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第50話 母との再会

 家の中で、遠くチャイムの音が鳴る。


 待つ数秒が長い。


 やがて足音がして、扉の向こうの気配が止まりドアが開く。


 母が立っていた。


 マスク姿のまま、しばらく何も言わない。

 彩佳も同じだった。


 顔の半分が隠れているのに、それでも母だとすぐに分かる。


 当たり前なのに、その当たり前が少し痛い。

 先に口を開いたのは母だった。


「……おかえり」


 その声で、彩佳はようやく自分が息を止めていたことに気づいた。


「ただいま」


 何年ぶりか分からない言葉だった。

 母の視線が、その横の早苗へ移る。


「あの、お友達?」


 早苗は少しだけ背筋を伸ばした。


「高橋早苗です。彩佳さんと一緒に来ました」


 いつもより少し固い声だった。

 初対面の母親を前にしているのだから当然だった。

 母は小さく頷き、扉を大きく開ける。


「どうぞ。寒かったでしょう」


 家の中から、少しだけ暖かい空気が流れてきた。

 早苗は彩佳の方を一度見た。

 彩佳が小さく頷く。

 二人で玄関へ足を踏み入れる。


 ここから先が、本題だった。


玄関の中は、思っていたより暖かかった。


 外の冬の空気をまとったまま一歩入ると、靴箱の木の匂いと、少し乾いた暖房の匂いが混ざっている。


 見慣れていたはずの玄関だった。

 傘立て。

 壁の小さなフック。

 上がり框の端に置かれたスリッパ。

 何年も離れていたわけではない。


 それでも、どこか他人の家みたいにも見える。

 母が奥から二足のスリッパを持ってきた。


「これ、使って」


「うん」

 彩佳が受け取る。


 早苗も

「ありがとうございます」

 と頭を下げた。


 靴を脱ぐだけでも、少し慎重になった。


 片足に体重をかけると、ふくらはぎの奥に鈍い重さが残っているのが分かる。

 駅から歩いた疲れと、玄関前で固まっていた時間が、今になって身体へ来ていた。


 早苗が自然に荷物を持ち直し、彩佳の近くに立つ。

 手は出さない。


 でも、崩れたらすぐ支えられる距離だった。


 リビングへ通されると、そこもまた昔のままだった。


 大きすぎない食卓。

 壁際の棚。

 テレビの横に置かれた観葉植物。

 どれも少しずつ古くなっているのに、配置だけはあまり変わっていない。

 その変わらなさが、かえって時間の経過を見せていた。


 母は

「お茶淹れるね」

 と言ってキッチンへ向かった。


 その背中を見送りながら、彩佳はまだマスクを外せずにいた。

 早苗も同じだった。

 移動の疲れが身体に残っている。

 椅子へ座っただけで、脚の奥がじんわり重い。


 でも今ここで

「少し横になりたい」

 とは言えなかった。


 まだ、そこまでこの家に戻れていない。

 少しして、母が湯呑みを三つ持って戻ってくる。

 湯気が細く立っていた。


「高橋さんも、遠いところごめんね」


「いえ」

 早苗は小さく首を振った。

「私が一緒に来たかったので」


 その言い方は少しだけ固かった。

 でも、変に取り繕わないぶんだけまっすぐだった。


 母は一瞬だけ目をやわらげ、

「そう」

 とだけ言った。


 食卓に湯呑みが置かれる。

 しばらく、三人ともすぐには手をつけなかった。


 最初にマスクを外したのは母だった。

 耳紐を外して、少しだけ息をつく。

 その顔を、彩佳は久しぶりに正面から見た。


 前より少し痩せた気がした。

 目元には細い皺が増えている。

 でも、母の顔だった。


 彩佳も少し遅れてマスクを外した。

 その動きだけで、何か一つ境目を越える感じがした。

 移動中や駅では必要だったものを、ここでは取る。

 それだけで、ようやく同じ家の中へ入れた気がする。


 早苗はその少しあとで外した。

 タイミングを見ていたのだろうと分かった。


 母は湯呑みの縁に指を置いたまま、少し黙っていた。

 何から言えばいいか探している顔だった。


 その時、早苗が静かに立ち上がった。

「あの、私、少しだけ外を歩いてきます」


 彩佳が顔を上げる。

 早苗は彩佳を見て、ほんの少しだけ目で合図した。


 本題の前に席を外す。


 でも遠くまでは行かない。

 そういう距離の取り方だと分かる。


「しばらくしたら戻りますので」

 早苗が言うと、母は少し驚いたようにしてから頷いた。


「寒いから、あまり無理しないでね」


「はい」

 早苗はそう返して、玄関の方へ向かった。


 その背中が見えなくなってから、家の中は少しだけ静けさの質を変えた。


 母と娘だけの空気になったのだと分かる。


 先に口を開いたのは彩佳だった。


「……会社の人来た?」

 母は小さく頷く。


「うん、佐山さんっていう女性の方」


「いつ」


「5日くらい前、日曜日」

 それから少しだけ言葉を探し、

「会社の人事の方と一緒に」


 と言った。


 彩佳はその言葉を聞いて、胸の奥が少し固くなるのを感じた。


 知らされていなかったがそんな気はしていた。


 けれど、まったく思い当たらないわけでもなかった。

 佐山から実家に帰るように言われた時、何かをあえて言わないようにしている気がした。


 こちらが聞けば答えたのかもしれない。


 でも、逃げ道を塞がないよう気をつかってくれたのだろう。


「何を話したの」


「最初は、会社の試験に関わる出向があったこと」


 母は一つずつ思い返すように言う。


「その中であなたの体調が悪くなったこと」


「今は命に別状はなくて、リハビリを続けているということ」


 少し間を置いてから、母は続けた。


「それから、佐山さんが……謝ってた」


 その“謝ってた”の言い方が妙に静かで、彩佳は返事ができなかった。


「自分たちが危険な状態にさせてしまったって」


 母の視線が少しだけ下がる。


「すごく丁寧だった」


「ちゃんと説明してくれて、ちゃんと謝ってくれた」


 そこまで聞いて、彩佳はようやく口を開く。


「佐山さんから、全部聞いたんだ」


 母は少しだけ目を伏せた。


「全部じゃないと思う」


「でも、家族として知っておくべきことは、話してくれたんだと思う」


 彩佳は湯呑みを見つめたまま黙る。


 佐山らしいと思った。

 全部を勝手に話すことはしない。

 でも、母が何も知らないまま自分を迎えることもさせない。

 きっと、その間を選んだのだ。


「書類、家族の同意が要るような書き方だったんだってね」


 彩佳の指が、湯呑みの縁で止まる。

 やっぱりそこか、と思った。


「あなた、自分で書いたの?」


 責める声ではなかった。

 でも、痛いところへ正確に触れる声だった。


「うん」


 小さく答える。


「言ったら、止められると思ったから」


 言ってから、自分でもそれが子どもっぽく聞こえる気がした。


 けれど本音だった。

 母はすぐには何も言わなかった。


 ただ、湯呑みに落としていた視線を少しだけ上げる。


「止めたと思う」


 その率直さに、彩佳は少しだけ苦く笑った。


「だよね」


「うん」


 短い沈黙。

 外で車が通る音がした。

 住宅街の午後の音だった。

 家の中は静かで、だからこそ言葉の一つ一つがよく響く。


「でも」


 母が続けた。


「止めるって言ったと思うし、たぶん怒ったとも思う」


「でも、それであなたが何も言わなくなったのは、私のせい」


 彩佳は顔を上げた。

 母はまっすぐには見返さず、少しだけテーブルの上に視線を落としたまま話す。


「中学の時、あなたが言ったでしょう。人を助ける仕事がしたいって」


 その言葉を聞いた瞬間、古い記憶が胸の奥で動いた。

 夕方の台所。

 制服。

 進路の話。

 父の写真。

 あの時の、空気の硬さ。


「私は、あの時……怖かったの」


 彩乃の声はひどく静かだった。


「お父さんを止められなかったことが、ずっと頭の中にあったから」


 その言い方は、娘に向けて父を語る時の言葉だった。

 彩佳の胸の奥に、その響きがゆっくり沈んでいく。


「危ないって分かってたのに、止めきれなかった」


「仕事だからって、本人が決めたことだからって、自分に言い訳して……」


 そこで言葉が切れた。

 少しだけ呼吸を整えてから、母は続ける。


「そのあと、お父さんは帰ってこなかった」


 彩佳は何も言えなかった。

 その事実は知っている。

 知っているのに、母の口から改めて言われると違う重さを持つ。


「十二年前の、あの流行の時」


 母が言う。

 その年数が、今の彩佳にはやけにはっきりしたものとして聞こえた。


「社会全体が混乱してた」


「病院も、行政も、現場も、全部ぎりぎりだった」


「だからって、お父さんが帰ってこなかったことの理由にはならないけど」


 窓の外の白い光が、テーブルの端に落ちている。


「だから、あなたが同じようなことを言った時、駄目だと思った」


 母はようやく彩佳を見た。


「他の道を進んで欲しいと思って勉強させた」


「だから、県内一の高校に入ったとき安心した」


「成績も悪くなかったし、このまま大学に行って、普通の会社に就職してくれると思った」


「でも…進路相談の時、あなたが希望する進路は変わっていなかった」


「そこであなたも無理して頑張ってたんだと気づいた、お母さんに認めて貰うために頑張ってたんだって」


「本当なら、あなたを認めるべきだとわかってた、否定したら離れていくってわかってた」


「でも、一度決めたら曲げないところとか、無理するところがお父さんと重なって…」


「お父さんみたいになるのが怖くて、彩佳まで居なくなるのが怖くて、ただ否定するしか出来なかった。」


「嫌な母親だったと思う」


 その一言で、当時のことが全部つながる。

 母は冷たかったわけではない。

 怖かったのだ。

 怖くて、否定するしかなかった。


「私は……あなたからお父さんを奪ったと思ってた」


 母がそう言った瞬間、彩佳の喉の奥が少し詰まった。


「あなたはお父さんのことが大好きだったから」


「あの人に憧れてたから」


 母の目が少し潤む。


「なのに私は止められなくて、死なせて、帰ってきたのは骨壺だけで」


 そこで一度、声が揺れた。


「その上、あなたまで同じ道に行きたいって言ったから……怖くて、駄目だって言うしかなかった」


 母は湯呑みへ視線を落とした。

 湯気はもう薄くなっている。

 怒りが全部消えるわけではない。

 あの時、母に全否定された痛みがなくなるわけでもない。


 でも今ここで見えているのは、“自分の進路を潰した母”だけではなかった。


 夫を失い、自分を責め続け、その怖さで娘まで押し返してしまった人がいる。


「……私も」


 彩佳は少しずつ言葉を選んだ。


「お母さんに言われたあと、進路のこと何も言わなくなった」


「うん」


「ラクト・セラムに入った時も、製薬関係ってだけしか言わなかった」


「うん」


「言ってもどうせ否定されるって思った」


 母は小さく頷いた。


「そうだと思う」


 その認め方は、言い訳ではなかった。


「ごめんなさい」


 母が言う。


「進路を否定したことも、話せなくさせたことも」


 彩佳はすぐには返せなかった。

 謝られたかったのかどうか、長いあいだ自分でも分からなかったからだ。


 でも少なくとも今、聞くべき言葉だとは思えた。


「……うん」


 それだけ返す。


 母は少しだけ息をついたあと、湯呑みに触れた。


「それとね」


「うん」


「お父さんは、そんなに完璧な人じゃなかったよ」


 その言葉に、彩佳は少しだけ目を上げた。

 思ってもいなかった方向から来た言葉だった。


「お父さん、現場では頼られてたんだと思う」


「お母さんもそう思ってる」


 母は少しだけ口元をやわらげた。


「でも家では、忘れ物も多かったし、無茶もするし、体調悪くても平気な顔して出ていこうとするし」


 思いがけず具体的で、彩佳は一瞬だけ笑いそうになった。


「そうなの?」


「そう」

 母は頷く。


「彩佳、覚えてないかな」


「お母さん、肺炎になって入院した時」


「お父さん、ご飯は作ったけど、後は全部彩佳がやったって言ってたの」


そういえばそんな事もあったと思い出す。

確か小学校3年生の冬ぐらいだった


「確かに、そんな事あった」

彩佳は少しだけ笑いながら話す。


母の事も心配だったが、洗濯物をしまう場所もわからない父に呆れた記憶がある。


話しながらどうして忘れていたのだろうと思う。


「お父さんは凄い人だとは思う、でも仕事も家庭も完璧なんかじゃなかった」


「何回も周りに助けられてた」

 そして、少しずつ続ける。

「同僚にも、上司にも、私にも、彩佳にだって」


「お父さん一人で何でもできたわけじゃない」


 その言葉が、彩佳の中で静かに沈んでいく。


 父は、ずっと“助ける側の象徴”だった。


 憧れで、後悔で、届かない背中だった。


 でも今、初めてそこに“助けられていた人でもある”という像が加わる。


「お父さんは、自分一人で誰かを救ってたわけじゃない」


 母が言う。


「周りに支えられて、それでも行ってたの」


 その言葉を聞いた時、彩佳の胸の奥で何かが少しだけほどけた。


 助ける人もまた、誰かに支えられている。


 一人で立っているわけじゃない。


 その当たり前を、自分は父に対して見ていなかったのかもしれない。


「佐山さんが来てね」


 母がもう一度その名を出す。


「あなたのこと、すごく大事に見てるのが分かった」


 彩佳は少しだけ目を瞬いた。


「高橋さんも、一緒に来てくれてるし」


 そこで初めて、彩乃の視線がリビングの扉の方へ向く。

 早苗は席を外していて、いまはこの場にいない。

 でも“来ている”こと自体が、もう意味を持っている。


「みんなに、愛されてるんだね」


 その言葉に、彩佳は返事を失った。


 愛されてる。


 そんなふうに言われると、少し違和感がある。

 でも否定もできない。


 早苗が、一緒にここまで来てくれた。

 佐山が、自分の知らないところで母に会いに来た。

 上原も、河合も、清水だって戻ってからずっと身体を見てくれている。


 自分は一人でここまで来たわけではない。


 その当たり前が、今ようやく少しずつ形になっていく。

 彩佳は膝の上で指を組み直した。


「……私、ずっと」

 言葉を探す。

「自分で何とかしなきゃって思ってた」


 母は何も言わずに聞いている。


「助ける側でいたいのに、誰かに頼るのは違うって、どこかで思ってたかもしれない」


 父への憧れ。

 父を失ったことへの罪悪感。

 その全部が混ざっていたのだろう。


「でも」

 彩佳は小さく息を吸う。

「早苗も、佐山さんも、担当の先生も……みんな、手を引いてくれてたんだと思う」


 言いながら、それがまだ完全には整理しきれていないと自分でも分かる。

 でも、確かにそうなのだ。

 母はしばらく黙って、それから静かに言った。


「それでいいんじゃないかな」


「うん」


「一人で立てなくても」


 その一言に、彩佳はようやく少しだけ肩の力を抜いた。


 外で小さく風の音がした。

 住宅街の午後の気配。

 電車でここまで来た疲れが身体に出てきている。


 でも、ここまで来なければ聞けなかった言葉が確かにあった。


 その時、玄関の方で小さく物音がした。


 ドアが開いて閉まる気配。

 早苗が戻ってきたのだろう。

 母が立ち上がる。


「お茶、冷めちゃったね。入れ直そうか」


「ううん、大丈夫」

 彩佳はそう言って、ようやく湯呑みを手に取った。


 ぬるくなったお茶は、ちょうどよかった。

 喉を通る温度が、少しだけ身体の緊張をほどいていく。


 母と向き合う。


 そう決めて来た。

 でも向き合うというのは、責めることでも、全部を許すことでもないのだろう。


 ただ、相手の持っていた怖さや後悔を、自分の痛みと一緒に置いてみることなのかもしれない。


 そのことを、彩佳はまだうまく言葉にできなかった。


 でも少なくとも、ここへ来る前よりは、母の顔をまっすぐ見られる気がした。

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