第53話 受け取った先
帰りの電車は、行きより少しだけ静かに感じた。
マスク姿の人たちが座席に並び、吊り革を持つ手が揺れに合わせて小さく動いている。
車内アナウンスは同じ調子で流れ、窓の外では、冬の色をした街が少しずつ後ろへ遠ざかっていく。
昨日ここへ向かった時と、景色そのものが変わったわけではない。
けれど彩佳の中では、同じ窓の外が少しだけ違って見えていた。
身体は疲れている。
それは確かだった。
早苗の実家でしばらく立って話をしたせいか、脚には鈍い重さが残っている。背中の奥にも、芯の方からじわじわと広がるようなだるさがあった。
それでも、昨日の“何を言われるか分からない”という緊張とは違う疲れだった。
今日は、話したあとにある疲れだ。
何かを受け取ったあとに残る、静かな重さだった。
寮へ戻るまでの道のりは、行きよりも長く感じた。
駅構内の照明が白い。
人の流れが少し速い。
階段は避けて、エレベーターを使った。
少し歩くだけで、背中の奥に疲労が溜まっていくのが分かる。呼吸は乱れるほどではないが、胸の奥が浅くなっていく感覚があった。
寮へ着いたのは昼過ぎだった。
けれど彩佳の身体は、もうはっきりと落ちていた。
部屋へ入って椅子に腰を下ろした瞬間、身体のどこかが、ようやく終わったと思ったみたいに重くなる。
「今日はもう、出なくていいでしょ」
早苗が言った。
「うん」
「お風呂も短くして」
「うん」
「髪も乾かすから」
その言い方があまりにも自然で、彩佳は少しだけ笑った。
「ありがとう」
「はい」
早苗はそれ以上、何も言わなかった。
以前の早苗なら、もっと理由を並べていた気がする。
体力の消耗がどうとか、翌日に響くとか、今は休む方が合理的だとか。
もちろん、今もそう思っているのかもしれない。
けれど最近の早苗は、それだけではなかった。
損得や効率とは別の場所で、自分の隣に立ってくれている。
早苗も、変わっているのかもしれない。
彩佳はそう思った。
夜、早苗が自分の部屋に戻り、寝る準備を終えてベッドへ入ったあとも、彩佳はすぐには眠れなかった。
部屋の灯りは落としてある。
窓の外には、設備棟の白い灯りと、遠くの道路を流れる車の気配だけがあった。
左耳の方へ意識を向けると、その音の輪郭はやはり少し遠い。
その違和感も、もう生活の一部になりつつあった。
目を閉じると、いくつもの言葉が順番もなく浮かんでくる。
お前の言葉は、背中を押したかもしれない。
でも、進んだのは自分だ。
助けるって、自分を傷つけることじゃない。
お父さん、そんなに完璧な人じゃなかったよ。
周りに助けられてた。
人に深入りするの、怖かった。
またいなくなるんじゃないかって思った。
でも、彩佳はちゃんと帰ってきた。
その全部が、別々の場所から来ているのに、不思議なくらい同じところへ繋がっている気がした。
父は、助ける人だった。
幼い頃の彩佳にとって、父はいつもヒーローに見えた。
救急車に乗って、誰かの命のために走っていく人。
迷わず、怖がらず、一人で前へ進んでいける人。
ずっとそう思っていた。
けれど、そうではなかったのかもしれない。
父は一人で立っていたわけではない。
母に支えられ、同僚に支えられ、周りに助けられながら、それでも現場へ向かっていた。
ヒーローだったから一人で立てたのではなく、支えられながら立っていたのだ。
早苗もそうだ。
人に深入りするのが怖かった。
また失うのが怖かった。
それでも彩佳に近づいて、手を伸ばして、隣に立ってくれた。
佐山も、上原もそうだ。
彩佳が見えていないところで、いくつもの手を回してくれていた。
母に会いに行ってくれたこと。
事情を説明して、謝ってくれたこと。
ガイアで、自分の身体の小さな変化を見落とさないようにしてくれていたこと。
それは全部、同じ場所へ繋がっている気がした。
助けるって、何だろう。
ずっと、その問いがあった。
父を助けられなかったこと。
父を危険な場所へ押し出したのは、自分の言葉だったのではないかという思い。
誰かを救いたいと思うたび、自分のどこかには、“自分が傷つくことでしか届かない”みたいな感覚があった。
差し出さなければ、足りない。
我慢しなければ、届かない。
自分の身体くらい使わなければ、誰かを助ける資格がない。
どこかで、そんなふうに思っていた。
でもそれは、違ったのかもしれない。
違う、と父は言った。
違う、と母の言葉も教えていた。
違う、と早苗の言葉も、佐山たちの行動も教えていた。
彩佳はベッドの上で、ゆっくり目を開いた。
暗い天井がある。
寮の部屋の静けさがある。
ここは夢の中ではない。
ちゃんと現実で、その現実の中で考えている。
助けることは、自分を差し出すことじゃない。
その言葉が、ようやく前より少しだけ、現実の形を持った。
自分が沈んで、誰かを浮かせることではない。
一緒に沈むことでもない。
全部を一人で背負うことでもない。
手を引くこと。
隣に立つこと。
けれど、それだけでも足りない。
自分が引かれることもある。
誰かに支えてもらうこともある。
助ける側と助けられる側が、いつもきれいに分かれているわけではない。
「……そうか」
声に出して初めて、その言葉が形になった。
助けるって、繋ぐことなのかもしれない。
手を引く。
手を借りる。
隣に立つ。
一人で背負わずに、誰かから誰かへ、手を渡していく。
それなら、自分にもできるかもしれないと思った。
今すぐじゃなくても。
前みたいに走れなくても。
身体が戻っていく途中でも。
人の役に立つ仕事はしたい。
誰かを助けたい気持ちは、消えていない。
でもそれはもう、“自分が傷つくことでしか届かない”形じゃなくていい。
ちゃんと隣に立って。
手を引いて。
必要なら手を借りて。
そうやって繋いでいくこと。
それが、自分にとっての助けることなんだと、ようやく言えそうな気がした。
翌朝は、日曜日だった。
廊下の物音は少ない。
身体の重さは相変わらず残っていたが、頭の中にかかっていた霧のようなものは、少しだけ薄くなっていた。
窓の外には、冬の乾いた光がある。
設備棟の上に、白い蒸気が立っている。
部屋を出ると、ちょうど早苗が廊下に出てきたところだった。
「起きた」
「起きた」
短いやり取りのあと、早苗は彩佳の顔を見た。
「いく?」
彩佳は少し考えてから頷いた。
「いく」
「はい」
早苗は眠そうに部屋の鍵を閉めると、もう一度、彩佳の顔を見た。
「なんか、変わったね」
「何が」
彩佳は早苗の方を見る。
「表情」
「表情?」
「迷いが少なくなった」
彩佳は少しだけ黙った。
それから、ゆっくり笑った。
「うん。前よりは、迷ってない」
「そっか」
早苗は深く聞かなかった。
けれど、彩佳が何を言おうとしているのか、少し分かっているようだった。
「もう大丈夫そう」
「そうかな」
「うん」
「前はちゃんとしてなかったみたい」
「ちょっと危なかった」
「否定できない」
二人で少しだけ笑った。
それは、ガイアへ行く前にはなかった種類の笑いだった。
無理に明るくするためのものではない。
何もなかったことにするためのものでもない。
ちゃんと痛かったものを、痛かったまま置いて、それでも隣で笑えるようになった音だった。
月曜日の午前。
彩佳は診察の前に、広報課へ顔を出していた。
少し緊張していた。
休職に近い扱いになってから、職場に顔を出すだけでも、どこか外から戻ってくるような感覚がある。
以前は当たり前に立っていた場所なのに、今は少しだけ足元を確かめるような気持ちになる。
「おはようございます」
広報課に挨拶をすると、何人かが顔を上げた。
無理に声をかけてくる人はいない。
けれど、視線の中には、気遣いと安堵が混じっていた。
彩佳は軽く頭を下げてから、佐山の近くへ向かった。
「お、石井さん。おはよう」
彩佳が近づくと、待っていたかのように佐山が笑った。
仕事の場だからだろう。
呼び方は「石井さん」だった。
それが少し懐かしくて、彩佳は小さく息を吸った。
「ここだと他の人もいるから」
佐山はそう言うと椅子から立ち上がり、一階ロビーの空いている机の方へ移動した。
広報課から少し離れるだけで、周囲の音が少し遠くなる。
彩佳は椅子に座る前に、ゆっくり息を整えた。
それだけで、まだ身体が完全ではないことが分かる。
「それで、実家どうだった?」
佐山が尋ねる。
彩佳は少しだけ視線を落とし、それから答えた。
「帰ってよかったです」
「そう」
佐山の顔が、ほんの少し安心したように緩んだ。
「それならよかった」
彩佳は少しだけためらってから、口を開いた。
「あと、他にも色々……ありがとうございました」
「他にも?」
「母のところに行ってくれたことも、そうですし」
一度、言葉を切る。
指先が膝の上で少し動いた。
「……同意書のことも」
佐山は一瞬だけ黙った。
それから、肩の力を抜くみたいに小さく息をついた。
「ほんとだよ」
少しだけ冗談っぽい声だった。
「お母さん、何も知らなくて、こっちはめちゃくちゃ焦ったんだからね」
その言い方に、彩佳は思わず少しだけ目を丸くした。
怒られると思っていた、
そうじゃなくても、もう少し重い調子で来るのだと思っていた。
「……すみません」
小さく言うと、佐山はすぐに続けた。
「まあ、怒ってはいる」
「そうですよね……」
「そこは怒るよ」
でも、その声はきつくなかった。
呆れ半分、安堵半分。
そんな響きだった。
「ただ」
佐山は少しだけ表情をやわらげる。
「何とかしようとした結果なんだろうな、とは思ったから」
その言葉に、彩佳はすぐには返事ができなかった。
「でも、次からはちゃんと言って」
「はい」
「言いにくくても」
「はい……」
「ちゃんと上司を頼って。特に、身体のことと、家族に関わることは」
彩佳は小さく頷いた。
「はい」
短い沈黙のあと、彩佳は少しだけ笑った。
「子どもっぽいって思われたかなって、ちょっと思ってました」
佐山は眉を上げる。
「思ったよ」
「ですよね……」
「でも、それだけじゃない」
佐山はあっさり言った。
「ちゃんと怖かったんだろうなとも思った」
彩佳は顔を上げる。
「試験もそうだけど、お母さんとの関係も含めて」
その言葉で、胸の奥が少しだけ軽くなった。
責められて終わりではなかった。
隠していたつもりの怖さまで、見抜かれていた。
「母と会って、少しだけ分かった気がします」
彩佳は言葉を選ぶように言った。
「自分が、何に迷っていたのか」
佐山はしばらく黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「うん」
それだけだった。
でも、その“うん”は十分だった。
「今すぐ全部できるわけじゃないけど」
彩佳は少しだけ苦く笑う。
「でも、前よりは変な方向に頑張らなくて済みそうです」
佐山の口元が、少しだけ動いた。
「それが一番」
その言葉は、医療者としての言葉でもあり、ガイアで彩佳を見てきた人の言葉でもあった。
彩佳は静かに頷いた。
そのあと医務課へ向かうころには、やはり少し息が上がっていた。
廊下を歩く速度は、以前よりずっと遅い。
長く歩くと、胸の奥が重くなる。
午後にはまだ落ちる。
左耳の違和感も残っている。
身体はまだ、現実的だった。
完全回復とはほど遠い。
けれど、その現実の中で、彩佳の中には一つだけ、前よりはっきりしたものがあった。
助けるとは何か。
その問いに、ようやく自分の言葉で触れられるところまで来たのだと思う。
医務課の窓から、冬の白い光が薄く差し込んでいる。
彩佳は医務課前の椅子に座り、胸の奥で小さく息を整えた。
誰かの代わりに沈むためじゃない。
生きて、隣に立つために。
その言葉を、今はまだ自分の中で繰り返すだけで十分だった。




