第51話 つかみ損ねた手
玄関の方で、小さく物音がした。
ドアが開いて、閉まる気配。
外の冷たい空気がほんの少しだけ家の中へ入り、それからすぐに消える。
「戻りました」
早苗の声がした。
彩佳の母が立ち上がる。
「寒かったでしょう」
「朝より寒くなってました」
早苗はそう答えながらリビングへ戻ってきた。
頬が少し赤くなっている。
予報通り外の気温は、下がってきているのだろう。
「おかえり」
彩佳は湯呑みを両手で包んだまま、早苗に言った。
彩佳の目には、泣いた跡があった。
けれど早苗は何も言わなかった。
見えていないふりをしたわけではない。
今はそこに触れない方がいいと分かっている顔だった。
「早苗…」
「お父さん、一緒に挨拶してほしい」
彩佳は棚に置いてある写真を見て、静かな声で言った。
早苗は小さく頷いた。
彩佳から、父が十二年前に他界していることは聞いている。
きっとこのタイミングを、彩佳自身が伺っていたのだと思った。
二人で棚の前に移動する。
写真の中の彩佳の父、石井佳斗は、三十代半ばの、まだ若い男性だった。
家の前で笑っている写真の隣に、もう一枚、少し古い写真がある。
救急車の前で、救急服を着た男性が小さな彩佳を抱いて笑っていた。
そこに写る彩佳は、三歳くらいだろうか。
父の腕の中で、得意そうに笑っている。
佳斗もまた、少し誇らしそうで、でも家族写真らしい柔らかさを残した顔をしていた。
「お父さん、救命士だったんだね」
早苗が静かに言った。
「うん」
彩佳は小さく頷く。
「救急救命士。テレビにも出てて、自慢だった」
早苗は写真を見つめた。
どこかで見たことがある気がした。
でもすぐに、彩佳に似ているからだろうと思い直した。
目元が似ている。
笑った時の、少しだけ照れたような表情も。
少しのあいだ、二人は黙って手を合わせた。
彩佳は目を閉じながら、心の中で父に何かを言おうとした。
でも、言葉はうまく出てこなかった。
今日はお母さんと、少し話せたよ。
それだけを、写真の向こうへ置くように思った。
手を下ろすと、母が台所から声をかけた。
「お茶、入れ直すね」
「あと、これも」
テーブルには、小さな皿が三つ並べられていてチーズケーキが乗っていた。
「彩佳が好きだったから、買っておいたんだけど」
母は少し照れたように言った。
彩佳は皿を見て、少しだけ目を丸くする。
「覚えてたんだ」
「母親だからね」
その言い方は、ほんの少しだけ昔の母に戻ったようだった。
彩佳はフォークを手に取り、少しだけ口に運ぶ。
甘い。
でも重すぎない。
懐かしい味だった。
「おいしい」
「よかった」
母は微笑む。
「でも、ジュンヌ・プースのチーズケーキの方が、やっぱり美味しいね」
その名前を聞いた瞬間、早苗の手がほんの少し止まった。
“ジュンヌ・プース“
早苗にとっても忘れられない名前だった
彩佳は気づかずに頷く。
「お父さんが仕事帰りによく寄って、買ってきてくれてた」
「そうそう」
母も懐かしそうに言う。
「帰り、途中下車すれば寄れる場所にあったからね」
「誕生日でも何でもないのに、急に買ってくることがあって」
「お父さん、そういうところあったよね」
「そうね」
母は少しだけ笑った。
「疲れて帰ってくるのに、なぜかケーキだけは買ってくるの」
早苗はフォークを持ったまま、二人の会話を聞いていた。
胸の奥で、遠い記憶が静かに動く。
店の扉が開く音。
ケースの前に立つ、スーツ姿の男性。
仕事帰りらしく、少し疲れているのに、ケーキを選ぶ時だけ柔らかく笑っていた人。
父が「いつものですね」と言っていた声。
幼い早苗は、店の端から、その人を何度か見たことがあった。
背はそこまで高くないが、明るくて、かっこいい人だった事は覚えている。
特に娘の話になると、少しだけ表情が緩む人。
あの人が、彩佳の父親だった。
早苗はハッとして、写真の方をもう一度見た。
救急車の前で彩佳を抱いて笑う男性。
記憶の中の客と、写真の中の彩佳の父が、ゆっくり重なる。
でも、それを今ここで言うのは違う気がした。
彩佳が小さく言う。
「もう食べられないのが残念」
その声には、本当に残念そうな響きがあった。
ケーキのことだけを言っているようで、たぶんそれだけではなかった。
母は少し懐かしそうに目を細める。
「そういえば、店主の娘さんが彩佳と同じくらいの年で美人だってよく言ってた」
「それで彩佳がいつも嫉妬してたのよ」
「そうだっけ?」
彩佳は覚えていなさそうな顔をした。
「そうよ」
彩乃は少し笑う。
「“パパ、またその子の話してる”って、すごくむくれてた」
「ええ……」
彩佳は困ったように眉を寄せる。
「それ、私?」
「あなた」
早苗はその会話を聞きながら、少しだけ笑った。
店主の娘。
それは、たぶん自分のことだ。
でも、彩佳は気づいていない。
彩佳の母親も気づいていない。
それが不思議で、少しだけ胸の奥が温かくなった。
彩佳と母のあいだにあった壁が薄くなってきているように思える。
確執、というほど単純ではない。
でも、長く噛み合わなかった歯車のようなものが、ほんの少しだけ正しい位置へ戻り始めたように見えた。
早苗はそのことに、静かに安心していた。
今日の彩佳の姿を見て思う。
明日、帰る前に実家へ寄りたい。
あの店はもうやっていないことなんて分かっている。
自分が育った大切な場所
でも、大切な物を失った場所でもある。
でも、二人の過去が、知らないところでほんの少し交差していた場所。
彩佳にはちゃんと話しておきたいと思った。
夕飯は軽く済ませることになった。
チーズケーキを食べたあとだったし、彩佳の体力も考えて、彩佳の母親は温かいうどんと、少しのおかずだけを用意した。
食卓につく頃には、彩佳の身体はかなり重くなっていた。
話すことはできる。
笑うこともできる。
でも、姿勢を保って座っているだけで、背中の奥に疲労が溜まっていく。
彩佳の母親は台所で洗い物をしながら、ふと声をかけた。
「彩佳、薬は食後でいいの?」
左側からの声だった。
彩佳は湯呑みを見たまま、反応が遅れた。
「彩佳」
早苗が小さく呼ぶ。
「お母さん、呼んでるよ」
「え」
彩佳は顔を上げる。
「あ、ごめん」
「食後で大丈夫」
彩佳の母親は一瞬だけ動きを止めた。
それから、できるだけ普通の声で言う。
「そう。じゃあ、お水も置いておくね」
「うん」
何でもない会話のはずだった。
でも、その短い遅れが、今の彩佳の身体をはっきり見せる。
彩佳の母親はそれ以上何も言わなかった。
ただ、コップに水を入れる手つきが少しだけ慎重になった。
娘の身に起きた試験の後遺症という重みを感じてしまったのだろうと早苗は思った。
食事を終えたあと、彩佳は早めに風呂へ入ることにした。
長湯はできない。
シャワーも短め。
髪を洗うか迷ったが、早苗が「乾かすから大丈夫」と言ったので、結局洗った。
風呂からあがり、自分の部屋に戻ると、緊張が一気にほどけた。
彩佳はベッドの端に座ったまま、しばらく動けなかった。
部屋は、実家を出た日とあまり変わっていない。
机の位置。
本棚の並び方。
でも、学生の頃に貼っていた小さなメモや紙類はなくなっていた。
ここに戻ることが怖かったのに、いざ座ってみると、身体は安心してしまっている。
「ぐったりしてる」
お風呂から上がってきた早苗が言う。
「自分の部屋だからなのか急に来た」
彩佳は正直に答える。
「でも、思ってたより……気持ちは軽い」
「よかった」
早苗はドライヤーを準備し、彩佳の後ろに立つ。
もう慣れた手つきだった。
髪をタオルで軽く押さえ、水気を取ってから、温風を当てる。
ドライヤーの音が部屋に広がる。
彩佳は目を閉じた。
今日はたくさん話した。
母と話した。
父の話を聞いた。
佐山が来ていたことも知った。
早苗の前で、少し泣きそうになった場面もあった。
疲れている。
でも、悪い疲れではなかった。
しばらくして、早苗がドライヤーを止めた。
「もう少しかな」
「うん」
早苗は机の上に何気なく目を向ける。
そこに、古いアルバムが数冊並んでいた。
「あ、これ、見ていい?」
「え、何?」
「卒業アルバム」
彩佳は目を開けた。
「ちょっと、待って」
「待たない」
「早苗」
抗議の声は出たが、身体は動かなかった。
アルバムを取り返す元気はない。
早苗はそれを分かっている顔で、表紙を開いた。
「高校?」
「……たぶん」
早苗は表紙の学校名を見て、一瞬止まった。
「彩佳、ここ県で最難関の高校じゃん」
「うん、一応……」
「一応で行くところじゃないでしょ」
「勉強頑張らないといけなかったの」
彩佳は少しだけ視線を逸らす。
早苗はページをめくり、写真の中から彩佳を探した。
すぐに見つける。
「いた」
「見なくていい」
「見る」
そこに写っていた彩佳は、今より少し幼く、縁のない眼鏡をかけていた。
髪は今より長く、きっちり結ばれ、制服も真面目に着ている。
表情も硬く、真面目を絵に描いたようだった。
早苗は思わず笑った。
「彩佳のこの垢抜けてない感じ、懐かしい」
「ちょっと、あんまり見ないでよ」
「ラクトセラム入社したての頃も、こんな感じだった」
「そんなに?」
「うん」
彩佳は口を尖らせる。
「ひどい」
「かわいいって言ってるの」
「絶対違う」
早苗はさらにページをめくる。
「彼氏いなそう」
「いた時もあったし」
早苗の手が止まる。
「あった?」
「そこ、引っかかるところ?」
「“いた”じゃなくて“あった”って言った」
彩佳は少しだけ不満そうに唇を尖らせた。
「勉強についていくので必死だったし」
「部活もやってたから、結局別れちゃったの」
「部活?」
「うん」
「何部?」
「陸上」
早苗は目を丸くした。
「彩佳が?」
「何その反応」
「いや、運動部のイメージなかった」
「私も運動音痴なのは自覚してたから」
彩佳は少しだけむくれた声で言う。
「でも救命士になりたかったし、体力つけなきゃと思って」
「団体競技だと迷惑かけそうだから、個人競技にしたの」
早苗は少しだけ表情をやわらげた。
そこにも、彩佳らしさがあった。
危なっかしいほど真っ直ぐで、でも自分なりに考えて、できることを選んでいる。
「走るの速かったの?」
「聞かないで」
「遅かったんだ」
「えーっと、完走はしてた」
「それ大事」
「でしょ」
二人は少しだけ笑った。
彩佳の声には疲れが混じっていた。
でも、さっきよりずっと自然だった。
早苗はアルバムを閉じる前に、もう一度写真の中の高校生の彩佳を見た。
真面目で、少し硬くて、たぶんずっと何かに追いつこうとしていた顔。
父の背中を追い、母に言えなかった夢を抱え、それでも前へ進もうとしていた頃の彩佳。
今の彩佳は、ベッドの端でぐったりしている。
左耳の聞こえもまだ戻らない。
午後には落ちる。
人の手を借りないとここまで来られなかった。
でも、その顔は高校時代の写真より、少しだけ柔らかかった。
「何見てるの」
彩佳が訊く。
「別に」
「絶対何か思ってる」
「思ってるけど、言わない」
「気になる」
「今日は疲れてるから、また今度」
「ずるい」
「はいはい」
早苗はアルバムを机へ戻し、もう一度ドライヤーを手に取った。
「あと少し乾かす」
「もう……」
彩佳はそう言って、目を閉じた。
温かい風が髪を揺らす。
部屋の外からは、母が台所を片づける小さな音が聞こえる。
この家の音だった。
怖くて、重くて、逃げたいと思っていた場所。
でも今は、その音を聞きながら少しだけ休める。
前と同じに戻ったわけではない。
それでも、少し違う形でここにいられる。
彩佳はドライヤーの音の中で、ゆっくり息を吐いた。
その夜、彩佳は久しぶりに自分の部屋で眠った。
実家に泊まるのは、いつぶりだったかすぐには思い出せなかった。
だから、母に
「布団、そのまま使えるようにしてあるから」
と言われた時、少しだけ現実感が薄かった。
早苗は、彩佳の部屋の床へ置いた予備の布団を使うことになった。
母が「狭くてごめんね」と何度か言ったが、早苗は「全然大丈夫です」と短く返した。
部屋の灯りを少し落として、二人でそれぞれの布団に入る。
外はもう静かだった。
住宅街の夜の音は薄い。
時々車が通るのと、遠くで電車が行く気配があるくらいだ。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
彩佳は天井を見ていた。
昼間の母との会話が、まだ身体のどこかに残っている。
疲れている。
でも、眠るには少し早い。
頭の中だけが静かに動いている。
「……ねえ」
先に声を出したのは彩佳だった。
「うん?」
早苗の返事は、暗がりの中で小さく響いた。
「私、ガイアで急変した後夢見たって、言ったことあったっけ」
「詳しくは聞いてない」
彩佳は少しだけ呼吸を整えた。
話してもいいのか、自分でもまだ少し迷っていた。
でも、今は話したい気がした。
「十二年前の感染症の時…」
「その時にお父さん死んじゃったんだ」
「感染者の搬送業務に行って感染した」
「断る事もできた…」
「でも、私が背中を押しちゃったんだ…」
「助けてあげてって言った」
暗がりの中で、早苗は何も言わずに聞いている。
その沈黙が、続きを待っているのだと分かる。
「夢にお父さんが出てきた」
「水のあるところだった」
彩佳は少しずつ思い出すように言った。
「川みたいな、堤防みたいな、すごく静かな場所で」
言葉にしていくと、その景色がまた少し戻ってくる。
夕方の光。
揺れる水面。
父の声。
「最初は、なんであんなに人を助けたいって思うのか、自分でも分からなかった」
彩佳は天井を見たまま続ける。
「でも話してるうちに、たぶん私、助けたかったっていうより……償いたかったんだと思った」
そこで喉が少し詰まる。
でも止めずに続ける。
「お父さんがあの時、仕事に行ったのは…」
「私が“助けてあげて”って言ったからだって、ずっとどこかで思ってたから」
早苗は黙ったままだった。
その沈黙の中に、軽く否定しない誠実さがあった。
「夢の中で、お父さんが違うって言った」
彩佳は目を閉じた。
「お前の言葉は背中を押したかもしれないけど、歩いたのは俺だって」
その言葉を思い出すだけで、胸の奥のどこかが少し痛くなる。
痛いのに、同時にほどけてもいく。
「それから」
彩佳は少し間を置いた。
「助けるって、自分を傷つけることじゃないって」
部屋の中は静かだった。
早苗の息づかいだけが、暗がりの向こうにある。
「溺れてる人の手を掴むことだけど、自分が泳げないなら一緒に沈むだけだって」
言葉にすると、ガイアで見た夢がただの夢ではなく、自分の中に残ったものとして輪郭を持つ。
「その時は、分かったような分からないような感じだった」
彩佳は苦く笑った。
「でも、今日お母さんと話して、ちょっとだけ分かった気がする」
「……うん」
早苗が短く返す。
彩佳は暗い天井を見たまま、少しだけ言葉を探した。
「違ってたら恥ずかしいんだけど」
「うん」
「早苗は、ずっと私の手を引いて、隣に立ってくれてたんだと思ってる」
言ったあと、心臓が少し速くなった。
照れくさいのか、怖いのか、自分でもよく分からない。
「佐山さんも、上原先生も」
「みんなそうだったんだと思う」
声は自然と小さくなる。
「私だけが気づいてなくて、手を掴み損ねたから沈んだ」
そこまで言って、彩佳は少しだけ笑った。
笑うような話ではないのに、笑わないと持たない気がした。
「こんな身体になって、ようやく気付くなんてほんとにバカみたいなんだけどさ」
部屋の中の空気は静かなままだった。
早苗は急かさない。
返事を挟まない。
そのことが、続きを言わせてくれる。
「でも、こうやって生きてる」
彩佳は布団の上で、指先を少しだけ握り直した。
「私が掴み損ねた手を、みんなが引っ張り上げてくれたから」
そこでようやく、彩佳は隣の布団の方へ顔を向けた。
暗くて表情は全部は見えない。
でも、早苗がこっちを見ているのは分かった。
「だから、早苗」
少しだけ声が揺れる。
「ありがとう」
沈黙が落ちた。
長くはない。
でも短すぎもしない沈黙だった。
早苗が言葉を選んでいる時間だと分かる。
「うん」
やがて、早苗はそう言った。
それだけだった。
大きく感動したふうでもなく、泣きそうな声でもない。
ただ、ちゃんと受け取ったという声だった。
彩佳はその一言に、かえって救われた気がした。
大げさな返事をされるより、ずっと早苗らしい。
少し間があってから、早苗が暗がりの中で言う。
「彩佳」
「うん?」
「実は、私も実家ここから近いんだ」
彩佳は少しだけ目を瞬いた。
「そうなの?」
「うん」
早苗は淡々と続ける。
「だから、明日寄ってもいい?」
その言い方はさりげなかった。
でも、何でもない思いつきで言っているのではないと分かる。
彩佳は少しだけ考えてから頷いた。
暗くて見えないはずなのに、ちゃんと伝わる気がした。
「わかった」
「うん」
「近いなら、行こう」
それ以上、細かいことは訊かなかった。
今ここで全部を聞き出すのは違う気がしたし、明日そこへ行くのだと思えば十分だった。
外で風が少しだけ鳴った。
住宅街の夜の静けさの中で、その音だけが細く動く。
彩佳は布団の中で目を閉じた。
疲れている。
移動も、母との会話も、全部きちんと身体に残っている。
でも、それだけじゃない。
父の夢を、初めて他の誰かに話した。
しかも、それを早苗に話した。
そして、自分がずっと手を引かれていたのだと、ようやく言葉にした。
助けることは、自分を差し出すことじゃない。
隣に立つこと。
手を引くこと。
手を借りること。
その輪郭はまだ完全には固まっていない。
でも、今日の夜で少しだけ現実のものになった気がした。
暗がりの向こうで、早苗の寝返りの気配がする。
同じ部屋に、別の呼吸がある。
そのことが、不思議なくらい心強かった。




