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第52話 思い出の店

翌朝、窓の向こうは晴れていた。


 昨日の曇り空から一転して、薄いカーテン越しに朝日が差し込んでいる。

 光は明るいのに、部屋の空気は少し冷えていた。

 夜のうちに気温が下がったのだろう。布団から出ている頬や指先に、肌寒さが触れている。


 彩佳はしばらく、天井を見ていた。


 自分の部屋だった。


 昨日帰ってきて、母と話をした。

 父のことを聞いた。

 早苗の前で、夢の話もした。


 そして夜、早苗が言った。


 実家が近い。

 明日、寄ってもいいか、と。


 その言い方はさりげなかった。

 でも、何でもない思いつきではなかった。


 だからだろうか。

 自分の部屋が、昨日と少し違って見えた。


 机も、本棚も、カーテンも、何も変わっていない。

 それでも、そこに流れている時間だけが、少しだけ戻ってきたように感じる。


「おはよう」


 彩佳が声をかけると、床に敷いた布団から、早苗が少しだけ顔を出した。


「うん、おはよ」


 まだ眠そうな声だった。

 髪も少し乱れている。


「まだ寝る?」


 早苗は布団の中から手を伸ばし、枕元に置いていた携帯を取った。

 画面を見て、目を細める。


「七時か……起きようかな」


 そう言うと、早苗は布団から出た。

 寒そうに肩をすくめながら、部屋の外へ向かう。


「トイレ行ってくる」


「うん」


 扉が閉まる音を聞いてから、彩佳もゆっくり身体を起こした。

 ベッドの端に腰を下ろす。


 朝は、まだ少しましだった。


 ガイアから戻ってきてから、それは変わらない。

 目覚めたばかりの身体は、日中より軽い。

 ただ、完全に戻ったわけではない。

 急に立つと胸の奥が少しだけ頼りなくなるし、息も深く吸い込む前に一度、身体が確かめるように止まる。


 彩佳は膝の上に手を置いて、短く息を整えた。


 ここは自分の部屋だ。


 昨日より少しだけ、素直にそう思えた。


 早苗が戻ってきたタイミングで、彩佳は立ち上がった。


「私も行ってくる」


「うん」


 廊下に出ると、ちょうど母も物音で目を覚ましたのか、部屋から出てきたところだった。


「おはよ」


 彩佳が言うと、母は少し驚いたように目を細め、それから穏やかに笑った。


「おはよう。ちゃんと寝られた?」


「うん」


 彩佳は少し間を置いてから、部屋の方を振り返った。


「部屋、掃除してくれてありがとう」


「どういたしまして」


 短い会話だった。


 けれど、昨日よりも自然に言葉が出た気がした。

 何かを埋めようとして急いで話すのではなく、そこにあるものをそのまま渡せるような、そんな感じだった。


 身支度を済ませてリビングへ向かうと、朝食の用意ができていた。


 パンとスープ。

 サラダ。

 温かい飲み物。


 手の込んだ朝食を前に、彩佳は少し言葉を探した。


「昨日、ちゃんと作れなかったから」


 母が先にそう言った。


 言い訳のようでもあり、照れ隠しのようでもあった。


「ありがとう」


 彩佳はそう答えて、席についた。


 早苗も向かいに座る。

 昨日より少しだけ、食卓の空気はやわらかかった。


 何かが完全に解けたわけではない。

 長く離れていた時間が、一晩で埋まるわけでもない。


 それでも、パンを取る手や、スープを渡す仕草や、母が早苗に「足りなかったら言ってね」と声をかけるその一つ一つが、昨日より自然だった。


「今日は何時に出るの?」


 母が訊いた。


「九時過ぎくらいかな。今日は土曜だから、あんまり遅いと都心の方が混みそうだし」


「そう」


 母は短く答えた。

 その顔に、少しだけ寂しさが浮かんだ。


「駅までは送っていくから」


「うん。ありがと」


 彩佳は、今度はすぐに頷いた。


 帰省の連絡を入れた時も、母は迎えに行くと言ってくれていた。

 その時は断った。

 心配させたくなかったのか、自分が大丈夫だと思いたかったのか、今となってはよく分からない。


 でも、今朝は違った。


 その好意を、そのまま受け取ってもいい気がした。


 食事を終えると、二人は部屋に戻って荷物をまとめた。

 時計を見ると、八時半を少し過ぎている。


「早苗の実家って、どの辺なの?」


 彩佳が鞄のファスナーを閉めながら訊いた。


「ここから都心方向に二駅」


「近い」


「でしょ」


 早苗はそう言って、少しだけ肩をすくめた。


 その言い方は軽かった。

 けれど、昨日の夜に「寄ってもいい?」と言った時の声を思い出すと、その近さが少し不思議だった。



 荷物の準備を終えると、母の車に鞄を入れた。


 家を出る前に、彩佳はもう一度、父の写真の前に立った。

 昨日より少しだけ、視線を合わせられる気がした。


「行ってきます」


 小さくそう言って、手を合わせる。


 写真の中の父は、何も言わずに笑っていた。


 母の車で駅へ向かう道は、昨日歩いた時とは少し違って見えた。

 朝の住宅街には、洗濯物を干す音や、遠くで犬が吠える声が混じっている。

 マスク姿の人が、足早に駅の方へ向かっていく。


 車内では、長い会話はなかった。

 早苗は後部座席で窓の外を見ている。

 彩佳は助手席に座り、膝の上で手を重ねていた。


 駅前のロータリーに入ると、母は車を停めた。


 彩佳がシートベルトを外そうとした時だった。


「彩佳」


 母が呼び止めた。


 彩佳は手を止めて、母を見る。


 母は少し思いつめたような顔をしていた。

 昨日、たくさん話した後なのに、まだどうしても言っておきたいことがある。そんな顔だった。


「お母さん、彩佳がどんな道を選んでも応援する」


 その言葉は、静かだった。


「でも……自分を犠牲にしないで」


 彩佳はすぐには返事ができなかった。


 きっとこれは、自分を否定する言葉ではない。

 父のような仕事に憧れたことも、誰かを助けたいと思ったことも、母は否定していない。


 ただ、母として、元気でいてほしいのだ。

 生きていてほしいのだ。


 誰かを救うために、自分が底へ沈んでいくような生き方だけはしないでほしい。

 その願いが、短い言葉の中にあった。


「うん」


 彩佳は頷いた。


「また連絡する」


 母は少しだけ目元を緩めた。


「うん。待ってる」


 彩佳は車を降りた。

 後部座席から降りた早苗が、鞄を持って待っている。


 母の車がロータリーを出ていくまで、彩佳はその場で見送った。

 車が角を曲がって見えなくなってから、早苗が短く言った。


「行く?」


「うん」


 二人は駅へ向かった。


 住宅街の駅は静かで、遠くの幹線道路の音だけがかすかに届いていた。


 道を歩く人たちは少ないが、まだマスク姿だった。

 駅前のコンビニの前には消毒液のボトルが置かれ、小さな個人店の入口にも、感染対策への協力を求める紙が貼られている。


 二駅ほど都心寄りへ戻るために、二人は電車に乗った。


 昨日より距離は短い。

 それでも彩佳はホームに立った時点で、自分の身体が先に少し構えているのを感じた。


 長い移動ではない。

 混雑しているわけでもない。

 けれど、ガイアから戻ってきてからの身体は、そういう理屈とは別のところで慎重になっている。


「今日は近いから」


 早苗が言った。


「うん」


「無理そうならすぐ言って」


「うん」


 短い返事だけで十分だった。


 電車はすぐに来た。

 休日の午前で、昨日ほどは混んでいない。並んで座れるくらいの余裕もあった。


 車窓の外では、住宅街と小さな商店街が交互に流れていく。

 冬の午前の光はどこか平板で、明るいのに熱がない。


 早苗は外を見ていた。

 けれど、その視線は景色を追っているというより、もっと遠いところへ向いているように見えた。


「緊張してる?」


 彩佳が訊くと、早苗は少しだけ肩をすくめた。


「別に」


「してるね」


「うるさい」


 その返しが、少しだけいつもの早苗に近くて、彩佳はかえって安心した。


 二駅で降りると、駅前は思っていたよりこぢんまりしていた。

 チェーン店の小さなカフェ、古い薬局、クリーニング店。

 マスク姿の人たちが、必要な用事だけを済ませるように歩いている。


 駅前ロータリーを抜けると、商店街というほどでもない通りへ出た。

 店のシャッターは半分ほどしか開いていない。人通りも少ない。


「こっち」


 早苗が先に立つ。


 駅から五分ほど歩いた。

 角を二つ曲がった先に、その店はあった。


 洋菓子店だった。


 間口は広くない。

 白っぽい外壁に、少し古びた看板。

 そこに、薄く色褪せた文字が残っている。


 Pâtisserie Jeune Pousse

 パティスリー・ジュンヌ・プース


 知っている店だった。


 父が仕事帰りに、途中下車してまでチーズケーキを買ってきた店。

 誕生日でも何でもない日に、白い箱を持って帰ってきた店。

 もう食べられないのが残念だと、昨日、自分が言った店。


 その場所が、今、目の前にあった。


 彩佳は看板を見上げたまま、しばらく動けなかった。


「……ここなんだ」


 声が、自分で思っていたより小さく出た。


 早苗は少しだけ視線を逸らした。


「うん」


「ジュンヌ・プース」


「うん」


「ここが、早苗の実家」


「そう」


 短いやり取りだった。


 けれど、その中に、昨日の夜の会話がいくつも重なっていく。


 父の好きだったチーズケーキ。

 店主の娘。

 自分と同じくらいの年で、美人だと父が言っていた子。

 幼い彩佳が、理由も分からずむくれていた相手。


 彩佳は看板を見たまま、ゆっくり早苗の方を向いた。


「早苗だったんだ」


「何が?」


「昨日、お母さんが言ってた店主の娘さん」


 早苗は答えなかった。


 答えないことで、ほとんど答えになっていた。


 彩佳は少しだけ目を見開く。


「……早苗?」


 早苗は、すぐにはこちらを見なかった。

 看板の方を見上げたまま、少し面倒くさそうに息を吐く。


「たぶん」


「たぶんって」


「私も、昨日聞いててそう思っただけ」


「早苗、気づいてたの?」


「まあ」


「言ってよ」


「昨日言う流れじゃなかったでしょ」


 その言い方は、早苗らしかった。


 確かに、昨日の夜は母との会話も、父の話も、夢の話もあった。

 あの場で早苗が「それ私かも」と言うのは、少し違う。


 彩佳はもう一度、看板を見る。


「私のライバルは早苗だったのか」


「小さい頃の話でしょ」


「うん、でも早苗なら納得」


「なんで」


「だって早苗、美人だし」

 

「何それ」

 早苗は呆れたように笑ってそれ以上何も言わなかった。


 それから彩佳は記憶を探すように、少し眉を寄せた。


 はっきりとは覚えていない。

 けれど、断片だけはある。


 白い箱。

 チーズケーキ。

 父の手。

 母の「また買ってきたの?」という声。

 そして、父が楽しそうに話していた、店主の娘のこと。


 その子が、早苗だった。


 父との記憶の中に、知らないうちに早苗がいた。

 早苗の家族がいた。

 まだ感染症がすべてを変えてしまう前の、普通の町の、普通の洋菓子店の時間があった。


「もしかして、私たち、会ってたのかな」


 彩佳が言うと、早苗は少しだけ肩をすくめた。


「私は、うっすら覚えてる」


「え」


「スーツ姿の男の人がたまに買いに来て、お父さんとよく話してた。仕事帰りっぽい時が多かったけど、子ども連れてたこともあった」

 

 早苗は看板から視線を下ろす。


「写真見て、昨日分かった。お客さんで来てた人と、彩佳のお父さんが重なった」


「言ってよ」


「だから、昨日言う流れじゃなかったって」


「それは、そうだけど」


 彩佳は困ったように笑った。


 胸の奥が、少しだけ痛い。

 でも、その痛みは嫌なものではなかった。


 父の記憶が、今もどこかに残っていた。

 自分の知らない場所に。

 早苗の中に。


「……なんか、不思議」


「何が」


「早苗と、もっと最近出会った気でいたから」


「ラクトで会ったのは最近でしょ」


「そうなんだけど」


 彩佳は小さく息を吐く。


「でも、もっと前から、少しだけ交差してたんだね」


 早苗は返事をしなかった。


 ただ、鍵を取り出した。


「入る?」


「え、いいの?」


「うん」

 

 そう言うと早苗はドアに鍵を差し込む。


 鍵が古い音を立てて回る。


 ガラス扉を開けると、冷えた空気と一緒に、閉じた店の匂いが流れてきた。

 埃っぽさの奥に、かすかに甘い匂いが混じっている。


 長く使われていない場所の匂い。

 それでも、ここがただの空き店舗ではないことを知らせる匂い。


「ガイア行ってる間、掃除できなかったから」


 早苗が少し気まずそうに言った。


「ちょっと埃っぽい」


「全然」


 彩佳はそう答えたが、早苗は小さく首を振った。


「ほんとは、月に何回か来てた。換気して、床拭いて、ショーケース拭いて」


「一人で?」


「うん」


 店内は広くはなかった。

 入口の正面にショーケース。

 奥に小さな厨房へ続く扉。

 窓際には、二人掛けの小さなテーブルが二つ置かれている。


 イートインスペースだったのだろう。


 椅子の背もたれには、白い布がかけられている。

 テーブルの上には何もない。

 けれど、そこに誰かが座って、ケーキと紅茶を前に話していた時間があったのだと、自然に想像できた。


 もしかしたら、幼い自分もここに座ったことがあるのかもしれない。


 父の隣で。

 ショーケースの向こうから顔を出した、同じくらいの女の子を少しだけ気にしながら。


 その子が早苗だったのかもしれない。


 記憶は薄い。

 証明できるものでもない。


 でも、完全な作り物とも思えなかった。


「ここで食べられたんだ」


 彩佳が言うと、早苗は頷いた。


「狭いけどね。近所の人が、買ったついでに食べてったりしてた」


「いいね」


「まあ、昔は」


 早苗はそう言って、ショーケースの前に立った。


 ガラスの外側には、薄く埃が乗っている。

 使わない棚や器具には布がかけられている。

 でも、放置されてほこり被ったりはしていない。

 手が届くところは拭かれている。


 早苗がここを捨てていないことが、それだけでよく分かった。


「元々は、祖父が始めた店だった」


 早苗が言った。


 彩佳は黙って聞く。


「おじいちゃんとおばあちゃんで始めて、そのあと父と母も入って、四人でやってたらしい」


 早苗は入口の外にある看板の方へ、少し視線を向けた。


「私が生まれた時に、店を少し改装して、名前も変えたんだって」


「Pâtisserie Jeune Pousse」


「若い芽、って意味らしい」


 早苗は、少しだけ照れくさそうに口元を動かした。


「早苗って、若い苗とか、芽みたいな意味があるから」


「いい名前だね」


「店の名前?」


「どっちも」


 早苗は少しだけ黙った。


 照れたのか、困ったのか分からない顔で、ショーケースの方を見た。


「変だよね。店の名前まで変えるとか」


「変じゃないよ」


 彩佳は静かに言った。


「すごく、大事にされてたんだと思う」


 早苗はすぐには返事をしなかった。


 店の中は静かだった。

 外の通りを車が一台通り過ぎる音だけが、ガラス越しに小さく揺れた。


「でも、おじいちゃんは、私が小さい時に病気で死んじゃっててほとんど覚えてないんだ」


 早苗の声は落ち着いていた。


「だから、物心ついた時には、おばあちゃんと父と母の三人でやってた」


「夜遅くまで作業してて忙しそうだった」


 彩佳は、ショーケースの向こうに白いエプロン姿の人たちを想像した。


 朝早くから厨房に立つ父。

 注文を受ける母。

 奥で焼き上がりを見ている祖母。

 そして、その足元をちょろちょろと動く小さな早苗。


 今の早苗の硬さからは少し遠い、けれど確かにあったはずの時間。


「でも、十二年前の感染で、父と母が死んだ」


 早苗が言った。


 その言い方は、思っていたより平坦だった。

 感情がないのではない。

 何度も何度も心の中で、同じ順番で言ってきた人の平坦さだった。


「おばあちゃんは、その時ちょうど入院してた。別の病気で」


「だから、罹らなかった」


 早苗はショーケースの端に指を置いた。

 埃を払うというより、そこにあるものを確かめるような触れ方だった。


「両親が死んでからは、おばあちゃんと二人」


 彩佳は何も言わなかった。


「店も、しばらくは続けてた。一人で。ほんとに細々とだけど」


 早苗の目が、厨房へ続く扉の方へ向く。


「学校が休みの日とか、私も手伝った。箱を組んだり、袋にシール貼ったり、レジ打ったり」


「早苗も、大変だったんだ」


「ううん、そうでもなかったよ」


「お菓子作りも嫌いじゃなかったし」


「近所の人も気にかけてくれたし、根強いファンもいて、お店が開いてるときはいつも完売していた」


 早苗の声は少しだけ考えて言う


「一つだけ、チーズケーキだけは作れるようになった」


 その言葉に、彩佳は少し目を開いた。


「作れるの?」


「一応」


「すごい」


「大したことない。混ぜて焼くだけ」


「絶対そんな簡単じゃない」


 早苗は小さく息を吐いた。


「おばあちゃんが、これだけは覚えとけって。店の味だからって」


 店の味。


 その言葉が、誰もいない店内に静かに残った。


 彩佳は、何も並んでいないショーケースを見た。

 そこにかつて、早苗の祖母が焼いたチーズケーキが並んでいたのだと思うと、空っぽのガラスの向こうが少し違って見えた。


 父が仕事帰りに買ってきてくれたチーズケーキも、きっとその味だった。


 早苗の祖母が守った味。

 早苗が覚えた味。

 そして、自分の父が好きだった味。


 別々だったはずの記憶が、同じショーケースの前で重なっていく。


「でも、そのおばあちゃんも、私が十五の時に死んだ」


 そこだけ、少し声が低くなった。


「病気?」


 彩佳が静かに訊くと、早苗は頷いた。


「がん。再発だった」


 そこから先は、彩佳にも想像がついた。


 親を喪い、祖母も喪い、まだ未成年で、一人では暮らせない。

 自然に次の言葉へつながる。


「そこからは施設」


 早苗が言った。


「別に、ひどいとこじゃなかったよ」


 少しだけ口元を動かす。


「ちゃんとしてたし、ご飯も出るし、学校にも行けたし」


 でも、と続ける声がある。


「でも、ああいうところって、みんなそれぞれ事情持ってるから」


 彩佳は隣の横顔を見る。

 早苗は店の奥を見ていた。


「深入りしない方が楽なんだよね」


 その言い方は、自分自身へも向いているみたいだった。


「どうせまた、いなくなるかもしれないし」


 彩佳はその言葉を聞いて、胸の奥で何かが静かに動いた。


 また死ぬかもしれない。

 また失うかもしれない。

 それを前提に、人と距離を取る。


 早苗の硬さの根っこにあったのは、それだったのだ。


「私さ」


 早苗が少しだけ笑う。


「人に深入りするの、怖かったんだと思う」


 前を見たまま、でも言葉だけはまっすぐに出てくる。


「結局、いなくなっちゃうんだと思ってた」


 それは、自分のことを今ようやく言葉にした声だった。

 理屈で分かっていたことではなく、ずっと身体の奥にあったものを取り出したみたいな声。


「だから、あんまり近づかないようにしてた」


「今だから言うけど、入社したての頃、彩佳が苦手だった」


「え」


「超がつくほど真面目で、純粋で、見たこともない誰かのために平気で自分を犠牲にするから、なんでそんな事ができるのか理解できなかった」


「まぁ、今は自分でもそう思う」


「でしょ?でも、たまに思い詰めた顔して、急かされるように無理してるのに気づいて、彩佳にも何かあるんだろうなって思うと、ほっとけなくなった」


「痛いとこ付いてくるね」


「ホント、かわいい顔して頑固だし、苦労したよ」


「だから…彩佳が運ばれて行った時、後悔した」


「深入りしなきゃよかったって思った」

 

 その言葉で、彩佳にはいくつもの場面が思い出された。


 ぶっきらぼうな言い方。

 必要以上に踏み込まない距離。

 でも本当に危ない時には、逆に誰より先に気づく目。


 ガイアの三階で、早苗は何度も彩佳を見ていた。

 本人が大丈夫だと言っても、顔色を見て、息を聞いて、立ち止まるタイミングを探していた。


 近づかないようにしていた人が、本当に危ない時には誰より近くにいた。


「でも」


 早苗はそこで少しだけ言葉を切った。


 彩佳は待つ。


「彩佳はちゃんと帰ってきた」


 その一言は、小さかったのに重かった。


 昨日の夜も聞いた言葉だ。

 でも、この場所で聞くと意味が少し変わる。


 早苗が生まれた時に名前を変え、父と母と祖母が守り、両親の死後も祖母が細々と続けた店。


 祖母が死んでからも、早苗が一人で掃除をし、鍵を開け、埃を拭いてきた場所。


 そして、彩佳の父もまた、この店の味を知っていた。


 その前で、早苗がそれを言う。


 『彩佳はちゃんと帰ってきた』


 それだけで、この一言がどれだけ大きいか分かった。


「だから、彩佳には話した」


 早苗はようやく、少しだけ彩佳の方を見た。


「別に、深い意味はないよ」


 そう言って、すぐに視線を逸らした。


 その時だった。


 風に当たったせいだけではないと分かるくらい、早苗の目元が少しだけ揺れた。

 すぐに顔を背けたけれど、遅かった。


 目の端に光るものがあった。


 泣いている、と思うより先に、隠したのだと分かった。

 早苗はたぶん、気づかれたくなかった。


 でも、気づいてしまった。


 その瞬間、彩佳の胸の奥にあったものまで、一緒にゆるんだ。


 昨日、母と話したこと。

 昨夜、早苗にありがとうを言ったこと。

 そして今、この店で受け取ったもの。


 全部が一度に押し寄せてきて、急に目の奥が熱くなる。


「……彩佳」


 早苗が隠すように涙を拭って、少しだけ低い声を出す。


 彩佳の頬にも、ひとすじだけ涙が落ちていた。


「なんで彩佳が泣いてるの?」


 早苗が言う。

 隠そうとしたくせに、その声は少しだけ掠れていた。


 彩佳は涙を拭う間もなく、息を詰まらせながら返す。


「早苗も泣いてるじゃん」


「泣いてない」


「泣いてる」


「うるさい」


 その返しに、彩佳は少しだけ笑ってしまう。

 笑った拍子にまた涙がこぼれた。


「でた」


「うるさい……」


 今度の「うるさい」は、さっきよりずっと弱かった。

 隠しきれなくなった人の声だった。


 二人で少しだけ泣いて、少しだけ笑った。


 誰かに見られたら困るような、でも今ここでしか出せない顔だった。


 やがて早苗も雑に目元を拭って、ショーケースにもたれないように少し離れた。


「ほんと、やだ」


「何が」


「こういうの」


「うん」


「苦手」


「知ってる」


 その返しに、早苗は少しだけ彩佳の肩を押すみたいにぶつかった。


「知ってるなら言うな」


「ごめん」


「それも腹立つ」


 彩佳はまた少し笑った。


 涙が残ったまま笑うと、顔がうまく動かない。

 でも、その笑い方ができること自体が、どこか救いのようにも思えた。


 しばらくして、彩佳は店内をもう一度見回した。


 空のショーケース。

 布をかけられた小さなテーブル。

 奥の厨房へ続く扉。

 薄く埃の溜まった床。


 閉まったままの店。

 けれど、捨てられたわけではない店。


「いつか、再開したい」


 彩佳は早苗を見る。


「この店?」


「うん」


 早苗はショーケースの方を見ている。


「お金はそこそこたまったけど、勉強は全然たりない」


 少しだけ間を置いてから、続ける。


「海外に行って、勉強したいと思ってる」


「海外……」


「うん」


 早苗は、どこか気恥ずかしそうに目を逸らした。


「ちゃんと勉強して、戻ってきて、ここをもう一回開けたい」


 それは、早苗が初めて彩佳に見せた、遠い未来の話だった。


 失った話ではない。

 いなくなった人たちの話でもない。

 ここから先に、まだ続けたいものの話。


「ラクト・セラムに入ったのはそれが理由」


 早苗が言った。


「家を維持するにもお金かかるし。海外行くにも、貯めないと無理だし」


 彩佳は少し驚いた。


 早苗がラクト・セラムに入った理由を、そこまで具体的に聞いたことはなかった。


「立派な理由じゃない」


 早苗は先回りするように言う。


「現実的だっただけ。寮もあるし、給料も安定してるし、身体はきついけど、その分手当もあるし」


 それでも、と彩佳は思った。


 早苗はこの店を閉じたままにしておかなかった。

 鍵を持って、掃除をして、維持していた。


 ガイアに出向している間は掃除に来られず、少し埃が溜まってしまった。

 それを気にするくらい、この場所はまだ早苗の中で生きている。


「早苗、チーズケーキ、食べたい」


 彩佳が言うと、早苗は眉を寄せた。


「材料買いに行かないと作れない」


「今じゃなくて」


 彩佳は、空のショーケースを見ながら言った。


「この店が開いたら、食べたい」


 早苗はすぐには答えなかった。


 困ったように、少しだけ視線を落とす。

 それから、小さく息を吐いた。


「……その時まで生きてたらね」


「生きてるよ」


 彩佳はすぐに言った。


 早苗がこちらを見る。


 彩佳は少し息を整えた。

 胸の奥にまだ、泣いたあとの熱が残っている。


「早苗も、私も」


 その言葉を口にした瞬間、彩佳自身も少し驚いた。


 前なら、そんなふうに言えなかったかもしれない。

 誰かを助けたいとは言えても、自分も一緒に生きるとは、なかなか言えなかった。


 早苗は何か言い返そうとして、やめた。


 そして、いつものように顔を背ける。


「……うるさい」


「うん」


「そこで素直に頷くのも腹立つ」


「ごめん」


「それも」


「腹立つ?」


「そう」


 二人はまた、少しだけ笑った。


 笑い声は小さくて、誰もいない店内にすぐ吸い込まれた。


 やがて早苗は、入口の方へ歩き出した。


「行こ」


「うん」


 彩佳も頷いて、ゆっくり立ち上がる。


 少し長く立っていたせいか、脚に重さがあった。

 胸の奥も、泣いたせいか、歩いたせいか、少しだけ疲れている。


 でも、その疲れは嫌なものではなかった。


 早苗がガラス扉を開ける前に、彩佳はもう一度だけ店内を振り返った。


 甘い匂いの残る店。

 閉まったままのショーケース。

 小さなイートインスペース。

 祖父が始め、家族が守り、祖母が細々と続け、早苗が鍵を持って通ってきた場所。


 そして、父が仕事帰りにチーズケーキを買っていた場所。


 ここは、失った場所だった。

 けれど、それだけではなかった。


 早苗がいつか戻ろうとしている場所でもあり、彩佳の父との記憶が、思いがけず残っていた場所でもあった。


 外へ出ると、冬の空気が頬に触れた。

 店先の消毒液のボトルが、風に少しだけ揺れている。


 早苗が鍵を閉める。

 その手つきは慣れていた。


 彩佳は歩き出しながら思う。


 昨日、母から聞いた父の話。

 昨夜、早苗へ伝えた感謝。

 そして今、受け取った早苗の過去と、早苗の未来。


 それから、父が好きだったチーズケーキの記憶。


 その全部が、自分の中で少しずつ同じところへ集まり始めている気がした。


 助けるということは、誰かのために自分を削ることだけではない。

 失わないように、必死に抱え込むことだけでもない。


 帰ってくること。

 待っている場所を残すこと。

 そして、いつか開けるつもりの扉を、閉じたままでも守っておくこと。


 早苗は、それをずっと一人でしていたのだ。


 彩佳は隣を歩く早苗を見る。


 早苗は気づいたように、こちらを見ずに言った。


「何」


「何でもない」


「絶対何かある顔してる」


「してない」


「してる」


 彩佳は少し笑った。


「早苗のチーズケーキ、楽しみにしてる」


 早苗は一瞬だけ黙った。


 それから、低い声で言った。


「……期待しすぎないで」


「する」


「するな」


「する」


「うるさい」


 その声は、少しだけ弱くて、少しだけあたたかかった。


 冬の商店街を、二人は駅へ向かって歩いていく。

 閉まった店の看板は、背中の後ろで静かに朝の光を受けていた。

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