた気がします」
「大事なことなので何度でも言います」
上原は少し笑って言った。
その後、廊下から誰かが上原を呼ぶ声が聞こえる。
「すみません、今日は少し慌ただしくて」
「いえ」
彩佳は首を振った。
「私も長話してすいません」
「私はこの時間、嫌いじゃないですよ」
そう言って上原は椅子から立ち上がる
「来週もこの時間でお願いします」
「それから、採血をして帰ってください」
「結果を見て、来週、薬の調整を確定します」
そう言うと上原は呼ばれた方へ向かって行った。
診察室を出ると、廊下の空気はやっぱり慌ただしかった。
採血室へ向かう途中、医務課の奥からワクチン接種に関する確認の声が聞こえた。
対象者リスト。
接種後待機。
副反応観察。
PLX投薬開始前説明会。
会社は動いている。
自分が休んでいる間にも、止まらず動いている。
少し胸がざわつく。
でも、上原の言葉を思い出す。
遅れているわけではない。
戻る道を歩いている途中。
採血室に入ると、清水がいた。
「石井さん、こちらへどうぞ」
「お願いします」
椅子に座ると、清水は採血の準備をしながら彩佳の顔を見た。
「表情、良くなりましたね」
彩佳は少しだけ目を丸くした。
「清水さんまで」
「ほんとのことです」
清水は穏やかに言う。
その声はいつも柔らかい。
でも、言葉の芯はぶれない。
「じゃあ、採血しますね」
「はい」
腕を出す。
針が入る瞬間、少しだけ視線を逸らした。
清水はそれ以上、何も言わなかった。
上原との会話を聞いていたのかもしれない。
あるいは、みんなから同じようなことを言われているのだろうと察したのかもしれない。
必要以上に踏み込まない。
でも、見ているところはちゃんと見ている。
清水らしい距離だった。
採血が終わり、絆創膏を押さえながら、彩佳は小さく頭を下げた。
「ありがとうございました」
「今日は待機室埋まってるので、このまま帰って休んでください」
清水が言う。
「医務課、少し慌ただしいので」
「ワクチン接種と、PLXですか」
「そうですね」
清水は短く答えた。
「準備することが多いので」
そこで少しだけ間を置く。
「石井さんは、今日は準備する側ではなく、休む側です」
彩佳は苦笑した。
「みんな、本当に同じこと言いますね」
「必要なことは、何度でも言います」
柔らかい声だった。
けれど、その一言には妙な説得力があった。
十二月十日、水曜日。
その日は、朝から白い雲が薄く流れていた。
彩佳は自分の部屋で目を覚ました時、すぐには今日の日付を思い出さなかった。
スマホの画面を見て、ようやく気づく。
十二月十日。
誕生日だった。
前なら、少しだけ浮き立つ日だったかもしれない。
誰かが覚えていてくれるかどうかを気にしないふりをしながら、本当は少し気にしていた日。
でも今年は、気持ちが少し違った。
一つ歳を重ねる。
それは、生きていたからできることだ。
その一方で、前と同じ身体ではないまま迎える日でもある。
左耳の聞こえづらさ。
午後に落ちる体力。
薬。
耳鼻科の受診。
補聴器という言葉。
それらも全部、二十二歳になる自分についてくる。
彩佳はベッドの中で、しばらく天井を見ていた。
嬉しくないわけではない。
でも、素直に喜べるだけでもない。
それが正直なところだった。
その日の昼間は、いつも通りに過ぎた。
朝の散歩を少しして、昼前に休む。
午後は少し落ちて、夕方まで横になった。
夕食後、スマホが鳴った。
茉莉からだった。
彩佳先輩、食堂に来られますか?
ちょっとだけで大丈夫です!
少しだけ、という言い方がいかにも茉莉らしい。
彩佳はしばらく画面を見て、それから起き上がった。
身体は少し重い。
でも、食堂までなら行ける。
廊下に出て、ゆっくり階段を下りる。
食堂の明かりが見えた。
中へ入ると、早苗と茉莉がいた。
机の上には、小さなホールケーキが置かれていた。
白いクリームに、控えめな苺。
真ん中には小さなプレートが乗っている。
Happy Birthday Ayaka
その文字を見た瞬間、彩佳は足を止めた。
「彩佳先輩」
茉莉が少し緊張した顔で言う。
「お誕生日、おめでとうございます」
「おめでとう」
早苗も続けた。
彩佳はすぐに返事ができなかった。
嬉しい。
でも、胸の奥に少しだけ痛いものもある。
この身体で誕生日を迎えた。
前とは違う自分で、ここに立っている。
それを祝ってもらうことが、少し怖かった。
でも、机の向こうには
早苗がいる。
茉莉がいる。
自分の手を引いてくれた人たちがいる。
父の夢の中の言葉。
母が言ってくれた「一人で立てなくても」という言葉。
早苗へ「ありがとう」と言えた夜。
それらが、胸の奥で静かに重なった。
今の自分を、なかったことにしなくていい。
前と違う身体になったことも含めて、生きて迎えた日なのだと思った。
「……ありがとう」
彩佳はようやく言った。
「びっくりした」
「サプライズです」
茉莉が少し得意そうに言う。
「でも、早苗先輩に、夜遅くならないようにって言われてます」
「ちょっと、茉莉、余計な事言わない」
「あ、すいません」
茉莉は、急いで謝る
「…体調優先ね」
早苗は少しだけ気まずそうに言った。
変に気遣われるのを彩佳が嫌がると思ったのだろう、
でも、彩佳はそんな二人のやり取りに少しだけ笑った。
三人で席につく。
ケーキは小さく切り分けた。
彩佳はほんの少しだけ食べることにした。
甘いものは好きだが、夜に食べすぎると身体に残る。
「無理しなくていいですからね」
茉莉が心配そうに言う。
「うん」
「でも、食べたい」
「よかったです」
その言い方が本当にほっとしていて、彩佳は胸が少し温かくなった。
ケーキを一口食べたあと、彩佳はふと思い出してスマホを取り出した。
「見て、この写真」
画面を開き、二人に見せる。
そこには、ガイアへ出向する直前に撮った三人の写真が映っていた。
彩佳、早苗、茉莉。
一応笑ってはいる。
でも全員が緊張していて、表情が硬い。
彩佳の笑顔も、今見るとずいぶん無理をしている。
早苗が画面を覗き込み、即座に言った。
「酷い顔」
「ひどい」
「いや、全員ひどい」
茉莉も顔を寄せて、少し赤くなる。
「私も表情ガチガチです」
「なんでこんな顔で写真撮ろうって言ったんでしょう……」
「茉莉ちゃんが言ったんだよ」
「そうなんですけど、もっと自然に撮れると思ってました」
三人で笑った。
写真の中の三人は、これから何が起こるのか知らなかった。
緊張して、硬く笑って、それでも並んでいた。
その三人が、今またここにいる。
彩佳はスマホの画面をしばらく見てから、顔を上げた。
「撮り直そう」
早苗が少しだけ目を丸くする。
「今?」
「今」
茉莉はすぐに立ち上がった。
「撮ります!」
「タイマー使いますね」
スマホをテーブルの上に立てかける。
角度を調整し、三人が並んで座る。
「彩佳先輩、もう少し真ん中です」
「こう?」
「はい」
「早苗先輩、表情がいつも通りすぎます」
「どういう意味」
「すいません…じゃなくて、もう少しお祝い感を」
「難しい注文」
タイマーの音が鳴る。
三人は画面へ向かって笑った。
シャッター音。
茉莉がすぐにスマホを取って確認する。
「撮れました」
彩佳は画面を覗き込む。
そこには、前よりずっと自然な三人が写っていた。
彩佳の顔はまだ少し痩せている。
髪も以前より伸びていて、どこか病み上がりの感じは残っている。
それでも、笑っていた。
早苗は隣で少し控えめに笑っている。
茉莉は嬉しそうに、でも少し緊張も残した顔をしている。
完璧な写真ではない。
でも、いい写真だった。
「うん」
彩佳は小さく言った。
「いい写真」
早苗が横から画面を見て、少しだけ息を吐いた。
「良かった」
「何が?」
彩佳が訊く。
早苗は一瞬だけ黙って、それから正直に言った。
「喜んでもらえて」
彩佳は早苗を見る。
「今まで通りの誕生日じゃないから」
早苗は少し視線を逸らす。
「素直に喜べないかもしれないと思ってた」
その言葉に、彩佳は胸の奥が少し締めつけられる。
早苗は、そこまで考えていたのだ。
祝いたい。でも、傷つけるかもしれない。
喜んでほしい。でも、無理に笑わせたくない。
その間で、きっと迷ってくれていた。
「それは」
彩佳は少しだけ息を整えて言った。
「みんなのおかげ」
早苗が顔を上げる。
「前と同じではないけど」
彩佳は続ける。
「今日、ちゃんと嬉しいって思えてる」
「それは、早苗と茉莉ちゃんがいてくれるからだと思う」
茉莉が少し泣きそうな顔になる。
「彩佳先輩……」
「泣かないで」
早苗がすぐに言う。
「ケーキがしょっぱくなる」
「泣いてません!」
茉莉が慌てて言い返す。
彩佳は笑った。
声を出して笑うと、少し疲れる。
でも、その疲れは嫌ではなかった。
ケーキを食べ終える頃には、彩佳の身体はかなり重くなっていた。
早苗はそれを見逃さなかった。
「そろそろ戻ろう」
「うん」
「あ、プレート、持ってく」
「え、持ってくの?」
「うん、生きて帰ってきた記念に」
「彩佳、それ重すぎ」
「あはは、じゃあ」
彩佳は小さく笑う。
「写真でいい」
「うん」
早苗も頷いた。
「写真でいい」
部屋に戻ると、彩佳はベッドへ横になった。
身体は正直だった。
食堂で笑って、少しケーキを食べて、写真を撮っただけなのに、もう十分疲れている。
でも、胸の中は不思議と静かだった。
スマホを開く。
今日撮った写真を見る。
早苗と茉莉に挟まれて、自分が笑っている。
少し痩せている。
少し疲れている。
前とは違う。
でも、ちゃんとそこにいる。
ガイアへ行く前の写真も開いて、並べて見る。
硬い顔の三人。
そして、今日の三人。
どちらも自分たちだった。
どちらかを消す必要はないのだと思った。
彩佳はスマホを胸元に置き、ゆっくり息を吐いた。
二十二歳になった。
前と同じではない身体で。
でも、一人ではない場所で。
誕生日を、少しだけ前向きな気持ちで受け取れたことが、今はただ静かに嬉しかった。




